福岡の民家
横大路家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和52年1月28日指定) 福岡県糟屋郡新宮町上府420 建築年代/江戸初期(17世紀初期) 用途区分/農家(組頭・庄屋・大庄屋) 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 2000年解体修理工事済 福岡市より北東郊外の農村部に所在する旧庄屋屋敷である。当家は天台宗開祖の伝教大師・最澄と所縁のある伝説的な家柄で、最澄が中国・唐への留学を終え、遣唐使船に乗り帰朝を果たした際、天台の教えを広める適地を探すため天に独鈷を投げ、その行方を捜して山中に分け入ったところ地の猟師と出会い、道案内と宿を乞うたという。その猟師が当家の祖となる源四郎で、その返礼として源四郎は最澄から「横大路」の姓と、唐から持ち帰った浄火と毘沙門天を授かったという。この伝説に拠り当家は平安時代初期から続く旧家とされ、先年に亡くなられた御当主・文彦氏で44代目を数えたという。地元では、その古さから千年家と称されてきた。けれども主屋の創建は、さすがに平安期まで遡ることはなく、江戸初期に建てられた後、数度の改築を経て現在に至ったものと考えられている。 ▼個別解説ページへ |
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伊藤家住宅 | 国指定重要文化財指定予定 飯塚市指定文化財 (平成18年9月26日指定) 福岡県飯塚市幸袋300番地 建築年代/明治30年代 階層区分/実業家(炭鉱主) 指定範囲/主屋・表物置・道具蔵・骨董蔵・事務室・書生室・長屋門 計7棟 公開状況/公開 明治から昭和初期に至るまで日本の近代化を支えた石炭産業の中心地であった筑豊地方にあって、大炭鉱主として名を馳せた伊藤伝右衛門氏の邸宅である。最初に由縁を知らずにたまたま当住宅を見つけたときは、寂れた在郷町に江戸の大名屋敷と見紛うような巨大な長屋門を構えた大屋敷に驚愕した記憶がある。その伝右衛門氏は万延元年(1861)に魚の行商を生業とする貧しい家庭の生まれで、船頭や露天掘りなどの職を経て、父親と共に石炭採掘業に乗り出し、一代で麻生・貝島・安田の筑豊御三家と称された大炭鉱主に次ぐ規模にまで事業を拡大、後に衆議院議員を務めた立志伝中の人物である。当住宅は彼の生地である幸袋に建てた本邸で、旧長崎街道に面する前述の長屋門は福岡市中心部の天神に建てた別宅が火災で焼失した後に、その表門のみ移築したとのこと。また主屋については京都から宮大工を招き、造営したという近代和風建築の白眉で、その洗練された建前は、貧民上がりで無学と嗤われた彼にとって世間を見返すものであったに違いない。蛇足ながら、平成の世に至り、本住宅の価値を認めずに取り壊し寸前の状況にまで追いやった現代人の無見識を、むしろ憂うべきであろう。 ▼個別解説ページへ |
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吉原家住宅 | 国指定重要文化財 (平成11年12月1日指定) 福岡県指定文化財 (平成5年7月指定) 大川市指定文化財 (平成元年3月指定) 福岡県大川市大字小保136-17 建築年代/文政8年(1825) 用途区分/町家(別当・大庄屋) 指定範囲/主屋(土蔵2棟は市指定文化財) 公開状況/公開 県南部に位置する大川市は、現在では家具の町として知られる土地柄であるが、そもそもは筑紫次郎の呼び名で知られる筑後川の河口部に、上流域の山間地から運ばれる木材の集積地として築かれた川湊が発展の始まりであった。藩政期には筑後一国を支配した田中家の改易により町場は久留米藩支配の榎津地区と柳河藩支配の小保地区に分けられ、当家は小保地区側の本陣別当職として柳川藩の町場支配機構の頂点に君臨した家柄である。天明6年(1786)の小保絵図によると民家総数86軒の大半が間口3間の草葺平屋建ての家屋であった中、唯一11間の最大間口を有する当住宅は群を抜く存在であり、それは現在も同様である。町場に所在するため町家建築として区分されるものの、その家構えは邸宅型で、むしろ武家住宅の様子に近いものがある。近世の町家建築としては質・規模ともに九州を代表するといっても過言ではない住宅である。 ▼個別解説ページへ |
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平川家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和46年6月22日指定) 福岡県浮羽郡浮羽町大字田籠383-1 建築年代/19世紀初頭(座敷増築部は文政3年(1820)) 用途区分/山村農家 指定範囲/主屋・納屋 公開状況/公開 (1981年解体修理工事済) 大分県境に近い山間部に所在する農家建築である。筑後川の中流域にある浮羽町の中心市街から南に折れ、合所ダムを超えて棚田に咲く彼岸花の群落で観光客を呼び込む田篭集落の最奥部に数軒の民家とともに佇む。ちなみに田篭集落は平成24年に国の伝統的建造物群保存地区に選定されており、山間部の渓谷沿いに茅葺の農家建築が点在し、往古の風情を留める美しい場所である。当住宅の特徴は、やはりその外観の面白さにあり、妻入茅葺寄棟造の三棟の建物が並び建つように見える風情は印象的である。実は南面する前谷型のクド造の主屋の西側に納屋が軒を接して隣接しているだけのことに過ぎないのだが、たったそれだけのことであるにも関わらず、とても美しい。山間の平坦地が少ない狭隘な土地柄が生んだ偶然を有難く思う。 ▼個別解説ページへ |
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永沼家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和52年1月28日指定) 福岡県京都郡犀川町大字帆柱721番地 建築年代/天保10年(1839) 用途区分/代々庄屋・大庄屋 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 (1989年解体修理工事済) 県東部に聳える霊峰・英彦山の北側の谷筋に所在する庄屋屋敷である。この付近の民家の建前は、県中西部に主流の小型の曲屋とは異なり、直屋の堂々とした風情の民家が多く見受けられる。穏やかな起伏のある地形に営なまれた帆柱集落は、恐らく時代が下ってから拓かれた土地柄で、その証左として集落内の民家は点在しており、当住宅も小高い丘陵を背に他の民家とは距離を置いて屋敷を構える。屋敷前の道路からは大きな石段を少しばかり上った位置に、東面して桁行11間の堂々たる主屋を構え、その風情は帆柱、扇谷村の庄屋を代々務め、一時期は近隣15ヶ村の大庄屋を兼帯したという由緒に相応しいものである。建物は茅葺ながら土間の架構や座敷の書院造は江戸末期の庄屋階級民家の完成形のような建前で、個人的には九州地方における近世民家建築の終着点に位置するものではないかと思う。近隣に所在する同じく国重文に指定される一般農家建築である数山家住宅と比較してみると、その違いが知れて楽しめる。 ▼個別解説ページへ |
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中島家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和52年1月28日指定) 福岡県田川郡添田町大字添田1860 建築年代/江戸期(19世紀前半) 用途区分/商家(櫨蝋製造)・苗字帯刀御免 指定範囲/主屋・醤油蔵・酒蔵 公開状況/非公開 北九州市の小倉城下から天領・日田に至る街道筋に営まれた宿場町・添田に所在する町家建築である。当地は霊峰・英彦山の参拝拠点としても往古から栄えた土地柄で、明治に入ると石炭産業が勃興したことから更に活況を呈したものの、昭和期には廃坑と共に衰退し、現在では典型的な過疎の町となっている。当家は「和多屋」あるいは「綿屋」の屋号を称し、江戸中期頃より櫨蝋の製造を始め、維新後からは酒造業に転身、更に大正期になると醤油醸造業を営んだことが判明している。屋敷は南北に街道が縦貫する町場の下町にあり、街道に西面して主屋と醤油蔵が並んで建ち、醤油蔵の背後に酒蔵が配置される。町場には総じて入母屋造の妻入商家が多い中、当住宅は切妻造平入の建前を採り、異彩を放つ存在である。内部の造作においても良質で、間取りは六間取り系の農家に近い平面でありながら、一部を二階建てとする点は商家的な要素である。白漆喰を塗り籠めた本壁造の建物ながら硬質な風情を醸すことで、鄙には稀なる品の良さを漂わせる一級の商家建築である。 ▼個別解説ページへ |
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数山家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和53年1月21日指定) 福岡県田川郡添田町津野添田2151番地 建築年代/天保3年(1842) 用途区分/農家 指定範囲/主屋 公開状況/公開 1979年解体修理工事済 英彦山北麓の英彦山神社旧参道筋に所在する農家建築である。自家用車の所有が当たり前となった現代社会において、徒歩で神社に詣出るような奇特な人など恐らくは殆ど皆無に近いのではないかとは思うが、英彦山へと続く旧参道筋にあって最後の集落となるのが当住宅が所在する猿喰部落であった。嘗て英彦山は西国一の霊山であり、藩政期には九州一の修験道場であったことから衆望も篤く、人の往来も頻繁で、現在のような過疎部落では決してなかったものと思われる。当住宅は英彦山を源流とする今川が蛇行する舌状台地上に屋敷を構え、山林を背後に桁行10間半の直屋造の主屋は、堂々たる姿を今に伝えている。主屋の内部に足を踏み入れると建坪の半分程を占める土間が広がっており、床上部は六間取の平面となる。山間部の平地に恵まれない場所では土間を最小化する傾向にあるものだが、当住宅の場合は例外的な広さである。また建築部材に竹を多用している点も地域性も感じさせてくれる。天井だけでなく、床材にも竹を敷き詰め、古式を感じさせてくれる造作である。当初の調査では江戸中期頃の建築と見立てられたが、解体修理時に座敷押入れの敷居の墨書が発見され江戸末期と判明した。他にも建築当初は分棟型として計画されたことを疑わせる痕跡もあり、なかなか盛り沢山に面白い民家である。 ▼個別解説ページへ |
