4月のアクセス解析
総ページビューこそ多いものの、偏りが目立つ。
閲覧の1/3は映画『太陽を盗んだ男』の感想。わずか一日で、今年一番読まれている文章になった。
黒川創・鶴見俊輔『日米交換船』がよく読まれた理由もわからない。このアクスセス数も一日で稼いだもの。
表紙や目次にはアクセスがあっても、そこから先につながらない。ナビゲーションが不親切なのだろうか。
4月に書いた文章がほとんど読まれなかったのも残念。当月の「箱庭」がベスト10にギリギリでランクインしたのは珍しい。もしかすると、今までなかったことかもしれない。
アクセス数には自分の閲覧も入っているから、実際の閲覧数はさらに少ない。
Twitterでアクセスを「お願い」しようかと思ったけれど、それでアクセスが増えなければなおさら悲しくなるので何もしなかった。
読まれる「時」を待つ。それしかない。「すべての業には時がある」のだから。
緊急事態宣言発令の前日、臨時休館前に滑り込んで観ることができた。
アーティストが一目でその芸術家とわかる「スタイル」を獲得するまでの過程がよくわかる展覧会だった。
印象派の影響から具象画へ経て直線と原色で構成する「コンポジション」の「スタイル」まで、画風は少しずつ、だが確実に発展していく。
振り返ってみれば、初期の作品に、のちに結晶化される「スタイル」の萌芽が見てとれる。それはあくまで後知恵であり、画家は一作ずつ己だけの表現を模索していったのだろう。
その発展過程のなかでは、牛島憲之の色使いに似ているピンクと水色のパステル調で彩色された「ウェストカペレの灯台」がよかった。
「コンポジション」にたどり着いた道程はわかったので、もう少しコンポジション時代の作品を見たい。黒の直線と数種類の色だけの単純な構成から「ブロードウェイ・ブギウギ」のような複雑で多彩な「コンポジション」へ進む過程も知りたい。
展覧会で興味が湧いたので、図書館で画集を借りてきた。
やはり、白地に黒い直線のシンプルな「コンポジション」シリーズから「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」への発展には大きな契機があった。それは、ニューヨークへの移住とそこでのアメリカ文化、何より音楽との出会い。
「ブギ・ウギ」シリーズは最晩年の作品で「ブロードウェイ」と遺作「ビクトリー」のみ。線そのものが色となり、画面を構成する2作品は確かに発展型と言えるだろう。それが集大成だったのかはわからない。第二次大戦の終わりを見届けていたら、モンドリアンはさらなる高みに進んでいたかもしれない。
現代美術にはよくわからないものが多い。モンドリアンはわかりやすいほうだろう。彼の作品は美術だけでなく、大戦後のデザインにも影響を与えている。いまでも商品のパッケージなどに「コンポジション」に着想を得たものを見かける。
むしろ、私は引用されたモンドリアンを先に見ていて、あとから原典を知ったような気がする。確かにMOMAで「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」を観た。貪欲に美術館を歩き回っていた19歳の春。私にとって、モンドリアンはニューヨークの代名詞だった。
さくいん:スタイル、牛島憲之、ニューヨーク
書店で見かけて衝動買いした一冊。副題にあるように、どのような経緯で践祚・即位したのか、一代ずつ簡にして要を得た文章でまとめてある。スキマ時間に一代ずつ読み進めた。
近頃の新書にありがちな「ちょっと知的に見える本」ではなく、資料批判に裏打ちされた精緻な研究に基づいていて、読み応えのある昔ながらの新書だった。
補論で指摘されているポイントは三つ。1. 皇統の伝承には何度も危機があった。2. 譲位は頻繁に行われていた。3. 現在の天皇は傍流の閑院宮系。
有り体に言えば、「いろいろあったけれ ど何とか継いできた」ということ。それを知ると、現代の皇位継承問題はもっと広い視野で考えてもいいのではないかと思われてくる。
増補版あとがきで著者は、眞子さまの結婚問題を発端にして国民から皇室への敬慕の念が損なわれることを案じている。言葉を換えれば、象徴天皇制は国民の支持があって存在するものであり、それを失えば形骸化しかねないし、そこに皇族の減少が加わると天皇制の消滅さえあり得ないことではない。
いま、国民が抱いている天皇像は昭和と平成の天皇の個人的資質に負うところが大きい。慰安や慰問は法律で定められた行為ではない。それを高齢になっても積極的に行ってきたのは両人、とりわけ平成の天皇の意向による。それと同等の行いをするのは容易ではない。
