4/1/2016/FRI
Twitterの怖さ
最近、Twitterのおすすめユーザに息子や娘の同級生が来る。
こちらは位置情報もアドレス帳の開示も有効にしていないのに、どうして近隣に住んでいる高校生がおすすめになるのか。それとも、単なる偶然なのか。
どうも薄気味悪い。
紹介された人には学校名を晒している。なかには私も聞いたことのあるニックネームをユーザ名にしている人もいる。
あまりに無防備な使い方に、人の子でも心配になる。
子どもには、友だちにやんわり注意するよう伝えた。
最近、Twitterのおすすめユーザに息子や娘の同級生が来る。
こちらは位置情報もアドレス帳の開示も有効にしていないのに、どうして近隣に住んでいる高校生がおすすめになるのか。それとも、単なる偶然なのか。
どうも薄気味悪い。
紹介された人には学校名を晒している。なかには私も聞いたことのあるニックネームをユーザ名にしている人もいる。
あまりに無防備な使い方に、人の子でも心配になる。
子どもには、友だちにやんわり注意するよう伝えた。
就労移行支援事業所へ通所をはじめてて3ヶ月が過ぎた。四半期の区切りで、支援計画作成の担当者と面談があった。
担当者曰く、
見学や契約に来たときは、こんな調子で1月から通所できるか、心配になるほど、表情は暗く、今にも壊れそうなガラスのような印象があった。それが今では表情が明るくなって驚いています。
確かに調子は悪くない。深く落ち込むことも、希死念慮の虜になることも最近ではほとんどない。
4月から就職活動を始めることにも同意をもらえた。
支援計画としては、安定した気持ちを維持するスキルや、ストレスになりそうなことを上手に避けたり、受け流す心理的なスキルを身につけることに重点を置くこととなった。
就労移行支援事業所との契約や障害者手帳を申請するときに面倒を見てくれた自治体の保健センター担当者が異動になると連絡があり、挨拶に行った。
「とても元気そうにみえる」と言われ、さらに「輝いてる」とまで言われた。さすがにそれは持ち上げ過ぎとしても、好調なことを第三者に指摘されると少し自信を持てる。
1月からの3ヶ月間で、いろいろな変化があった。前向き、とか、ポジティブ、とか、簡単には言いたくない。平凡な、当たり前の日常を手に入れた、と考えたい。
以下、この3ヶ月間にあった変化を列挙しておく。
その結果、目前の課題に集中することができるようになり、就職活動をはじめることを決意できた。
春が来た。
4月から5月は、「一番好きな季節」(荒井由美「ベルベット・イースター」)。
毎年、気分もいい。それは、思い出深い「時」がたくさんあるから。
いい思い出があるから、楽しく過ごすことができる。だからそこに新しく美しい記憶が重ね塗りされる。この季節には、そういう好循環があるのだろう。
眠い。
花粉症の薬はもう飲んでいない。夜更かしをしたわけでもなく、日曜の晩に酒を呑んだわけでもないのに、今週は月曜からずっと眠い。
火曜日には午前の研修中に睡魔に襲われて、簡易ベッドで寝返りもせず横臥したまま、2時間も熟睡してしまった。
昨日の診察でS先生に相談すると、心は安定してきたとはいえ、体力も含めてすべてが完全に回復したわけではない。長く休んでいたのだからちょっとしたことで疲れが溜まることもある、とのこと。
今はまだ眠いときには寝ていい環境にあるのだから、無理はせずに、眠たければ眠ればよい、という助言もいただいた。
就労移行支援事業所の責任者に職務経歴書を見せた。
転職の数は多くても、同じ業界だし、日本からの撤退や突然の解雇など、外資系の日本支社の性質は、人事担当者ならよく知っている。キャリアアップしながら転職してきたのだから、そのまま書けばよいと言われた。
仕事はある。東京では人手不足、売り手市場が続いている。さらに障害者雇用の義務を遵守するために、きちんとした会社では、きちんとした体制を整えて障害者雇用を考えている。
だから大切なことは、今、焦らないこと。
S先生の助言と共通している。焦って早く動き、勢い余って失敗する私の短所を的確に指している。
今日は、まっすぐ帰宅して、15時から17時まで眠った。
先週末、私の家族と両親と夕食をともにした。受験や卒業で慌ただしく、子どもたちは3ヶ月以上、祖父母に会っていない。
