公園の小さな滝

30代になった頃、夢、というよりも俗物的な野望を抱いていた。

外国に数年間住む。注文住宅を建てる。輸入車に乗る。子どもを中高一貫校に行かせる。毎年海外旅行へ行く。スーツと靴はオーダーメイド。それを可能にする高い年収。

あの頃、夢はない、などと書いていたのは、当時は愚かにもそれは必ず実現すると信じていたから。まさか将来、うつ病になって離職して、障害者枠で非正規雇用になるとは思ってもみなかった。

夢というにはあまりに俗悪な野心は、結局すべて叶わなかった。

それでも、客観的にみれば、十分に豊かな暮らしをしている。

戸建住宅に住んでいる。子どもは二人とも無事大学へ進学した。家族で海外旅行もした一度壊れた心身も健康を取り戻しつつある。

これ以上、何の望みがあるのか。わからない。でも、後悔の方が幸福感よりも強い。

書店で『不幸になりたがる人たち』という書名の本を見かけたことがある。間違いなく、私はそのうちの一人だろう。

自分の幸福に気づいていない。自分の不幸ばかりを探している。


その時その時にはよく考えて最善の選択をしてきたつもりだった。でも、いつの間にか、30代の頃歩いていた真っ直ぐな道からは外れて、土手から転がり落ちて途方に暮れている。

自分では今の自分をそう見ている。なぜ、いまの幸福を実感できないのか。わからない。なぜ、自己肯定感が低いのか。わからない。いまだに俗物根性に染まっているからだろうか。

強い我欲が精神疾患の原因の一つ、と読んだことがある。この主張も私に当てはまる。

低い収入と張り合いのない仕事を高すぎるプライドが許さないのだろうか。お金と仕事。ここに不満がある。これは努力次第で何とかできる。その努力をしていないだけ。

誰かが、いつか、『庭』を評価してくれると他人に期待している。そういう考え方が甘い。誰か、ではなく、自分で何とかしなければ。

いつか、この暮らしから抜け出す

そう思うことは悪いことではない。向上心は必要。でも今いる場所に幸福を見出すこと、そして今の自分を肯定することが先決だろう。

夢が愚かだったのではない。裕福になりたいということも立派な一つの夢。

俗っぽい夢を見ながら、自分だけの「思想」をとらえたいなどと願っていた自分が矛盾していて愚かだった。