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松延家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和52年1月28日指定) 福岡県八女郡立花町大字兼松242 建築年代/江戸末期 用途区分/商家(御用商人・和紙販売) 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 立花町の中心集落である兼松の町場の中央部に所在する商家建築である。兼松は熊本から植木を経て久留米へ抜ける脇往還の宿場町として栄えた土地柄であるが、国道3号線が町場を避けて通るようになって以降、嘗ての役割は失われ、急速に町場としての面影は失われつつある。集落内に僅かに残る町家は板壁で囲われた何の変哲もないものが大半であるが、白漆喰土蔵造の重厚な建前で突出した存在感を醸しているのが当住宅である。白壁が眩しい堂々たるその姿は、幕末において八女郡特産の和紙や茶を扱い、立花藩の御用商人を務め、苗字帯刀を許されたという来歴を如実に顕すものである。街道に北面して建つ主屋は東西二棟から構成されており、一見すると単に二階建の妻入町家が2軒並んで建っていると思ってしまう。九州地方における初期の農家建築に見られる二棟造の影響と見る向きもあるが、単に隣家を買い増し、外観はそのままに内部のみを一体化させた結果と考えた方が素直であろう。実際、内部の平面や使用される部材の差異から東棟が当初より商売を営んだ中心家屋であり、西棟が後に買い増しされて大幅に改造を受けたとものと推察されている。鄙には稀なる素晴らしい町家建築であるが、宿場町内で当住宅のみが、何故こうした屋敷を構えることができたのであろうか、その突出した繁栄振りの理由を掘り下げたくなる民家である。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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蔵内家住宅 | 福岡県指定文化財 (平成20年3月31日指定) 登録有形文化財 (平成14年2月14日登録) 福岡県築上郡築城町上深野396 建築年代/明治20年(1887) 用途区分/実業家(炭鉱経営) 指定範囲/主屋・大玄関棟・応接間棟・座敷棟・大広間棟・炊事場棟・茶室・倉・米倉・宝蔵・中門・便所・貯水槽 公開状況/公開 九州百名山に選定される犬ヶ岳を源とする城井川の中流域に拡がる静かな田園地帯の只中に所在する旧炭鉱主の大邸宅である。県内には嘗て「石炭王」と称された大炭鉱主、例えば飯塚の麻生家や伊藤家といった面々の屋敷が残されており、いずれにおいても近代和風建築の白眉とも云える素晴らしい住宅建築である。しかし、いずれも建築の動機に華族からの嫁取りを前提としたところがあり、そこはかとなく品性が漂う建前となっているが、当住宅の場合は事業拡大に合わせた接客空間の充実に主眼が置かれており、豪快さという点では軍配が上がる。人造石を腰壁に貼った大玄関棟から主屋、座敷棟、大広間棟が雁行状に建ち並ぶ姿は、まさしく御殿建築の様である。また、これらの建築群から臨む庭園も見事な意匠である。隣接する貴船神社も当家の寄付によるもので、住宅と一体となって整備されたことが窺える。九州北部地域が神代以来、再び輝きを取り戻した瞬間、それは日本の近代化を牽引する石炭産業が勃興し、衰退するまでのごく僅かな期間でしかなかったが、当住宅はその残滓を今に伝えてくれる貴重な存在なのである。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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清水家住宅 (銀杏茶屋) |
福岡県指定文化財 (平成29年3月17日指定) 北九州市指定史跡 (平成8年3月27日指定) 福岡県北九州市八幡西区石坂1-4-6 建築年代/天保7年(1836)頃 用途区分/農家(組頭)・御茶屋 指定範囲/主屋・蔵 公開状況/公開 長崎街道の宿駅である木屋瀬宿と黒崎宿のちょうど中間あたりに所在する上石坂の御茶屋建築である。上石坂集落は正式な宿場ではないものの、台地上の平坦部に位置していたため前後の急坂を登り終えた参勤交代の一行が一息入れるのにちょうど都合が良かったようで、当住宅は休憩茶屋(御小休所)として利用され、往時には長崎奉行や幕府の巡見使などが立ち寄ったと記録されている。主屋は街道に東面して建てられており、その建前は妻入桟瓦葺に白漆喰大壁造の体裁で、その外観からはどう見ても町家建築としか思えないが、実は香月村の組頭役などを務めた農家建築である。内部においては下手を通り土間とし、上手の床上部は土間に沿って二列3間続きに部屋を配置するが、うち最も上手の一列は賓客向けの座敷とする。座敷部の最奥の間は上段の間となり、床高が一段上がっているばかりでなく、取次となる中の間と併せた二部屋については、その棹縁天井裏の梁組に竹を渡して藁を敷き、その上に厚さ3cm程に土を塗って二重天井としている。格式を表現するものではないが、貴賓に対する隠れた配慮という点で興味深い造作である。座敷前の小さな庭に樹齢350年と推定される大銀杏があることから当住宅は銀杏屋敷とも別称されるが、黄葉の季節には実に見事な風情である。 ▼個別解説ページへ |
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石田家住宅 | 福岡県指定文化財 (平成3年11月15日指定) 福岡県朝倉市秋月519 建築年代/1762年 用途区分/商家 指定範囲/主屋西棟・主屋東棟 公開状況/非公開 嘗ては修験の山であった古処山の南麓に拡がる秋月は、福岡藩の支藩として江戸初期に形成された陣屋町である。明治維新後においても日田往還や長﨑街道といった主要な往還筋から外れた位置にあったため開発の波に曝されること無く、そのお陰もあって平成10年には国の重伝建地区に選定されている。当住宅は街道筋に商家が軒を連ねる町場のほぼ中央部に所在する町家建築である。元々は藩の御用商人であった甘木屋遠藤家の持家で、昭和初期以降は石田家の所有となり、貸家として使用されていたらしい。通りに面して二棟の町家が並ぶような姿をしているが、内部は地形的に東西で段差があるにも関わらず床高を揃えてまるで一軒の家の様に造作されている。初期の建築関連の書物には、「平行二棟型」の町家として区分され、この地域の農家に見られる前谷型くど造りの影響を受けた建物と考えられたこともあったが、後に建築年が入母屋屋根の西棟が1762年、切妻屋根の東棟が1799年であることが判明したことから、別々に建てられた建物の間取りのみを後世に統合改変したことが明らかとなった。さぞかし建築史家にとっては残念な結末であったに違いない。 ▼個別解説ページへ |
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石井家住宅 | 福岡県指定文化財 (昭和52年4月9日指定) 福岡県朝倉郡朝倉町大字宮野字湯ノ隈1371 建築年代/江戸時代(寛政12年以前) 用途区分/農家 指定範囲/主屋 公開状況/外観のみ 2017年に発生した豪雨災害で全国的にその名が知られるようになった朝倉地区。有明海側から筑後川に沿って雨雲が次々と流入し線状降水帯を形成したと解説されたが、筑後平野の広大な裾野が周囲の山塊によってちょうど閉じられる位置にあたり、低山なれども行く手を阻まれた雨雲がこの地に留まることで猛烈な長雨をもたらした結果とされた。けれども数年前までは、この地は降雨に恵まれず寒暖差が激しい気候で、むしろその風土を生かして果樹栽培が盛んな土地柄であった。当住宅は合併前の旧朝倉町域の中心地・比良松の北方郊外の柿畑の真っ只中にある小規模な農家建築である。当地域で産する柿は糖度も高く、高級品として知られるところである。当住宅は地域に典型的な「くど造り」民家で、凹部が建物の前面にくる「前谷型」と呼ばれる建前を採る。内部は馬屋を備えた土間を下手に、上手表側に御前と称される座敷を、奥側に台所を配置するだけの簡素な平面である。各部屋の上部には天井を設けず、土間との境も建具を入れない開放的な造作で、「随分乱暴な生活をしていた」ようだと当住宅を調査した九州大学教授の太田静六氏は記述している。くど造りの成立には諸説あるが、同氏は大風に耐え得るためのものと推察しており、その意味では台風の通り道となり易い筑後川流域の甘木地方から柳川地方にかけての県南部を中心に「くど造り民家」が分布する理由も納得できる。 ▼個別解説ページへ |
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鹿毛家住宅 | 福岡県指定文化財 (平成元年8月26日指定) 福岡県久留米市草野町草野405-1 建築年代/江戸時代(18世紀末) 用途区分/商家(醤油醸造・櫨蝋製造・質屋) 指定範囲/主屋・表門・蔵・井戸小屋 公開状況/非公開(不定期で公開日あり) 久留米城下町と日田代官町を結ぶ日田往還道は、耳納山塊の山裾を東西で結ぶ官道で、その途上にある草野集落は在郷町として栄えた土地柄である。往時には相当な殷賑振りであったことが過去の古写真から窺えるが、鉄道敷設後の短時間で移動可能となった時代には中間宿的な町場としての役割は薄れ、今では点在する往時の建物が醸す風情から辛うじて嘗ての繁栄を嗅ぎ取るばかりである。そんな草野在郷町の中央部付近に所在する当住宅は、その外観からかなり異彩を放つ町家建築である。屋敷地は南北に長く、鰻の寝床形状で土蔵が脇道に沿って一列に並ぶ様子はなかなかの見応えであるが、嘗ては更に多くの土蔵が建ち並んでいたらしい。往還に北面する主屋は、平入か妻入なのか、何とも形容し難い建前で、決して多くの蔵群を背後に擁するような大店の風情とはかけ離れたものである。九州の町家建築としては、かなり年代も遡ることから、それが近世末期に町家建築が定型化する以前に、型に囚われることなく建てられたことの証左だとすれば、かなり面白い展開になると思うのだが。 ▼個別解説ページへ |