私の両親にとって、私の子は初孫なので、とても可愛がってもらっている。元気に卒業できたことを喜んでくれた。
事業所での研修のあと、夕方まで時間が空いた。映画でも見ようかと思ったけど、暗い劇場では眠ってしまいそうなので止めにした。
ゆっくり休めて、お金がかからず、それでいて楽しい過ごし方はないか。しばらく思案して思いついた。障害者手帳のおかげで無賃乗車できる都営地下鉄に乗り、終点まで熟睡した。
着いたのは東京の北端にある巨大団地。ここに図書館がある。中央とは名乗ってはないものの、この自治体では一番大きいので実質的には「中央図書館」。同じ自治体の中でも私の家からは交通の便が悪く、これまで数回しか来たことがない。隣りにある体育館には中学生のバスケットボールの試合観戦に何度か来た。
CDの棚でギタリスト、Andrew Yorkのベスト盤を見つけた。ほかには、Shakatak, "Night Birds"と"Invitation," George Benson, "Absolute Benson"を借りた。
重くなるので本は下見だけであとで自宅近くの図書館で受け取るように予約することにした。やはり、開架式の大きな図書館へ行くと、「本との偶然のめぐりあい」が楽しい。その日は、『世界で一番美しい天井装飾』(中島智章、エクスナレッジ、2015)と、『世界のすごい室内装飾』(アフロ編、パイインターナショナル、2015)に出会った。
豪華絢爛なイスラムや西洋建築の装飾。いつまでも見ていて飽きない。
こういう本は、よほど丁寧に新聞の書評欄や広告を見ていないと気づかない。美しい写真集との出会いは開架式のおかげ。
建築や所蔵図書の数、書棚の配置、受付の応対にも大満足した中央図書館、一つだけ、難点があった。それは、トイレが洗浄機能付き便座でなかったこと。
本屋や図書館に行くと便意を催すという「青木まりこ現象」が持病と呼びたくなるほど頻発する。図書館へ行くと、必ず一度はトイレに行く。そのため図書館のトイレが清潔かどうか、洗浄機能付き便座があるかどうかは、図書館の好みを大きく左右する。
もっとも、これは図書館に限ったことではない。電車でも百貨店でも、内と外で大きな温度差があると、すぐに調子が悪くなる。
最近この自治体では図書館利用者に対し大規模なアンケートを行った。結果を見ると、トイレを清潔にしてほしい、臭いが気になる、という自由意見のほかには、具体的に洗浄機能付きの設置を望む意見はなかった。
自宅近くの小規模図書館でも、南部の中心にある中規模図書館でも、トイレは清潔で、洗浄機能付き便座をそなえている。設備の基準が一律でないのはどういうことか。運営が異なる会社に委託されているからだろうか。
帰り際、投書箱に要望を投稿してから待ち合わせ場所へ向かった。
巨大な公園の入口にあるこの図書館に再び来た。ここは、戦時中は成増飛行場、戦後はグラントハイツ、と呼ばれていた。東京で一番暑い街と言われている。今日は5月というのに真夏のように日差しが眩しかった。
駅と図書館のあいだにある大型スーパーに洗浄機能付きトイレを見つけた。
これで安心してこの図書館に通える。
早速、利用してから帰宅した。
さくいん:アンドリュー・ヨーク、シャカタク
いつの間にかTwitterを再開している。これも心身が健康な証左か。
最近のツィートから転記しておく。
大学の入学式に親が行くのは恥ずかしい、もう18歳なのに自立してない、などとよく言われている。思うに、「私財をなげうつ」ほどの負担を強いているのだから、支払った財産がどう使われてるか、払った親が確かめに行くのは全くおかしなことではない。
授業参観は行き過ぎとしても、納付した金額に見合った教育をしているか、むしろ親の評価を積極的に参考にすべきと思う。
税金のオンブズマンと同じ。
こんな風に思うのは、高い授業料を出してもらったのに、大学は大教室の講義ばかりでとても元を取れたとは思えなかったから。
図書館も老朽化していた。私が卒業したあとで、立派な図書館が新築されたので、私のために両親が払った金は、私の在学中に活用されなかったので、とても悔しく思った。
新しい通勤ルートを見つけた。歩道橋の上り下りがなく、毎日86円節約できる。
3日で缶ビール一つ。これは助かる。
福原愛の結婚、なぜ、今、話題になったのだろう。まだオリンピック開催前なのに。
リオを引退の花道にする地ならしだろうか?
