岩屋坊
Iwayabou



国指定史跡 (平成13年8月13日指定)
福岡県指定民俗文化財
福岡県豊前市大字鳥井畑241-1
建築年代/江戸時代末期
用途区分/坊家(修験道僧)
指定範囲/主屋
公開状況/外観自由
当家は修験道遺跡として著名な求菩提山に残る僧坊の1つである。福岡県には当家と同じく県の民俗文化財に指定される財蔵坊が残る英彦山を筆頭に宝満山、求菩提山など西日本でも有数の名高い修験道場が拓かれ、それぞれの山中には修験者たちが集住する特殊な村落が営まれた歴史がある。江戸時代末期の求菩提山中には150以上の坊家が営まれたという記録も残されており、その繁栄振りは2件の坊家を残すのみとなった現在の寂寞とした状況からは全く想像もつかない。往時には山中の坊家は7つの谷に分かれて集落を形成しており、当家は杉谷坊中に属し、山上の国玉神社へと続く表参道を世俗境界近くまで上った標高600mほどの位置に屋敷を構えている。建築年代は江戸時代末期と推定され、小規模の建築ながら修験者たちの住処という特異な用途を備えた貴重な遺構である。中央に式台を設け、左半分が祭壇を備えた座敷部分となる。右半分は台所や広間などの生活空間で、土間が小さいことなどは山中における坊家の特徴とされている。ところで修験者という存在は、現在の我々の生活からは関わりも薄く、すっかり馴染みを無くしてしまっているが、江戸時代においては農家を尋ね歩いては五穀豊穣・家内安全を祈祷する役割を担うなど比較的庶民と密接な関係を保っていたようである。古い農家の門口に祈祷札が幾枚も重ねて張り付けられているのを見かけるのはその証左である。今日では千日行や奥駆けなどの厳しい修行を成し遂げた超人的な側面ばかりを取り上げられることが多いようであるが、実はもっと身近な存在だったのである。実際、山中の坊家における生活も妻帯している修験者が殆どで、山中の人口は男女半々という状況であったらしく、超人的なイメージとは程遠い。求菩提山は全山にわたって修験道遺構が点在する素晴らしい場所である。当家の訪問の際には是非とも山中を歩き回ってこれら遺構も見学するとよいだろう。(2008.8.3記)∴

 

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