裏庭、梨木香歩、理論社、1996


裏庭

どこかの書店でもらったカラー印刷された読書案内で、「裏庭」という物憂げな題名ときれいな装丁が目にとまり、気になっていた。

読み進んでみると、物語に強く引き込まれながらも、つい結末を予想してしまうために物語を客観的に見届けようという気持ちも強くなり、矛盾した奇妙な感覚にとらわれた。かつて読んだミヒャエンル・エンデ作『はてしない物語』の記憶のせいだろう。

『はてしない物語』を中学二年生ではじめて読んだときは、涙を流さんばかりに感動したのだが、大人になって読み返したときはほとどんど感動しなかった。それどころか予定調和的な展開や説話的な結末に憤慨さえした。そのときの記憶からファンタジーを読むときには、変に用心してしまうのかもしれない。

『裏庭』は、読み終えても奇妙な感覚が残る。『はてしない物語』とは異なり、ひねりのある結末となっている。また簡単に解かれないで残される謎もある。読後に謎ときを委ねるという点では、『はてしない物語』より深みが感じられるのだが、解決される謎と残される謎が不規則でしっくりこない。つまり、物語が一部はすっきり大団円となるのに、物語の根幹とも思われる部分で混沌としたまま放り出されているところもあるために、全体に不安定な印象がぬぐえない。

心の裏庭という主題は奥深く、けっして軽くない。裏庭は、見つけ出すものなのか、すでにあるものなのか。閉ざされるべきものなのか、開かれるべきものなのか。読者は答えを物語に求めながら、心の片隅では、安直な結末で失望したくないとも思うもの。結局、作者は後者の読者心理に賭けたようにみえる。それは、この主題に対して作者が正面から向き合っているからこそ。だから安易な一直線の物語に終わらず、不安定で複雑な余韻を残しているのかもしれない。

ただし、不安定な印象を与えているのは、主題だけではないようにも思える。象徴的な単語をちりばめた幻想的な文章が続くかと思えば、突然、非常に俗っぽい表現が現れる。気にしない人には気にならないのかもしれない。たとえば、「商業ベースで」や「スローモー」という表現には、ファンタジーに浸った気持ちを現実に引き戻された。「スローモー」は「ション」の脱字かと、何度も読み返してしまったくらい。

『はてしない物語』に限らず、『エルマーのぼうけん』『ドリトル先生』『ナルニア国物語』など、いずれのファンタジーでも主題や構成だけでなく、巧みな翻訳文が独特な作品世界を作り出す重要な役割を果たしている。これらはいずれも20年以上前の作品であり、現在の児童文学やファンタジーの文体がどの程度世俗化しているのかはわからない。いずれにしても、一貫した文体は文学作品には不可欠な要素であるに違いない。

今回、感想を書いてみてからインターネットで感想や書評を読んでみたところ、似たような感想が他の読者にもみられる。深刻な主題、意欲的な構成、多彩な登場人物、これらが絡み合うことでもたらされる不安定さを作者の真摯さととるか、作りこみが足りないと見るかによって作品の評価が分かれている。

小説、とりわけファンタジーは読み出すときの気持ちや環境によって、没入感というのだろうか、いわゆる「はまり」具合が左右される。どんな気持ちで読み出しても、有無も言わさず作品世界へ引き込んでいくのが作品の引力だとすれば、『裏庭』という星は、読み出す前から読者を引きつける、不思議な輝きを帯びていることは間違いない


碧岡烏兎