平川家住宅 Hirakawa |
国指定重要文化財 (昭和46年6月22日指定) 福岡県浮羽郡浮羽町大字田籠383-1 建築年代/19世紀初頭(座敷増築部は文政3年(1820)) 用途区分/山村農家 指定範囲/主屋・納屋 公開状況/公開 (1981年解体修理工事済) 大分県境に近い山間部に所在する農家建築である。筑後川の中流域にある浮羽町の中心市街から南に折れ、合所ダムを超えて棚田に咲く彼岸花の群落で観光客を呼び込む田篭集落の最奥部に数軒の民家とともに佇む。ちなみに田篭集落は平成24年に国の伝統的建造物群保存地区に選定されており、山間部の渓谷沿いに茅葺の農家建築が点在し、往古の風情を留める美しい場所である。当住宅の特徴は、やはりその外観の面白さにあり、妻入茅葺寄棟造の三棟の建物が並び建つように見える風情は印象的である。実は南面する前谷型のクド造の主屋の西側に納屋が軒を接して隣接しているだけのことに過ぎないのだが、たったそれだけのことであるにも関わらず、とても美しい。山間の平坦地が少ない狭隘な土地柄が生んだ偶然を有難く思う。 筑紫次郎と俗称され九州を代表する大河・筑後川を遡り大分県境近くの浮羽の町までやって来ると何となく大気に冷たいものが混じり始める。そして、これまでのゆったりと穏やかな風情に溢れていた筑後平野とは、ここで以ってお別れするんだということを肌で感じることができる。実際、浮羽の町は筑後川により形成される筑後平野の最奥部、扇の要の位置に当たり、中心市街地こそ平野部に属するが町の過半は山間部となっている。さて当住宅は、そんな県境の町・浮羽の中心市街から10kmばかり南に入った田籠集落に所在する。浮羽の中心市街地から大分県の前津江村にある熊渡山を源流とする新川に沿って車を走らせていくと意外に民家が点在しているため、さほどの僻地と感じなかったが、改めて地図上で確認すると、実に山奥と形容しても差し支えない程に結構な山里である。しかし、当家に辿り着くまでに展開する風景は、石垣も見事な棚田や峻烈な水飛沫の渓流、トタン屋根が多くなったとはいえ昔ながらの佇まいを残す茅葺の家々など、未だ古き良き日本の情景に溢れている。実際に住んでみると、恐らくは苦労の多い大変な場所に違いないが、何故だか一度は住んでみたいと憧れる、そんな場所である。田籠集落一帯では、殆ど平坦地などなく、畑も傾斜地を利用して僅かな規模で営まれているに過ぎない。集落を縦断する新川も殆ど渓谷と形容するのがふさわしく、海抜400m前後の高地ゆえに寒暖差も激しく、温暖な筑後平野の農家とは全く別世界の様相である。しかしそれでも、当家の人々は300年以上も昔から、この地に住み続けているわけで、やはりこの地には人を惹きつけ、そのうえ取り込んでしまうような、得体の知れない何らかの力が働いているような気がしてならない。ところで当家は新川の南岸の断崖上に屋敷を構えているが、主屋の裏手がすぐに崖となるため、屋敷端を石垣で補強し、竹林で地面を固めている。大雨が降ったときなどは本当に恐ろしいに違いないと思ったりする一方、このような環境にありながら、江戸時代の民家が大きな災害にも遭わずによくぞ無傷で残されていたものだと感心させられもする。ちなみに当家の場合は建物だけが往時のままに残っていただけではない。昭和43年の民家緊急調査では、生活道具など民俗資料的に価値あるものも相当数残されていたことが紙数を割いて報告されている。世の変遷に左右されることなく、地に足が着いた生活を営々と維持されてこられた結果なのであろう。屋敷内には往時の建物として主屋と納屋、倉が残されている。主屋は筑後平野や佐賀平野一帯のみで見受けられるクド造と称されるもので、屋根の棟筋を上から見ると凹形になっていることから名付けられた俗称である。 特に当住宅の場合は前谷型のクド造に分類されるもので、平面は5間取りの一般的な農家建築と変わらないが、屋根は上から見ると前方が窪んだ凹形の棟となっている。土間と床上部を並列する別棟とし、写真のとおり、正面から見ると3棟の建物が仲良く並んでいるようであるが、実は前谷型のクド造の主屋が前方に2棟の角屋を突き出す形となっており、これに隣接して納屋が建てられているに過ぎない。ちなみに倉は納屋の西奥に独立して設けられている。筑後平野や佐賀平野一帯には今でもクド造の民家は多少残されてはいるが、主屋と納屋が並列して3棟の建物に見える様は例がなく、珍しいだけでなく誠に愛らしい印象でもある。建築年代については、主屋の座敷が文政3年(1820)の増築によるものと解体修理時に発見された墨書により確認されており、本体部分については更に遡る19世紀初頭に建てられたのではないかと推測されている。また納屋については明治中頃のものらしい。当家は福岡県内の民家としては最初に国の重文指定を受けた建物であるが、指定時にも下屋庇や風呂場の追加等の若干の改造がなされていただけで、殆どそのまま建築当初の様子を保っていたとのことである。急激に住環境の改善が見られる現代にあって、よほどに強靭な精神力を備えていなければ、到底できない芸当である。全く頭が下がる思いである。ところで、以前より不思議に感じていることがあり、周囲の民家は圧倒的に直屋が多く、曲屋が若干混じる程度であるが、当家だけが何故かクド造りなのである。本当におかしなものである。 |