大分県の民家
大分県は民家の宝庫である。山間部の日田を中心とする地域や沿岸部の臼杵を中心とする地域に、それぞれの特色を備えた民家が点在している。また武家屋敷の残存率が高いことも本県の特色である。中津藩、杵築藩、臼杵藩、竹田藩など多くの小藩が林立していたことが幸いしたのであろう。特に杵築には上級の武家屋敷が数多く残されており、稀有な例である。 |
行徳家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和50年6月23日指定) 大分県日田市大字夜明3256 建築年代/江戸時代(天保13年〜弘化4年/1842〜1847) 用途区分/医家 指定範囲/主屋 公開状況/公開 九州を東西に縦断する筑後川の上流部、福岡と大分の県境付近の夜明集落に所在する医家住宅である。当家は代々医業に携わってきた家系で、幕末のご先祖様には大阪に出て著名な緒方洪庵に医術を学んだという経歴の方も居られ、久留米藩の御典医をも務められたという。屋敷は広大で小高い山を背に正面には玉石垣を築く。主屋は東面し、地域特有の杉皮葺きの寄棟屋根に桟瓦葺の入母屋屋根付きの式台玄関を構える。建物に人を威圧するような権柄尽な様子は微塵もなく、頗るに品格漂う風情である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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矢羽田家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和57年6月11日指定) 大分県日田市大山町西大山3603 (移築) 旧所在地・大分県日田市大山町東大山3545-1 建築年代/江戸後期 用途区分/農家 指定範囲/主屋 公開状況/公開(平日のみ) 国道212号線で日田中心市街から阿蘇方面へ抜ける途次の旧大山町に所在する山村農家建築である。一帯は筑後川上流の大山川の谷間となり、日本三大美林と称された日田杉の産地として知られる。元々は大山川の東岸に建っていたが、文化財指定時に対岸の役場裏手の複合公園施設の一画に移築されている。屋根は棟筋が柄杓型となる極めて複雑な形状をしており、単純な造形が多い近世民家建築においては非常に珍しい例で、屋根を杉皮葺きとする点と併せて、地域色の濃い建物となっている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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神尾家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和50年6月23日指定) 大分県下毛郡山国町守実120 建築年代/明和8年(1771) 用途区分/農家(組頭) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 日田から中津へ抜ける国道212号線は嘗ての日田往還で、古来より人の往来があった故か中間地点に位置する旧山国町守実は山間の集落ながら小さな町場を形成している。その集落の中程に山を背にして当住宅はひっそりと建っている。藩政期には組頭を務めた上層農家ではあるが、棟に棟を継いで雁行型に屈曲する主屋の形状は格式表現の枠を越え不思議の域に達する。また床や天井のみならず廻縁、外壁の腰羽目までにも竹材を用いる点は周辺で採取可能な建築材料を駆使した地域独特の造作である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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後藤家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和50年6月23日指定) 大分県大分市荷尾杵1161 建築年代/江戸時代(18世紀後半) 用途区分/農家(庄屋) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 平成の町村大合併により、現在は大分市内の住所となってはいるが、かなりの郊外で旧野津原町域の静かな山間部に所在する農家建築である。当家は藩政期には小庄屋を務めた家柄と伝えられるが詳らかではなく、住宅も桁行7間半、梁間3間半の中規模なものである。また県内山間部の上層農家には複雑な屋根形状を採る傾向が見られるが、当家は単純な直屋である。内部は天井や床に竹を多用し地域色溢れる造りで、表側以外の三方を土壁で完全に閉ざす様子は、県下で最も古い民家建築の証左であろうか。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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日野家住宅 | 国指定重要文化財 (平成11年12月1日指定) 大分県由布市湯布院町大字川西字桑屋467-4 建築年代/明治27年 用途区分/医家 指定範囲/本館・離れ・病棟 公開状況/公開 大分市西方の秀峰・由布岳の麓に広がる湯布院町の郊外に所在する医院建築である。湯布院とくれば当然の如く温泉を連想するが、折角こういう良い建物があるのだから3度温泉に入るところを2度にしてきちんと見ておくべきだと老婆心ながら思う。住宅は不整形な屋敷地の中央部に擬洋風建築の本館が鎮座し、その裏手には和風を基調とする家族の住まいであった離れ、北側には入院施設としての病棟が配置されている。本館の戸袋の鏝絵や玄関支柱の彫刻などの装飾もなかなかに結構な仕事振りで、侮れない。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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成清家住宅 | 国指定重要文化財 (平成26年9月18日指定) 日出町指定文化財 (平成3年12月25日指定) 大分県速見郡日出町2663 建築年代/大正4年(1915) 用途区分/実業家(鉱山主) 指定範囲/主屋・東離れ・北離れ・土蔵・正門・土地 公開状況/公開 (的山荘・旧成清家日出別邸) 日出藩木下家25000石の居城・日出城は別府湾に面し、その石垣下からは真水が湧き出し、獲れる鰈は「城下かれい」の名で美食家達の垂涎であった。三之丸跡に建つ当住宅は「的山荘」の名称で「城下かれい」を供する料亭として有名な存在であったが、そもそもは杵築市山香町にあった馬上金山の鉱山主であった成清博愛が大正期に別邸として営んだ大屋敷であった。馬上金山は大正3年には日本一の産出額を記録する程の大鉱山で、当住宅には総工費25万円という莫大な費用が注がれたという。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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草野家住宅 | 国指定重要文化財 (平成21年12月8日指定) 大分県指定文化財 (昭和60年3月29日指定) 大分県日田市豆田町127 建築年代/江戸時代後期 用途区分/商家(製蝋業・掛屋・庄屋) 指定範囲/主屋・座敷蔵・北蔵・隠宅蔵・土地 公開状況/公開 筑後川上流の日田町は「九州のへそ」と称され、藩政期には九州の天領地支配を統括する西国代官所が置かれた土地である。現在では重伝建地区に選定され、その代表的景観として当住宅の主屋店舗部の海鼠壁が施された妻壁は余りにも有名である。当家は寛永18年(1641)に日田に来住、藩政期には製蝋業や掛屋を営むと共に近郷の庄屋を務めた豪商である。住宅は北半が本家、南半が分家の各々独立した屋敷であったものを18世紀末に本家の廃絶により両者を併合。