高橋家住宅
Takahashi



大川市指定文化財 (平成5年6月15日指定)
福岡県大川市榎津548
建築年代/宝暦9年(1759)
用途区分/商家(酢醸造業)
指定範囲/主屋・離れ座敷・土蔵
公開状況/非公開・店舗として営業中
筑後川の河口付近に形成された榎津集落は、藩政期には久留米藩領に属する湊町であったが、往時は用水堀一本を隔てて柳川藩領に接する藩境の町でもあった。対岸の柳川藩領側にも小保という湊町が形成されているが、そもそもは両藩が成立する以前において筑後一国を領有した筑後藩田中家の支配下において開かれた町場で、嗣子断絶を理由に田中家が改易されたことによって藩領が二分され、重要湊であった町も久留米・柳川各藩に分割統治されてしまっただけのことである。もちろん廃藩後の現在に至っては、町を隔てていた用水掘は埋め立てられ、当然のことながら両町は完全に一体化している。長い歳月を経て江戸初期の本来の姿に戻ったということになる。
さて当家は久留米藩領側の榎津集落に所在する江戸時代中期から酢醸造業を営んできた商家で、現在も「庄分酢」という銘柄で醸造販売を続けておられる。屋敷は集落を南北に縦貫する表通り沿いに広大な一画を占めており、主屋とその背後に酢造のための工場群が建ち並ぶ如何にも大店の風情を漂わせている。通りに西面して建つ主屋は、本瓦葺入母屋屋根を戴く二階建の白漆喰の大壁造の建物で、表構えに若干の改造は見られるものの、概ね旧態を維持しているとされている。当家所蔵の明治31年撰「高橋家歴代記」には屋敷地の変遷に絡む事項が記述されており、要約すると以下のとおりになる。
初代・清右衛門が寛永元年(1624)に榎津に移住。脇差御免。そもそもは柳川家中にあり桜井姓を名乗っていた。
2代・四郎兵衛が寛永年中に酒造を開始、延宝8年(1680)の大火後に居宅を新築、元禄4年(1691)以降は浦町の目付役を代々務める。
3代目・四郎兵衛は晩年に西に「家屋敷」を求め、4代・清右衛門と共に移住。
4代目・清右衛門は宝永8年(1711)に酢醸造を始め、宝暦9年(1759)に5代・清右衛門と共に「東新宅」に移住。
然るに現存する住宅は、宝暦9年に建てられた「東新宅」に該当し、2代・四郎兵衛が大火後に建てた本家を改築して、東側に粉挽屋を増築したものと推測される。離れ座敷は、3代・四郎兵衛が求めた「家屋敷」で、浦町目付役を務めた与兵衛の居宅を幕末~明治にかけて改築したものと推測される。(※歴代記に記述される方位は、実際には東→南、西→北に読み替えるべきであろう)
榎津は、筑後川の水運を利用した材木の集散地であり、城下の瀬下町と並ぶ藩米の出荷基地となる津出場でもあった。更には肥後街道の宿駅であり、かつ藩境の町として定番所も置かれた程に藩内でも最重要に位置付けられる町場であった。街道筋に貧弱な町場が形成されることが多い九州地方の町場としては、珍しく面的な広がりを持つ場所で、それ故に多くの需要が当家の発展の素地になったことと思われる。酢を生業とする商家が、藩政期の早い段階でこれだけの大店になった理由を町の歴史的背景から考えてみるのも面白いのではなかろうか。(2020.4.30記)

一覧のページに戻る