福原愛は自身のブログで淡々と現状をファンに知らせた。
本人も言うように、まずはリオでの活躍を願う。ケガだけは、気をつけてほしい。これまでにも日本代表に選ばれてからケガで欠場したことがある。こういうことが重なると、代表選手としての信頼度が下がる。
4回目のオリンピックを引退の花道とするなら、なおさら。
先週、大きな図書館で借りたアルバム。2015年発売の新譜を借りることができるのはありがたい。税金を回収している実感が湧く。
ライナーノーツに村治佳織と木村大が書いているように、私も"Sunburst"には衝撃を受けた。米国出張の機内で、村治佳織 "Cavatina"を聴いたとき。そのあと、York作品を特に意識して聴くことはなかった。
ベスト盤を聴いて気づいたこと。一つめにジャンルの幅の広さ。"Sunburst"のようなアクロバティックな曲もあれば、バロック調の曲やカントリー風もある。さらにはウィンダムヒル系と聴き間違えそうな、穏やかに心を落ち着かせるメロディーもある。実際、Yorkは本作にも収録されている"Andecy"が"響――Windham Hill Records Guitar Sampler (1988)"に収録されている。
武満徹や吉松隆のような現代作曲家が書いたギター曲を、いくつか聴いたことはある。どれも難解で、楽しく聴けた曲は少ない。Yorkの曲はわかりやすい。"Pop"と呼びたい。この言葉は、私の語彙では最高位の褒め言葉。
気づいたこと、二つめ。Yorkはギターが上手い。演奏者としても非常に優れている。これまで数々の"Sunburst"を聴いてきた。このアルバムの一曲目がこれまで聴いた中で一番いい。早すぎず、遅すぎず、デジタル信号の波形をオシロスコープで観察したときのように正確無比で、一つ一つの音がピタピタときれいに粒立っている。
技巧に溺れることなく、心地よい旋律を奏でているだけでもない。微笑を浮かべて凄いことをしている「余裕」が感じられる。
これは作曲についても言える。"Sunburst"のような技巧的な曲はむしろ例外で、他の曲は「超絶技巧」と評されるものではない。解説によれば、"Playability"が高い、すなわち、演奏者にとっては比較的、取り組みやすいらしい。
専門的なことはわからないけれど、このアルバムは楽器もスタジオも録音も、これまで聴いたギター曲と違う気がする。ヘッドホンで聴くと違いがよくわかる。低音はギター本体から深く太い音で響き、高音は一弦一弦の音がはっきり、明瞭に聴こえる。
これだけ多彩な作品を創るだけではなく、自ら演奏する。豊かな創造性と優れた技能に驚くほかない。演歌にフォーク、ロックを作曲して自ら歌うシンガー・ソングライターは聞いたことがない。
何年にもわたって作られた、さまざまな曲調の作品を集めたアンソロジーなので、アルバム全体の構成は雑多にみえる。けれども、聴きはじめると違和感なく流れていく。
こういう音楽が流れていると、考えごとや文章が捗る。
さくいん:アンドリュー・ヨーク、村治佳織
先週、旧い友人と呑んだ。
これまで話したことのないことを話した。33年前の今頃の出来事。
秘密というほどのものではない。相手にとっても特別、関係のあることでも関心もあることでもない。ただ、私の方で親しい人には伝えておきたいことだったのに、話す機会もなかったので、何となくモヤモヤしていた。隠していたことを洗いざらい話してスッキリした。
今年、同じことを別の友人にもした。33年の時間が必要だったのかもしれない。
秘密を打ち明けることは、いわゆるデトックスのような効果がある。告白された相手にすれば、毒素を撒き散らされただけで、迷惑だったかもしれない。
また会う約束などすることもなく
それじゃ、またなと別れるときの
お前がいい
(中村雅俊「たゞ、お前がいい」、小椋佳作詞作曲)
こんな風に付き合ってきた友人は、きっと許してくれるだろう、と甘えてみた。
普段はほとんど使うことのない「甘える」という言葉が出てきたのは、大きな図書館で見つけて予約し、近所の小さな図書館で受け取った『信仰と「甘え」』(土居健郎、春秋社、1992)を読みはじめたからだろう。
「お祈りは神さまにあまえること」という解釈を土居は提示する。何か願い事を叶えてほしいと「願う」のではない。心を開き、全てを神に委ねる、という意味であれば、私の関心にも近く、非常に興味深い。