それ故に非常に複雑な間取りとなっている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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三浦梅園旧宅 | 国指定史跡 (昭和34年5月13日指定) 大分県国東市安岐町富清2507-1 建築年代/江戸時代中期(安永4年=1755頃) 用途区分/農家(庄屋)・医家・哲学者 残存遺構/旧宅・土蔵・塾跡・墓所 公開状況/公開 「豊後の三賢人」と称えられる江戸後期の哲学者・三浦梅園の居宅である。彼は天地の自然現象に世の理を見出し、古典に依拠しない独特の思想哲学「条理学」により「玄語」、「敢語」、「贅語」等の著作を残した人物として知られる存在。住宅は国東半島の中央部に聳える両子山の南側裾野に所在し、東面する傾斜地を造成した屋敷地には主屋や土蔵等の他、私塾跡や墓地も残る。山林や田畑に囲まれた長閑な山里に突如として哲学思想の巨星が現れる不思議を主屋の縁にでも座って思い耽るのも一興である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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福沢諭吉旧宅 | 国指定史跡 (昭和46年6月22日指定) 大分県中津市留守居町586番 建築年代/不詳 用途区分/武家(13石2人扶持)・啓蒙思想家・教育家 残存遺構/主屋・土蔵 公開状況/公開 「学問のすすめ」の著者、慶応義塾大学の創設者として知られる啓蒙思想家・福沢諭吉の旧宅である。中津藩大阪蔵屋敷下役の父・百助の次男として生まれた彼は、1歳の時に中津に戻り、19歳にして長崎に遊学するまでの20年間を中津で過ごしたという。当住宅は中津藩奥平家10万石の居城・中津城の東北500m程の位置に所在し、彼が中津に戻って暫く経過した後に移住した屋敷である。ちなみに帰郷当初の屋敷は南側道路を挟んだ斜め向かいの地にあり、建物は現存しないものの宅地跡が同じく史跡指定されている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧竹田荘 | 国指定史跡 (昭和23年1月14日指定) 大分県竹田市竹田町字殿町2069 建築年代/寛政2年(1790) 用途区分/武家(藩医)・学者 残存建物/主屋・補拙盧・草際吟舎 公開状況/公開 当住宅は江戸中期に活躍した南画の大家・田能村竹田の生家である。竹田は安永6年(1777)に岡藩医の家に生まれ、22歳の時幕命.により「豊後国誌」の纂修員となり、資料収集のため国内を巡視。その後、江戸・京都・長崎などに遊学し、数多くの文人墨客と交流した。生家は旧城下南端の小高い山の傾斜地に建つ。主屋は武家住宅としては珍しく二階建で、玄関側は質素な表情をしているが、主屋裏手の座敷側は、さすがに風流な印象。邸内には帆足杏雨や田能村直入といった門弟たちが集った塾・補拙蘆も残る。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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咸宜園 | 国指定史跡 (昭和7年7月23日指定) 大分県日田市淡窓2-2-13 建築年代/江戸時代(天明元年/1782) 用途区分/私塾 指定範囲/居宅・書斎 公開状況/公開 居宅(秋風庵)・書斎(遠思楼) 咸宜園は三浦梅園、帆足万里と共に「豊後の三賢」と称された広瀬淡窓が生家近くの日田町南郊に開設した私塾跡である。淡窓は天領日田で掛屋を務め九州15藩の御用達をも担った豪商・博多屋の出身で、その惣領として生まれながら生来病弱であったが故に家督を継ぐことなく学問の世界へと進んだ。漢詩人、儒学者としても高名を馳せたが、私塾を開き6千人にも及ぶ門弟を育て上げた功績は計り知れない。現在、史跡内には淡窓の本宅であった秋風庵、書斎・遠思楼が往時の建物として残されている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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広瀬淡窓旧宅 | 国指定史跡 (追加指定日) 登録有形文化財 大分県日田市 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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平井家住宅 | 大分県指定文化財 (平成9年3月25日指定) 大分県臼杵市祗園洲6-6 建築年代/安政6年(1859) 用途区分/武家(知行200石) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 当住宅は臼杵観光の中心施設となっている旧藩主・稲葉家の下屋敷跡に隣接しており、藩政時代には稲葉姓の200石取りの中級武士の住まいであったというが、明治以降に平井氏の所有となったため平井家住宅と称されるようになった。武家屋敷ながら主屋前面に正式な式台玄関が無く、大戸口から入った土間内に本玄関・中玄関が設けられている。このような建前は臼杵城下においては特筆すべきことではないようで、市指定の武家屋敷・丸毛家住宅においても同様である。また、床・違い棚・書院から成る正式な座敷が無く、簡略化された座敷を複数持つ点など、部屋数は多いものの格式張らない様子は、この階層の武家住宅としては他藩とは少し異なる造作となっている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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小野家住宅 | 大分県指定文化財 (平成16年3月31日指定) 大分県北海部郡佐賀関町関3329 建築年代/明和年間(1764〜1769) 用途区分/社家(早吸日女神社宮司) 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 関アジ・関サバのブランド魚ですっかり全国的な知名度を得た大分市の東部にある佐賀関町の突端に、早吸日女神社という延喜式にも記載される由緒深いお社が鎮座している。当家はこの神社の社家で、天慶2年(939)に起こった藤原純友の乱で追捕使として活躍した小野好古の子・秀長が、乱後もこの地に止まり当社を護持したことに歴史は始まるらしい。屋敷は神社と隣接し、正面に大振りな四脚門を開き、主屋正面には入母屋千鳥破風格子の式台大玄関を構える。明らかに庶民階級の屋敷構えとは異なる様子で、高い家格を端的に示す社家住宅の好例である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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大原家住宅 | 大分県指定文化財 (平成22年3月30日指定) 大分県杵築市杵築字北台207 建築年代/18世紀前期 用途区分/武家(知行200石・家老) 指定範囲/主屋・長屋門 公開状況/公開 能見松平家32000石の城下町・杵築を代表する武家住宅である。多くの観光パンフレットの表紙を飾る杵築の代表的景観「酢屋の坂」の東側の高台に中塗仕上げの土色の練塀を廻らせ、長屋門を構える邸宅が当住宅である。茅葺の主屋は家老という役目を考えると意外に始末なものの様に思われるが、藩の身代を考えると十分に立派なものである。また同建物は杵築城内の御殿を移築した可能性も指摘されており、周囲の武家屋敷と比較して最も整った庭園を持つことなども、その可能性を裏付ける理由となっている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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毛利空桑旧宅 | 大分県指定史跡 (昭和45年3月31日指定) 大分県大分市鶴崎382 建築年代/安政4年(1857) 用途区分/医家・学者 指定範囲/私宅「天勝堂」・塾「知来館」 公開状況/公開 【毛利空桑記念館】 大分を代表する儒者・毛利空桑の旧宅及び塾跡である。毛利家は戦国大名として名高い中国地方の覇者・毛利輝元の兄弟筋の系譜を引き、理由は定かでないものの江戸時代には熊本藩の医家として続いた家柄である。そもそも当住宅が所在する鶴崎の地は熊本藩の飛地で、加藤清正が熊本に移封された際に天草領に替えて選んだことで知られ、参勤交代時の船出の地として殷賑を極めた。幕末から明治初期に活躍した空桑は、文武両道を唱え、地元に私塾を開き、多くの子弟を育てた郷土の教育者である ▼個別解説ページへ(製作中) |
