楞厳坊



 
福岡県指定有形民俗文化財 (平成3年11月15日指定)
福岡県田川郡添田町大字英彦山
建築年代/江戸時代
用途区分/坊家
指定範囲/主屋
公開状況/非公開

出羽の羽黒山、大和の大峰山と並ぶ三大修験霊山として名高い英彦山の参道沿いに所在する坊家建築である。明治以前の神仏習合時代に霊仙寺の大講堂として建てられ、明治初期の廃仏毀釈にも破却を免れた英彦山神宮の奉幣殿が所在する中宮へ至る表参道は約1km程に亘って石段が連なり、その両脇には坊家が建ち並び、山上集落が形成されている。その参道の起点となる位置には寛永14年(1637)に佐賀藩主・鍋島勝茂公が寄進した銅鳥居と称される一ノ鳥居が聳え立っており、その直ぐ脇に所在する中規模な坊家屋敷が当住宅である。昭和41~42年頃に国・県が実施した緊急民俗調査で当坊もその対象になってはいたものの、平成3年にようやく楞厳坊修験資料の名称で古文書145点、資料15点と共に民俗文化財に指定されることとなった。東西方向に伸びる参道に南面して屋敷を構え、南西隅に設えられた幅広の緩い石段を登ると、右手に鍵屋造の主屋が配置されている。参道に面した側が角屋となり、本玄関から前の間、中の間、奥の間を一直線に並べ、最奥には祭壇が設けられている。この座敷部分の両側には縁側が設けられ、内向きの空間からは完全に隔離された造作となっている。また本玄関に隣接する内玄関は式台を有する構えとなっており、双方共に坊家屋敷としての格式の高さを示す建前となっている。嘗ては現存する建物に付随して別に居室棟が建てられていたが、昭和30年前後に雪で倒壊したため取り除かれたとのことである。暖冬を連想する九州地方の民家において雪で倒壊するなど考えが及びもしないところではあるが、この厳しい環境こそが修験に相応しく、一層興味を引き立てられるところである。




 

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