他人にはどうでもいいことでも、自分にとっては秘密と思っていたことを話したあとに残るのは、スッキリした気持ちばかりではない。
打明けて語りて
何か損をせしごとく思ひて
友とわかれぬ
石川啄木「我を愛する歌」『一握の砂』(1903, M43)
秘密を告白したあとはこんな風に思うことの方が多い。今日は、その気分はなかった。
卓球選手の福原愛が結婚を前提にした交際を、自身のブログで発表した。
そのニュースが流れた日、娘に言われた。
愛ちゃんの結婚、ショックでしょ
食卓の隣りに座る顔を気にしながら、「いや、別に、俺は妻帯者だから」と答えると、返してきた言葉は、「いや、そういう意味じゃない。私も岡田(准一)くんの結婚の噂を聞いただけですごくショックだったから」。
あゝ、そういうことか。そういう意味での驚きはあっても、本当にショックでも何でもない。
そういうことなら心配ない。
佳純ちゃんも美宇ちゃんも、美誠ちゃんも、当分、結婚はしないだろう
「君が結婚するときが一番ショックだよ」と言いかけてやめた。結婚はしないかもしれないし。
4月14日追記。
香港で行われたオリンピック個人戦の予選大会。福原愛は一回戦で敗退してしまった。同日の午後、番狂わせがあった。高校生になったばかりの伊藤美誠が、世界ランク1位の丁寧(Ding Ning)にゲームカウント3-1で勝ち、大金星をあげた。
世界ランクが高いので、福原はオリンピックには出場できるらしい。しかし、福原には格下の選手にあっさり負けてしまう悪い癖がある。ケガとこの癖はよくない。
さくいん:福原愛
G7が広島で開催され、各国の外務大臣が平和記念公園と資料館を訪れた。
米国ではオバマ大統領が広島を訪問することを検討する一方、謝罪と「誤解」されないように資料館付近でケリー国務長官の写真を撮影させないようにしたと報道されている。
朝、電車でNPRとロイターのニュースを聴いたかぎりでは、国務長官の広島訪問は日本でのようなトップ・ニュースの扱いではなかった。
米国の世論では、「原子爆弾が終戦を早めた」という主張が強いと聞く。それに対して日本では、原子爆弾の使用そのものが戦争犯罪で、非人道的な行為と反発する人も少なくない。
原爆投下が終戦を早めた、という言い方は、私も気に入らない。しかし「原爆投下」の是非を問う前に、日本の国内でもっと議論すべきことがあるようにも思う。すなわち、
もっと早くにもっと上手に、終戦の交渉を行っていたら、戦争の犠牲者は、兵士も国民も、ずっと少なかったのではないか
「ああするより他にはなかった」という後付けの言い訳ではなく、徒らに戦争を長期化させた「責任」はどこにあるのか、はっきりさせなければならない。その点が明確にならなければ、いつまでも「原爆でたくさんの人が死んでくれた」おかげで戦争が終わった、という主張に反論できない。
さくいん:広島
平櫛田中の名前はずっと前から知っていた。2003年の1月に、日経新聞で平櫛田中の作品を見たと『庭』の第一部に書いている。
当時はクルマを持っていたので、玉川上水沿いで美術館の看板をいつも見ていて、そのうち行こうと思っている間にずいぶん時間が経ってしまった。
「心と身体の底からこみあげるような破顔一笑」と書き残しているけれど、どの作品のことなのか、はっきりしない。館内を一回りして、おそらくはこれだろうと思ったのが「気楽坊」。ガラス越しに目が合ったとき、思わずこちらも笑い返してしまった。
この底抜けの明るさとディフォルメは例外で、大半の作品は写実的で迫力がある。目を瞠ったのが代表作である「鏡獅子」を彫る前に制作したという、歌舞伎役者、六代目尾上菊五郎の裸身。彩色してあるせいもあるけど、全身に力がみなぎり、筋肉が赤く火照っている。
写真で見た古代オリンピック競技者の石像に勝るとも劣らない躍動感がある。
2階の一角に、小平市の職員が描いた伝記漫画『田中彫刻記』が置いてあった。読みやすく、有名な逸話が盛り込まれていて、芸術家の人となりがよくわかった。
平櫛には、「気楽坊」のような飄々とした作風と裸身像のような写実的な作風に加え、岡倉天心など、尊敬する人を丹精込めて彫り上げた精神性の高い作風もある。