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丸毛家住宅 | 臼杵市指定文化財 (平成2年3月16日指定) 大分県臼杵市海添字本丁13番地 建築年代/江戸時代後期 用途区分/武家(知行200石・町奉行) 指定範囲/ 公開状況/公開 臼杵旧市街の南側、海添地区は嘗ての武家住区であった土地で、主に中下級武士が住まいした。当住宅は地区を南北に縦断する日向街道から少し奥まった閑静な一画に所在しており、屋敷背後には旧国鉄の日豊線が通っている。当家は立藩後の寛永5年(1628)に藩主稲葉公との縁を頼って召抱えられた新参に区分される家柄ながら町奉行役等の要職を務めたという。広い屋敷地には主屋、表門、湯殿棟のみが残されるに過ぎないが、上ノ間から三室続きの座敷を持つ主屋は格式を十二分に感じさせてくれるものである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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板井家住宅 | 臼杵市指定文化財 大分県臼杵市浜980 建築年代/江戸末期 用途区分/ 指定範囲/主屋 公開状況/公開 【吉丸一昌記念館】 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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帆足家住宅 | 大分市指定文化財 (平成11年3月23日指定)【酒蔵群等】 登録有形文化財 (平成18年12月19日登録)【主屋等】 大分県大分市大字中戸次4381 建築年代/慶応元年(1865) 用途区分/大庄屋・酒造業 指定範囲/仕込蔵・穀蔵・道具庫・納屋・貯酒場・瓶詰場・米蔵等 登録範囲/主屋・宝蔵・質蔵・洋館・離れ・表門・中門・塀 公開状況/公開 大分市中心部より国道10号線を宮崎方面に5km程南下した戸次本町に所在する旧臼杵藩領の大庄屋屋敷である。当地は藩政期には戸次市の名称で日向街道筋の在町として栄えた土地柄ではあるが、この町における当住宅の存在感は圧倒的で、桁行13間、梁間7間の100坪超の建坪を誇る主屋のみならず四周を巨大な酒造関連の蔵群に囲まれた住宅は恐らく県内で最大規模を誇る民家であろう。屋敷背後に回って大野川の氾濫に備えた高石垣上に連なる巨大な蔵群を見ると良い。きっと唖然とするに違いない。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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坂本家住宅 | 佐伯市指定文化財 (平成12年9月25日指定) 大分県佐伯市城下東町9-37 建築年代/天保10年(1839)・明治8年移築 用途区分/元藩主別邸 指定範囲/ 公開状況/公開 【国木田独歩館】 佐伯城下の城山南麓に所在する旧武家屋敷である。現在は「国木田独歩館」の名称で公開されているが、そもそもは旧藩主・毛利家の別邸として建てられた御浜御殿の一部を藩の重臣であった坂本家が明治8年に譲り受け、移築した非常に由緒正しき建物である。別邸建築だけあって内部に数寄屋的な造作が見て取られ、また海浜で遠方の景色を楽しむ故であろうか二階を備えた建前となっている。明治期の作家・国木田独歩が下宿したエピソードなど脇に追いやっても良いぐらいに素晴らしい建築である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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毛利家御居間 | 佐伯市指定文化財 (平成22年8月23日指定) 大分県佐伯市大手町1-2-25 建築年代/ 用途区分/旧藩主 指定範囲/御居間 公開状況/公開 【佐伯市歴史資料館内】 |
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磯矢家住宅 | 杵築市指定文化財 (平成20年12月1日指定) 大分県杵築市杵築字北台211-1 建築年代/江戸時代(19世紀後半) 用途区分/武家(禄高200石・家老) 指定範囲/ 公開状況/公開 能見松平家32000石の城下町・杵築の北台家老丁に所在する武家屋敷である。当地はその名のとおり城下北側の台地に形成された上級武家屋敷町で、藩主御殿へと続く「勘定場の坂」と称する緩やかな坂の途中に傾斜地を利用する形で屋敷は営まれている。当初は「楽寿亭」と称する藩主別邸があった場所で、文政7年(1824)に亭が廃止された後、次席家老・加藤与五右衛門に下賜され増改築がなされたとのことであるが、確かに座敷の天井を根太天井とするなど武家住居としては不可解な造作が垣間見られる。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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中野家住宅 | 杵築市指定文化財 (昭和48年4月13日指定) 大分県杵築市南杵築中平2488-1 建築年代/文化年間 用途区分/庄屋 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 杵築藩の大庄屋職を務めた工藤家の屋敷跡である。杵築城下の西北郊外に所在するが、「智恵美人」の銘柄で酒造を営む中野酒造場の北側位置にあたるので目印にすると良い。寄棟造桟瓦錣葺の大屋根は民家建築としては非常に稀有な例で、二階部分の採光用に式台玄関上の庇と重複せぬ形で錣屋根の一部を切り落として変化を付ける意匠は心憎い。農家建築の系譜にありながら土間が極端に小さく、二階に広間を備える点など江戸期の建物としては何か特別なものを感じさせてくれる住宅である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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綾部家住宅 | 杵築市指定文化財 (平成8年2月27日指定) 大分県杵築市谷町169 建築年代/江戸時代(18世紀末) 用途区分/町家(酢醸造のちに味噌醸造業) 指定範囲/ 公開状況/非公開(味噌店として営業中) 城下町・杵築の代表的景観である「酢屋の坂」は、旧藩時代に坂の袂にあった豪商・志保屋(酒造業)が本業とは別に営んだ「酢屋」の屋号に由来する。その「酢屋」は名称のとおり、酢の醸造販売を営む大店であったとのことであるが、現在その場所からは漂ってくるのは、ツンと鼻を衝くような酢の匂いではなく、香しい味噌の匂いである。明治33年に志保屋に代わって当住宅で創業した綾部味噌店は、今でも古くからの製法を貫く珍しい存在である。杵築最古の町家の中で醸成される味噌の味は格別である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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古荘家住宅 | 宇佐市指定文化財 (平成17年3月23日指定) 大分県宇佐市安心院町龍王 建築年代/明治13年(1880) 用途区分/大庄屋・戸長 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 宇佐市の南郊に位置する安心院町は、壁面や屋根の妻面に鏝絵を施した民家が集中していることで知られる。