藤瀬家住宅
Fujise



 
糸島市指定文化財 (平成18年3月17日指定)
福岡県糸島市井田702-1(移築)
旧所在地/福岡県糸島市神在
建築年代/元文2年(1737)
用途区分/農家(大庄屋)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
その所在地を巡って未だ論争が続く古代国家・邪馬台国に興味がある方ならば、恐らく平原遺跡の名を一度ならずも耳にしたことはあるのではないかと思う。邪馬台国糸島説の中心地であり、古代王墓が点在していたとされる幻の地である。実際、遺跡内からは魏志倭人伝に出てくる伊都国の女王墓ではないかと推測される墳墓も発掘されており、出土品である銅鏡は日本最大径の国産鏡として国宝に指定されている。そんな大事な遺跡であるにも関わらず、遺跡が所在する丘陵周辺は新興住宅地の開発の波に晒され、墳墓が確認された一画のみが国の史跡指定を受け、歴史公園として整備されたことで辛うじて破壊を免れた経緯がある。その歴史公園の隅にポツンと主屋だけが移築され寂しげに佇む茅葺の民家が当住宅である。移築先に困っていたところ、そこにたまたま空地があったから仕方なく建てたというような様子で、何故に古代王陵の地に藩政期の民家を同居させざるをえなかったのか不思議でならない。
ところで、そもそも当住宅は現在地から西方の田園地帯に在ったもので、その主であった藤瀬家は享保2年(1717)より旧中津藩領神在組の大庄屋を務めた旧家である。JR唐津線の一貴山駅の東方の平坦地に鬱蒼とした屋敷林に囲まれた一画があり、周りに建つ家々とは別格の規模を持つ2軒の大屋敷が隣接して所在している。それが当家と天保期から当家に代わって大庄屋職を務めた納富家である。残念ながら当住宅は現地での保存が叶わず移築保存されることになったわけであるが、移築前の住宅は大庄屋職に相応しい六間取の平面を有する大規模な建前で、座敷からは二丈岳が望める風格に満ちたものであったという。そのまま現地での保存が可能であれば、国の重文指定も有り得たと調査報告書では述べられており、残念でならない。
当住宅の建築年については大戸口南脇の柱に打ち付けられていた祈祷札によって元文2年(1737)と判明しており、平成18年に現在地に移築された際に18世紀後半に増築された書院座敷や大正期の六間取への改築部など後代に改変された箇所が全て取り除かれた結果、当住宅の現在は広間型三間取と移築前の半分程の規模になってしまった。恐らく当住宅を訪れる観光客の大半が、これが大庄屋を務めた最上層農家の住宅であることに相当な違和感を抱くのではないかと思える程に粗末な建物である。
けれども、その規模感はともかくとして江戸中期の段階で大庄屋という役柄にありながら書院座敷が整備されなかった点は、逆説的ではあるが九州地方における接客空間の発達の遅れを示すものであるが、一方で広間上手南側に桟瓦葺の下屋を突き出して床高の低い玄関の前身となるような空間を設ける点は民家建築に格式というものが表出する過渡期の建前として興味深い。更には建物前面のシシ窓や広間奥手に設えられた押板の存在は東国の民家を想起させるなど、九州地方の民家としては類例をみない造作が散見され、貴重な民家建築であることは間違いない。但し、私の個人的な感想を云わせてもらえれば、旧に復したとは言いながらも当初の姿が如何様であったか判別がつかなかった部分も多く、間取りも何か変だと感じている。ここまで不明確な状態で旧に復するぐらいであれば、改造後の六間取りのまま、大庄屋の格式に相応しい建物の形で残していくという選択肢もあったのではないかと思う。 (2020.4.29記)

 

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