著者は平成の天皇が譲位を求めた際に、権力の二重性を懸念して反対したという。尊敬の二重性を私は懸念する。
上皇さまはあのようにされたのに⋯⋯
そのような国民感情が広がると、象徴天皇制は継承問題以前に存続の危機に直面せざるを得ないだろう。
私個人はそれでも構わないと思っている。昭和と平成の天皇のあり方が、ずっと続いてきたわけではない。長きに渡り続いてきたとはいえ、武家社会の時代に見られるようにまったく蔑ろにされた時代もある。
いつか、国民が象徴天皇制を不要と考える日が来るかもしれない。そうであれば、それも国家の一つの選択ではないかと私は思う。
今日は憲法記念日。象徴天皇制について少し考えてみた。
「もしも」を考える日
激務からうつ病になり、会社を追われ、精神障害者に認定された。
こんなはずじゃなかった、と思う日もあれば、ほんとうに探していたのは、残業も出張もない、CQDのトラブルもない、いまのこういう暮らしかもしれない、と思う日もある。
Paul Simon, "Slip Slidin' Away"のなかにこの気分を言い当てた歌詞がある。
I know a woman became a wife
These are the very words she uses to describe her life
She said, “A good day ain’t got no rain”
She said, “A bad day’s when I lie in bed
And I think of things that might have been”
「あの時、別の道を選んでいたら、どうなっていたのだろう」ということばかり考えている日は「よくない日」。まったくその通り。
調子のいい日に「もしも」は考えない。でも、未来をこうしたい、ということまでは考えられない。3ヶ月先、1年先、まして10年先の自分は想像できないし、どうありたいかも考えられない。いまは目の前で起きていることに都度対処しているだけ。過去の出来事への意味づけも、「もしも」ばかりまだ考えていて、まったくできていない。
人生に長期的な展望を持ちたい。このままではいけない。そんな気がする。
それとも、目の前で起きていることに対処しているうちに何か見えてくるだろうか。
"Slip Slidin' Away"では、「未来は神様にしかわからない。私たちにできることは働いて給料をしっかりもらうことくらい」と続く。これもまた、その通り、と思う。
さくいん:ポール・サイモン
図書館の新刊棚で見つけた。子ども時代、アニメはよく見ていたけど、おまけにカードがついたお菓子を買った記憶はない。その代わり図鑑のような本は買ってもらっていた。
『全怪獣怪人大百科』は1巻と2巻の両方を持っている。『宇宙戦艦ヤマト』に関してはケイブンシャ『大百科』のほかに、設定資料なども掲載された『アニメージュ』の特集号を持っている。
カードに書かれたコメントを見て、ヤマト艦長、沖田十三が46歳という設定だったことを知り驚いた。あの老成ぶりで46歳とは。私はとうにその年を過ぎている。もちろん、沖田のような威厳も貫禄もない。ちなみに古代進と森雪は18歳。
掲載されている番組では『科学忍者隊ガッチャマン』『グレートマジンガー』『UFOロボ グレンダイザー』を熱心に見ていた記憶がある。
最近、5時に終業後に昔のアニメ番組を見ている。現在はニュース情報番組ばかりになっている夕刻、70年代にはアニメや特撮などの子ども向け番組ばかりを放送していた。それだけ視聴者に子どもが多かったのだろう。
夕方にアニメ番組を見ると、子ども時代に帰ったような気になる。
4月の終わり、多くのアニメ主題歌を手がけた菊池俊輔が亡くなった。哀悼の意を込めて『ゲッターロボ』と『UFOロボ グレンダイザー』を見た。
今日は子どもの日。子ども時代を思い出す一日になった。
さくいん:『宇宙戦艦ヤマト』、70年代
11連休の初日。前から見たいと思っていた映画を雨の日に見た。結末が予想と違っていてとても驚いた。切ない気持ちにさせる結末だった。
結末が単純でないだけに余韻が長い。観終えてからも、ずっと物語が頭から離れない。
切ない気持ちにさせた理由は、物語のせいだけではない。舞台が西海岸だったから。あれほど頻繁に行って、もう二度と、少なくとも仕事では行くことはない場所。ビーチから伸びたウッドデッキの場面ではハンチントン・ビーチを思い出した。