当住宅の二階戸袋にも子孫繁栄を象徴する朝顔の鏝絵が施され、白漆喰塗籠造の外壁に彩りを添えている。龍王集落は江戸時代初頭の短期間のみ能見松平家による龍王藩の居城が置かれた土地柄で、当住宅はその城下町に所在する大庄屋屋敷である。廃藩より300年以上の時が経過して町は農村化したにも関わらず、外観を町家形式とする不変性に驚いてしまうが、間取りは純然たる農家のものである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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大江家住宅 | 中津市指定文化財 (昭和60年指定) 大分県中津市鷹匠町906 建築年代/安政7年(1860) 用途区分/医家 指定範囲/ 公開状況/公開 【大江医家資料館】 |
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加来家住宅 | 中津市指定文化財 (平成25年4月23日指定) 大分県中津市諸町1828 建築年代/文化12年(1815)頃 用途区分/商家(酒造・米問屋) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 【旧宇野屋・南部まちなみ交流館】 中津城下町にあって城址の南方に位置する諸町の一角に所在する商家建築である。諸町の名は鍛冶屋など諸々の職人が居住したことに由来するが、享保2年(1717)に丹後国宮津より奥平家が入部する以前の細川家時代には開かれていた古い歴史を刻む町場であったようである。加来家は「宇野屋」を屋号とし、藩政期には酒造や米問屋を営んだ大店で、11間半の間口は、諸町では最も広い間口を有していたらしい。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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千葉家住宅 | 玖珠町指定文化財 (平成26年3月24日指定) 大分県玖珠郡玖珠町森上谷 建築年代/江戸期 用途区分/武家(家老) 指定範囲/主屋・薬医門・蔵 公開状況/非公開 鉄道愛好家の間では旧国鉄の機関庫転車台が残ることで知られる豊後森町は、山間部ながら久留島藩12500石の陣屋町として発展した土地柄で、その立地条件ゆえに近代の開発の波に曝されることなく、今でも往時の風情を強く留めている場所である。町場の中心であった陣屋跡は森町小学校と化したものの、その北方の上谷地区には、狭隘な谷筋を遡る道に沿って今でも数軒の武家屋敷が点在している。トタン板に覆われてはいるものの嘗ては茅葺であった小規模な鍵屋造の建物が散在している風情は、土地の事情を知らぬ者には単なる鄙びた農村集落と錯覚してしまうが、家老職を務めた当住宅に代表されるように歴とした上級家臣住区であった。自然の地形に逆らうことなく屋敷地を形成する様子に久留島家臣団の有り様を見る思いである。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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古庄家住宅 | 姫島村指定文化財 (平成2年12月11日指定) 大分県東国東郡姫島村 建築年代/天保13年(1842) 用途区分/農家(庄屋) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 当住宅は国東半島の北東部、伊美港の先に浮かぶ姫島に所在する庄屋屋敷である。姫島は伊予灘に浮かぶ小島ながら車エビの養殖や狐面を被った稚児達による盆踊りで意外に高い知名度を誇る場所である。住宅は姫島港を中心に拡がる集落の西北に所在し、正面に長屋門及び土蔵、御成門を一列に配する豪壮な構えは島内でも群を抜く存在感。江戸初期から明治に至るまで12代に亘って庄屋役を務めたばかりでなく、甘藷栽培の導入や塩田開発など島の歴史を紡いできた由緒と風格を感じさせてくれる住宅である。 ▼個別解説ページへ |
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村上玄水旧宅 | 中津市指定史跡 大分県中津市諸町1780 建築年代/文政9年(1826) 用途区分/医家(中津藩御典医) 残存建物/主屋・土蔵 公開状況/公開 中津城址南方に所在する医家建築である。現在でも子孫の方が付近で村上医院を営んでおられるが、当家は寛永17年(1640)に初代・宗伯が大阪に学んで帰郷後に当地にて開業、代々医術を持って続いた家柄で、特に7代・玄水は九州で最初の人体解剖を行い、「解臓記」を著したことで知られる。江戸中期以降は中津藩の御典医として知行を受けながらも町医者としての役割を忘れることなく庶民の診療も続けられたようである。その証が商人町に残る町家形式の当住宅ということであろう。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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久恒家住宅 | 登録有形文化財 (平成13年8月28日登録) 大分県中津市上宮永3-1 建築年代/大正13年(1924) 用途区分/炭坑経営・貴族院議員 登録範囲/正門・客間棟・奥座敷・居住棟・長屋門・東蔵・西蔵・米蔵・オンドル部屋・物置・給水塔・煙突・裏門・北塀・南塀 公開状況/非公開 中津市南郊に所在する近代和風建築である。明治後期に福岡県嘉穂郡大隈町で石炭採掘を業とする久恒鉱業所を興し、後に多額納税の功により貴族院議員となった久恒貞雄氏が建てた屋敷で、褐色の煉瓦塀に囲まれる屋敷は近世のものとは明らかに風情を異にするが、居住棟や座敷棟など主要な建物は全くの伝統建築である。オンドル部屋や給水塔などの設備を自前で賄う様子は、公共インフラが未整備であった時代に資産家階級が競って採り入れた流行であったが、今の時代に残るは貴重である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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平田家住宅 | 登録有形文化財 (平成29年5月2日登録) 大分県中津市耶馬渓町平田字川原田1062 建築年代/明治初期/大正12年増築) 用途区分/地主・実業家 登録範囲/主屋・新座敷 公開状況/非公開 修験の名峰・英彦山を源とする山国川の中流域、菊池寛の小説で有名な青の洞門の少し南方の平田地区に所在する実業家の邸宅である。周囲は中山間部ながら比較的拓けた田園地帯で、耶馬渓の山水画の様な景色に囲まれた美しい土地柄でもある。平田家は城井村で代々大庄屋を務めた家柄で、明治、大正、昭和の時代に活躍した吉胤氏は、耶馬渓鉄道株式会社の社長を務めるとともに、城井村長、県議会議長、貴族院議員などを歴任、県政財界で大いに活躍したことで知られる。屋敷は三階建に唐破風屋根の玄関を構える主屋を中心に配し、その西側と北側を鉤の手に取り囲むように米蔵や稲屋が建ち、南側には副玄関を介して新座敷が繋がっている。その威容は大分県を代表する近代和風建築として喧伝されるに相応しいものである。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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斎藤家住宅 | 登録有形文化財 (平成10年9月2日登録) 大分県臼杵市福良字屋敷余212 建築年代/明治20年(1887) 用途区分/商家 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 (土産物店俵屋として営業中) 臼杵市街の西側玄関口に所在する商家建築である。