文章でも美術でも音楽でも、精神性が高く、求道的なスタイルを私は好む。そう思っていた。ここで書いている文体にも、そうした作風(スタイル)への憧憬が現れている。
今回、多様なスタイルの彫刻作品を見たなかで、暗闇を突き抜けるような明るい笑みを浮かべる「気楽坊」に一眼で心を奪われて自分がほんとうに届きたいと思っている境地がわかった。
右の写真は、100歳を前にして、なお創作のために準備していた楠の原木。
今日は、いろいろな出来事が起きた、忙しい一日だった。
さくいん:平櫛田中
ようやく膝の痛みが取れてきた。まだ、一日1万歩は無理。毎日、都心へ出かけているので、今年は千鳥ヶ淵の桜を見るのを楽しみにしていたのに、結局、都心部で花見はできなかった。
先月半ばから、週末を除いて毎日、整骨院へ行っているので、想定外の出費となった。身の程知らずの張り切り過ぎの代償は大きい。
今日の午後はすこし遠出してみようと思い、トーハク(上野)の「特別展「生誕150年 黒田清輝─日本近代絵画の巨匠」」か、江戸東京博物館(両国)の「近代百貨店の誕生 三越呉服店」か、どちらかに行くつもりで地下鉄に乗ってみたものの、どちらの博物館も広いので、途中で膝が痛くなることを怖れて断念。両方とも会期はまだあるので、いずれ行くつもり。
代わりに、しばらく行っていない百貨店に行ってみた。地下街で、藤田嗣治の展覧会のポスターを見て、画廊のあるフロアへ。
販売展示会なので入場は無料。観覧料を取られてもおかしくない内容だった。私自身は猫には興味はない。パリの職人の衣装を子どもに着せた絵が愉快だった。入口正面に置かれた「猫を抱く少女」も、少女の方に目を奪われた。
画廊なので、額縁のわきに価格が掲示されている。とても買えるような価格ではない。夢は夢のままか。
何しろ、いまは無職で、次の職業も決まっていないのだから。
百貨店から足が遠のいていたのもそのせい。買える予定もないのに店を見ても、悲しくなるだけ、そう思っていた。
ところが、美術作品としての絵画を商品として見たおかげか、家庭用品の売り場では、白磁や青磁、鉄器、漆器、クリスタルガラスなど、すぐには買えそうにはないものでも、見ているといわゆる「目の保養」になった。
いいものを見ることは大切。安物を繰り返し買うよりも、良いものを一つ持って、長く使いたい。実際、私は物持ちはよい方。17歳の誕生日に買ってもらった紺のブレザーは30年着ているし、入社一年目で買ったスーツも25年間、着ている。
いいものを手に入れるには、ふだんからいいものを見て、何がいいものかを知っておかなければならない。買えなくても、こういう日が時々あっていい。
最近、新聞を読んでいると、経営でも文化でも、自分より若い人が活躍していることに気づく。いつの間にか、若い世代に追い抜かれている。
思い返すと、かつて私は、何者かになれると信じていた。ひとかどの人間になれる、と夢想していた。何の努力もせずに、愚かにも根拠のない万能感だけ持っていた。
2014年末に辞めた会社に入社した2009年頃、40歳を過ぎた時、これまで働いてきたような米系企業の小さな日本支社長にくらいには、いずれはなれるだろう、とこれもまた何の根拠もなく想像していた。
この人たちが目標を立てて、努力をしているあいだ、自分は何をしていたんだろう、と後悔してみても後の祭り。
よく考えてみれば、この事態は想定通り。私の信条は「目標を立てず、努力をしない」ことなのだから。
二十代は迷いの10年だった。成し遂げたいことはあったはずなのに、何をすればいいのか、どうすればいいかのわからないまま、何もできないまま終わった。
三十代は怠惰の10年だった。時間はたっぷりあったのに、漫然と過ごし、自分を成長させることを何一つしなかった。ただ、小林秀雄と森有正に出会えたことは、この時期の収穫だった。
四十代は残り2年。これまでは苦しみの8年だった。良かれと思ってしたことすべてが裏目に出た。
今回の失業で、己れの弱さ、醜さ、愚かさが身にしみた。生きることに、責任と義務はあっても、生きることそれ自体には何の意味もないことを思い知らされた。
「それでも人生にYesと言う」人がいる。そう思う人の意思を否定するつもりはない。私はそう思えないだけ。