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戸島家住宅 | 福岡県指定文化財 (昭和32年4月5日指定) 福岡県柳川市鬼童町49-3 建築年代/江戸中期(寛政9年(1797)または文政11年(1828)) 用途区分/武家 指定範囲/主屋 公開状況/有料公開 柳川藩立花家11万石の城下町に所在する上級武家屋敷である。ただ町場の外れに隠居屋として建てられた経緯から、武張った要素は一切無く、むしろ洒脱な造作が印象的な建物である。当住宅は、寛政年間に藩の中老職にあって勘定方を務めた吉田舎人が自身の隠宅として営んだもので、その後に藩公に献上されて茶室として用いられることもあったが、廃藩置県後の明治15年からは戸島氏の所有に帰した。住宅の造営と同時に整備された庭園は、池泉には有明海の潮の干満によって水面が上下する潮入庭の手法が取り入れられ、水辺には玉石を敷き詰めて洲浜を表し、閑雅な趣を演出している。庭園は建物と一体となるように造営されたことで座敷に居ながらにして眺めることを前提とした座観式庭園の秀作として昭和53年には国指定名勝に指定されている。住宅の外観は、有明海沿岸部の農家に多く見られるクド造とは異なり鍵屋造を複雑にした形態を採る。残存例が少ないため確かなことではないが、城下に残る武家屋敷は一般の農家とは建前を異にしていたのかもしれない。主屋の内部については、全体に亘って面皮柱を多用し、座敷に床や書院を付設するが、材料や体裁は武家風の書院造とは異なり数寄屋風の造作とする。上級武家屋敷としては異色の存在で、流石な民家である。 ▼個別解説ページへ |
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緒方家住宅 | 福岡県指定文化財 (平成31年3月19日指定) 福岡県大川市小保181 建築年代/江戸末期(19世紀中頃/天保年間) 用途区分/医家 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 筑後川河口に発達した家具の町・大川市の中心集落である小保町に所在する医家住宅である。隣接する榎津町とともに宿場町として栄えた小保町は、藩境の町でもあり、榎津が久留米藩領であったのに対し、小保は柳河藩領に属した。小保町の中心部に所在する当住宅は、町家建築が建ち並ぶ中にあって、大庄屋・本陣職を務めた吉原家住宅とともに屋敷型の家構えを採っており、現在は失われているものの、昭和の初め頃までは通りに面して表門と中門を構えていたという。当家は源平時代に活躍した緒方三郎惟栄を始祖とし、中世には豊後国主であった大友家に仕え、関ケ原合戦後は豊後竹田藩に、後に柳河藩に移り、普請役や藩医を務めたという由緒を持つ家柄。天保年間に当主・元郁により建てられたとされる主屋は正面に千鳥破風の付いた本瓦葺の式台を構える格式の高い建前で、内部は六間取の床上部に背後に狭い土間と台所を配置する平面とする。式台を上がると玄関の間があり、その下手に調合の間があり、これが診察室となる。患者は式台脇に設えられた縁側で待ち、ここを待合と称した。玄関の間の上手に次の間があり、その奥を座敷とするが、座敷は床、棚、書院を整えた本格的な造作となっている。藩医の住居が城下から外れた郊外の宿場町に在ることに当初は意外なことのように思えたが、どうやら常に殿中に詰めていた訳ではなく、町医者として活躍するような事例も多かったようである。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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隈本家住宅 | 福岡県指定文化財 (平成23年3月18日指定) 黒木町指定文化財 (平成5年9月27日指定) 福岡県八女市黒木町大字今1053 建築年代/文久3年(1863)・明治30年改築 用途区分/大地主・漢学者 指定範囲/主屋 公開状況/公開 平成21年6月に選定された八女市黒木町重要伝統的建造物群保存地区内に所在する大地主の邸宅である。黒木の重伝建地区は居蔵造の町家群が評価されて選定されたにも拘わらず、当住宅は黒木の町並からは北方に300m程離れた山麓集落に在る。もちろん町家でもなければ、居蔵造でもない。無理矢理に地区を拡げて、保存に繋げたようであるが、この辺りの経緯については、当住宅が明治29年から昭和9年の約38年間に亘り黒木町長を務めた隈本勝三郎氏の生家であったことや精力的な郷土史家の存在が大きかったのではないかと勝手に想像しているが、いずれにせよ、現在は「学びの館」の名称で保存公開され、現在に至るまで多くの人々を魅了し続けていることの意味は大きい。屋敷は山の斜面を開削して造成した高台にあり、前面を矢部川河原で採取した丸石を巧みに積み上げて石垣を築く。主屋は桟瓦葺の真壁造の二階建で、特に二階部分の建ちが高く、矢部川に向かう南側の開口部を広く採り、眺望を意識した建前としている。東西棟の主屋に対して南側から角屋を突き出し、玄関を備えた座敷を設え接客空間とするが、山林地帯を後背地として発展した黒木町らしく、いすれも良材を多用した造作となっている。 ▼個別解説ページへ |
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財蔵坊 | 福岡県指定民俗文化財 (昭和52年4月9日指定) 福岡県田川郡添田町大字英彦山1249 建築年代/江戸中期 用途区分/坊家 指定範囲/主屋 公開状況/公開 九州を代表する霊峰・英彦山を御神体として祀る英彦山神宮の参道沿いに所在する坊家建築である。そもそも英彦山は明治維新後の神仏分離令までは彦山霊仙寺という密教系の天台寺院が中核を成し、修験道の聖地として広く衆望を集めたことで知られる地であった。江戸中期の宝永7年(1710)の記録によると山上には総戸数637、総人口3015人もの人々が暮らしていたとのことで、坊家に限ると230戸もの屋敷が桜馬場と称される参道両脇を中心に建ち並んでいたらしい。当住宅は、現在でも山内に僅かに残る宿坊群のなかで最も古式を残す建物で、英彦山への参拝講で募った檀家衆を遇する接客空間ばかりでなく、坊家自身が日常を過ごした内向きの生活空間部の両方が往時のままに残されている例として貴重とされている。正面参道脇に建つ坊家としては小規模な建築ではあるが、接客空間を構成する座敷棟と生活空間部の居室棟が並行して配置される主屋は約41坪程の建坪もあり、平坦な土地が貴重な山中の住宅建築としては十分な広さのものである。座敷棟への入口として武家住宅以上に格式高い式台玄関を正面に構え、順に下之間、中之間、奥之間が一直線に配置され、最奥には祭壇が設けられている。一方、居室棟は御前と称される居間を中心に台所、土間、納戸などの日常生活空間により構成され、台所廻りには簀の子床や天井が用いられるなど、聖俗が混在する山伏達の住居として興味深い建物である。 ▼個別解説ページへ |
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楞厳坊 | 福岡県指定有形民俗文化財 (平成3年11月15日指定) 福岡県田川郡添田町大字英彦山 建築年代/江戸時代 用途区分/坊家 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 出羽の羽黒山、大和の大峰山と並ぶ三大修験霊山として名高い英彦山の参道沿いに所在する坊家建築である。明治以前の神仏習合時代に霊仙寺の大講堂として建てられ、明治初期の廃仏毀釈にも破却を免れた英彦山神宮の奉幣殿が所在する中宮へ至る表参道は約1km程に亘って石段が連なり、その両脇には坊家が建ち並び、山上集落が形成されている。その参道の起点となる位置には寛永14年(1637)に佐賀藩主・鍋島勝茂公が寄進した銅鳥居と称される一ノ鳥居が聳え立っており、その直ぐ脇に所在する中規模な坊家屋敷が当住宅である。昭和41~42年頃に国・県が実施した緊急民俗調査で当坊もその対象になってはいたものの、平成3年にようやく楞厳坊修験資料の名称で古文書145点、資料15点と共に民俗文化財に指定されることとなった。東西方向に伸びる参道に南面して屋敷を構え、南西隅に設えられた幅広の緩い石段を登ると、右手に鍵屋造の主屋が配置されている。参道に面した側が角屋となり、本玄関から前の間、中の間、奥の間を一直線に並べ、最奥には祭壇が設けられている。この座敷部分の両側には縁側が設けられ、内向きの空間からは完全に隔離された造作となっている。また本玄関に隣接する内玄関は式台を有する構えとなっており、双方共に坊家屋敷としての格式の高さを示す建前となっている。嘗ては現存する建物に付随して別に居室棟が建てられていたが、昭和30年前後に雪で倒壊したため取り除かれたとのことである。暖冬を連想する九州地方の民家において雪で倒壊するなど考えが及びもしないところではあるが、この厳しい環境こそが修験に相応しく、一層興味を引き立てられるところである。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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岩屋坊 | 国指定史跡 (平成13年8月13日指定) 福岡県指定民俗文化財 福岡県豊前市大字鳥井畑241-1 建築年代/江戸時代末期 用途区分/坊家(修験道僧) 指定範囲/主屋 公開状況/外観自由 豊前市の中心部から南西方向に歩を進めると、比較的拓けていた谷間が徐々に狭まり、前方に周辺の山々とは明らかに異なる奇怪な山容の低山が見えてくる。修験道遺跡として著名な求菩提山である。当住宅はその山中に残る僧坊の1つで江戸末期に建てられた小規模な建物である。かつては求菩提山中には150以上の坊家が営まれたというが、現在ではわずか当家と瀧蔵坊の2件を残すのみとなってしまった。県内には著名な修験道場として英彦山、宝満山といった山々が知られるが、建物の残存数こそ少ないものの、禊場や岩窟など往時の修験遺跡が数多く残る求菩提山は抜群に魅力的な場所である。住宅は山上の国玉神社に向かう表参道沿いに在り、石垣を築き雛壇状に造成された僅かな平地に、等高線に沿う形で主屋を配置する。正面に式台を構え、上手の座敷には祭壇を設える様子に、一般の農家住居との違いを見ることができる。当住宅の前に立つとき、長きに亘り営まれてきた山上生活が、明治5年に発布された修験道禁止の太政官令というたった1枚の紙切れでもって失われた現実に私はいつも悲哀を感じずにはおれない。周囲の風情に修験の神秘を感じながら訪れて欲しい民家である。 ▼個別解説ページへ |