臼杵川に沿って中心市街に続く県道33号線に北面して建つ当住宅は格子窓等の木部を赤味の強い弁柄で仕上げ、周囲から際立つ印象である。臼杵には狡猾で利己的な性質を「赤猫根性」と揶揄するが、語源は当住宅周辺の平清水・福良地区の新興商人を藩政期から続く臼杵八町の老舗商人たちが「猫のように恩知らずな輩」として蔑称したことにあるらしい。現在、当住宅ではその赤猫をキャラクター商品化し郷土玩具として販売している。確かに商魂逞しい。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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稲葉家住宅 | 登録有形文化財 (平成20年7月8日登録) 大分県臼杵市臼杵字祇園洲6-6 建築年代/明治35年(1902) 用途区分/武家(旧藩主別邸) 登録範囲/大書院・御居間・台所・土蔵・御門・外塀及び東門 公開状況/公開 【稲葉家下屋敷】 臼杵は稲葉家5万石の城下町であった土地で、現在でも町家のみならず武家屋敷までもが比較的良く残る趣深い場所である。臼杵の中心部に所在する当住宅は、廃藩置県後に東京へ居を移した旧藩主家が里帰りする際の宿泊施設として明治35年に整備された邸宅で、用途別に建てられた棟々を廊下で繋ぐ近代和風の大建築群は対面接客空間を重視した構成である。藩政期の御殿建築と異なり台所棟に広大な空間を割く様子は、藩主と客人との身分差が縮まり宴会を伴う接客がなされたことと関係しているのだろう。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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小手川家住宅 | 登録有形文化財 (平成9年7月15日登録) 大分県臼杵市大字臼杵538 建築年代/慶応元年(1865) 用途区分/商家(酒醸造業) 登録範囲/主屋・離れ・土蔵 公開状況/離れを「野上弥生子記念館」として公開中 稲葉家5万石の臼杵城下町に所在する商家建築である。当家は大正〜昭和期に活躍した作家・野上弥生子の生家であったことから「離れ」を文学記念館として早くから公開、多くの観光客が訪れる施設として知られていたが、そもそもは屋号を「代屋」と称する創業安政2年(1855)の酒・味噌・醤油等を扱う臼杵を代表する豪商であった。ちなみに酒造は現在も離れに隣接する主屋・土蔵で小手川酒造として営業中であるが、味噌醤油の方は分家筋によりフンドーキン醤油として九州一の規模に成長、現在に至っている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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可兒醤油 | 登録有形文化財 (平成20年7月8日登録) 大分県臼杵市臼杵本町218-1 建築年代/明治10年 用途区分/商家(醤油醸造) 登録範囲/店舗兼主屋・西店舗 公開状況/店舗として営業中 臼杵市内で最も繁華な商店街、本町通入口近くに建つ商家建築である。当家は初代臼杵藩主・稲葉貞道の入封に先立つ慶長5年(1600)に当地の情勢探索のために派遣されたことに始まる旧家で、鑰屋(カギヤ)の屋号により主に味噌・醤油を扱ったとのこと。藩政期を通じて本町十人頭、年寄役を務めるなど常に臼杵の町方を代表する存在であった。住宅は二棟の店舗建物が東西に連続して並び老舗の風情を醸しているが、更に少し以前までは隣接地にも多くの醸造蔵群が建ち並び大店の面目を保っていた。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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荒木家住宅 (酢屋) |
登録有形文化財 (平成27年3月26日登録) 大分県玖珠郡玖珠町森938 建築年代/大正11年(1922) 用途区分/商家 登録範囲/主屋・酒蔵・勝手蔵 公開状況/非公開 玖珠町は森藩久留島家12500石の城下町である。山間部の小藩らしく決して大きな町場ではないが、しっとりと落ち着いた風情が心地よい。商人町は主に陣屋の南側一帯に配置され、当住宅もその中程に所在する。明治中期から酒造業を営んだとのことであるが、屋号を「酢屋」と称することから本通沿いの本家から分家した当初は酢の醸造を生業としていたのではないかと思われる。主屋は間口も広く大店の風情を漂わせるが、それよりも庇屋根上に設けた小室に布袋像が鎮座する看板広告が気になって仕方がない。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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井上家住宅 | 登録有形文化財 (平成15年1月31日登録) 大分県日田市鶴河内町4279 建築年代/大正3年(主屋) 用途区分/庄屋・地主・酒造業 指定範囲/主屋・門・酒蔵・土蔵・米蔵・味噌蔵・納屋・石塀 公開状況/非公開 修験の山として名高い霊峰・英彦山の南方の山間に所在する地主屋敷である。何故このような鄙びた場所にこれほどの屋敷があるのか訝しく思う程に豪壮な屋敷構えである。藩政期には山林業や酒造業を営みつつ近在でも抜きん出た大地主に成長、その財力を背景に近代に至っては日田銀行の頭取を務めるなど地元経済界の盟主として君臨した。屋敷内には土蔵や酒蔵など藩政期の建築も残るが、主屋は大正期の建築。外観に洋風意匠を採り入れながらも和風を基調に違和感なくまとめる様子は流石である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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岩尾家住宅 (旧日本丸製薬所) |
登録有形文化財 (平成15年1月31日登録) 大分県日田市豆田町4-15 建築年代/大正後期 用途区分/商家(薬販売) 登録範囲/主屋・土蔵・離れ 公開状況/公開 天領代官町として名高い日田・豆田町にある商家建築である。豆田町を南北に貫く上町通に面して物見櫓風の三階をもつ大規模な店舗住宅で、富裕な町家が多い日田の町にあっても一際目に付く存在である。「伏見屋岩尾古雲堂」の名称で安政2年から薬種業を営んだ当家が、国内外に支店を構える程に飛躍を遂げたのは明治半ば頃からのことで、この奇抜な建物を生み出したことと、丸薬に朱をかけた赤玉に「日本丸」という宣伝性の良い名称をつけることで販路を広げた如才の無さは全くの同根と見て間違いはないだろう。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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山田家住宅 | 登録有形文化財 (平成20年10月23日登録) 大分県日田市隈1-214-1 建築年代/文化13年(1815) 用途区分/商家(掛屋・町年寄) 登録範囲/主屋・土蔵・井戸・石垣及び煉瓦塀 公開状況/非公開 西日本の天領地を総括する日田代官所の御用を務めたという商家建築である。そもそも日田には陣屋町として発展した豆田町とは別に筑後川の水運を利用することで純然たる商家町として発展した隈町があり、当家は「京屋」の屋号で掛屋を営み、隈町の年寄役をも務めた。