石田家住宅
Ishida



福岡県指定文化財 (平成3年11月15日指定)
福岡県朝倉市秋月519>
建築年代/宝暦12年及び寛政年間(1762年及び1799年)
用途区分/商家
指定範囲/主屋西棟・主屋東棟
公開状況/非公開
当住宅が所在する秋月の町は福岡藩の支藩として江戸初期に形成された城下町である。地理的には西国の鎮守府として発展した大宰府に近く、神功皇后の征韓伝説にまつわる大己智神社が近隣に鎮座していることからも推察されるとおり、古代より開けた肥沃な土地柄ではあるが、町自体は支藩の城下町であったためであろうか、大きく発展した様子は見られない。久留米や日田といった往時の大都市を結ぶ交通の要路から外れていたためか、幸いにして明治維新後においても同様に大きな開発の波に曝されることも無く、どうにか往古の風情を止めてきたが、近年に至って福岡近郊の手軽な観光地として脚光を浴び、平成10年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されてしまったため、今後の変容振りが心配である。ところで当住宅は街道筋に商家が軒を連ねる町場のほぼ中央部に所在する。通りに面して二棟の町家が並ぶような姿をしているが、元々は藩の御用商人であった甘木屋遠藤家の持家で、遠藤家文書によると西棟は「津乃屋」と記され遠藤家の出店または隠居屋として使用、東棟は「脇戸」と記されていたことが判明している。大正初期には同じく遠藤家により甘木屋質店の店舗、蔵として両棟を併合して使用されたが、昭和初期に石田家の所有となってからは、東西棟を分割して貸家として使用されていたらしい。東西において高低差がつく地形であるにも関わらず両棟の床高を揃え、棟間の隙には押入れや棚などを設えて一体的な空間利用がなされており、間取りにおいては間違いなく二棟で一軒の家となっている。そのため古い書物には、当住宅は「平行二棟型」の町家として区分され、この地域の農家に見られる前谷型のくど造りの影響を受けた建物と考えられると記されることもあったが、ただ残念なことに秋月には当住宅以外にこの様式で建てられた町家は他に残存していない。建築年も入母屋屋根の西棟が秋月大火後の1762年、切妻屋根の東棟が1799年と年代もはっきりしており、別々に建てられたことは明らかで、当初から意図して平行二棟型として建てられたと考えるには無理があるような気がする。当住宅は古文書の存在により建築に関わる評価が一変した好例であり、想像に起因する建築史家の解釈が如何にいい加減なものであったかを示すものである。  (2005.5.15記・2020.4.26改訂)


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