福沢諭吉旧宅
Fukuzawa Yukichi



 
国指定史跡 (昭和46年6月22日指定)
大分県中津市留守居町586番
建築年代/不詳
用途区分/武家(13石2人扶持)・啓蒙思想家・教育家
残存遺構/主屋・土蔵
公開状況/公開

「学問のすすめ」の著者、慶応義塾大学の創設者として知られる啓蒙思想家・福沢諭吉の旧宅である。中津藩大阪蔵屋敷下役の父・百助の次男として生まれた彼は、1歳の時に中津に戻り、19歳にして長崎に遊学するまでの20年間を中津で過ごしたという。当住宅は中津藩奥平家10万石の居城・中津城の東北500m程の位置に所在し、彼が中津に戻って暫く経過した後に移住した屋敷である。

現在、旧居として現存する建物は諭吉が嘉永2年(1849)から安政2年(1855)の6年間を過ごした建物。諭吉の父親・百助は蔵屋敷下役の軽輩で、当然ながら住まいも下級武士身分が集住した一画にある。主屋は粗末な麦藁葺の約32坪程の直屋建物。
主屋背後の土蔵2階は諭吉が勉強部屋として使用したと伝えられる。
ちなみに諭吉が中津藩大阪蔵屋敷から郷里に戻ったのは1歳半のとき。帰郷後最初に住んだ屋敷は、現在の屋敷の西側道路を挟んだ斜め向かいの地にあり、建物等は現存しないものの宅地跡が同じく史跡指定されている。諭吉の父・百助は軽輩身分ながら文物に秀でた人物であったらしく、能力がありながらも藩の厳しい身分差別により下役のまま一生を終えた。後年の諭吉が著した「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という名言は、こうした背景があってのことと想像される。


 

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