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伊藤常足旧宅 | 福岡県指定史跡 (平成7年1月9日指定) 福岡県鞍手郡鞍手町古門1256 建築年代/天明6年(1786) 用途区分/宮司・国学者 残存建物/主屋 公開状況/公開 伊藤常足は江戸期の国学者である。安政3年(1774)に古物神社の神主の家に生まれ、26歳で国学者・青柳種信に師事、31歳から37年の歳月をかけて九州全域の地誌「太宰管内志」全82巻を編纂した人物である。当住宅は彼が13歳の時に建てられ、85歳で天寿を全うするまでの生涯を過ごした住拠である。住宅が所在する鞍手町は筑豊地方北部に位置し、町の南北を遠賀川が縦貫し、水利に恵まれた大穀倉地帯で、明治期には産炭に恵まれたため石炭産業が勃興したこともあったが、廃坑後の現在は純然たる農村地帯に逆戻りしている。古門神社に隣接して屋敷を構える伊藤家は神主の家柄ではあったが、生計のため農業も営んでいたため、むしろ住宅は一般的な農家の構えを採っており、戸口を入ると広い通り土間があり、床上部は田の字型の四間取平面となっている。ただ太宰管内志の資料集である「群書抄録」に描かれる旧宅間取図には主屋の上手奥より渡り廊下で神祇殿と称する建物と結ばれている様が描かれていることから、嘗ては神官住居としての体裁も整えられていたようである。いずれにせよ、今に残る姿は実に質素な建前で、度々に亘って藩主に謁見する名誉を受けながらも、建物には飾るところが一切見られない。彼の気骨な人柄が想像されるようである。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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高崎家住宅 | 北九州市指定文化財(平成6年3月30日指定) 福岡県北九州市八幡西区木屋瀬4-12-5 建築年代/天保6年(1835) 用途区分/商家(江戸期・絞蝋業、明治期・醤油醸造業) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 長崎街道の宿場町である木屋瀬宿に所在する商家建築である。東西の構口間が1100mにも及ぶ比較的規模の大きな宿場町の中間位置に所在する当家は本家柏屋(カネシメ)の7代目・四郎八が分家し、柏屋(カネタマ)の屋号で板場(絞蝋業)を始め、維新後の明治6年頃からは醤油醸造業を営んだという商家であり、四郎八は文政8年(1825)に大年寄役、翌年には大庄屋格を拝命していることから、恐らくは家業繁栄の立役者が本業から勇退するつもりで隠居分家したものの、余程の名望家であったためであろう、更に町役に担ぎ出されたというような事情が推察される。住宅はその家柄に相応しく大規模なもので、市の民俗文化財に指定される「板絵著色木屋瀬宿図絵馬」に描かれた当家の様子は遠賀川の河川敷付近まで屋敷地が拡がり、主屋の背後には多くの蔵群が建ち並んでいる。ちなみに主屋の建築は二階梁の墨書銘により天保6年の建築であることが判明しているが、幕末の建築ながら華美に走った様子は伺われず、座敷などは、むしろ質素というべき程の地味な造作である。ところで当家の5代目の高崎英雄氏は昭和の戦前・戦後に活躍した放送作家で、伊馬春部の筆名によりNHKのラジオドラマを数多く執筆したことで知られており、住宅内には彼の原稿など遺物が展示されている。 ▼個別解説ページへ |
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岩田家住宅 | 北九州市指定文化財 (平成18年7月20日指定) 福岡県北九州市門司区東本町2-6-24 建築年代/大正11年(1922) 用途区分/酒類販売業 指定範囲/主屋・土蔵2棟・表門・煉瓦塀・板塀 公開状況/非公開 門司市街地を抜けて国道2号線が関門トンネルの入口に差し掛かろうとする少し手前の交差点の角地に所在する近代和風商家建築である。交通量の増加とともに周囲の開発が進んでビル建築が建ち並ぶ中にあって、重厚な伝統建築の面影を保つ当住宅は十分過ぎる程に異彩を放つ存在である。大正期の建築らしく二階部分の立ちが高く、入母屋屋根の妻を重ねながらも、桟瓦葺で軒を浅く保ち、大屋根を軽快な印象に抑える。また隣接地との境界に建物を囲むように煉瓦造の防火壁を立てる点なども近代の建築らしい要素である。内部においても店舗部分に煉瓦の壁体が露出したり、大黒柱の基礎部分を洋風意匠とするなど同様の建前が垣間見れる。そもそも当家は門司港近くに明治32年(1899)から岩田酒店の名称で酒類の販売業を営んだことに始まり、大正11年(1922)になって店舗兼住宅として当住宅を新築して現在地に移住してきたとのことである。ところが主要顧客であった門司港の旧国鉄九州鉄道局が、JR九州となって本社機能が福岡市に移ったため、当店も平成3年(1991)に本店機能を移転、以降、当住宅は門司店として平成12年(2000)まで営業を続けたとのことである。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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許斐家住宅 (旧松喜醤油屋) |
飯塚市指定文化財(平成13年5月23日指定) 福岡県飯塚市勢田730 建築年代/江戸末期 階層区分/商家(江戸期・呉服荒物販売、明治期・醤油醸造業) 指定範囲/主屋・離れ 公開状況/公開 飯塚市中心部から北方の郊外、嘗ての頴田町の中心市街であった勢田集落に所在する商家建築である。当家が宗像郡より現在地に移住した江戸初期頃には農業を営み、村役まで務めたとのことであるが、江戸中期頃より呉服・荒物等の販売を始めて商家に転身、屋号を松屋と称したという。明治13年には醤油醸造業にも乗り出し、当主・松屋喜兵衛の名乗りから「松喜醤油」を商号とし、その名は近在には広く知られる存在であったらしい。屋敷は勢田集落のほぼ中央部に在り、嘗ては広大な敷地に多くの醸造蔵群が林立していたらしいが、今は主屋と座敷の2棟を残すのみとなっている。つい最近まで主屋背後には無駄に広い空地が拡がっていたが、再び訪れた際には幾区画にも分割され狭小な建売住宅が乱立していた。当住宅の面白さは明治中期以降に突如として湧きおこった炭鉱景気の波に乗って事業は隆盛を極めたことにより、家作にもその歴史が如実に反映されている点である。入母屋屋根に妻入2階建の土蔵造の主屋は、外観からは何ら装飾的な要素は見当たらない頗る単純で地味な建前であるが、内部においては明治期以降に欄間や書院を中心に銘木を多用した造作に普請替えされており、一言で云えば成金趣味的とも表すことも出来はするが、そのような批判を一顧だにしない程の贅沢な造作に、炭鉱町ならではの潔さも感じられるのである。 ▼個別解説ページへ |
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三浦家住宅 | 福岡市指定文化財 (平成7年7月31日指定) 福岡県福岡市博多区冷泉町6-10 旧所在地・福岡県福岡市博多区冷泉町7-1 建築年代/明治20年代前半 用途区分/商家(博多織元) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 【博多町家「ふるさと館」】 博多といえば祗園山笠を連想してしまうのは、案外祭り好きに限った話ではないと思われるが、この勇壮な祭りはそもそもは福岡市内の旧商人町域のほぼ中心位置に所在する櫛田神社に奉納されるものであった。(今でもそうだ。)大勢の氏子たちが曳山を担ぎ走りする姿は実に圧巻であるが、あれだけの規模の祭りが催される背景には博多商人の繁栄を偲ばずには居られない。当住宅はその櫛田神社の門前に位置する場所に博多の昔を残す町家として行政の手で移築・保存され、資料館として活用される商家建築である。隣家に町家風の現代建築による展示空間や土産処を新たに整備し、当住宅は往時の風情をきちんと復元して博多の伝統工芸品である博多織の実演作業場として活用されている。そもそもは現在地から北方100m程の同じ冷泉町内に所在していた博多織の織元であった和田家の店舗兼住居で、明治23年頃に博多織機を置く工場と一体になって建てられていたものであったから実に的を射た使用法と云える。和田家初代の七平氏は大宰府村の農家の出身で、明治初期に博多織の徒弟となり、その後に「山七」の屋号で自ら起業した人物である。往時は東京日本橋の三越呉服店と直接取引したというから、相当に信用篤い織元であったと推察される。ちなみに文化財指定名称の三浦家の所有は昭和28年からのことである。主屋については、間口4間、奥行7間の中規模な建前で、中ノ間廻りの箱階段や渡り廊下を朱漆で彩った装飾性の高い設えで、博多の町家らしい風情である。