住宅の間口が22mにも及ぶ大型町家で、僅かな梁間の母屋に対して、前後に長大な下屋を設える様子は、明治・大正期の近代町家とは明らかに異なる風情で、古い日田町の有力商家の在り様を今に伝える建物として貴重である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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後藤家住宅 | 登録有形文化財 (平成20年10月23日登録) 大分県日田市隈2-80 建築年代/明治20年(1887) 用途区分/商家 登録範囲/主屋・座敷蔵・隠居座敷・東土蔵及び西土蔵 公開状況/非公開 重伝建地区に選定される日田・豆田町の南方、隈町に所在する町家建築である。当家は明治20年に分家したのち、「ヤマキチ」の屋号で材木商を営んだとのことであるが、黒漆喰の大壁造に腰壁を海鼠壁とする重厚な外観は、嘗ては大店が軒を連ねたという隈町界隈でも抜きん出た存在感である。また当家の美しさは筑後川の分流・庄手川に面する屋敷裏手の風情にもあり、川石練積の石垣上に隠居座敷や座敷蔵、西土蔵が連続する様子は、当住宅の存在をもって河川景観が維持されていると思われる程である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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宇野家住宅 (旧高瀬入早商店) |
登録有形文化財 (平成20年10月23日登録) 大分県日田市高瀬字徳行720-3 建築年代/昭和2年(1927) 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 広大な市域を持つ日田市のうち、福岡県最高峰の釈迦岳を源とする高瀬川が九州一の大河・筑後川に合流する一帯が高瀬町であり、昭和の半ば頃まで日本三大美林と称された日田杉の集積地として発展した土地柄である。日田と熊本県の鹿本を結ぶ県道9号線に面して建つ当住宅は、嘗ては高瀬町の旧役場が近くに在り、その立地条件を生かして雑貨等を販売していた商家建築である。住宅の特徴は2階の東北西の三方を高欄付の縁側とした開放的な造りにあり、川風を取り込み夏場の盆地特有の酷暑を凌ぐ工夫がなされている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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梶原家住宅 | 登録有形文化財 (平成19年7月31日登録) 大分県速見郡日出町豊岡字本町988-1 建築年代/明治40年頃(1907) 用途区分/商家 登録範囲/主屋・土蔵 公開状況/非公開 国東半島の西南端に位置し別府湾を臨む豊岡集落は、現在でこそ日出町域に含まれてはいるが、藩政期には頭成と称した豊後森藩の飛地で、内陸部にあった当藩唯一の外湊であった。往時には参勤交代の発着や年貢米の積出港として栄え、水軍の系譜を引く久留島家の水主達や多くの商人が集住する在町として発展したという。当住宅は嘗ての面影を僅かに残す集落の中央部に所在し、「亀屋」の屋号で江戸時代末期〜明治期において反物の仕入・販売業を営んだという商家である。建物は1904年の大火より3年後に再建したと伝えられる。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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萱島酒造 | 登録有形文化財 (平成10年1月16日登録) 大分県国東市国東町綱井392-1 建築年代/昭和8年(1933) 用途区分/商家(酒造業) 登録範囲/主屋・離れ・井戸屋形・煙突・旧ムロマエ・旧麹室・仕込蔵・中蔵・米蔵・北蔵・木塀・門口倉庫・裏門・冷蔵蔵 公開状況/非公開 豊予海峡に突き出す国東半島の東端に所在する明治6年創業の酒造屋敷である。九州北部の愛飲家の間では当家が醸造する「西の関」という銘柄はかなり有名で、幾度も品評会で金賞を受賞するばかりでなく昭和38年に全国に先駆けて吟醸酒を一般に売り出したこともあり、評価も頗る高い。国道213号線沿いに建つ邸内には明治27年頃から昭和10年にかけて整えられた多くの酒造施設が建ち並び壮観である。通常の屋敷構えと異なり、主屋よりも酒造施設の存在が際立つのは当家の酒造本位の精神の顕れであろうか。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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有永家住宅 | 登録有形文化財 (平成12年12月4日登録) 大分県国東市国見町岐部536 建築年代/明治初期 用途区分/惣代庄屋 登録範囲/主屋・離れ・蔵・馬屋 公開状況/公開 (国見ふるさと展示館) 国東半島の突端部にある岐部集落に所在する旧惣代庄屋屋敷である。現在は国見ふるさと展示館として江戸初期に活躍した地元出身の宣教師、ペトロ・カスイ岐部に関わる資料等の展示場として活用されている。主屋の内部は座敷部を残して他は展示スペースとして大幅に改変されており残念に思う部分もあるが、庭園や主屋背後の別座敷や蔵などは綺麗に修復・維持されており、屋敷全体の風情は保たれている。屋敷の背後には中世の城跡や旧城主の国東塔も残り、国東らしい風情が感じられる。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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重光家住宅 | 登録有形文化財 (平成12年12月4日登録) 大分県国東市国見町向田1911 建築年代/昭和7年(1932) 用途区分/地主・廻船業 登録範囲/主屋 公開状況/公開 国東半島の北東端に所在する旧地主住宅である。当家は藩政期には廻船業を営み、明治期には地主として長者番付にも名を連ねる程の富裕家であったとのことだが、住宅は昭和7年完成の比較的新しい建物である。当住宅の建築にあたっては国会議事堂を設計したことで知られる吉武東里が当家と縁戚関係にあったことから彼に設計を依頼したとのことで、確かに周辺にある一般の民家と比較してかなり異質な外観である。しかし内部の造作については施主の要望もあり、余りの冒険は避けた様子である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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聴潮閣 | 登録有形文化財 (平成13年8月28日登録) 大分県別府市青山町3107-5 建築年代/昭和4年(1929) 用途区分/実業家 登録範囲/主屋・洋館 公開状況/閉館中 別府政財界の実力者・高橋欽哉によって別府浜脇の地に建てられた住居兼迎賓館。主屋は入母屋造平屋建の玄関棟と入母屋造2階建の座敷棟より成る。良材を用いた品格ある造りに特徴。また玄関左手には洋館が附属し、外観は陸屋根とし内部は2室続きとする。主屋も洋館も大工棟梁は平野介治と伝える。 |
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糸永家住宅 | 登録有形文化財 (平成19年7月31日登録) 大分県別府市浜脇1-11-15 建築年代/明治4年(1871) 用途区分/庄屋 登録範囲/主屋・離れ 公開状況/非公開 糸永家は武士の出身で、18世紀半ばに浜脇に移り住み、代々庄屋を務め、明治以降も区長などの要職を歴任した家柄である。建物は桁行8間、梁間4間半の規模で町家の形態を採る。温泉の町として名高い別府の旧町に所在し、大型の温泉旅館が幅を利かせる町並の中で、この一画のみが嘗ての面影を色濃く残している。。 |
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植木家住宅 | 登録有形文化財 (平成22年4月28日登録) 大分県大分市王子中町349 建築年代/安政元年(1854) 用途区分/商家 登録範囲/主屋・離れ・離れ控えの間 公開状況/非公開 |
