ピアニストとしての日本文化


しばらく前に「海の上のピアニスト」という映画を見た。映画を見たときは特別感動したつもりはなかったが、なぜか心にひっかかっていた。その理由が、ようやくわかってきた。

客船で生れた孤児は生年にちなみナインティーンハンドレッドと名づけられた。彼は船員たちのあいだで育ち、独学でピアノを覚えた。彼の演奏は旅客を楽しませる以上の技法をもち、ついには有名なピアニストをも打ち負かす。しかし彼は一度も船から降りなかった。降りられなかった。

一度は旅客の一人と恋に落ちる。彼女は大陸での苦しい生活から家族と故郷を捨て、新大陸へわずかな希望をもって渡る途上だった。彼女が船を下りるとき、ナインティーンハンドレッドは供に下船することも、たった一度録音したレコードを手渡すこともできなかった。結局、彼は船が廃船となっても大地へ足を下ろすことができないまま、船と運命をともにした。

ナインティーンハンドレッドは、「日本人」のこと、「日本文化」のこと。

素晴らしい精神と技術、すなわち高度な文化を持ちながらも外界を知ろうとしない。乗り込んでくる人々から新たな技術や思想を学びながらも、それを身につけて外へ飛び出そうとは思いつかない。自分の本拠地では外界で知られた名手さえ打ち負かすこともできるのに、自らは外界に飛び出して世界と対決することができない。

故郷を捨てて、わずかな希望を頼りに新天地を求める人が目の前を過ぎ去っても、追いかけようともしない。自分の故郷にしがみつき、その故郷は沈みつつあることに気づかない。

ナインティーンハンドレッドは素晴らしい腕と鋭い感性を持っていたにもかかわらず、その技や精神を外の世界へ見せることも、誰かに継承させることもできなかった。そして船とともに海に沈んだ。その結末から学ぶ教訓もあるはず。

といっても、いきなり下船して、外の世界へ飛び出すばかりが良い方策とは思われない。実際、頼りない自尊心だけをもって外界へ出た途端、吹きすさぶ風の音を聞いただけで恐れをなし、お化けでも見たかのように駆け戻り、布団の中にもぐってしまうような人もいる。

そういう人に限って船の外には魔物が住んでいるとか、布団のなかが一番気楽だなどと周囲に吹聴して歩く。なまじはじめには外へ出て行くだけの勇気と技量を持っていただけに、こういう内弁慶の演説は耳目を引いてしまう。

心の準備と言ってしまえば、ありきたりになるけれど、必要なのはやはり単なる向こう見ずな冒険心ではなく、静かに燃える野心ではないだろうか。野心といって言葉が強すぎれば、自信といってもいい。それなくして外界にある、ほんとうの魔物たちが住む森は掻い潜れまい。

それでは静かな自信は、どうすれば身につけられるのだろうか。それを身につけてもいない私ではあるけれど、おそらくこれが唯一の方法だろうと思うことがある。それは自己を徹底的に見つめ、磨くこと。

他人と比較することでもなく、他人と競争することでもない。自分自身のなかに自分自身の標準、スタンダード、レファレンスを持つこと。もちろん言うは易し、行なうは難しであることは痛いほど承知している。しかも手に入れた自信が独善であるか、本物であるか、それも自分にしかわからないところに、この唯一の方法の致命的な難点がある。

一言注記。本文中で日本人というのは日本国民のことではない。日本国民であっても「海の上のピアニスト」でない人もいれば、外国籍をもっている人でもナインティーンハンドレッドと同じように外の世界に怯えている人はいる。その違いは、今書いたとおり。


碧岡烏兎