五條家住宅
Gojou



 
八女市指定文化財 (昭和55年12月17日指定)
福岡県八女郡黒木町大渕3932
建築年代/18世紀中頃
用途区分/公家の末裔
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
国の天然記念物にも指定される樹齢600年を超える黒木の大藤を横目に日向神峡、阿蘇へと続く国道を溯っていく。先に進むに従って脇を流れる矢部川の川幅も狭まり、周囲の様相は中山間地へと変じる。当然のことながら平地は減り、緩やかな山の中腹を開削して雛壇状に築いた田畑が増えてくる。当家の所在する集落一帯は知らずに過ぎれば何ら深く印象付けられることのない至って平凡な山村風景ながら、そこに当家の由緒を絡めて見たとき、急に歴史のロマンが漂うから不思議なものである。当家は始祖・五條頼元公が、南北朝騒乱の時代である延元3年(1338)に征西将軍・懐良親王の補佐役として九州に下向したことに始まる家柄で、そもそもは代々、明経道を以って朝廷に仕えた公家であった。頼元公は奈良吉野の地に南朝を置いた後醍醐天皇の信任が篤く、九州各地を転戦。当家は南北朝合一に至るま代を重ねても南朝方として活躍したことで知られている。後征西将軍・良成親王の時に肥後・筑後・豊後の三国境界となる当矢部地方を本拠としたが、良成親王没後は、豊後大友家、肥後加藤家に仕えるなどして一時期、矢部を離れることもあったが、寛永3年(1626)に柳河藩主・立花宗茂公に客分として仕えて以降、現在地に居を定めたという。屋敷は山の北側斜面に石垣を築いて造成した敷地に、妻入りの寄棟造茅葺の主屋が東西に棟を向けて建つ。嘗ては南側の裏山に向けて棟を曲げていたというから曲屋形式を採っていたようであるが、現在は玄関から座敷が4間も続く直屋となっている。多くの中世古文書を今に伝え、懐良親王の征西将軍としての御旗である八幡大菩薩旗を伝える九州屈指の旧家として異彩を放つ存在である。




 

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