財蔵坊



福岡県指定民俗文化財 (昭和52年4月9日指定)
福岡県田川郡添田町大字英彦山1249
建築年代/江戸中期
用途区分/坊家
指定範囲/主屋
公開状況/公開

当住宅は、北部九州の霊峰・英彦山の中腹に鎮座する英彦山神宮の参道沿いに所在する坊家である。標高1199mの南岳をピークに中岳・北岳の三峰から成る英彦山は、日本で最初の国定公園に指定されるなど福岡県を代表する景勝地で、桜咲く春や紅葉彩る秋ばかりでなく、新緑眩しい初夏や雪の静寂に包まれる冬も、どの季節に訪れても飽くことのない美しい景色を堪能できる、そんな場所である。現在、英彦山神宮に詣でるには、JR日田彦山線の彦山駅からひたすら東に向かって坂を登っていくルートが一般的だと思うが、歩き始めて3kmほどのところで国道500号線と交わり、ちょうどその地点で佐賀藩主鍋島候寄進の「銅の鳥居」と称される一の鳥居を仰ぎ見ることとなる。ここからが実質的な英彦山神宮の境内である。仏道には「結界」という言葉があるが、まさに神道においてもこの言葉を使うことが許されるならば、この銅の鳥居により区切られる境界が、これに該当するものである。何やら空気までもが違って感じられるから不思議である。(神域というのであろうか)今に残る英彦山神宮の全体像は、英彦山頂に上宮が鎮座し、中腹に大規模な奉幣殿が建ち実質的に神宮の中枢を成す下宮が置かれている。また下宮から銅の鳥居までの約1kmに及ぶ区間にはゆったりと幅広の石段が組まれ、その両脇に坊家が軒を連ねている。と、ここで「英彦山神宮は神社だから坊家ではなく、社家ではないのか」と思われた方は、なかなかの通人である。実は英彦山は明治2年の神仏分離令が出されるまでは天台宗系の修験道場として隆盛を誇った山であり、それまでは彦山霊仙寺という密教寺院が中核を成しており、いわゆる山伏たちの世界が形成されていたのである。ゆえに参道両脇に建ち並ぶ諸家群も坊家と称して間違いないのであるが、今では英彦山が寺院であったなとど云っても信じてもらえない程に、神社としての英彦山が定着している。恐ろしい程のスピードで歴史が埋没していく様に感じられ、少し怖いほどである。
さて当住宅、すなわち財蔵坊は銅の鳥居から150m程登った参道左脇にある中規模な坊家である。当然のことながら一般の民家とはかなり異なる建前で、傾斜地を造成して平地を確保せねばならないため屋敷地はさほど広くは取れないにも関わらず、主屋は一般農家と比較すると、かなり大きな建坪である。参道に対して棟を直交させる形で主屋を構え、手前から順に土間、台所、居間、納戸の部屋を連ねたうえ、更に納戸の西側に座敷棟を主屋棟と平行して鍵型に突き出している。座敷棟の参道側には式台玄関が設けられ、奥に向かって下の間、中の間、奥の間の座敷3室が並び、奥の間の最奥には坊家らしく祭壇が設えられている。また、山上での五穀の栽培は許されておらず農作業とは無縁の生活であったがゆえ土間は極端に小さかったり、座敷入口に設けられた式台玄関も庄屋階級の住宅にさえ見られない程に幅が広く格式高いものであったりするなど、なかなかに見どころの多い民家建築である。往時には西国一の霊場として知られた英彦山の歴史を踏まえつつ、当家に住した修験者たちの生活振りに思いを馳せると、摩訶不思議な世界を垣間見たような気分になれるかもしれない。(2011.5.21記)∴


 

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