ƒ 相模原事件とヘイトクライム、保坂展人、岩波ブックレット、2016

最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

木洩れ陽

11/13/2016/SUN

相模原事件とヘイトクライム、保坂展人、岩波ブックレット、2016


相模原事件とヘイトクライム

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速報性の高いブックレットであるにもかかわらず、事件の表層ではなく、その背後に優生思想という現代社会が抱える深い闇があることを鋭く指摘している

著者は、事件の一報を聞いた当初こそ戸惑ったように書いているが、短い時間で事件に潜む問題について考えるきっかけとなるような優生思想について、その起源と問題性を簡潔にまとめている。

そうしたことができたのは、著者が長らくさまざまな差別と関わって来たからだろう。


では、本書をきっかけにして、私は何を考えたか、考えようとしているか。

考えたこと=表向きの感想は書ける。ひとまず、下のようになる。ところが、考えようとしていること=「障害者に対する差別」を自分自身の問題として考えると、筆が進まない。そもそも思索も深まらない。考えることが、正直、怖い。

本書は薄いけれど、私にはとても重い

ひとまず、考えることができた表向きの感想を書く。


犯人について。

「奪っていい命など存在しない––」。表紙にそう書かれている。この言葉に異論は全くない。「人間は存在するという最低の次元においてすでに尊厳なのだ」という言葉を読んだことがある

では、命を奪った犯罪者の命について、どう考えればいいのか? 命を奪った命は権力が奪うべき、と考える人は少なくない。

しかし、原則に従い、どんな命にも価値があるなら犯罪者の命も奪うことはできない。

従来顧みられなかった被害者や遺族の権利が注目されている。それは必要なことと思う。

ただ、報復感情ばかりが高まることは気になる。被害者とその遺族の救済と犯罪者の改心とを同時に考えなけらばいけない。


犯人がどこで、どのように優生思想に染まったのか、まだ明らかになっていない。それを解明しないまま、彼一人を極刑にしたところで火種は残る。そして、狂信的集団のテロ事件のように、第二、第三の事件が起きてしまうかもしれない。

犯人は生きて償わなければならない。そう信じる。そして、生きている限り、贖罪の意識が芽生える可能性はある

回心の可能性を閉じ、最近のフィリピンのように微罪でも処刑をしていたら、共同体がいがみ合う恐怖状態になってしまう。


もし、自分の家族が面識もない人に酷い方法で殺されたら、私はどう考えるだろう。犯罪者の謝罪と回心で心は落ち着くだろうか。それとも、報復感情から極刑を望んでしまうだろうか?

あるいは、自分が犯罪者になるリスクを冒してでも自ら敵討ちを試みるだろうか?

正直なところ、わからない。


犯罪と報復について考えると、いつも手塚治虫『ブラック・ジャック』を思い出す。

医師であるBJは、多くの命を救い、安楽死を勧めるキリコを糾弾し、命を粗末にする人を叱りつける。

しかし、BJは母親が死んだ原因を作った人たちをけっして許すことはなく、彼らを殺すことさえ計画し、実行もする

結論は簡単に出そうにない


「ヘイトクライム」の動機は本当に「ヘイト」なのか。

報道を見るかぎり今回の事件では、犯人は障害者にあからさまな敵意を持っていた。本書で伝えられている第二次大戦中のドイツで多くの障害者が集団で殺された事件は、すこし様相が違う。

本書のなかで著者も驚いたと書いている、ユダヤ人絶滅計画が始まる前に、医師や看護師がドイツ人の障害者を次々と抹殺していたという史実には驚いた。

もし、医師や看護師が障害者を「嫌悪」ではなく「愛情」から、つまり、その方が障害者にとって幸福と心から信じて殺していたとしたらとても恐ろしい。

「差別の反対は無知」という、本書の指摘は当たっている。もう一つ、「愛情の裏返しが殺意」という指摘もできるのではないか。

完全に無知ならば、障害者を殺そうと思うことさえない。障害者の苦労を知っている人ほど、苦労するよりも、いっそ死んだほうが幸福ではないか、という思い込みに落ちかねない。

劣っている者の生命は優れた者が自由にしていい、という思い込みは、非常に危険ではあるけれども、人の心の隙に容易に入り込む。生殺与奪とは言わないまでも、優れた人がそうでない人を指導する、という考え方は特別異常なものではない。ごくありふれた感情と言っていい。

その延長上に、優れた者が劣った者の生殺与奪を握っているという考えがあるとしたら、この認識を変えるのは容易ではない。


少し見方を巨視的にすると、家畜は人間のために育てられているのだから、あるいは、動物は人間より劣っているのだから、殺されたのではなく人間のために『しんでくれた』(谷川俊太郎)と思っている人は少なくない。

