竹田荘
Chikudensou



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国指定史跡 (昭和23年1月14日指定)
大分県竹田市竹田町字殿町2069
建築年代/寛政2年(1790)
用途区分/武家(藩医)・学者
残存建物/主屋・補拙盧(昭和再建)・草際吟舎(昭和再建)
公開状況/公開

竹田荘は江戸中期に活躍した南画の大家・田能村竹田の生家である。田能村竹田は1777年に岡藩医の家に生まれ、22歳の時幕府の命令により、「豊後国誌」の纂修員となり、資料収集のため国内を巡視。その後、江戸・京都・長崎などに遊学し、数多くの文人墨客と交流した。生家は旧城下町南端の小高い山の斜面を造成して建てられている。主屋は武家住宅としては珍しく二階建である。表門に面する主屋玄関側は実に質素な表情をしているが、主屋裏手の座敷側の表情は、さすがに風流な印象である。邸内には、帆足杏雨や田能村直入といった竹田の門弟たちが集った塾・補拙蘆が残されている。彼らはここから幕末の豊後国の文化を支える逸材へと育っていくこととなったのである。主屋は寛政元年(1789)12月の町内大火により類焼し、翌・寛政2年(1790)に再建されたもの。草際吟舎は文化3年(1806)、補拙蘆は文政9年(1826)に建てられるが、両建物共、明治年間に取り壊され、現在の建物は昭和8年(1933)に再建したもの。

竹田荘は、南画家として知られる田能村竹田の住まいであった。この地は、竹田城下町の南端に位置する武家屋敷跡にあたる。田能村家は代々医師として岡藩に仕えていたが、竹田(孝憲)は20歳の時、医業を廃止して文人画家の道を志している。主屋は2階建の建築で、1階は、主に生活に必要な空間で占められており、医師としての住まいであった様子が窺える。6畳の座敷は、竹田が詩画の構想に耽ったと伝えられている。2階は8畳間と10畳の座敷から成っており、特に10畳の座敷は城下町を中心とした景観が一望できる眺めの素晴らしさから「雪月楼」と称されていた。主屋は、昭和56、57年度に亘る保存修理で寛政年間(1789-1801)の姿に復された。

田能村家は元和年間に休庵が奥医師として召し抱えられて以来、代々医業で仕えました。学業で仕えた竹田に対して、父の碩庵や子の太一(如仙)は医師を務めており、如仙の描いた「文政・天保頃竹田荘絵図」には、座敷の隣に調合場と呼ばれる8畳の部屋があります。竹田の代には田能村家は廃していたのでどのように使用されていたか判りませんが、如仙は藩医の務めの傍らで、医業を営んでいたものと思われます。
竹田荘は、田能村竹田が自ら邸宅に付けた雅称。岡城下町の背後、上殿町筋に12人扶持の藩士田能村家の屋敷がありました。竹田は、初めて京都遊学から帰国し結婚した後に屋敷に手を加え、小さな苑池を造り、季節の花や竹を植え、母屋に茶室を増築し、「花竹幽窓」と名付けるなど、文人としての生き方を実践する場を日常の生活空間の中に作っています。母屋2階に制作の場「雪月楼」、敷地内に弟子たちの稽古場「補拙盧」、茶室・書庫の「草際吟舎」等が設けられています。

補拙盧
竹田の門人たちが詩画の腕を磨き合った場所とされている。この建物は、文政9年(1826)2月に竹田を慕う門弟のために塾として建設され、その塾生の居住にも充てられていたようである。後にここから豊後南画の黄金時代を築いた南画家達が巣立つこととなった。建物は、明治初年頃に裏山の崩壊により倒壊して取り壊され、昭和8年(1933)に再建されたが、昭和55、56年度に古図や発掘調査に基づき、当時の状態に復元された。

草際吟舎
この建物は、文化3年(1806)に建築された土蔵様式の2階建である。1階は茶室、2階を書庫として用いていたようである。竹田は、九州旅行中であった親交の深い頼山陽を竹田荘に迎え、歓待している。この時、頼山陽が宿泊したのが、この草際吟舎と云われている。建物は明治時代に取り壊され、昭和8年(1933)に再建されたが、昭和56、57年度の史跡整備時に古図のとおりに復元された。




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