何者かになろうとしたところでなれるわけではない。ならば、何者にもならない意志を持つのはどうだろう。世俗的な成功も、霊的な体験も望むことなく、すべきことをなし、草のように生きる。
そんな風に生きていけないだろうか。
写真は皇居東御苑、百人番所。
表紙だけを見ると、本格的な美術展の画集には思えない。冒頭にある本展を企画した三人の美術館員の鼎談を読むと、表紙が萌え画(Mr.、"Goin To A Go-go!!")である意味がわかる。
「少女」を「近代国家形成のプロセスの中で、良妻賢母予備軍として「愛」「純潔」「美」という規範を与えられた存在」と定義して、美術史において「少女」がどのように描かれてきたかをたどる。鼎談の最後で三人が口を揃える官製「クール・ジャパン」に対する批判は、「美術の現場」の声として読むと興味深い。
この鼎談と巻末のエッセイ、工藤健志「『少女』をめぐる断層」が面白い。工藤はほぼ年齢が同じなので、『エスパー魔美』を霧島之彦「少女<休憩>」に重ねて、「無防備な少女が発する健康的なエロティシズム」と解説するところなど、思わず膝を打つ。
「よくぞこれだけ探してきた」と感嘆するほど、大量の「美少女」を浮世絵から直近のアニメ作品まで渉猟している。収録された作品から自分の感性に響いた作品を挙げる。
「美少女」という分類ではないけど、陸奥A子、田渕由美子、太刀掛秀子の漫画雑誌の付録は懐かしい。いずれも1979年のもの。こういう雰囲気の文具が、確かに私の家にもたくさんあった。最近も、古いみかん箱からいくつか取り出してきた。
本展で取り上げられた作品以外で「美少女」という言葉から自分が思い浮かべる名前と比較してみると面白いかもしれない。
以下、「美少女」と言われて思い浮かぶ人を列挙してみる。本書で取り上げられている人は入れない。本書の方針に従い、実在の人物は除く。
名前をあげてみると、かわいくて知的な「少女」に惹かれることがわかる。
昔、どこかで、ロリコンに対して、アリコン(アリス・コンプレックス)という言葉を聴いたことがある。可愛らしさと賢さを兼ね備えている美少女はアリスに重なる。
こうして並べてみると、「一歩後を歩く」ような女性が多い。好みが思っていた以上に保守的で自分でも驚く。
意外なことにスタジオ・ジブリの作品からは、見つけられそうで見つけられなかった。
二次元で表現されていない小説や童話から選出してみるのも一興かもしれない。
就労移行支援事業所に通うようになり3ヶ月が過ぎた。他の利用者と雑談をするようになった。ふと思うことがある。夜間中学は、こんな場所なのかな。
集まっている人の年齢も生活環境もさまざまで、ほとんど共通点がない。
共通点といえば、皆、何らかの理由で社会の本流から落ちてしまい、それでも、再び、社会に戻ろうとして努力していること。
年齢の近い人が数人いる。休み時間に70年代から80年代の音楽や映画、テレビ番組について雑談している。そういう時間は素直に楽しい。
「ただの人間」として放り込まれた場所で、立ち位置もわかってきたような気がする。
心身の調子が安定しているのは、心地よい居場所を見つけられたおかげもあるだろう。
写真は、前川國男邸。江戸東京たてもの園。
「エコノミークラス症候群」て言い方、何か見下したようなニュアンスあって嫌だな。
— 玉川 薫 (@tamagawakaoru) 2016年4月19日
この見方には同意。
航空会社にしてみれば、標準としているサービスを「劣悪」とレッテルを貼られているようなものだから、反論があってもおかしくはない。
なぜ、毅然と反論しないのか。
利用者にすれば、病気になるような、場合によっては死に至るような姿勢をしなければ外国旅行へ行けないと思い込まされたら、飛行機での旅行に対して積極的ではなくなる。そうでなくても世界各地でテロ事件が頻発している昨今、不要不急の旅行はしたくない。
要するに、誰にとっても、有益とは思えない言葉が公然と使われている。なぜなのか、謎。
写真は、江戸東京たてもの園、黒電話
PTG (Posttraumatic growth)という呼び名は新しい。でも、「絶望的な逆境を乗り越え、前よりも強い自分を手に入れる」という現象は、これまでも人間世界にいくらでも見られる現象だったのではないか。
身近なところで思いつくのは、コミックの『エースをねらえ!」(山本鈴美香)。