観光案内所に置かれたパンフレットからは余り期待せずに訪問したのであるが、なかなかの復元振りである。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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旧山下家住宅 | 福岡市指定文化財 (平成12年3月23日指定) 福岡県福岡市西区能古1624 旧所在地・福岡県福岡市西区姪浜6-15-44 建築年代/明治8年(1875) 用途区分/商家(海産物問屋) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 博多湾に浮かぶ能古島の北方に整備されたアイランドパーク内に移築されている商家建築である。そもそもは対岸に位置する福岡市西区の名柄川河口部の浦町である姪浜の漁港近くに所在していたもので、建築当初の所有者であった西嶋家は屋号を井桁屋と称し、能古島や姪浜といった近隣の漁師から魚介類を買い付け、小売りに卸す問屋業を営んでいたとのことである。文化財指定時の名称となった山下家の所有は昭和12年からのことで、アイランドパークを運営する久保田観光㈱による現在地への移築は平成10年のことである。主屋は間口6間の平入桟瓦葺の建物で、上手側を入母屋屋根とし、下手側を切妻屋根とする片入母屋造総二階建の建前となる。移築以前には軒を接するように下手側に倉庫建物が併存していたらしいが、同時の移築は叶わず今は失われている。1階平面は建坪34坪に対して19坪もの広さを土間空間に割いていることから、生業である海産物の取り扱いには、失われた隣接倉庫分も合わせると相応の作業空間が必要であったことが窺える。一方、土間上部は吹き抜けとし、大戸口を入ると正面に2階へと続く箱階段が設けられ、吹き抜けに沿って取り廻した階上部の廊下には意匠を凝らした手摺が設えられる様子は博多町家の典型的な姿である。建築年代が判明している博多の町家としては最古の建物で、発展著しく急速に失われつつある博多旧市街の町家建築として貴重な存在と云える。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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藤瀬家住宅 | 糸島市指定文化財(平成18年3月17日指定) 福岡県糸島市井田702-1(移築) 旧所在地/福岡県糸島市神在 建築年代/元文2年(1737) 用途区分/農家(大庄屋) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 糸島市周辺は、遥か古代中国の史書「魏志倭人伝」に記述される志摩国、伊都国の所在地に比定される地域で、国内で最も早くから拓けた土地柄であったことは近年の発掘調査からも明らかにされつつある。近年では福岡市郊外のベットタウンとして急速に開発が進みつつあるため、貴重な遺跡が失われることが懸念されるが、実際、昭和40年頃に発見された内陸の小高い丘陵上に所在する平原遺跡でさえも圃場整備の過程で円墳跡から国内最大径の銅鏡が多数発見され、伊都国の女王墓ではないかと推測されたことから破却を免れ、史跡公園として整備された経緯を辿る。ところで、その史跡公園内に何故だか全く時代も背景も関係の無い茅葺の民家建築が平成18年に移築保存されている。それが当藤瀬家住宅である。当家は享保2年に旧中津藩神在組の大庄屋職を務めた旧家で、移築前は現在地の西方5kmの緩やかな丘陵が点在する平坦な田園地帯に、屋敷林に囲まれて所在していた。建築年は大戸口脇の柱に打ち付けられていた祈祷札の銘文により元文2年と判明しており、建築年が判明する民家建築としては九州最古級のものである。移築前には六間取の大型民家であったが、現在は建築当初の姿である広間型三間取の小型民家に復元されている。書院座敷が整備される以前の古式民家として価値を有するが、余程の玄人でなければ、判らないかもしれない。 ▼個別解説ページへ) |
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油屋 | 小郡市指定文化財(平成13年12月20日指定) 福岡県小郡市松崎786-1 建築年代/不詳、但し座敷部は嘉永2年(1849) 用途区分/旅籠 指定範囲/主屋・座敷 公開状況/公開 小倉と久留米を結ぶ秋月街道・松崎宿内に所在する旅籠の遺構である。秋月街道は現代の幹線からは外れたため、沿線の開発が進んだわけでは決してないが、時の流れは住宅の建替えを思いのほか進めたようで、宿場には往時の建物は殆ど無く、宿場への入口を示す南北の構口と当家のみが辛うじて残されているに過ぎない。当家は南北二棟の建物から構成されており、南側のトタンで覆われた主屋が一般旅客の宿泊棟で、北側のセメント瓦の載る棟の低い建物が武家などの上級階層の旅客が宿泊した角座敷棟である。明治維新前後には各棟が独立して別々の経営となっていたが、本来は「油屋」という屋号の一軒の家であった。本陣に次ぐ格式を有した旅籠ということで、西郷隆盛が宿泊したという伝承を持つほか、西南戦争の折には乃木稀介が昼食をとったという記録も残されている。幹線から外れたとはいえ前面を走る道路は結構な往来で、建物の傷みは激しく崩壊の危機に曝されている。(近年、修復の手が入ったようである) ▼個別解説ページへ(製作中) |
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田代家住宅 | 朝倉市指定文化財 (平成17年11月1日指定) 福岡県朝倉市秋月180-1 建築年代/文化12年(1815) 用途区分/武家(知行150石/馬廻組頭・御鉄砲頭) 指定範囲/主屋 公開状況/・公開 2007年解体修理工事済 国の重伝建地区に選定される朝倉市秋月の旧城下町に所在する武家屋敷である。秋月は福岡藩黒田家の支藩として江戸初期の元和4年に成立した5万石の小藩で、住宅は旧陣屋跡から整然と区画された武家街区の西向こう、谷を挟んだ中央寺地区に残されている。当地区は月見坂を登った緩やかな丘陵上の、城下全体を遠望できる絶景地であり、陣屋からは離れた位置にあるものの上級家臣団の住区であった。田代家のそもそもは、秋月藩成立時に本藩である福岡藩から派遣され家老職に任じられた家禄2000石の最上級武士であったが、2代藩主・黒田長重の時に故あって当主・六兵衛は本藩に戻され、その弟・半之進が元禄3年(1690)に改めて禄高100石で召し抱えられるという曰く付きの家柄である。その後は維新まで50石の加増を受け、馬廻組頭、鉄砲頭、御館留守居、納戸役などの諸役を務めた。屋敷は緩やかな傾斜地を平らに造成した428坪の土地に主屋、土蔵、稲荷社が残され、背後には山林が迫る。主屋は規模の割に複雑な屋根形状をしており、正面からはと直屋の様だが、背後の高台から望んでみると、曲り屋に角屋が附属する何とも形容し難い複雑な棟構成となっている。 ▼個別解説ページへ |
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木下家住宅 | 八女市指定文化財(平成6年12月28日指定) 福岡県八女市本町184 建築年代/明治39年 用途区分/商家離れ(酒醸造業) 指定範囲/離れ座敷・(附)1号倉庫・3号倉庫・土塀 公開状況/公開 平成14年に選定された八女福島の重要伝統的建造物群保存地区内に所在する旧酒造屋敷内に残る離れ建築である。屋敷は旧阿蘇往還沿いに所在し、嘗ては町場内を東西に横断する往還に北面して主屋が建っていたらしいが、残念ながら今は既に失われ、屋敷内には離れ座敷と共に土蔵2棟が残るのみとなっている。そもそも福島町は酒造の盛んな地域で天保7年(1836)の記録では小さな町場に嘗て17軒もの酒造家が犇めき合っていたそうだが、それ故なのか各々の酒造規模は決して大きなものではなく、「堺屋」の屋号を称する当家についても屋敷地の規模から推測して並外れた大店では無かった様に思われる。ただ、今に残る離れ座敷建築は、重層入母屋造の贅を尽くした建前で各所に銘木を用いた、その隆盛振りが窺われるものである。建坪は45坪に満たない小規模なものではあるが、座敷の天井を折上格天井とし、屋久杉一枚板の欄間や黒柿の床柱(※)などを用いるとともに富士や鷹、茄子などの縁起を担いだ細工を随所に施す様からは当主の普請道楽振りが窺える。県内の近代和風建築の中でも、炭鉱主の大規模な居宅と比べて規模こそ劣るものの、銘木に対する拘りには引けを取らないものがある。面白い建物である。 (※)黒柿の一本柱と解説されるが私見では疑わしい。 ▼個別解説ページへ |
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今里家住宅 | 八女市指定文化財 (平成19年1月11日指定) 福岡県八女市本町240-1 建築年代/江戸期・天保9年(1838)改築 階層区分/商家 指定範囲/主屋・離れ 附・渡り廊下 公開状況/非公開 平成14年に選定された八女福島の重伝建地区内に所在する商家建築である。桟瓦葺の妻入建築で二階壁面は白漆喰の大壁とし、左右に下屋を葺き下ろす様子は九州北部の町家建築に典型的な姿ではあるが、建物側面部の裾を緑頁岩の海鼠壁とする造作は八女郡内にのみ見られるもので、非常に珍しい。伝建地区内には明治以降に建てられた大規模で質の高い町屋が未だ数多く残されてはいるが、当住宅の藩政時代に建てられた町家のみが醸し得る重厚感溢れる風情は八女福島城下町の本来の有り様を伝える貴重な存在と云えよう。さて当住宅は、現在、お仏壇や提灯の房飾りを製作販売されておられる今里家の所有であるが、そもそもは山形屋を称した小山田家が建てたもので、今里家の所有は昭和初期になってからのことらしい。大黒柱に残る墨書きから天保9年(1838)に二階部分を増築し、居蔵建(土蔵造様式を称する言葉)としたことは判っているものの、当初部分の建築年は不明とのことである。八女福島の町家建築の美しさを体現する存在として何度訪れても魅了される住宅である。 ▼個別解説ページへ |
