許斐家住宅
Konomi



飯塚市指定文化財 (平成13年5月23日指定)
福岡県飯塚市勢田730
建築年代/江戸末期 (建物前の標柱には明治元年築とある)
階層区分/商家(江戸期・呉服荒物販売、明治期・醤油醸造業)
指定範囲/主屋・離れ
公開状況/公開

当家が所在する勢田集落は、現在の飯塚市中心部からは北方に5km程に位置し、以前には嘉穂郡頴田町に属し、その中心集落でもあったが、平成の大合併により現在では飯塚市に併吞され、単なる郊外の小集落になってしまった。周辺は筑豊地方を南北に縦貫する遠賀川沿いの比較的拓けた場所で、現在は田園風景が広がるものの、地域の歴史は古く、近隣には古代の山城跡として国の史跡にも指定される鹿毛馬神籠石などの遺跡がある。集落内には比較的規模の大きな町家が散見され、恐らく在郷町的な存在だったのではないかと、その様子からは窺える。集落の南端の高台に多賀神社が祀られていることから、当初は門前町的に発達したのかもしれない。

さて当住宅は、勢田集落のほぼ中央部に在り、集落内でも有数の敷地規模を有する商家建築である。当家は江戸初期に宗像郡より嘉麻郡勢田村に移り住み、当初は農業を営んだものの、宝暦4年(1754)からは「松屋」の屋号で呉服や荒物、穀物、塩の小売り等を始め、商家に転じたという。更に明治13年からは醤油の醸造にも乗り出し、松屋喜兵衛の名乗りから「松喜醤油」の名で販売して事業を拡げるが、明治28年からは醤油醸造に特化し、周辺に優良炭鉱を数多く抱え、大勢の出稼ぎ労働者達が集住した地域柄、炭鉱景気の波に乗って相当に家産を増やしたようである。現在、当住宅には主屋と離れの二棟のみが残るにすぎないが、以前には隣接する広大な敷地に幾棟もの醸造蔵が建ち並んでいたことが古写真や絵図から明らかとなっている。その規模は同じく醤油醸造を生業とする他家と比較しても、相当な繁盛ぶりであったことが推察される。醤油醸造は昭和40年まで続けられたというから、往時の林立する蔵群が今に残されていてもおかしくはないはずたが、残念ながらきれいさっぱり失われている。

ところで当住宅の面白さは外観から受ける質素な印象を大きく裏切る内部の造作の素晴らしさにある。主屋の建築年代は詳らかにはなっておらず、恐らく江戸末期と推測されるが、入母屋屋根の軒は浅く、大壁造の二階壁面には小振りな窓以外の設えは無く、装飾的な要素は全く見られない。実に時代を反映した質実剛健なイメージであるが、しかし内部に足を踏み入れると、後世に改造されたと考えられる主屋2階部分や離れ座敷などは、銘木をふんだんに使った床や工芸的な装飾を施した違い棚や地袋など、かなり俗っぽい造りが施されている。恐らく明治中期以降の事業の隆盛とともに、誰にでも判り易い成金趣味的な造作を積極的に取り入れたためと思われるが、人は結局のところ、世俗を卑下しながらも、金満であることの証に魅かれる生き物で、これはこれで、なかなかに見応えのあるモノだと感じる。ここまで徹底すると見事というか、この時代の民衆が渇望した贅に対する有り様を感じさせてくれるものである。近代における産業勃興期の主役・石炭産業を間接的に支えた家の歴史を垣間見ることができ、思いも依らず楽しめる家である。   (2010.11.18記・2020.5.1改訂)
 

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