高校生のテニス・プレーヤー、岡ひろみは、宗方コーチの突然の病死を経験して、深い悲嘆に沈む。そこへ現れた宗方の親友、桂コーチが岡を悲嘆の底から引き上げて、厳しい特訓を与え、世界で活躍できる一流の選手に育てていく。
重要なことは、宗方の死も、岡の悲嘆も、桂コーチの特訓も、すべて宗方と桂の二人があらかじめ作っていた「計画」だったということ。桂が岡の恋人である藤堂にそう伝えている。
宗方は桂に、岡について手紙で事細かに伝えていた。そして岡の周囲にはいつも惜しみなく協力をする人たちがたくさんいる。
つまり、ここでは、PTGは、細心の注意を払って作られた計画と熱心な協力者がいて、初めて実現できている。
PTGは、上記のような非常に特殊な環境で実現されるものか、そうでなければ、偶然の積み重ねのあとで振り返り、「成長していた」と回顧するものではないだろうか。
繰り返す。PTGは偶然の賜物であり、それを目標として努力するものではない。
さくいん:『エースをねらえ!』。
桜の花が皆散ってしまい、新しい葉が芽吹くとき、森山啓に出会った日を思い出す。
『庭』を始めた2002年の秋、松濤美術館の展覧会をきっかけにして小林秀雄を熱心に読んだ。
翌年の2003年。辻邦生のエッセイを読み、森有正を知った。森がオルガンを練習していた学校に通い、彼が北海道で親しくしていた人から丸山眞男の精読を指導してもらっていたのに、森有正のことを私は何も知らなかった。
恥ずかしいことではあるけど、「あの頃」は、まだ、森有正を読む「時」ではなかったのかもしれない、とも思う。
あの日、自転車で松濤まで走ったことも、会社の近くに大きな図書館があり、新装版が出たばかりの『小林秀雄全集』を借りられたことも、偶然ではなかった。
そう思うと、『庭』を造りはじめた2002年から2003年にかけて、小林秀雄と森有正から大きな影響を受けていた。少なくとも、自分ではそう思っていた。
森山啓に出会わなかったら、『庭』は今のようになっていなかったし、現実世界の私の生き方も違ったものになっていただろう、10年以上経った今、そう思う。
それくらい、森山啓に出会ったことは、私の人生にとって大きな出来事だった。これもまた、偶然ではなかった。
2年前、心の病気から最終的に会社を辞めることになったのは、自分に能力がなかったせいと思っていた。強い劣等感が病気を悪化させた。そう思っていた。
それが、最近になって、違うように考えるようになった。私の能力が劣っていたのではなくて、単純に上司との相性が悪かっただけではないか。そう考えられるようになった。つまり、違う上司だったら、別の会社だったら、会社を辞めないでいたかもしれない、ということ。
1996年からずっと営業職をしてきたし、最後の会社でも、その上司が入社するまでの4年間はそれなりにできていた。高く評価してくれた上司もいた。全然ダメ、というわけではなかった。
社長は優秀な人で、加えて仕事熱心な人だった。こんなビジネスマンになりたいと憧れさえ抱いた。実は、彼と私とでは、営業のスタイルも、ワークライフバランスの考え方もまったく違っていた。その違いを、私は能力不足と考えてしまい、徐々に追い詰められていった。
もっと早く気づいていれば、失職せずに転職できていたかもしれない。そう思うことがある。
「タラレバ」を考えても仕方ない。いまは「せっかく」長い休暇をもらったのだから、心身を休めて、どういう働き方が自分にふさわしいか、考える時間にあてる。
時間はまだ、3ヶ月ある。
写真は、江戸東京たてもの園、前川國男邸の照明
就労移行支援事業所で「セルフ・プロデュース」という言葉を教わった。
新しく組織に入るとき、つまり、今度再就職するときに、自分のどんなところを最初に見せるか、よく考えて自分自身を演出しろ、という。
特技のように、組織にとってプラスになることをアピールすることが大切なことは言うまでもないが、自分の欠点や配慮してもらいたいことを最初に曝け出してしまうことも、組織にうまく受け入れてもらうためには必要と言われた。
なるほど。こういう考え方は、今までしたことがなかった。深く考えもせず、何となく自己紹介をして、組織に馴染んでいくことも自然に任せていた。