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許斐家住宅 | 八女市指定文化財 (平成29年指定) 福岡県八女市本町126 建築年代/江戸末期 用途区分/商家(製茶問屋) 指定範囲/主屋2棟・離れ座敷・土蔵3棟・製茶作業場 計7棟 公開状況/店舗として営業中 八女は云わずと知れた日本茶の産地で、特に全国品評会でも入賞を重ねるような高級煎茶が有名である。玉露の部類になると、庶民にはなかなか手は出せないが、普通の煎茶でも十分に甘露である。当住宅は八女福島の重伝建地区内に所在する商家建築で、製茶工場を自ら抱える製茶問屋を生業としておられる。町内でも本町通に面する町家は入母屋屋根の妻入形式で木部を白漆喰で塗り籠めた大壁仕上げの居蔵造を典型としているが、当住宅の場合は平入形式で木部の露出も多く、相対的に地味な印象の外観となっている。ただ、これはあくまでも個人的な見解であるが、一般に茶商の建物には真壁造の建物が多いように感じられる。こうした建前が茶商という生業と関係しているのであれば、何故なのか知りたいところである。さて住宅を目の当たりにした際に最も気になるのが主屋正面左脇に黒板の箱状の目隠しのようなものが設えられている点である。当家が開設されておられるHPを覗くと、茶葉の品質を確認する為に日光を遮り、同一条件下で作業できるようにするための日除けの工夫らしい。戦前に撤去されていたものを平成24年に昭和初期の古写真から復原したとのことである。非常に珍しい設えで、他では見たこともない代物である。予約制ではあるが、屋内でお菓子付きで茶を喫することもできるので、建物の風情と共に味わうと良い思い出になることであろう。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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五條家住宅 | 八女市指定文化財 (昭和55年12月17日指定) 福岡県八女郡黒木町大渕3932 建築年代/18世紀中頃 用途区分/公家の末裔 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 国の天然記念物にも指定される樹齢600年を超える黒木の大藤を横目に日向神峡、阿蘇へと続く国道を溯っていく。先に進むに従って脇を流れる矢部川の川幅も狭まり、周囲の様相は中山間地へと変じる。当然のことながら平地は減り、緩やかな山の中腹を開削して雛壇状に築いた田畑が増えてくる。当家の所在する集落一帯は知らずに過ぎれば何ら深く印象付けられることのない至って平凡な山村風景ながら、そこに当家の由緒を絡めて見たとき、急に歴史のロマンが漂うから不思議なものである。当家は始祖・五條頼元公が、南北朝騒乱の時代である延元3年(1338)に征西将軍・懐良親王の補佐役として九州に下向したことに始まる家柄で、そもそもは代々、明経道を以って朝廷に仕えた公家であった。頼元公は奈良吉野の地に南朝を置いた後醍醐天皇の信任が篤く、九州各地を転戦。当家は南北朝合一に至るま代を重ねても南朝方として活躍したことで知られている。後征西将軍・良成親王の時に肥後・筑後・豊後の三国境界となる当矢部地方を本拠としたが、良成親王没後は、豊後大友家、肥後加藤家に仕えるなどして一時期、矢部を離れることもあったが、寛永3年(1626)に柳河藩主・立花宗茂公に客分として仕えて以降、現在地に居を定めたという。屋敷は山の北側斜面に石垣を築いて造成した敷地に、妻入りの寄棟造茅葺の主屋が東西に棟を向けて建つ。嘗ては南側の裏山に向けて棟を曲げていたというから曲屋形式を採っていたようであるが、現在は玄関から座敷が4間も続く直屋となっている。多くの中世古文書を今に伝え、懐良親王の征西将軍としての御旗である八幡大菩薩旗を伝える九州屈指の旧家として異彩を放つ存在である。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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松木家住宅 | 八女市指定文化財 (平成18年7月7日指定) 福岡県八女市黒木町黒木80-2 建築年代/明治17年(1881) 建物区分/町家(酒・薬小売業) 指定範囲/ 公開状況/公開 平成21年に選定された八女市黒木重伝建地区の中央部に所在する商家建築である。嘗て豊後別路と称された国道442号線沿いに北面して建つ主屋は、妻入二階建、入母屋造桟瓦葺の両袖に下屋を掛け降し、軒裏まで土壁で塗り籠めて大壁造とする、いわゆる「居蔵造」と称されるものである。九州北部地方の町家に広く分布する形式であるが、当住宅の場合は、大壁を白漆喰で化粧上塗するのが一般的であるところ、黄土色中塗仕上の状態で止めている点で珍しい。周辺に数多く残る町家建築の大半は白壁を様相を呈しているので、当住宅のみ何故の事なのであろうか。建物は明治13年の黒木町大火の翌14年に建て始められたことが棟木の墨書から確認されているが、寛政は明治17年のことである。ちなみに主屋内部全体に及ぶ根太天井はとても美しく、一見の価値在りである。 ▼個別解説ページへ |
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大内家住宅 | 立花町指定文化財 (平成11年9月1日指定) 福岡県八女市立花町白木宮ヶ原3245 建築年代/明治17年(1884) 用途区分/政治家 指定範囲/2棟 公開状況/公開 国の伝統工芸品にも指定されている仏壇製作で著名な八女の市街から熊本方面へ抜ける県道4号線沿いの山間の里に当家は所在する。東側の小高い山を借景にした町家風の瀟洒な主屋を構える屋敷である。大内家は室町~戦国時代にかけて周防国を支配した大内義隆の弟・義信を祖とする旧家であるらしいが、地元においては明治末に35歳で衆議院議員に当選して以来、22年間にわたり政治家として活躍した大内暢三氏の居宅として著名である。建物は明治17年築の主屋に座敷棟や居間棟を増築した複雑な間取りであり、近代和風建築の萌芽を感じさせる風情である。主屋に対して直角に設けられた座敷の正面には、専用の玄関が設けられ、人の出入りが多い政治家の居宅ならではの構成となっている。また座敷の造作も決して贅を尽くしたという訳ではない微妙な演出を感じ得るのは穿ち過ぎであろうか。 |
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坂本繁二郎生家 | 久留米市指定文化財 (平成15年7月28日指定) 福岡県久留米市京町224-1 建築年代/江戸後期 用途区分/武家(久留米藩御馬廻組・知行150石) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 坂本繁二郎は大正期から昭和初期にかけて活躍した洋画家で、二科会の創設に参加し、美術界に対する功績から昭和31年に文化勲章を受章したことで知られる。JR久留米駅の西方に所在する当住宅は、明治15年に生まれた彼が東京に移住するまでの間、住まいした生家であるとともに、久留米藩に御馬廻組の藩士として仕えた坂本家の住宅として市内に唯一残された藩政期建築の武家屋敷でもある。間口18間、奥行25間の450坪の敷地に建つ茅葺の主屋は、一部2階建となっており、座敷や次の間といった接客空間を主軸に複雑な間取りが特徴的である。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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高橋家住宅 | 大川市指定文化財(平成5年6月15日指定) 福岡県大川市榎津548 建築年代/宝暦9年(1759) 用途区分/商家(酢醸造業) 指定範囲/主屋・離れ座敷・土蔵 公開状況/非公開・店舗として営業中 木工家具の町として知られる大川市の榎津で、江戸中期から酢醸造を手掛けてこられた商家である。現在も「庄分酢」の名前で醸造・販売を続けておられ、当住宅も現役の店舗である。当家が所在する榎津集落は筑後川の水運を利用した材木の積出港として栄え、藩政期には久留米藩領の藩米の出荷基地である津出場であると同時に肥後街道の宿場としの機能を併せ持ち、定番所が置かれるなど藩内における主要な町場であったようである。当家は江戸時代初期に榎津に移り住み、当初は酒醸造を生業としていたが、宝永8年より酢醸造に転向している。代々に亘って町横目(目付役)の役を務めているので、早くから相応の商売を成し、信頼を得られてきた家柄と推察される。 ▼個別解説ページへ |
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籠田家住宅 | うきは市指定文化財 (平成8年10月2日指定) 福岡県うきは市吉井町若宮113-1 (別称・鏡田屋敷) 建築年代/文久3年(1863) 建物区分/郡役所官舎 指定範囲/主屋 公開状況/公開 筑後吉井の重要伝統的建造物群保存地区内に所在。そもそもは郡役所の官舎として建てられたが、所有者の変遷とともに増改築が行われ、現在の姿に。広い座敷は見応えがある。 ▼個別解説ページへ |