観終わってから、先月18日に書いたことをあらためて考えさせられた。
人生には大きな節目や分岐点がある。選ばなければならない時がある。振り返ったとき、それを後悔するか、懐かしく思い返すかは、"今"をどう生きているかにかかっている。
本作にはもう一つ、「夢を追う」というテーマがある。夢を追うためには、何度も失敗して深く傷つくかもしれない。意に沿わないことや恥ずかしい思いになるようなこともしないといけないかもしれない。我慢も必要。大切な人と別れなければいけないかもしれない。
そういうことに私は耐えることができなかった。犠牲を払っても夢を叶えたいという覚悟がなかった。だから、留学も海外駐在もできなかった。研究者にもなれなかった。
そのことについて、後悔するときもあれば、これでよかった思うこともある。いまだに心の整理はできていない。
今、私には「本を作る」という夢がある。でも、待っているだけで自分から動いていない。傷つくのは怖いし、恥ずかしいこともしたくない。そういう私にはいつまで経っても夢は叶えられない、かもしれない。
さくいん:ロサンゼルス・西海岸
"La La Land"再考
"La La Land"についてまだ考えている。結末を見直していたら、二つの曲を思い出した。
一つは松田聖子「Canary」(松本隆作詞、SEIKO作曲、大村雅朗編曲、1983)。
歌いつづけている 青い小鳥のように
命のあるかぎり あなたを忘れないわ
一人で生きる自信と
翼をくれた あなたを
もう一曲は、中村雅俊「いつか街で会ったなら」(喜多條忠作詞、吉田拓郎作曲、大柿隆編曲、1975)
この街で君と別れたことも
僕はきっと忘れるだろう
それでもいつか どこかの街で
会ったなら 肩を叩いて 微笑んでおくれ
映画の結末とピッタリ合うわけではないけれど、ふと思いついたのでメモしておく。
私には似た経験がないので、似たようなフィクションを探してしまうのかもしれない。
最後の夢想シーンを見直して気づいた。この二人、実は出会ったときからすれ違っている。寄り添っているように見えても、肝心な時にすれ違っている。
どんなに互いに思い合っていても、なぜか、すれ違ってしまう愛もある。そういう関係を「縁がなかった」と言うのだろう。それは何となくわかるような気がする。
「縁がなかった」と書いて、荒井由実「翳りゆく部屋」を思い出した。でも、これ以上、書くのはやめておく。
最後の最後、二人はうなづきあっている。選択を自分で選んだことを確かめるように。
さくいん:松田聖子、松本隆、大村雅朗、中村雅俊、喜多條忠、荒井由実
図書館で長い間待ってようやく聴くことができた。
唯一無二の美声。スタジオ録音かと思うほど完成された歌声。もちろん、ライブ感がありスタジオ録音よりも力強く響く。
十代の頃は、同じ角川映画の女優では、薬師丸ひろ子よりも原田知世に熱をあげていて、それほど彼女には関心がなかった。
きっかけは、テレビで見たコンサート。「ファンの期待を裏切りたくない」という思いから原曲に限りなく近い演奏に乗せて年月を感じさせない歌声を聴かせてくれた。その日、私は歌手・薬師丸ひろ子のファンになった。
それからアルバムを聴いたり出演するテレビの歌番組を見たり、彼女の歌声を追いかけるようになった。
同時に女優・薬師丸ひろ子にも注目するようになった。『百合子さんの絵本』や『富士ファミリー』を見た。昨年は、朝ドラ『エール』で聴いた「うるわしの白百合」を一年間の音楽ベスト3に選んだ。
薬師丸ひろ子は百合に縁があるのか。ドラマ『泣くな! はらちゃん』でも役名は百合子さんだった。
このコンサートは選曲もよい。ヒット曲に加えて「窓」「風に乗って」などアルバム収録の佳曲も歌っている。そして何より「潮騒のメモリー」が聴けることがうれしい。
薬師丸ひろ子の歌声を聴いていると、とても穏やかな気持ちになる。大型連休のあいだ、繰り返してこのアルバムを聴いていた。
「癒し」という言葉は安易に使いたくない。でも、彼女の声を聴くと、やさしい気持ちになることは間違いない。
薬師丸ひろ子はすこし年上。彼女は遠いところに住んでいる「姉」のような存在かもしれない。ふとそんな風に思う。
さくいん:薬師丸ひろ子、原田知世
11連休
大型連休に有給休暇をつけて11日間の連休とした。よく休めた。展覧会に行き、映画を(といっても配信動画で)観て、本を読み、美味しいものを食べて、充実した休みだった。
連休の最後にはお寿司を食べ、チョコレートケーキを分け、お祝いのカードももらった。
