久野家住宅
Hisano



無指定・公開
福岡県朝倉市秋月春小路83-2
建築年代/江戸末期
用途区分/上級武家(知行100石・馬廻格)
公開状況/公開(但し冬期は休館)
当家は重要伝統的建造物保存地区に選定されている陣屋町・秋月に残る数少ない武家住宅である。いずこの城下町・陣屋町でも同じ様な状況だと思うが、町家は多少の改造などを施されながらも比較的よく残る一方、武家住宅の場合は石垣や表門等が残ることはあっても、主屋までもが往時の姿をそのまま留めるという例は少ないようである。秋月の場合は、こうした状況が極端な様子で、旧武家地の大半は田畑と化し、主屋のみどころか門塀までもが失われているため、町の中心施設である陣屋の堀や石垣、長屋門等が残されていなければ、この場所が陣屋町であったとは思えないほどの変貌振りである。その立地条件の悪さから太平洋戦争後の高度経済成長による開発の波を被ることさえ無かったはずの秋月の町にして、この有り様かとつくづく嘆息してしまう。しかしながら旧秋月陣屋から約300m西方に所在する当住宅の周囲のみは、田代家や白水家といった同規模の武家屋敷、医家屋敷が奇跡的に残されており、秋月城下にあって唯一、古の風情を感じることができる場所となっている。この界隈の情緒ある姿は後世に至るまで大事にしてもらいたいものである。
さて当家は藩政期には知行100石、馬廻格にあった武士であった。秋月藩の場合、士卒併せて家臣団が520名程で、そのうち上位の職制に就くことができる馬廻格は約80名ほどしかいなかったので、上級武家と云っても差し支えない家柄である。但し馬廻格の資格は100石の知行が最低ラインであるから、限りなく中級に近い上級であったようである。よって当屋敷も武家の住居ながら決して厳めしい造作ではない。屋敷の顔とも云える表門には瓦葺の腕木門を構えるが小振りなものであるし、主屋正面の玄関は切妻屋根を突出させ格式を演出しているが、間口も狭く式台さえも無い簡素なものである。また武家住宅の最も大切な場所である座敷においても、床の間を設けるだけの簡略化されたものとなっている。 (但し、玄関回りは間取り的におかしな部分もあることから恐らく後世の改造により当初の形態を保っていないのかもしれない。)しかし、だからといって当住宅が決してつまらない建築と云うわけではない。むしろ当住宅は、こうした簡素な造作を逆手に取って、侘びた趣を演出させることに成功しているお手本のような存在である。庭木の剪定をきちんと行い、屋敷内の畳や襖を清潔に保ち、手水に水を張って椿を一輪浮かべるだけのことで、この家を武家階級の折り目正しく、清廉なイメージに結びつけることに成功している稀有な事例ではないだろうか。簡単なことのようであるが、実はこれがなかなか難しいようで、公有化されることの多くなった文化財民家では残念ながら無理な芸当と云わざるを得ない。(当家はサロンパスで有名な久光製薬鰍フ社長を長く務められた中富氏の母親の実家であった関係から、同社が維持管理されておられるらしい。こうした所有形態は文化財民家を維持していく上ではもっとも好ましいように個人的には感じている。兵庫県の国重文に指定されている永富家なども同じ様な理由により鹿島建設が維持管理されておられるが、旧家としての風情を素晴らしく保ち、未だ品格が漂う佇まいだと感じている。)屋敷内の建物としては、主屋に付属する形で2階建ての隠居屋、渡り廊下で結ぶ離れ座敷、厩や中間小屋、土蔵などが残されている。隠居屋などは藩主から拝領した建物との由来があるらしいが、事実はともかく数寄屋風の魅力的な造作である。私が当家を訪れた際には、外国の観光客が訪れていたが、日本文化を体感してもらうには、なるほど格好の場所だと思ったりもする民家である。(2011.5.7記)

 

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