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多田家住宅 | 登録有形文化財 (平成14年6月25日登録) 大分県豊後大野市三重市場1308-1 建築年代/元治元年(1864) 用途区分/大庄屋 登録範囲/主屋・御成座敷・御成門・蔵 公開状況/非公開 臼杵と竹田を結ぶ国道502号線の中間位置にある旧三重町市場は日向国延岡への分岐点でもあり、藩政期には在町として賑わい、幕末には臼杵藩の代官所が置かれた土地である。町場の中心部には嘗ての繁栄を偲ばせる西宮神社が鎮座しており、その袂に市場組大庄屋職を務めた当住宅はひっそりと佇んでいる。屋敷は町を東西に貫く往還から少し奥まった位置にあり、通常の町家とは異なる宿場の本陣建築のような風情である。恐らく町場形成当初からの由緒正しい家柄であった故と推測される。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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麻生家住宅 | 登録有形文化財 (平成17年11月10日登録) 大分県豊後大野市三重町市場1090 建築年代/明治10年 用途区分/商家(醤油醸造) 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 平成の町村合併により豊後大野市の一部となった三重町市場は現在でも市役所等の官公庁が集積するが、藩政期においても臼杵藩の代官所や物産会所が置かれるなど近在の中心地であり、在町として発展した土地であった。当住宅はその市場集落に所在する桁行7間、梁間5間の大規模な町家建築で明治初期の市場大火後に建てられたという。屋号は泉屋を称し、反物の販売から始まり、乾物、醤油、酒と扱う商品は推移した。昭和40年から平成15年頃までは丸泉醤油の商号で醤油の醸造販売を営んでいたらしい。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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塩屋 | 登録有形文化財 (平成15年12月1日登録) 大分県竹田市大字竹田503 建築年代/元治2年(1865) 階層区分/商家(味噌醤油醸造業・塩荒物販売・薬局) 指定範囲/主屋・中蔵・古蔵・旧大蔵 解体修理工事実施済(平成10年〜13年) 公開状況/非公開 岡藩7万石の城下町・竹田は周囲を阿蘇溶岩台地に囲まれた盆地ゆえ石高に比して町域は極端に狭く、土地を有効利用する必要から商家の間口は狭く、敷地は典型的な鰻の寝床状であった。藩の接待所である御客屋敷の北側に所在する当住宅も事情は同じで、通りに面して主屋を構え、その背後に中蔵、古蔵が一列に配置されている。建築年代が明らかで、恐らく元治元年に発生した伊吉火と称される市中大火で類焼し、翌年再建されたものと思われる。軒裏まで塗り籠める重厚な外観は防災を意識した故であろう。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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吉川家住宅 | 登録有形文化財 (平成19年10月2日登録) 大分県竹田市竹田町21 建築年代/大正10年(1921) 用途区分/商家(酒造業) 登録範囲/主屋・倉庫1・倉庫2・倉庫3・土蔵 公開状況/非公開 岡藩中川家7万石の城下町・竹田に所在する商家建築である。明治期の日露戦争において軍神と喧伝された廣瀬武夫中佐を祀る広瀬神社の参道を中心市街側に直進した左手に所在する老舗酒造屋敷で、店舗兼住宅となる入母屋造大壁2階建の主屋は大正期の建築。邸内に残る明治期建築の3棟の倉庫と主屋に隣接する土蔵は、そもそもは酒造のための施設で、倉庫1が酒造所、倉庫2は釜場、洗米所、倉庫3は麹室、土蔵は米蔵兼物置として使用されたもので、小規模ながら一連の酒造施設が残されている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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竹屋書店 | 登録有形文化財 (平成23年10月28日登録) 大分県竹田市竹田町字本町386 建築年代/明治32年(1899) 用途区分/商家(書店) 登録範囲/店舗兼主屋・土蔵 公開状況/一部店舗として活用中 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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荻本家住宅 | 登録有形文化財 (平成17年7月12日登録) 大分県大分市坂ノ市中央2-2-15 建築年代/江戸時代末期 用途区分/農家 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 桁行7間、梁間5間半 大分市中心部より佐賀関方面に向かう途次にある旧坂ノ市町に所在する農家建築である。坂ノ市は肥後細川藩領の在町であった所で、伊予街道と日向街道の分岐点にも当たるため、往時はその名の通り市が立つほどに栄えたらしいが、現在は昭和53年から始まった40年間に及ぶ土地区画整理事業により様相は一変している。当住宅も例外ではなく、文化財登録当初の屋敷も一部削られ、辛うじて主屋と布石積の石垣が往時の風情を留めているに過ぎない。何故に文化財までをも区画整理してしまうのか私には判らない。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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帆足家住宅 (分家) |
登録有形文化財 (平成17年11月10日登録) 大分県大分市大字中戸次4361 建築年代/明治39年 用途区分/ 登録範囲/主屋・新座敷・裏二階・穀物蔵・道具蔵・味噌蔵・質蔵・湯殿及び風呂・井戸上屋・門・塀 公開状況/非公開 【不老館】 大分市南郊の町・戸次本町は、大野川沿いの交通の要衝であり、藩政時代においては旧臼杵藩領の在町として栄えた土地柄である。この町の中心部に広大な屋敷を構えるのが戸次市組の大庄屋であり酒造業を営んだ帆足本家であり、当住宅はそれに隣接して建つ分家住宅である。本家が主屋を門塀で囲む屋敷型を採るのに対し、当家は主屋を日向街道沿いに東面させる町家型の配置。大野川の氾濫に備えて敷地を高上げし、前面に石段を積む様子は他家にはなく、豪家としての風格を醸している。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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池見家住宅 | 無指定・公開 大分県大分市佐野3452-2 (佐野植物公園脇に移築) 旧所在地・大分県大分市佐野字東原 建築年代/文化11年(1814) 用途区分/農家(庄屋) 残存建物/主屋 公開状況/公開 東九州自動車道の大分米良IC近くにある佐野植物園入口脇に移築保存されている農家建築である。臼杵藩丹生原組の庄屋を務めたという家柄に相応しく桁行9間半、梁間5間に及ぶ入母屋屋根の堂々とした大型の住宅で、上手に式台玄関を下手に土間口を角屋状に正面へ突き出し、各々の屋根を玄関側は反らせ、大戸口側では起らせて心憎い演出が見られる。内部においても下手の土間奥に茶室と上便所が設けられるなど通常では考えにくい不可解な間取りがあり、こうした凡庸ではない造作が実に面白い。