先週観た映画のせいで、情緒不安定になり、下手をすると深いうつに落ちてしまいそうなところを、家族の前では何とかこらえて元気でいられた。
心情を場面に合わせて制御できる。これは回復の兆しと言えるだろうか。
写真は、日曜日に散髪に行く途中、公園で撮影した新緑のメタセコイア。
Twitterが縦長写真に対応したので、一枚、撮ってみた。
さくいん:うつ
君の膵臓をたべたい(アニメ映画版)、牛嶋新一郎監督・脚本、 高杉真宙、LynnほかCV、アニブレックス、2018
映画を見たとき、正直なところ、音楽はあまり印象に残らなかった。
図書館にあったので、音楽を聴きながら散歩に出かけた。一つ一つの場面は思い浮かばなかったけれど、静かで優しい音楽だった。
それでも、一番長い曲、「26 共病文庫」だけはその場面が目の前に浮かび上がった。この曲には、この物語が凝縮されている。
家に帰り、サウンドトラックの曲目を手元に置いて、もう一度、映画を見た。連休中に、もう何回見たかわからない。
音楽に注意しながら見てみると、この作品では、音楽は控えめな脇役に徹していることがわかった。
どの場面でも、台詞がはじまってから音楽が寄り添うようにはじまる。音楽だけが前に出ることはない。ピアノの静かな音色が物語に奥行きを与えている。
音楽が印象に残らなかったのは、音楽が物語に溶け込んでいるからだった。
映画を観ていると、音楽と場面の切り替えがぴったり合っている。最近のサントラは、使用する場面の長さに合わせて最終版を制作しているのだろうか。
曲順が物語に従っているところもいい。映画を見終えてから、もう一度音楽だけを聴いた。二人の言葉が聴こえてきて、表情も見えてきた。
これからはこのアルバムを聴くだけで物語の世界へ帰ることができる。
「26 共病文庫」は「挽歌」のプレイリストに入れておく。
主題歌、Mr.Children, "himawari"もいい。「暗がりで咲いているひまわり」とは迫り来る死という絶望のなかでも明るさを失わない桜良のことを指しているのだろう。この歌を聴いていると春樹は桜良に「恋していたんだ」と、やはり思う。その気持ちを上手に伝えることはできなかったけど。
それでも、最後のメールのやりとりは恋人どおしそのもの。二人は、思いあっていた。信じあっていた。愛しあっていた。桜良の生命は報われた。そんな気がしてくる。
そんな君を
僕はずっと
この終わり方もいい。
この物語は終わりではない。始まり。【僕】と「君」の交際は終わり、春樹と桜良の旅がようやくこれから始まる。
今度は生き残った春樹の方が重荷を背負う番。そのことも、この歌は暗示している。よくできている。
さくいん:『君の膵臓をたべたい』
『キミスイ』を観て
映画『君の膵臓をたべたい』を観て、どんな気持ちになったのか。誰かに伝えたい。
切なくて、悲しくて、さびしくて、なつかしくて、苦しくて、叫びたいような気持ち。
それは、映画の感想というよりは、映画を観て、私の心に湧き上がってきた激しい感情。
でも、それを話せる相手はいない。家族にも話せない。かかりつけではあるけど、S先生に話すのもお門違い。この「お門違い」という言葉は映画に2度出てきて印象に残っている。
映画一本を観ただけで激しく動揺するほど、私が抱えている悲嘆はまだ全身を包んでいる。自分のことながら、とても驚いた。仕事も手につかない。「今週はミスしてばかりだ」。
複雑な色彩を帯びた負の感情が静かに蓄積されていく。
泣ける映画を観たら、心が浄化されると思ったら大間違い。悲しみがあふれてくる。
今の私にできることは、せいぜいここで思いをぶちまけること。それだけでは足りない。文章は一方通行だから。いや、ほとんど読まれていないから、一方通行にさえなっていない。
お金を払って話を聴いてくれるところへ行くのがいいのか。それにはまだ抵抗がある。
S先生にも焦らないようにと諭されている。
さて、どうしたものか。いまは一人でつぶやくしかないか。
さくいん:『君の膵臓をたべたい』、悲嘆、S先生
なぜ、今、『キミスイ』なのか
連休後半から『君の膵臓をたべたい』にハマっている。映画、アニメ、原作、サントラ。
タイトルを覚えていても、ベストセラーになったときには立ち読みもしていない。
上映当時にもまったく関心がなく、テレビ放映も見ていない。いったい今頃になって、なぜ『キミスイ』なのか。
連休が終わってからも、夜の病院の場面と春樹が「共病文庫」を読む場面から終幕までを何度も観ている。仕事中にはサントラ盤を聴いている。仕事のあとは週明けから呑んでいる。
映画の感想も、原作の感想も何度も何度も書き直している。