ヘイトクライムは恐ろしい。しかし、愛情を履き違えた妄想による犯罪はもっと恐ろしい。

重度の障害者自身を差別から守ることはもちろん、加えて「愛情の裏返し」が起きないように障害者の介護と支援に従事する人たちが、「燃え尽き症候群」になったり、社会にはびこる偏見を浴びて徒労感や虚無感に囚われないようにすることも必要だろう。


本書のなかで私が衝撃を受けたのは、保坂がインタビューした一人の障害者の言葉。

 家族は、障害者にいてほしくなかったんです。被害者の名前を出してしまうと、あそこの家には障害者がいたということがわかる。これは僕のうがった見方かもしれないけれど、事件が起こって、ほっとしている家族もいるのではないでしょうか。それが生まれつき脳性まひの僕の考えです。こう言う意識は根強いのです。そして、親の意識をそうさせたのは、日本全体の意識なんです。
(第2章 障害当事者は事件をどう受けとめたのか 親の意識という問題)

強制的に施設に入れられた障害者は、家族から見捨てられたも同然という悔しさを持つのも仕方のないことかもしれない。

とはいえ、すべての親が「ほっとした」わけではないだろう。自分たちだけでは介護することができず、やむなく施設に預けた親もきっといる。そうした親たちも一時、「ほっと」してしまったかもしれないけれど、それだけ余計に、後で襲いかかる後悔や自責の念を抱えて生きているに違いない

名乗り出ることができない理由は、親の意識だけではない。社会全体に漂う偏見が、遺族に「カミングアウト」することをためらわせている。

このあたりの事情は、ハンセン病の患者と家族の関係と同じ自死遺族についても同じことが言える。家族もまた苦しんでいる。きっと壁の外側にいる家族も、砂場で手を振り払うような気安い思いで子を施設に預けたわけではない。

「安堵してしまったこと」と「カミングアウト」できなかったことが遺族を苦しめる。そして、彼らに自分たちこそ「奪われていい生命」という過剰な自責の念を植え付けかねない。

だから、一方的に家族を非難する気には、私はなれない。

名乗りでることができない親たちは責められる立場ではなく、彼らもまたケアを必要としているのではないか。


障害者を支援する人たちと障害者が家族にいることを秘密にしている人たち。障害者のまわりにいる彼らに十分な心の余裕を持ってもらいたい。支援する人たちに徒労感が蓄積することは状況をさらに悪化させる。彼らこそ、障害者に対する偏見と差別から障害者を守る最後の防波堤なのだから。

その意味で、確かに差別と無関心は同じと言える。


T4作戦と呼ばれるナチス・ドイツによる障害者殲滅計画について読んでいて、ハンセン病の治療と隔離政策とに深く関わった光田健輔を思い出した。

光田は、1900年代から戦後までハンセン病の根絶に生涯をかけ、治療法を研究した。同時に、彼はハンセン病患者の隔離や断種も進めた。彼は、患者の置かれた社会的状況を考え、隔離や断種する方が「幸せ」だろう、と思い込んでいたとみられる。

光田に対する評価は、ハンセン病治療の先駆者と、隔離と断種政策に最後まで固執した人権侵害者、真っ二つに分かれている。


本書を手にとって最初に考えたことは、なぜ著者が保坂展人なのかということ。乏しい知識にあるものは、保坂は現在、世田谷区長であることと、かつて教育問題の論客だったこと。

保坂は「70年安保」の時代、中学生ながら政治活動を行った。そのことが、いわゆる内申書に記入され、都立高校の全日制普通科を不合格になった。

これに対し保坂は裁判を起こし、敗訴はしたものの、教育ジャーナリストとして活動を始め、やがて国会議員にまでなった。

彼の政治活動の起点は、選別に関わるものだった。


選別の問題は、差別の問題と重なる。上にも書いたように、優れた者が劣った者を指導するという考え方が選別の中核にあるから。そこから、上の者が下の者を差別しても構わない、上の者が必要と見なさなければ下の者は切り捨てられても仕方ない、という発想が生まれる。

選別と差別の問題は、あらためて指摘するまでもなく、格差の問題と重なる。

格差が選別を生み、差別を生み出す。そして差別が格差を再生産して選別を繰り返す。

要するに、今回の事件は優生思想と切り離すことができないように格差問題とも密接な関連を持っている、と私は考える。


格差問題につながる優生思想は労働問題にもつながる。障害者を切り捨てる社会とは、働けない人を見捨てる社会でもある

言葉を換えれば、すべてが労働化しているから、労働できない人は社会への不適合者とみなされる。相模原事件が露顕させた問題はメーダ『労働の終焉』にもつながる。


付記。

保坂展人の思想を理解するために、彼の著作を図書館で借りてきた。

教育→選別といじめ→差別→障害者と福祉。このような展開で保坂が思想を深め、行動してきたことはわかった。

もっとも、著作は目次以外、読めなかった。学校教育に関するルポルタージュを読むことは苦い薬を飲み込むように辛い。再就職を前に精神と生活を安定させることが優先である私には、それ以上深追いすることは諦めざるをえない。