烏兎の庭 第一部
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1.16.03

日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折、竹内洋、中央公論社、1999

日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折

本書を一言で言えば、日本の学歴社会の変遷をブルデュー社会学の方法によって分析した研究。竹内をはじめて知ったのは、『立身出世主義ー近代日本のロマンと欲望』(NHKライブラリー、1997)の基になったNHK人間大学の放送とテキスト。

本書では会社員を経験してから大学へ戻ったことなど、ほんのわずかしか触れられていないが、彼自身がブルデュー同様、学歴貴族の典型からは離れた境遇を過ごしてきたことが、一連の学歴社会批判をまとめる動機になっているように感じる。


本書の主題である旧制高校については、かねがね興味をもっていた。日経新聞最終面に掲載されている交遊抄などをみると旧制高校卒業生たちのつながりは羨ましくも、いささか過剰と思えるほどに親密。そうした仲間意識は知識階級という特権意識と結びついていたこと、必ずしも教養の中味は伴っていなかったことを竹内は淡々と説明していく。

つまり、問題は、特権意識が責任感と結びつかずに選民意識だけが蒸留されていたことと、教養が内面的に結晶化されず、上辺だけの流行や箔付けの小道具にしか過ぎなかったこと。その理由は、もともと宗教的な責任意識が希薄だったこと、明治の学校制度、とりわけ旧制高校は初めからテクノクラート養成という実践的な目的があり、普遍的な教養や哲学を探求する場ではなかったことなどが、一方では指摘される。

他方で、そうした学制を通じてエリートとなった者たちは、没落しながらも識字能力や身分的な優越感などの無形資産を維持した元士族や、有形資産を蓄え始めた新興産業層の師弟などであった。彼らの高等教育に対する期待もまた、普遍的な「知恵」ではなく、世俗的な成功、いわゆる立身出世であったことも、教養の形式化、手段化もしくは道具化、そしてブランド化を推し進めたといえるだろう。


こうして学歴貴族の空虚な内面を暴き出すのが竹内の目的である。とはいえ、彼が紹介する逸話のなかに、戦後教育しか知らない頭では想像もできないような光景が図らずも垣間見られる。たとえば、三高精神を育てたといわれる第三高等中学校の初代校長折田彦一の教育理念。

折田は、「無為にして化す」や「為さざることによって為す」が持論で、自由な教育を尊んだ。もっとも折田校長はお昼ころ学校に来て午後二時にはとっとと帰校していたという説もあるから、「無為にして化す」や「為さざることによって為す」はズボラの正当化だったかもしれない。

こんな人が国立学校の校長をしていたとは。以前読んだ中島飛行機の技師の回想記にも横浜高等工業学校(現在の横浜国立大学)校長、鈴木達治(煙州)が掲げた、「三無主義(無試験、無採点、無償罰)」という寛大な教育精神について書かれていた。これも、現代の常識ではちょっと想像がつかない。戦前といえばすべて暗い時代と思い込んでいた私には、新鮮な発見でもあった。

同じように、竹内が紹介する新渡戸稲造の学生たちとの論争についても、彼の度量の広さ、人間的魅力の深さ、教育者としての志の高さが強く感じられる。確かに旧制高校が生み出したものは、教養の幻影と学歴貴族の筋違いなプライドだけだったかもしれない。それでもその背景には、今ではもうほとんど見られない、いわゆる大人物と呼ぶような教育者がいた事実も見逃すことはできない。

ただし、重要なことは、旧制高校によき教育者と空虚な教養主義な並存していたということではない。竹内の論述は後者を批判することに力点を置いているが、その結果、意図せず、前者の存在を浮き彫りしている。もちろん彼は、安易な懐古主義に陥らないように慎重に筆を進めているように見える。


竹内の論述に逆らわず理解すれば、日本国の旧体制における教育、なかんずく高等教育においては理想主義的な人物教育と哲学なき教養主義が渾然一体となっていた。つまり、よき教育者と空虚な教養主義は、単純な二項対立、二者並存ではなく、複雑、混沌とした関係にあった。

それはなぜか。そうした清濁併せ持っていた旧体制下の教育は戦後どのように変化したのか。その変化は、敗戦後に教育を受けた私たちにとってどのような意味があったのか。

要するに、いわゆる戦後教育を受けた私にとって、いったい教養とは何なのか。結局、同じところに疑問は行き着く。


さくいん:竹内洋ピエール・ブルデュー



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