なぜだろう。悲しい記憶が呼び起こされるだけなのに。桜良が家を出る場面を見るたびに胸が痛くなる。
この子はもうすぐ死ぬ。でも彼女は何も知らない。伝えたい。今行ってはいけない、と。
あの日の光景がよみがえる。こういう心の動きをフラッシュバックというのだろうか。
あの日の前日は、ありふれた、いつもよりもずっと幸福な、平凡な日だった。
桜良が言っていたように、私は選んできたのかもしれない。この作品に出会うために選択を積み重ねてきた。そうかもしれない。
作品には出会うべき「時」がある
そう思っている。その「時」は私だけのもの。新刊であるとか、映画化であるとか、そういうことは関係ない。私だけがたどる作品から作品へのつながりがある。
『硫黄島からの手紙』で死について考え、"La La Land"では人生の選択について考えた。『昭和アニメカード』では70年代に過ごした子ども時代を思い返した。
そして今年はあの日から40年。心境の大きな変化もあった。
そうした作品から作品への、私だけのつながりが『キミスイ』に、おそらく他の人は持たないような重い感想をもたらした。
何度観たところで、春樹は新しく生き始めても、私が新しく生きる始まりにはならない。でも、何かヒントがあるのではないか。そんな予感がするから、祈るような気持ちで、また観たり、聴いたりしている。
さくいん:『君の膵臓をたべたい』、70年代
探しもの
先週の土曜日のこと。月一回の診察日。
出かける準備をしようとしたら、黒いポーチに入れてある通院セット(診察券、自立支援医療受給者証、お薬手帳)がない。
いつも置いているトートバッグに入ってない。
部屋中探してもない。
落ち着いて考える。こういうときは、たいてい、最初に探したところにある。
いつも置いているバッグをもう一度開いてみた。
あった。
どうして、いつも一回目で見つからないのだろう。
家族は仕事と学業が始まるなか、私は連休を延長した。
連休の後半、軽めの映画を探しているときにこの映画のことを思い出した。
GReeeeN結成のエピソード。多少の脚色はあるだろうけど、驚きと感動があった。
「道」がメジャー・デビュー曲とは知らなかった。すでに彼らのスタイルは完成している。この歌はお気に入りで、聴いていると元気が出てくる。一人カラオケでは必ず歌う。
歌っていると「下向き、うなずき、自分に嘘つき、単なる言い訳を繰り返して」いる自分が恥ずかしくなってくる。歌いきるとは励まされる。
JINは自分の役割に気づいて裏方を選んだ。勇気のある決断。
自分の役割が見つけられて、その仕事に邁進できる人がうらやましい。
GReeeeNは、楽しむだけのアマチュアでもなければ、売るためだけのプロフェッショナルでもない。好きなことを好きなようにする自由なグループ。
そんな彼らを私は"モグリ"と呼びたい。
さくいん:GReeeeN、菅田将暉、松坂桃李、スタイル、モグリ
『キミスイ』、12年後のあと
映画『君の膵臓をたべたい』では、桜良が亡くなってから12年後が描かれている。彼女が亡くなったのは高校時代だから、春樹や恭子は30歳前後になっている。
恭子は、桜良の両親に結婚を報告に行くだろうか。春樹は、図書館でようやく見つけた「最期の手紙」を見せに行くだろうか。
これはなかなか難しい問題。
桜良の両親は、年若い子どもを失った親というだけではなく、犯罪被害者の親でもある。その悲しみの深さは、測り知れない。同級生の結婚や、これから生まれる子どものことは、知りたくないかもしれない。
その一方で、同級生が誰も来なくなったら、もう我が子のことは皆忘れてしまったと嘆くかもしれない。遺族の心の持ちようは一様でなく、とても複雑。
春樹や恭子には、桜良の両親に会ってもらいたい。そうすることは両親に我が子を失った悲しみをあらたにさせるかもしれない。でも、まだ我が子のことを覚えていてくれる人がいることと知れば、きっと両親には悲しみ以上の何かを感じるだろう。
生き残った人々が幸せになることは喜びでありつつも、やはり悲しみを募らせる。でも、忘れられていくことはもっと悲しい。遺族は生きていた証を求めている。とくに若い時期に、事故や事件に巻き込まれて亡くなった子を持つ親はそうではないか。
忘れていないのであれば、家に来なくてもいい。近況を知らせてくれなくてもいい。せめて墓参りをしてほしい。そして、その時、忘れていないという印を何か残していってほしい。
それは、若い命を失った両親には大きな慰めになるだろう。
さくいん:『君の膵臓をたべたい』、悲嘆
『キミスイ』と秘密
