古庄家住宅



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姫島村指定文化財 (平成2年12月11日指定)
大分県東国東郡姫島村

磨崖仏や国東塔など独特の石文化を持つ地域として著名な国東半島の先端部にある伊美港からフェリーで僅か20分ばかりの沖合いに姫島という小さな島がある。以前に山口県徳山市在の釣り好きの知合いに「休日には姫島の沖合まで船を出す」と話を聞かされて、え〜っと思ったりもしたが、日本地図を広げると実は意外に山口県の周南地域は国東半島と至極近い位置にあることが良く判る。実際、姫島を中心とする瀬戸内沿岸地域との海洋交流は早くから発達したようで、姫島にのみ産する灰色の黒曜石は九州のみならず、中国、四国地域からも古代の石器遺物として数多く発見されている。
さて、姫島は東西7km、南北4kmほどの小さな島であるが、東西に小高い山があり、これらを繋ぐように伸びる砂洲上に集落が形成されている。島の規模に比して平地が多いので、一般的な島嶼部に見られるような狭い敷地に家々が密集して建つこともなく、全体にゆったりとした雰囲気に溢れている。
古庄家住宅は、そんな集落の北側にある標高僅か62mの城山を背にして所在する。集落内の細く入り組んだ道路が屋敷前だけ広くなっており、集落内で確固たる地位にあった者の家であることが容易に理解できる。屋敷の前面に低く切込ハギの石垣を築き、その上に納屋門、蔵、御成門が一直線上に並ぶ。納屋門を潜ると広い前庭の向こうに東西15間もの長い寄棟瓦葺の主屋がどっしりと腰を据えている。主屋前面にだけでも式台玄関や大戸口など合わせて4ヶ所もの出入口が設けられた格式を重んじる造作である。建築年代は天保13年(1842)とされており、島内で塩田開発等を主導した古庄家11代・重政により建てられたとのことである。主屋右手の土間に立ち、床上部を臨むと四間続きの部屋の最奥に床の間と艶やかな戸袋を備えた座敷を見通すことができる。手前の部屋には江戸末期の建築らしく太い鴨居が梁間方向に渡されており、重厚感に溢れた設えとなっている。島嶼部の民家と侮るなかれ、堂々たる豪農家の風情である。
ところで、この島における古庄家の歴史は決して古いものではなく、江戸期に入ってからのことである。豊後国の守護大名・大友氏の家臣であった初代・徳右衛門が諸国流浪の末、来島したのは慶長15年(1610)のことで、その十数年後の元和年間に杵築藩の庄屋職を拝命して以来、明治維新に至るまで12代にわたり職を世襲したらしい。島嶼というのは何れも同じであるが、決して耕地が多いわけでもなく、地味も宜しくないものである。姫島も同様であったらしいが、歴代の当主たちは、甘藷栽培を始め、塩田開発を行うなど、島の産業振興のために尽力したことが知られている。
当家は、島という閉ざされた空間における庄屋という絶対的な存在の大きさを感じることができる興味深い民家である。少し訪れるのは大変だが、ゆっくりと時間をかけて旅してもらいたいものである。  (2011.2.13記)