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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廣池家住宅 | 無指定・公開 大分県中津市東永添南2423 建築年代/不詳 用途区分/農家 残存建物/主屋 公開状況/公開 モラロジー運動の提唱者で麗澤大学の創立者でもある教育家・廣池千九郎の生家である。中津は教育熱心な土地柄のようで、幕末から明治初期にかけて教育、医学界に偉人を多数輩出しているが、千九郎も苦学して教職の道に進み、後に歴史学・東洋法学者として多数の書物を著し、晩年にはモラロジー(道徳科学)という形で倫理思想を提唱したことで知られる。住宅は中津市郊外の小高い丘上にある農家建築で正形四間取の典型的な本百姓階級の住宅。現在はモラロジー研究所という団体が見事に管理しておられる。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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能見家住宅 | 無指定・公開 大分県杵築市大字杵築字北台208-1 建築年代/江戸時代末期 用途区分/武家 残存建物/主屋・表門 公開状況/公開 杵築城下町の北台地区に建つ上級武家屋敷である。ちょうど藩校跡に建つ杵築小学校とは道路を挟んだ対面の位置に在り、嘗ては御用屋敷・楽寿亭があった場所でもあることから、城下屈指の一等地であったことは間違いない。「当家は5代藩主・親盈公の9男・幸之丞を初代とする」と案内看板に記載されているが、藩幹譜にその名の記載は無く、敢えて元服前の幼名を挙げる理由については何らかの事情があるのではないかと邪推してしまうが、藩主家の出身地「能見」の家名に相応しい屋敷構であることだけは間違いない。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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中根家住宅 | 無指定・公開 大分県杵築市南杵築193-1 建築年代/文久2年(1862) 用途区分/武家(家老隠居屋) 残存建物/主屋・長屋門 公開状況/公開 杵築藩32000石の城下町である杵築は、海岸段丘の複雑な地形を上手く利用した町割りが実に魅力的な場所である。台地の谷間の東西街道筋の両脇を商家に、その南北の高台を武家地に割り振る配置にあって、当住宅は南側の高台、すなわち南台の傾斜地に所在する。当家は能見松平家5代・重忠公が出羽国上山藩主の時に召抱え、代々家老職を務めた家柄で、住宅は当家9代・源右衛門が幕末に隠居屋敷として造営したものである。内部の造作に武張ったところがなく、静かな余生を送るに相応しい風情である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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佐野家住宅 | 無指定・公開 大分県杵築市杵築329 建築年代/天明2年(1782) 用途区分/医家 残存建物/主屋・診療棟・入院棟・土蔵 公開状況/公開 杵築城下町の北台地区西町に所在する医家住宅である。当家の祖・徳安は伊賀国名張郡の出身で、大阪夏の乱の混乱を避けて豊後国竹田に下向、医術を習得した後、杵築の中村で開業していたところ当時の杵築藩主・小笠原公に侍医として召抱えられたという。その後、当家代々は藩主交替により能見松平家が入部してからも侍医として活躍した。杵築城下最古とされる主屋は格式ある座敷の奥に近代的な診察室を増設するなど大幅な改造がなされているようだが、代々続く医家の系譜を紡ぐ証左として興味深い。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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一松家住宅 | 無指定・公開 大分県杵築市南杵築193-1 旧所在地・大分県杵築市南杵築 建築年代/昭和4年(1929) 用途区分/法曹家・政治家 残存建物/主屋 公開状況/公開 重伝建地区に選定されている杵築城下町の南台地区に移築保存されている政治家・一松定吉氏の旧宅である。一松定吉氏は明治28年に大分師範学校を卒業後、小学校教師を経て法曹界に転身、大審院の検事を務めた後、昭和3年(1928)に衆議院議員に当選して以降、衆議院議員として連続8回、参議院議員として連続2回の当選を果たし、逓信、厚生、建設の各大臣となった立志伝中の人物である。建物は昭和4年8月の竣工ではあるが、起工は昭和2年9月であったことから、政治家として名乗りを上げる前後の最も脂の乗った時期に整備されたものとなる。一松家は杵築藩の下級武士の家柄であったが、封建制崩壊の恩恵を受けて地元随一の立身出世を遂げた彼は、その実力に相応しい大邸宅を建てたという次第なのであろう。城下に残る藩政期の家老級の武家屋敷群と比較しても比較にならない程の御殿建築振りであるが、惜しむらくはこの時期の近代和風建築として定型的な建前に終始しており、施主としての拘りを建物から感じることはない。存命中の昭和32年には地元・杵築市に屋敷を寄贈していることからも、意外に屋敷に対して淡白な想いしか抱いていなかったのかもしれない。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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徳田白楊生家 | 無指定・公開 大分県豊後大野市緒方町徳田245 用途区分/歌人 残存建物/主屋 公開状況/外観自由 【徳田白楊記念館】 徳田白楊はアララギ派の歌人だそうである。昭和2年(1927)に旧制竹田中学在学中に16歳で肋膜炎を患い、休学を余儀なくされる程に病魔との戦いを強いられたらしい。昭和4年(1929)にキリスト教の洗礼を受けて、病苦からの精神的克服を試みるも昭和8年(1933)に腎臓結核で21歳の早すぎる死を迎えた。その間に大分新聞に投稿した短歌が、選者の土屋文明によって高く評価され、一躍脚光を浴びることとなり、アララギ派の天才歌人として将来を嘱望されるも、叶うことなく夭折した。生家は彼を顕彰するために保存されており、どれだけの人が彼を慕って訪れるかは知らないが、山間部にひっそりと佇む住宅は浮世から隔絶した風情に充ちており、天才と称された歌人を生み出す程に繊細な情操を育む環境としては納得のいく土地柄と云えなくもない。 |
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薫長酒造 | 無指定・公開 大分県日田市豆田町6-31 建築年代 用途区分/商家(酒造業) 残存建物/北蔵・中蔵・穀蔵・造り蔵・南蔵 公開状況/公開 【クンチョウ酒造資料館】 昭和7年以降は現在の薫長酒造を経営する富安家の所有となったが、嘗ては日田の掛屋として名を馳せた千原家が経営する酒造施設であった。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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井上家住宅 | 無指定・公開 (大蔵大臣・井上準之助生家) 大分県日田市大鶴町2299 建築年代/ 用途区分/商家(酒造業) 公開状況/公開 【清渓文庫】 日田の町から陶器の産地として有名な小石原村に向かう途中、国道211号線沿いに所在する酒造屋敷である。道路脇の石垣上に大きな酒蔵が建ち、銘酒「角の井」の醸造元として一際目立つ存在であるが、先項で紹介した国の有形文化財に登録される井上家住宅の分家筋の家としても知られている。また、当家は大正時代に日本銀行総裁、大蔵大臣を務め金融危機に際して辣腕を振るった井上準之助氏の生家でもあり、時期は限られるものの主屋の一部を準之助氏の号を冠した「清渓文庫」の名で公開しておられる。 ▼個別解説ページへ(制作中) |