『君の膵臓をたべたい』は秘密をめぐる物語でもある。
駅前で待ち合わせしたときの桜良の台詞。
クラスメイトのこんな秘密を知ったら、ふつう動揺するか引くでしょ
まさに、私が秘密を守ってきたのは、これが理由だった。高校一年生の時、親しくなった友人に思い切って秘密を打ち明けた。結果、その人をひどく困惑させてしまった。それ以来、秘密を打ち明けることはやめた。今風の言葉で言えば、カミングアウトはもうしない。
春樹は偶然から桜良の秘密を知った。桜良を失くした今、今度は春樹が秘密を抱える方になる。「高校時代に命を賭けた大恋愛をした」という秘密。
その秘密を受け止めてくれる人は現れるだろうか。
秘密を持っている人に寄り添う人には二つのタイプがある。一つは心の底から秘密を理解する人。もう一つは、まるっきり秘密に無頓着な人。中途半端な態度や表面的な同情が一番よくない。お互い不幸になる。
前者の例は『カードキャプターさくら』での、雪兎に対する桃矢。後者の例は『破戒』のお志保。
春樹は最初はまったくの無関心だった。それが、桜良にはうれしかった。心を通わせあうなかで、春樹は桜良の秘密を理解して、秘密を抱える彼女に寄り添うようになる。
無関心から理解へ、春樹の秘密への態度は変化する。でもその思いを伝えたとき、桜良はもうこの世界にいなかった。
この先、春樹はどう生きていくのだろう。秘密を受け止めてくれる人に出会えるだろうか。秘密の重さ、悲嘆の深さに苦しまないだろうか。
なぜか、作品が終わってからあとのことがとても気になる。
追記。
以上の文章は一部書き換えて、映画版の感想に組み入れた。
さくいん:『君の膵臓をたべたい』、秘密、『カードキャプターさくら』、悲嘆
近代日本洋画の名作選展 ひろしま美術館コレクション、そごう美術館、横浜市西区
横浜の百貨店は営業しているので、土曜日に出かけた。
「絵を見ることは心の洗濯」と言ったのは大川美術館の創立者、大川栄二。
美術館へ来ることは不要不急ではない。心に必要なこと、とりわけ私のように心を病んでいる者には、としみじみ思った。
気に入った作品。
- 正宗得三郎、厳島、瀬戸内海
- 児島善三郎、田植
- 小山敬三、浦上天守堂、高い精神性
- 岡鹿之介、積雪、やわらかな雪のてざわり
- 鴨居玲、私の村の酔っ払い(三上戸)
ランチはいつものイタリアン。酒類の提供が自粛のためワインが呑めないので、久しぶりにアップルタイザーを飲んだ。甘かった。
夏の在宅勤務に備えて緑色のポロシャツを一枚と、『星の王子さま』の対訳本を買った。
さくいん:大川美術館・大川栄二
Sentimental & Melancholic
週明けから不安定な状態が続いている。感傷的で抑うつ的。
頼まれごともなく、昼間はヒマな時間を過ごしている。
65歳まで働くとしたら、こんな毎日があと10年以上続くことになる。
やっていけるだろうか。
辛いけど、それでも過労状態よりはマシだろうか。
そもそも比較するものでもないか。どちらも精神衛生上、よくない。
月曜日の夜、子どもが録画してあった『ドラゴン桜』を見はじめたので、リビングを出て、自室へ逃げ込んだ。
罵声や暴力が飛び交う学校を舞台にしたドラマは見ていられない。自室にこもり、週末に呑むつもりだったワインを一本呑んでから寝た。
気分が落ち込んだままなので、火曜日は会社を休みにした。調子がよくないのは、梅雨が近づいて空気が湿っぽいせいもある。
何をする気にもなれずベッドに横になり、『君の膵臓をたべたい』を声と音楽だけ聴いた。また泣いた。この作品を観ると40年前のあの出来事を思い出す。繰り返し見ているのはそのため。見たくないけど見たい。思い出したくないけど思い出したい。
そういえば、桜良の台詞にそんな言葉があった。
10年以上、積み重ねてきたうつ病の治療が振り出しに戻ったように思うくらい、気持ちが沈んでいる。
この精神状態はおかしい。どうにかしなければならない。
いや、無理にどうにかしようとせず、嵐が過ぎるまでじっとしているのも手かもしれない。
さくいん:労働、うつ、『君の膵臓をたべたい』、声
梅雨入り間近
火曜日、会社を休んだ時に思い出した。毎年、梅雨どきになると調子が悪くなることを。
頭が重くなり、身体がだるくなる。何もやる気がおきず、何もかも、やめたくなる。実際、過去には6月に文章を書くことを中断したり、Twitterのアプリを削除したりしている。
今年は梅雨入りが例年に比べてとても早いので、憂うつな季節も早めにやってきた。
おまけに今年は『君の膵臓をたべたい』のせいで、死別の悲嘆にも引きずられている。
