磯矢家住宅
Isoya



杵築市指定文化財 (平成20年12月1日指定)
大分県杵築市杵築字北台211-1
杵築藩能見松平家の城下町に所在する旧武家屋敷である。当住宅が所在するのは谷間の街道筋に展開する商人町を挟んで南北の高台に分かれる武家屋敷街の中でも、北側のもっとも見晴らしが良い場所で、一般に「北台家老丁」と称され、その名のとおり重臣級の屋敷が集中していた一画である。藩主御殿にも程近く、付近には藩校・学習館など藩の施設なども設けられていたが、「勘定場の坂」に沿って中塗り仕上げの土色の練塀が続く風情は、決して厳めしいものではなく、優しい雰囲気さえ感じられる。
さて当住宅は、そもそもは藩の接待所の控え屋敷として使用されていた建物ではないかと云われている。家老丁を全焼させたと伝えられる1800年の寛政の大火の後、隣接地に整備された楽寿亭の関連建物と推測されているが、関連する古文書等が残されておらず、詳細は不明である。ただ、格式を重んじる武家住宅として一番重要な座敷に根太天井が張られているなど、通常では考えにくい建前が採られていることから、一般的な武家住宅として建てられたものではないという推察もあながち誤りではないと感じられる。 (座敷を根太天井にするという造作については、すなわち天井裏を物置として活用する、あるいは2階に部屋を設けていることを意味しており、このことは客人の頭上にモノ、ヒトが載ることになり非礼とされる。敷地が限られる町家では多々見受けられる造作ではあるが、作法にうるさい武家住宅では殆ど見られないものである) ただ近年の調査で文久4年(1864)の銘のある瓦や棟札が発見されており、寛政大火から時間的な隔たりが大きすぎるため、従来の見解を覆す証拠発見に戸惑いを感じている専門家も多いのではないだろうか。※玄関の間、客間の座敷、茶室のみを楽寿亭の遺構とする見解もある。
いずれにせよ、その後の文政7年(1824)に楽寿亭が廃止されたことは記録として残されており、廃止後の当屋敷地は一般の武家屋敷に転用され、幕末には加藤与五右衛門の屋敷であったことは判明している。ちなみに加藤家は歴代当主の大半が家老職を拝命した藩を代表する家柄であったようであるが、禄高は僅か200石の小禄であった。(次席家老まで累進する例があったようである) 時代劇に出てくるような豪勢な御殿屋敷に住まいするような悪役家老達とは較べようもないほどに質素な生活であったことは、当住宅の風情からしっかりと伝わってくる。
ところで当家の表庭に一本の梅の古木が植えられている。立春の前後に、それは見事な花を咲かせ、訪れる者の目を楽しませてくれる。日和の良いときに当家の座敷脇に設けられた小部屋に座って眺めていると小さな幸せさえ感じられる。往時の為政者たちもこの古梅を眺めながら小さな藩の幸せとは何かを考えたに違いない。 (2011.2.12記/2015.12.29改)

 

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