組織に受容される過程は、私の場合、ほとんどいつも同じ過程を辿る。最初は真面目で少し冷たい人と思われる。少し慣れてくると、とくに酒の席のあとでは、面白いところもある人、に変わる。そして、しばらく時間が経つと、真面目そうに見えるだけで、ドジでおっちょこちょいな人と結論づけられる。
そのあとは、あまり使いたくない言葉であるけれど、「いじられキャラ」として組織の中での立ち位置が定着する。
次回、新しい組織に入るときには、自分をどう受け入れてもらいたいか、よく考える。最初に「間抜け」であることを晒すのもいいかもしれない。
自己紹介の練習をすると、毎回笑顔が足りない、と指摘される。第一印象が真面目そうだが冷たそうにも見える原因は微笑の不足にある。
指摘されたことはよくわかるけど、うまくできない。仕事の話と雑談で表情が違うとも言われる。仕事ではどうしても硬くなってしまう。
あるいは、営業職は自分に向いてないと思いながら仕事をしているから無理をしていたとも考えられる。
写真は、江戸東京たてもの園、照明
実務者とは、これほど冷徹に業務に徹することができるものなのか。
実務者とは、これほど鮮明に経緯を回顧できるものなのか。
実務者とは、これほど仔細に事実を記録しておくものなのか。
そして、歴史研究者は、これほどまでに感情を排し事実だけを丹念に探り集めるものなのか。
政治と学問のあり方、今ある姿も、あるべき姿も、これまで理解できていなかった。
政治は、とりわけ国家にとって重大な案件の場合、議論を熱を帯びて「政治化」する。政治とは、デモやらヤジやら、騒々しい、物々しいものに思われがち。
しかし、実際は、政治は官僚たちにより粛々と進められる。立法府が法制化すれば、行政府は淡々と執行する。
政権の意向に異を唱えるのならば、国民の感情に訴えるだけではなく、法的な手続きが先行していくことを阻止する十分な知識と、冷静な態度と、明晰な判断を必要となる。
そうしたものがなくても、つまり、民衆の感情で政治が動くとき、それはむしろ政権にとってだけでなく、国民自身にとっても危険な状態だろう。
革命は、そういう危険な状態で起きる民意の爆発であり、全く綺麗事ではない。
代ゼミの世界史講師、山村良橘先生は仰っていた。
「革命を何かロマンチックなものと考えているようでは政治状況を変えることなどできない」
19才という年齢は、18歳と20歳の間で揺れている。宙ぶらりんで、中途半端な感じがする。
18歳になれば、自動車免許が取れる。今年からは選挙権も得る。20歳になれば、酒と煙草がOKになる。何よりも「成人」や「ハタチ」という別称があるくらいだから、20歳には、文化的にも社会的にも大きな意味があると言えるだろう。
19才には、そうした通過点を明確にするものがない。
歌の世界でも、19才は大人と子どもの間で揺れる年頃として見られることが多い。
グレープ「19才」(さだまさし作詞作曲、ギターのイントロがいい)は、「もうそろそろ子どもという足かせが重くなっただけ」と歌う。イルカ「十九の春に」は恋と愛とのあいだで「まだ迷ってる」。
浜田省吾にも、大人になってから若い季節の淡い恋を思い出す「19のままさ」という歌がある。岩崎宏美「思秋期」(阿久悠作詞)も、19才を大人の一歩手前と見ている。
グレープとイルカが歌う「19才」は結婚や同棲を意識している。「19才」は1975年、「十九の春に」は1980年の作品。晩婚化が進む現代で、19才で結婚や同棲を考える人は多くないだろう。その上、最近のヒット曲の歌詞は、さりげないというか浅いというか、いずれにしろ、これほど生々しいことは歌わない。
19才について、とりとめのないことを書いてきた。
中途半端で宙ぶらりんな19才でも、一つ、確かな真実がある。それは、19才にならなければ、「二十歳」になれないということ。
高野悦子は1969年1月2日に二十歳の誕生日を迎えた。そして1月15日に書いている。
「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である。
(『二十歳の原点』、1971、新潮文庫、1979)
「二十歳の原点」と書くことができたのは、彼女が19才を生きたから。
19才になれなかった人は、いつまでも二十歳になることはない。
写真は、江戸東京たてもの園、都電 旧7000形
さくいん:グレープ(さだまさし)、高野悦子