こういう時期をどう乗り越えればいいだろう。去年もうまくやり過ごせなかった。
ライブハウスには行けないし、美術館も休館中。カラオケ店も営業していない。ストレス・コーピングの選択肢が多くない私にとってはなかなか辛い季節になった。
さくいん:うつ、『君の膵臓をたべたい』
動画サイトで『君の膵臓をたべたい』を観た人へのおすすめとして挙げられていた作品。
『キミスイ』のときとは違って、最後まで作品世界に没入できなかった。
こういう違いはどこで生まれるのだろう。
『キミスイ』では数々の非現実的な設定や展開も素直に受け入れた。ところが、本作では違った。そもそも「なぜこの世界に来たのか」という疑問が頭の隅から離れなかった。別の世界から来たなら『なぞの転校生』のようにちゃんとした理由があってほしい。
多くの人がすすめているので、最初から見直してみた。ちょっと辛くて観られなかった。
何にでも感動できるわけではないし、そうしなければいけないわけでもない。気に入った作品を好きなように観ればいい。
ネットで感想を見ても、同じ作品で賛否両論が激しく分かれている作品もある。
『君の膵臓をたべたい』も評価が分かれている。低い評価を下している人の言い分もわからないわけではない。万人受けする作品などない。
最近、前よりも映画が好きになっている。話題作は映画館で観てみよう。
音楽がいいなと思っていたら、音楽担当は『キミスイ』と同じ松谷卓だった。
読まれる時を待つ
映画『君の膵臓をたべたい』について、長い感想を書いた。自分では気合の入った文章と自負している。
ところが、この文章はほとんど読まれていない。Twitterで宣伝もしてみたけれど、URLはクリックされない。
自己肯定感が低いから、承認欲求ばかりが強い。
独りよがりの自分語りが多くの人に読まれるはずがない。でも、どこかにこの文章を理解してくれる人がいると信じてもいる。
実際、読んで理解してくれる人も、多くはないけれどいないわけではない。「モンスリーのPTGとして『未来少年コナン』を見る」のように、毎月、安定して新しい読者を獲得している文章もある。
私の文章は、読まれることを待っている文章。放っておいても読まれる文章でもなければ、突きつけて読むことを強制するものでもない。
アクセス数を気にするのはやめる。
「宝さがし」のようにして誰かが見つけてくれる時を待つ。
と言いつつ、最近の投稿に誘導できるように、表紙のデザインを少し変えた。読んでもらうための最小限の工夫はする。
さくいん:『君の膵臓をたべたい』
オリンピック開催に反対します
日曜日、図書館へ行ってみると、すべての椅子にテープが貼られて使用禁止になっていた。長時間滞在しないでほしいということらしい。
感染拡大防止のためにあちこちで不便が強いられている。経営が困難になっている飲食店も少なくない。行きつけのライブハウスは一年以上まともに営業できていない。
それでもオリンピックだけは開催するという。信じられない。
「完全な形での開催」から「人類がコロナに打ち勝った証」に、さらに今は「安心安全な大会」。政府が掲げるスローガンは一貫性なく状況に合わせて都合よく変化してきた。
そもそも開催が決まったときから、私は開催に反対だった。オリンピックに使えるお金があるのなら、原発の事故処理や東北の復興に使うべきと思っている。
世論は、国内でも外国でも、延期か中止に傾いている。開催を強行しようとしているのはIOCと政府、だけ、と言ってもいいくらい。
報道機関が自らスポンサーでもあるために表立って反対の意思表示をしないことも、どうも気に入らない。
もはや平和の祭典ではない。金の亡者の無謀な宴でしかない。
私は、東京オリンピックの開催に反対します
小さな声でも、ここに書いておく。
今週は寝付きが悪く、眠りも浅い。毎晩、ジンを呑んでから寝ている。酒を呑むと、すぐに眠りに落ちるけど、眠りは浅くなる。今月は気分も体調も不安定な状態が続いている。
『君の膵臓をたべたい』を観たあと、浜辺美波を検索して見つけた推理ドラマ。
コメディタッチの雰囲気は櫻井翔と北川景子が演じた『謎解きはディナーのあとで』に似ている。これは珍しく家族で見ていた。
狙っているのか、浜辺美波が演じるキャラクターは山内桜良に近い。2作を連続して見ても違和感が少ない。『賭ケグルイ』は話も役柄も肌に合わず、途中で見るのを止めてしまった。
一話完結であっという間に事件が解決されるので、在宅勤務の昼休みにちょうどよい。
