吉原家住宅



国指定重要文化財 (平成11年12月1日指定)
福岡県大川市大字小保136-17

福岡県の南西部に位置する大川市は家具木工の町として有名である。町は筑後川の河口部に位置するため、そもそもはその水運を利用した材木の集散地であったことに町場形成の端を発するのだが、有明海に面するため佐賀・長崎・熊本の各方面への物資の積み出し基地として優れた立地条件にあったことも、その発展を大きく促した要因であったに違いない。しかし何れの河口港も同様であるが、河川上流からの土砂流入により港の深度が浅くなり大型船の出入りが儘ならないため、明治維新以降は近代化の波に乗れずに取り残されてしまうこととなってしまった。大川の旧湊町に該当する現在の小保・榎津地区も嘗ての繁栄とは裏腹に少し寂しい風情を漂わせているが、こうした事情でもなければ古い町並など残らないのが今の日本という国柄なので、とても複雑な心境にさせられる。
ところで当家の所在する小保集落は詳らかには筑後川に注ぐ花宗川の河口近くに形成された湊町で、藩政期には柳河藩領に属していたが、用水堀を一つ隔てて久留米藩領の榎津の湊町と隣接していた。両町は藩境の湊町として江戸期を通じて独特の雰囲気を保ちながら発展していく訳であるが、そもそもは江戸時代初期の1620年に当時の築後の国主であった田中家の嗣子断絶による廃藩により、柳河藩立花家と久留米藩有馬家に町が分割統治されてしまったが故のことに過ぎない。即ち、「まず町があった」わけで、恐らく重要湊であるがゆえに単独藩による統治を望まなかった徳川幕府の政治的な意図が働いたのではないかと勝手に想像している。
さて、当住宅は東西に伸びる街道沿線に形成された小保の町場集落の中程に所在し、その他の町家が街道に面して主屋を構えるのに対し、前面に表門・塀を構え、奥まった位置に主屋を設ける屋敷型の町家となっている。こうした屋敷構えは、小保町の別当職を務め、蒲池組の大庄屋を務めた当家の面目を施すものといえるが、残念ながら現在に残る煉瓦塀は明らかに後代のモノであることは間違いない。ちなみに主屋は文政8年(1825)の建築、背後の土蔵群は明治期の建築であることが判明している。
さて当住宅は昭和43、44年度に実施された福岡県内の民家緊急調査の選から漏れていたため、県内の主要な民家が昭和52年前後に国の重要文化財に指定される中で、平成11年に比較的遅れての指定となってしまったが、その中身は一級品である。九州の町家建築としては最大級の規模を持つとともに、造作も洗練されたものである。主屋内部は大きく南側の役宅部分と北側の居宅部分に分かれる。役宅部の座敷は式台口の玄関の間から三の間、次の間、上の間と一直線に続く奥行きをもったもので、特に上の間は床柱に北山杉、床脇に化粧竹組の丸形の明かり窓を設けるなど数寄屋風の趣向を取り入れながらも周囲に一間幅の入側を廻らせ格式の高い造作となっている。また土間に面する寄付、玄関の間といった書院造的な格式を問わない部屋には、半間ほどもある鴨居が差し架けられており、その豪壮な設えに度肝を抜かれる。恐らく民家建築の中では最大級の鴨居ではなかろうか。
また当家の魅力は、こうした格式の高い設えや他を圧倒するような用材にあるばかりでなく、居間に架かる鴨居の節穴を埋めるために瓢箪型の木栓が施されるなど、思わず相好を崩してしまうような細工が随所に隠されており、建築に携わった大工の遊び心を感じさせてくれる部分にもある。更に主屋の建前も佐賀地方によく見受けられる「くど造り」の影響を受け、コの字型の間取り平面となっており、地方色も豊かに併せもつ点も印象的である。.当住宅は九州地区の町家建築を代表するものだと、個人的には思う。実に味わい深い民家である。(2011年4月4日記)

 

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