戸島家住宅
Toshima



福岡県指定文化財 (昭和32年4月5日指定)
福岡県柳川市鬼童町49-3

揃いの法被を纏った船頭が巧みに長棹操る姿を背に、平底船に乗って柳が枝垂れる掘割をゆったりと巡る風情は水郷として名高い柳川の町ならではの楽しみ方である。
江戸時代には立花家11万石の城下町として栄えた柳川は、明治の廃藩置県により最終的に福岡県に編入されたものの、実際から受ける印象は地理、文化の面において佐賀県に限りなく近い様子である。例えば、当住宅の屋根の形などは、完全に佐賀県の民家そのもので、棟に平瓦を載せ、「みんのす」と呼ばれる馬の耳状の角飾りを屋根の棟端に設ける姿は、幕末から明治にかけて佐賀平野の干拓地の民家に多く見受けられた流行である。
ところで当住宅は、旧柳川城の本丸跡よりわずかばかりに西へ行った鬼童町に所在する。鬼童町と書いて「おんどうまち」と読むらしいが、江戸期の古地図では武士住区にも商人住区にも該当しない城下の外れとも云える場所であった。建物は柳川藩の中老で勘定方にあった吉田舎人兼儔によって寛政9年(1797)あるいは文政11年(1828)に隠宅として建てられたとされるもので、後に柳川藩主に献上され茶室として用いられたが、更に同じ柳川藩の重臣・由布家に譲られ、明治15年には戸島家の所有となった。
そもそもは隠宅として建てられただけに藩の重臣の居宅ながら規模はこじんまりとしており、内部の造作も雅趣に富んだものとなっている。例えば武家住宅として最も大事な部屋である座敷は、僅か4.5畳ほどの広さしかなく、違い棚には竹を編んで棚板代わりとする数寄屋的な趣向が取り入れられたり、その上部の天袋が神棚になっていたりと、かなり砕けた設えとなっている。また玄関口の壁に施された三日月型の明かり窓などはとても姿が良く印象的な演出である。かつて藩政の重責を担った男共が、肩の荷を降ろし、余生を静かに過ごすには、羨むばかりの住まいである。
また当住宅の南側に付属する池泉式庭園は、市中を流れる掘割の水を引き込み海の干満により表情を変化させる名庭との評価を受けている。数寄屋座敷と庭園が一体化し小振りながらも品良く纏められた一級品である。建物とは別に県指定名勝となっていたが、近年、国指定名勝へと格上げされている。  (2010.12.9記)
 

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