広瀬淡窓旧宅
Hirose Tansou



 
廣瀬淡窓旧宅及び墓
国指定史跡 昭和23年1月14日指定
廣瀬淡窓は江戸時代の儒学者。19歳の時に大病を患い、日田を代表する掛屋(両替商)であった家督を弟に譲り、学問の道へと進んだ。文化2年(1805)の24歳の時には、日田豆田町の長福寺の一画を借りて私塾を開いた。これが今に残る咸宜園である。咸宜園は淡窓の死後も明治30年(1897)まで存続し、塾生は日本全国から集まり、高野長英、大村益次郎、清浦圭吾など有能な神人材を多数輩出した。入門者はのべ4000人を超える日本最大の私塾となった。




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