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中村家住宅 | 添田町指定文化財 (平成23年6月10日指定) 福岡県田川郡添田町添田 建築年代/大正初期 用途区分/商家(醤油醸造販売) 指定範囲/主屋・醸造蔵2棟 公開状況/非公開 小倉と日田を結ぶ日田道筋の要衝であり、英彦山参詣の拠点として発展を遂げた添田町の中心部に所在する醤油醸造業を営んでいた商家建築である。屋号を新屋(あたらしや)と称し、当初は酒造業を営んでいたとのことであるが、明治44年に醤油醸造に転向、「ニダイマス」の銘柄で平成10年まで営業を続けていた。主屋は明治末年の火災後の大正初期に再建されたもので、白漆喰塗の土蔵造、妻入二階建の建物で、全体に建ちの高い造作は大正期の町家らしい風情である。伝統的な近代和風建築として特に際立つ特徴を見せる建物ではないが、細見すると屋根を支える持ち送り部には蔦と渦巻模様の洋風意匠の漆喰細工が施されるなど時代を反映した様子も垣間見れる。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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森鴎外旧居 | 北九州市指定史跡 (昭和49年指定) 福岡県北九州市小倉北区鍛冶町1-7-2 建築年代/明治29年(1896) 用途区分/軍医官舎 残存建物/主屋 公開状況/公開 何故に呼称されるかは知らねども、文豪と冠される存在は、我が国では森鴎外を置いて他にない。その鴎外森林太郎の正職は帝国陸軍の軍医。当住宅は、彼が明治32年に第12師団の軍医部長に任命され、小倉赴任後、最初に住まいした居宅である。現在でこそ飲食店街のど真ん中に位置し、決して閑静と呼べる風情の場所ではないが、そもそもは小倉藩の武家屋敷地であった所で、鴎外自身も当住宅を「相応な屋敷」と評価している。瓦葺・平屋建の主屋は、正面に玄関を構え、畳敷の小部屋が多く、明治期の建物ながら武家住宅の様子。周囲の喧騒さえなければ、実に心地よい建物である。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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火野葦平旧居 | 北九州市指定史跡 (平成9年3月27日指定) 福岡県北九州市若松区白山1-16-18 建築年代/昭和初期 用途区分/作家 残存建物/主屋 公開状況/公開 【河伯洞】 火野葦平は昭和初期に活躍した流行作家。昭和13年に「糞尿譚」で第6回芥川賞を受賞、続いて自らの日中戦争応召時の体験を基に書いた「麦と兵隊」等の兵隊三部作で国民作家として脚光を浴びた。当住宅は、父・玉井金五郎が葦平のために、その印税で建てたもので、出身地である北九州の石炭積出港として栄えた若松の中心部に所在する。「河伯洞」の名称は河童の棲む家の意で、河童好きの葦平が自ら名付けたものだが、住宅は良材が各所に使用される立派な造作。当時の流行作家の荒稼ぎぶりが窺える建物である。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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守田蓑洲旧宅 | 行橋市指定史跡 (平成20年8月1日指定) 福岡県行橋市沓尾181 建築年代/江戸末期(19世紀後半) 用途区分/大庄屋 残存建物/主屋・薬医門・冠木門 公開状況/公開 霊峰・英彦山を源とする祓川が周防灘に注ぎ込む河口近くの小集落・沓尾に所在する旧大庄屋邸宅である。当家は中世の守護大名・大内氏の重臣・杉氏に仕えた武家であったが、江戸時代初期に当地に移住、代々、庄屋・大庄屋職を務めた。幕末の当主・守田蓑洲は対岸に文久新田を拓き、約80町歩余の田地を干拓、その後は区長・県会議員等を歴任し、地域の教育向上にも多大な貢献を果たしたという人物である。住宅は、嘗ての絵図には主屋を中心に多くの建物が描かれているが、現在は主屋と表門を残すのみで、明治初期に茅葺から瓦葺に改められた主屋も由緒の割には質素な建物である。蓑洲の滅私的な人柄を顕す故であろうか。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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平尾山荘 | 福岡市指定史跡 福岡県福岡市中央区平尾5-19-34 建築年代/明治42年 用途区分/歌人・勤王家 残存建物/主屋 公開状況/公開 当山荘は幕末の勤王歌人・野村望東尼 |
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林田春次郎家 住宅 |
登録有形文化財 (平成23年1月26日登録) 福岡県田川市新町3330-1 建築年代/大正3年(1914) 用途区分/政治家 登録範囲/本屋・迎賓館 公開状況/料亭として営業中 |
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寒北斗酒造 | 登録有形文化財 (平成27年8月4日登録) 福岡県嘉麻市大隈町1036-1 建築年代/江戸末期 用途区分/商家(酒醸造業) 登録範囲/店舗兼主屋・安政の蔵・仕込蔵 公開状況/酒造場として営業中 筑豊地方の中核都市・飯塚から遠賀川沿いに上流へと遡り、馬見山の中腹にある源流点に辿り着くまでの間に、唯一道の両側に商家が並び、嘗てより町場が形成されたと思われる土地がある。それが大隈町である。藩政期には秋月街道の始点として千手、秋月、野町、松崎の各宿へと繋がる在町として栄えた。しかし町の繁栄は、むしろ明治期以降の石炭開発に拠るところが大きく、周囲に筑豊屈指の大炭鉱地帯を抱える商業地として活況を呈し、急激に増加した炭鉱労働者達の生活を支えた。さて当住宅は、その大隈町の南端に所在する享保14年(1729)創業の老舗酒造場である。丁度、当家の屋敷角で馬見山へと続く街道が鍵状に曲がっているので、恐らくは町場の構口付近に相当する場所ではないかと思われる。平成23年(2011)に現社名である寒北斗酒造に変更されているが、年配の方には玉ノ井酒造の名称の方が馴染みがあるかもしれない。筑豊地方と筑後地方を隔てる馬見山を源とする馬見川の伏流水を水源として醸される吟醸酒は、近年急速に評価を高め、福岡県を代表する銘柄になりつつある。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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勝屋酒造 | 登録有形文化財 (平成27年8月4日登録) 福岡県宗像市赤間4-957 建築年代/明治中期 用途区分/商家(酒造業) 登録範囲/店舗兼主屋・煙突 公開状況/公開 嘗て佐賀県唐津と北九州市小倉を結んだ唐津街道の宿場町・赤間に所在する造酒屋である。街道に東面して建つ主屋は平入のツシ2階建。軒下に吊るされた杉玉と醸造銘柄を示す「楢の露」の看板が趣を添えている。背後に建つ同時期建造の煉瓦造の煙突も印象的である。当家は寛政2年(1790)に初代・山本善市氏が「勝屋」を名乗り、近傍の城山麓で創業。当初の銘柄は「麓寿泉」だったそうである。明治6年の筑前槍一揆の際に蔵を打ち壊されたため、現在地に移転・再操業したという来歴を持つが、現在では「楢の露」が宗像大社の御用神酒にもなっているそうだ。そういえば、楢の木は宗像大社の本殿脇に御神木であるとともに神紋にもなっていたはず。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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出光家住宅 | 登録有形文化財 (平成27年8月4日登録) 福岡県宗像市赤間4-888 建築年代/明治26年(1893) 用途区分/商家(藍商) 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 旧唐津街道の赤間宿に所在する旧藍商家である。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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上妻家住宅 | 登録有形文化財 (平成19年12月5日登録) 福岡県福津市津屋崎4-14-20 建築年代明治34年(1901) 用途区分/商家(紺屋) 登録範囲/主屋・井戸屋形 公開状況/公開 【津屋崎千軒民俗館藍の家】 福岡市の東方に玄海湾に面することから嘗て海上交易の拠点となり、併せて塩田開発により栄えた町がある。往時には人家の多さから津屋崎千軒と称され、宗像郡内一の町場として栄えた津屋崎湊である。しかし明治23年に赤間と博多を結ぶ九州鉄道が開通して以降、物資の輸送手段が船舶から鉄道に主役の座が移り、追い打ちをかけるように明治44年頃に塩田が廃止されると町場は急速に廃れ、嘗ての繁栄を知る人は令和の世に至っては皆無に等しくなりつつある。只、それでも町場には僅かに残る酒造屋敷や土蔵造の町家に辛うじて嘗ての繁栄の縁(よすが)を見出すことができる。当住宅は、その津屋崎町の中心部に残る紺屋屋敷である。紺屋とは藍染を主とする染物業のことで、当時の衣料の大半が藍染であったことから、ある程度の規模の町場には必ず一軒は存在していた程にメジャーな存在であったが、大正期に化学染料が国内で急速に普及すると、まるでそれが幻であったかのように姿を消すこととなった。当家の創業は約200年程前の江戸後期で、現在残る主屋は5代目・善兵衛が建てたとされる。桟瓦葺の切妻屋根総二階建の土蔵造で、桁行6間の中規模な建前である。仔細を見ると2階の両脇部分だけでなく、1階両脇部分にも袖壁を設け、火事に対する警戒心の強さが窺える造作である。建物は平成6年に町へ寄贈されて以降、現在は津屋崎千軒民俗館「藍の家」の名称で藍染体験などができる観光施設として活用されている。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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伊佐家住宅 | 登録有形文化財 (平成27年11月17日登録) 福岡県福岡市早良区高取1-1-20 建築年代/江戸末期 用途区分/商家(米穀・肥料商、建材販売業) 登録範囲/主屋・土蔵 公開状況/非公開 福岡市西郊繁華街・西新に所在する商家建築である。藩政時代の当地は唐津街道と三瀬街道の結節点に当たる交通の要衝で、現代では福岡の私大の雄・西南学院大学の門前商店街でもあるため洒落た飲食店が多く、最近では高層マンションが建ち並ぶ人気エリアとなっているが、当住宅が所在する一画だけは時間が止まったように嘗ての面影を留めている。主屋は江戸末期建築の店舗部と明治23年増築の座敷部から成り、背後に明治36年建築の土蔵が建つ。都市化が進む福岡市内にあって江戸期の大型町家建築は稀なる存在である。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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多田家住宅 | 登録有形文化財 (平成25年3月29日指定) 福岡県朝倉郡筑前町森山字耳取417-1 建築年代/明治23年(1890) 用途区分/ 登録範囲/主屋・隠居屋・離れ及び渡り廊下・表門・長蔵・前ノ蔵・北ノ蔵・器蔵・弓道場・的場・材木蔵・納屋・物置・倉庫・石塀・裏門・勝手門・土塀 公開状況/非公開 |
