松延家住宅
Matsunobu



国指定重要文化財 (昭和52年1月28日指定)
福岡県八女郡立花町大字兼松242
建築年代/江戸末期
用途区分/商家(御用商人・和紙販売)
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
福岡県の東南端、熊本県に接する立花町の中心集落となる兼松の町中心部に所在する商家建築である。兼松は、周辺山間部からの物資の集散地として、また熊本から植木を経て久留米へ抜ける脇往還沿いの交通の要衝地として栄えた土地柄であるが、国道3号線が町場を避けて通るようになって以降、嘗ての役割は失われ、急速に町場としての面影は失われつつある。集落内に僅かに残る町家は板壁で囲われた何の変哲もないものが大半であるが、当・松延家住宅は白漆喰土蔵造の重厚な建前で、集落内でも突出した存在感を醸している。当家は、幕末において特産の和紙や茶を扱った物産問屋で、柳川藩の御用商人を務め、苗字帯刀を許されたという来歴を持つ。往還に北面して建ち、白壁が眩しい堂々たる姿の主屋は東西2棟から構成されており、一見すると単に2階建の妻入町家が別々に2軒並んで建っていると思ってしまう。九州地方における初期の農家建築に見られる二棟造の影響と見る向きもあるが、単に隣家を買い増し、外観はそのままに内部のみを一体化させた結果と考えた方が素直であろう。実際、内部の平面や使用される部材の差異から東棟が当初より商売を営んだ中心家屋であり、西棟が後に買い増しされて大幅に改造を受けたとものと推察されている。鄙には稀なる素晴らしい町家建築であるが、宿場町内で当住宅のみが、何故こうした屋敷を構えることができたのであろうか、その突出した繁栄振りの理由を掘り下げたくなる民家である。

百田紙の取扱で財を成した。百田紙は下辺春、百田地区で漉かれた和紙。発生年は不詳であるが、17世紀の後半には始まっていたことは明らかであり、琉球王朝の公用紙である琉球紙のルーツは百田紙にあるとされている。紙の繊維が太くて長いため肌理が粗く、厚みがある。少々黒っぽいが、紙質が強靭で長期の保存に耐えるという特色があることから公用紙の採用に繋がったとされている。
正徳3年(1713)の和漢三才図絵には、筑後国は奉書、半紙、百田紙の産地として記述されており、百田紙は江戸後期から明治にかけて最盛期を迎えた。そもそも熊本城以北から八女地方一帯の楮が全国でも最上級の品質を誇るものらしく、これに矢部川・辺春川の清流を用いることで百田紙ができたと云われている。兼松の物産問屋、松屋と芥屋等が主に長崎のルートを通じて大阪。京都等の西日本各地に販売したという。こうした商家は「御紙屋」(オカミヤ)と称された。

兼松や谷川は文化年間(1804--1817)に定期市が立つようななったとされる。久留米藩領の福島市と商人の取り合いが発生し、今後は柳川領より福島市へ交易に出向くことを禁ずるように願い出が出される程で、両市は対立している。

当住宅が所在する兼松は柳川藩領に属する。柳川藩は矢部川が有明海に注ぎ込む手前で分岐する沖端川の氾濫原を干拓してできた柳川城下を中心に、矢部川の南岸地帯に東西に長く伸びる藩領を有していた。そもそも柳川藩の藩祖・立花宗茂は関ケ原合戦において西軍に与したため柳川領を没収され、福島県の棚倉藩1万石に転封したが、後に徳川家康の御伽衆として評価され、再び柳川藩10万石を領したという奇談を持つ人物。その際に旧領であった三瀦郡全領の提示に対して、石高減となるものの三潴郡の一部に代えて上妻郡の領有を所望したといわれている。これば宗茂公の深謀遠慮で、領内に用水を引くうえで矢部川上流の領有を意図したといわれている。このことが柳川藩の藩政にも色濃く影響し、領内は米作のみならず山間部の物成に対しての税収もきちんと確保している。柳川城下から矢部川の水運を通じて物資は集積されるわけであるが、山間部からの産物は、矢部川に注ぎ込む小河川の合流部に形成される町場に集められ、矢部川を下って城下を経由、長崎、京、大阪へと運ばれた。例えば天和元年(1681)には吾妻郡山下に商家数十軒を移し、新市街を設け、堀孫助を同町の支配役とした、と旧柳川藩志には記述されているが、この山下の町場は柳川城下より東に15km弱のところ、白木川と矢部川の合流点に位置しており、藩領東部地区の山間部の物資がここに一端集められたに違いない。しかし柳川藩にとって面白くないことに、山下とは矢部川を挟んだ北東の方角3kmばかりの位置に久留米藩第二の町場である福島町が存在していたため、恐らく山下に集まるはずであった産物は、藩領を超えて福島町に向ったと考えられる。当然、柳川藩としては商いによる利を奪われる形となり面白いはずがない。こうした事態に対抗するため、柳川藩は山下町の東5km程奥に位置し、更に産地に近い兼松や谷川といった土地に新たに町場建てを行い、辺春川の谷筋に栓をする形で、福島に向う自領内の産物の流出を止めることを企画したと思われる。兼松や谷川は明確に町場が形成された時期は不明であるが、恐らく文化年間(1804-1817)頃には定期市が立つようになり、町場が徐々に形成されたものと考えられ、人々も定着していったのではないかと思われる。実際、兼松村の生産高については、文禄4年に山口玄蕃頭正弘を検地奉行とする太閤検地においては146石に過ぎなかった石高は、立花宗茂の再領有時には292石に増加、幕末の安政年間には739石にまで増加している。恐らく幕末に至って町場立て以降の急激な人口増加が波及したものと想像される。
先述のとおり兼松は辺春谷の出口に位置する土地柄である。兼松から西は矢部川の扇状地であり、広大に筑後平野が拡がっている。この辺春谷の周辺で百田紙は漉かれた。百田は兼松から少し南の谷間に入った集落の名称である。百田紙は兵庫の杉原紙と並んで名を馳せた上質紙であるが、今では当地で漉かれることはなく、名前だけが残されている。興味本位でネットサイトを検索してみると、美濃産の百田紙が販売されている。



【参考文献】
立花町史 平成8年3月1日発行・立花町史編さん委員会/解説版 新指定重要文化財 建造物編Ⅱ 毎日新聞社/福岡県の民家とその周辺 太田静六著 昭和49年3月発行/
 


一覧のページに戻る