数山家住宅
Suyama



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国指定重要文化財 (昭和53年1月21日指定)
福岡県田川郡添田町津野添田2151番地

福岡県東部の中堅都市・行橋市を横断し周防灘に注ぐ今川という二級河川がある。流域には古代の遺跡も数多く点在しており、早くから拓けた地域であったらしいが、その源流を求めて南西の方角に川を遡って行くと、北部九州の霊峰・英彦山に行き着く。わずか30km余りの短い距離であるが、裏返して考えれば、その間に今川は堂々たる河川に成長し、その流域となる京築平野一帯に大いなる恵みをもたらすまでになるのである。その事実は、霊峰・英彦山が信仰の山として今なお多くの人々に崇められている所以にもなっている。 
さて当住宅は、その英彦山の北麓に所在する農家建築で、今川の源流地からは4kmばかり下流にある。周りは未だ険しい山々に囲まれており、川幅を少し広げた今川が大きく蛇行することによって形成された舌状台地上のわずかな平坦地に屋敷は構えられている。江戸期に建てられた民家が、よくぞこれまで水害に遭うことも無く、残っていたものだと正直思えるような環境である。
ちなみに当家が所在する猿喰集落は、以前は英彦山神社への旧参道筋に当り、ここを過ぎると人家が無くなる最期の部落であったらしい。現在では徒歩で参拝に詣でる者など皆無に等しく、そうした来歴を微塵も感じられないほどに様変わりするのは止むを得ないことである。
ところで、当住宅は天保13年(1842)に建てられたことが座敷押入れの敷居の墨書から明らかな農家建築である。屋敷地内には主屋のみが残り付属の建物はない。昭和43年度の民家緊急調査の記録でも燃料小屋、肥料及び道具小屋、湯殿、便所がある程度で、耕作地が貴重な土地柄ゆえに、田畑の利用を最優先にしてきたと記されている。昭和53年に添田町により買い上げられて以降に、こうした付属屋も取り壊され、現在見られるようなポツンと主屋だけが取り残された屋敷の姿へ変わってしまったのであろうが、しかし主屋は、こうした環境にありながらも桁行21.4mもある堂々たる風格の建物である。
当家は寛保2年(1742)以降の位牌が揃っており、現在の主屋が建つ以前からこの地に住み着いたことが明らかな旧家ではあるが、純然たる農家であり、庄屋等の村役を務めたという記録も残されてはいない。しかし、それでも旧津野村の中では一番規模の大きな民家であったようである。
主屋内に足を踏み入れると土間が比較的広く取られていることにまず気付かされる。主屋の約半分の面積が土間によって占められており、建築年代を考えると少し広過ぎる観がある。というのも民家の世界では、時代が下るにつれ、土間面積は縮小していく傾向が一般的には見られるからである。土間と床上部の境に立てられた大黒柱も比較的細く、個人的には、建築年代はもう少し遡るのではないかとの印象を持っているが確証はない。主たる付属屋を屋敷内に持たなかった故か、土間の西半分には馬屋、クラ、味噌部屋などの空間が確保されており、こうした事情が、例外的な建前に繋がったのかも知れない。。
また床上部に目を転じても、最奥部に簡素な座敷が設けられる一方で、ヒロマやチャノマの床には丸竹が並べ敷かれるといった古式が残る。各部屋の天井も竹が多用されており、座敷でさえも竹を平たく割り叩いて並べたシャギ竹天井となっている。
部屋の配置に関しては正形六間取りとなっており、南側には各柱間に建具が入り、開放的な造作となっているが、側面や背面は開口部が少なく閉鎖的である。座敷とヒロマの間には、畳幅の細長い仏間が設けられており、先祖崇拝の習慣が日常とハレの空間の中間に位置することを暗示しているかのような構成となっている。
先述のとおり、現在当住宅は町の所有となっており、日中であれば勝手に上りこんで見学できるようになっている。暖かい日差しの一日にゆったりと見学すれば、この家の素晴らしさがじんわりと感じられることであろう。   (平成23年4月23日記)


 

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