本作は2020年の製作。浜辺美波は2017年制作の『キミスイ』からは、ずっと成長しているように見える。もう少女のあどけなさはない。『キミスイ』には、大人でもない、子どもでもない、多感な16歳の少女の姿を写しとったという記録の意味もある。
その意味では、山内桜良は、それを演じた16歳の浜辺美波も、もう、スクリーンのなかにしかいない。
結局、16歳の山内桜良と18歳のあの人を探して、今日も観てしまった。
さくいん:『君の膵臓をたべたい』
映画『君の膵臓がたべたい』に残る謎
「もう書かない」と書いておきながら、しつこく『キミスイ』について。
今月の箱庭は季節は過ぎたのに、桜色に染まっている。
何度も観ていて、気になることが一つある。
雨の中で委員長に殴られたあと、桜良の家の玄関で春樹が言う。
委員長が言った通りだよ。僕は偶然、病院で君に会って。流されてるだけで⋯⋯。
このあと「偶然じゃない。流されてもいない」という桜良の名台詞が続く。気になるのは「委員長が言った通り」という言葉。
委員長は「お前は偶然会って流されてるだけだ」などとは言っていない。「何で山内さんの家にいるんだ」「桜良は何でこんな奴と」。これが委員長の台詞。
原作も確認してみた。原作でも雨中のやりとりはずっと長いものの内容は映画とほぼ同じ。
一場面、委員長のセリフを含めて最終版でカットされてるのだろうか。
確かに委員長なら、「オレの方がよっぽど桜良を知っているし、お前なんかよりずっと好きなんだ」くらいは言いそう。
あるいは、スイーツパラダイスへ二人で行ったことがクラスで話題になったとき、委員長は「偶々会って、お茶しただけだよな」と言って騒動を収めた。「委員長が言ったこと」とは、「偶々」という、その言葉を指しているのだろうか。
もう一つ、この作品でわからない場面がある。桜良に呼ばれて春樹が家に行ったとき。
今日、うちの両親いないから
この台詞を言うときに、桜良は書棚に並んだ写真立てを一つ倒す。この行動に何か意味があるのだろうか。
映画リテラシーの低い私にはどちらもわからない。まだしばらく、繰り返し観るかもしれない。
この作品は2時間弱で比較的短い。きっと、採用されなかった場面がたくさんあるだろう。いつか、未公開シーンを集めたディレクターズカットを観てみたい。
話がテンポよく進むところも、この作品のよさであることはよくわかっている。
さくいん:『君の膵臓をたべたい』
『君の膵臓をたべたい 』に学ぶグリーフワーク
『キミスイ』は悲嘆を的確に描写している。
そして、悲嘆の緩和(克服ではない)についても細やかに描かれている。
以下、『キミスイ』に学ぶグリーフ・ワーク(喪の作業)。
私はどれもできなかったし、今もできていない。
最後のは願い。
『キミスイ』では、「最期の手紙」から桜良の声が聴こえてきた。
いつか私を呼んでいる声に気づきたい。
さくいん:『君の膵臓をたべたい』、悲嘆、声
前から見たかった作品。ナレーションもなく大きな事件も起こらず、図書館の日常が淡々とつづられる。
「図書館は民主主義の砦」と言われる。ニューヨーク公共図書館は、まさにそれを体現している。本の貸し出しだけではなく、読書会、講演会、研究や調査の支援、コンサート、無料教育支援、パソコン教室、職業紹介のイベントまで催している。
"Community"(地域)という言葉を何度も聞いた。ニューヨークは巨大都市。地域ごとに住民の構成も経済水準も異なる。各分館では、それぞれの地域のニーズに応えたプログラムや催しを提供している。住民たちの自治会のような会合も行われている。
人種や格差の問題がアメリカ社会で根深いことをあらためて感じた。
東京では多くの図書館が民間に事業委託されていて、図書館司書も減らされていると聞く。映画でも予算をめぐる議論が長い。あれだけ公共サービスを提供している図書館でさえ、行政からの予算は希望通りではないらしい。図書館受難の時代。
作品中、「ベストセラーを置くべきか、専門書を置くべきか」という議論がなされている。ベストセラーを置くよりも、専門書や値のはる大型本を図書館は購入すべきと私は考える。
ベストセラーは新古書店にもたくさん並ぶ。一方で、一度読むためだけに高価な専門書や大型本はなかなか買えない。そういう本を図書館で借りて読みたい。
ニューヨークには、一度だけ行ったことがある。もう30年以上前の世の中を知らなかった学生時代。本作を見ながら、"La La Land"を見たときと同じように「もう二度と行くことはないだろう」と思いながらニューヨークの街並みを見ていた。
さくいん:ニューヨーク
ブクログ:図書館