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河北家住宅 | 登録有形文化財 (平成16年3月2日登録) 福岡県うきは市浮羽町山北2056 建築年代/明治14年(1881) 用途区分/農家 登録範囲/主屋・座敷・新座敷・材木小屋・炭部屋・秤蔵・味噌部屋・米蔵及び器蔵 公開状況/非公開 |
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江頭家住宅 | 登録有形文化財 (平成30年3月27日登録) 福岡県大川市榎津746-2 建築年代/江戸末期(1830-1868) 用途区分/商家(醤油醸造) 登録範囲/主屋・門及び塀 公開状況/非公開 藩境の町として知られる大川市の小保・榎津集落内に所在する商家建築である。当地は江戸時代初期の柳河藩主・田中家の改易により集落が二分され、北半の榎津が久留米藩領、南半の小保が柳河藩領となった経緯がある特殊な土地柄で、当住宅は久留米藩領となる榎津集落の北側に所在する。現在は埋め立てられて住宅地となっているため判りづらいが、嘗て屋敷前には水路が掘られており、筑後川の支流となる花宗川に接続する形で河湊を形成していた。住宅の周辺を歩くと家具の町として著名な大川市だけに家具製造業者の看板が目に付くが、当住宅も明治45年に江頭家が取得して以降は、多分に漏れず家具製造業が営まれていたが、大川の家具産業が本格化するのは明治中期以降と存外に歴史は浅く、以前においては岡家の所有で醤油醸造業が゜営まれていたとのことである。主屋は入母屋造の主屋棟に切妻造の角屋が付属する鍵屋造で、白漆喰で塗り籠めた居蔵造と称される建前となる。現在においては周囲は職人街の様な裏町の風情を感じる町並となっているが、当住宅の前に立ち、瞼の裏に嘗ての掘割があった様子を思い浮かべると、商人町であった今とは異なる様子が想像される。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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吉原家住宅 | 登録有形文化財 (令和3年2月4日登録) 福岡県大川市小保107-2 建築年代/江戸後期 用途区分/商家(酒造業) 登録範囲/主屋及び角座敷・煉瓦塀 公開状況/非公開 |
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柴田家住宅 | 福岡市登録有形文化財 (平成27年2月登録) 福岡県福岡市早良区次郎丸3-487 建築年代/明治11年(1878) 用途区分/酒造業 登録範囲/主屋・土蔵・門及び塀 公開状況/非公開 屋号を岩井屋と称し、慶応年間から昭和10年まで酒造業を営んだ。 初代・久五郎が天保年間に次郎丸本村から移住、安政年間の文書には「次郎丸庄屋、大庄屋格」との記述あり。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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石橋家住宅 | 福岡市登録有形文化財 (平成27年2月登録) 福岡県福岡市早良区次郎丸3-484 建築年代/明治14年(1881) 用途区分/質屋・紺屋 登録範囲/主屋・質蔵・米蔵 公開状況/非公開 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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松田家住宅 | 無指定・公開 福岡県浮羽郡吉井町1103 建築年代/明治時代 用途区分/大地主分家・金融家 残存建物/主屋・座敷棟・玄関棟・表門・炊事棟 吉井町の旧市街は、近年国の保存地区にも指定されたこともあり、「白壁の町並」として大いに売り出し中である。国道沿いに大規模な妻入りの町家が連続する様は、地方の町場としてはかなり繁栄していただろうことが推察される。当家は国道沿線の表筋からは少し奥まった場所に所在する。主屋は町家風の妻入りの建物で、これに座敷棟が接続する。なかなか質の高い造作で座敷のセンスも決して悪くは無い。 |
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伊佐家住宅 | 無指定・公開 福岡県八女市黒木町木屋10905(グリーンピア八女内・移築) 旧所在地・福岡県福岡市西区高取 建築年代/江戸中期(文化年間) 用途区分/商家 残存建物/主屋・座敷棟 公開状況/公開 何故にこのような辺鄙な場所に造られたのかは謎であるが、国指定の天然記念物である大藤で著名な黒木町から南に姫御前山を目指して山奥に進んだ途中に整備されたグリーンピア八女内に移築保存されている商家建築である。そもそもは福岡市西区高取に所在していたが、繁華な町中での維持が困難となったため、山奥深い当地に移築され、軽食や地元の物産品を販売する土産物屋として活用されている。(現在は廃業し放置状態) グリーンピア八女はあの悪評高い厚生年金基金の保養施設で、国民の大事な年金を我が物顔で無駄遣いしてきた厚生官僚の悪しき見本のように語られている。(当時、自民党が民主党に政権を譲り渡すきっかけにもなった)確かに客は居ない。来るはずも無い場所である。安住の地を得たかと思われた当住宅も、今後の成り行き次第ではひょっとするとどうなるか判らない。建物は江戸時代の中頃の文化年間の建築で、主屋と座敷棟からなる。御成門も設けられた座敷の構成から、かなり上級の商家であったに違いない。土産物屋として利用されているが、なかなかきちんと復元されている。あまり変にいじられていないようで、この辺りは商業主義に走らず、コンセプトを重視する国の事業らしい。ありがたい。 ▼個別解説ページへ |
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石橋忍月生家 | 無指定・公開 福岡県八女市黒木町今1053 旧所在地・福岡県八女市黒木町湯辺田 建築年代/ 用途区分/文芸評論家生家 残存建物/主屋 公開状況/公開 【石橋忍月文学資料館/黒木町学びの館内】 |
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戸波家住宅 | 無指定・公開 福岡県朝倉市秋月野鳥532-2 建築年代/江戸末期・大正期に大幅改造 用途区分/上級武家(知行300石・馬廻格・中老職) 残存建物/主屋・長屋門・土蔵 公開状況/公開 筑前の小京都を自称する陣屋町・秋月に所在する武家屋敷跡である。秋月は筑前藩主・黒田家の支藩として江戸初期に成立した外様小藩で、当住宅はその中老職を務めた上級家臣屋敷として、陣屋が所在した秋月中学校の北側付近の好位置に立地している。通常の城下町であれば大手筋に該当する杉の馬場に西面して屋敷を構え、高く積んだ石垣上に長屋門を開き、その奥に主屋と土蔵が残る。主屋は寄棟造の茅葺で、正面から見ると落棟がある直屋の様相であるが、背後に座敷棟を突き出した曲屋となっている。また、当住宅は明治維新により特権を失った武士階級の叛乱として名高い「秋月の乱」を主導した戸波半九郎定夫の屋敷としても著名で、明治維新後は藩主家の別邸として使用されたこともあったが、現在は秋月郷土館の主要施設として活用されている。内部は旧藩主家が使用した時代に大幅な改造を受けているため、厳密には近代和風建築に分類されるのであろうが、外観の質実な建前は維持されており、往時の風情が偲ばれる。 ▼個別解説ページへ |
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久野家住宅 | 無指定・公開 福岡県朝倉市秋月春小路83-2 建築年代/江戸末期 用途区分/上級武家(知行100石・馬廻格) 公開状況/公開(但し冬期は休館) 重要伝統的建造物保存地区内に残る数少ない武家住宅。 住宅内部、庭園の管理も行き届いており、日本文化を堪能するには格好の民家である。 ▼個別解説ページへ |
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旧飯尾家住宅 | 無指定・公開 福岡県福岡市西区徳永545-1 建築年代/ 用途区分/商家 公開状況/荒廃(公開施設ながら実質参観不可能) |
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旧大隈家住宅 | 無指定・公開 福岡県福岡市西区能古1624 旧所在地・福岡県福岡市博多区御供所町4-15 建築年代/明治38年(1905) 用途区分/商家(下駄問屋) 残存建物/主屋 公開状況/公開 昭和59年3月に能古島アイランドパーク内に移築された商家建築。西島伊三雄のわらべ館として公開されている。 |