丸山眞男における近・現代批判と伝統の問題、松沢弘陽、大隈和雄・平岩直昭編、思想史家 丸山眞男論、ぺりかん社、2002題名に率直に表されている本論文の主題は、これまで断片的に読んできた丸山眞男の仕事のなかでも関心をもっていた分野だったので、興味深く読んだ。 丸山にとって伝統とは「思い出」である。この考え方は、「日本の思想」で述べられているように、「歴史とは、つまるところ思い出である」という小林秀雄がしばしば発する言葉をきっかけにしている。ところが、「思い出」という言葉で表そうとする中身は、小林秀雄と丸山眞男で同じではない。 小林秀雄のいう「思い出」は、現在から過去に向かって引かれた延長線の上に存在する。過去のいかなる事象や思想も、現在という地点からしか観察することはできない。言葉をかえれば、小林において「思い出」は、観察者の現在性と主体性に力点が置かれている。これに対して丸山の言う「思い出」は過去の事象や思想が脈絡なく、唐突に現在に蘇ること。「思い出」は主体性なく、突発的に「噴出」する。丸山は、小林より否定的な意味合いで「思い出」という言葉を使っている点にも違いが見られる。 なぜ丸山ほどの緻密な読み手が小林の概念を借用したと明言しながら、あえて異なる意味合いで用いたのか。その真意や背景はわからない。本論文でもその経緯については触れられていない。ともかく、丸山にとって伝統は「噴出」するものでなければならなかったことを、松沢は図らずも明らかにしていく。 本論文において、松沢が論じようとするのは、丸山が「伝統の解体から、伝統への嫌悪・無関心を経て伝統の創出まで」に至った思想の内的発展と、彼が見出した日本の思想的伝統の内実。その内実とは、「歴史主義・実証主義をこえる超越論的・普遍的原理」の伝統である。この伝統は、西洋におけるキリスト教にように日本の思想史において一貫して受け継がれているわけではない。表面的には、敗戦直後に丸山が感じ「日本の思想」で表明したように「伝統の不在が伝統」が思想史を覆っている。 それでも思想史をつぶさに調べれば、政治的には失敗した企てや、社会の支配層や主流から離れた思想や宗教の運動など「例外現象」にその萌芽はいくらでも見られる。 具体的には、北畠親房の『神皇正統記』、横井小楠や佐久間象山、そして荻生徂徠、戦国時代から江戸時代にかけてのいわゆる隠れキリシタンなど。こうした発見とは別に、丸山は日本社会の主流であった思想までも「超越論的・普遍的原理」を内在させるものとして「読みかえ」ていく。その最高峰は本居宣長と福沢諭吉の研究であろう。 このように伝統を描き出そうとする丸山を観察すれば、彼が「思い出」に対して抱いていた否定的な印象をむしろ逆手にとっていることがわかる。もともと筋の通った伝統がなく、「思い出」は突発的に「噴出」するものであるがゆえに、忘れられかけた小さなあぶくも救い上げることができるし、大きな泡の中にも自在に「思い出」を描き出すことができることになる。 この点が、まさに丸山および、その意志を継ぐ松沢の伝統観の強みといえる。しかし松沢が、また、おそらくは丸山も具体的な論争の相手として念頭においている「伝統の新たな創出をめざす言説」、すなわち、いわゆる自由主義史観の伝統観と比較するときこの「思い出」に対する否定的な感覚にこそ、彼らの論拠の脆弱性も見出されるような気がしてならない。 強みになるのは、自由主義史観が「国民」の伝統として提示する思想なり、習慣なりに対して、それだけが伝統ではないと「例外」の事例を無数につきつけることによって、集権的、統合的な伝統観を打破することができる点。また、時代の主流であった思想についても、論敵とは異なった視点で解釈ができる点。 しかし、丸山(そしてそれを引用する松沢)が例示する思想や運動は、丸山が「思い出」し、選び取ったという意味で、「国民」の伝統として論敵が選び出したものと形式的には変わるところがない。どちらにも相手側の「選択する目録」は恣意的に選ばれたものと見える。 これでは、一方は「これが私の考える伝統です」といい、他方は「私は認めません、別なところに私は伝統を見出します」ということになり、平行線の議論になってしまう。平行線の論争は、結局、論争の傍観者に対しては「どちらにつくのか」式に態度表明を迫るだけの非生産的な議論に陥る危険性がある。 また、「思い出」は主体性なく、「噴出」するという基本認識に恣意性が生れる余地があるわけだが、こうして見出された「思い出」は歴史の新事実によって吹き飛んでしまう可能性がある。 丸山は歴史に埋もれた思想や運動に伝統を見出そうとするが、それらが実在したことを証明するためは、いずれも実証研究の補強を必要とする。同時に、歴史研究によって、それら過去の事例が実在しなかったこと、あるいは丸山が読み取ろうとする意図とはまったく異なる意図があったことが証明されてしまったとき、丸山の「読みかえ」があまりにも理路整然としているがゆえに、かえって全体的に打撃を受けずにはいられまい。 確かに、丸山は通史的にではなく、いわばゲリラ的に伝統を渉猟するから、一つの事例が実証研究によって否定されても、その他の事例をいくらでも持ち出すことはできる。しかし、そのような姿勢で論敵に臨めば、今度は「あった、なかった」の非生産的な議論に再び行き着いてしまう。思想史とは文脈が異なるが、南京大虐殺の有無や、大日本帝国の植民地政策が住民の「ため」になったかどうかをめぐる論争は、こうした不毛な議論の典型である。 結局、「思い出」を頼りに伝統を議論することは、自在な展開を可能にするとしても、同時に、論敵にとっても自在な批判を可能にしてしまうと言わざるを得ない。 もう一つ、丸山の伝統理解が含む問題として指摘したいのは、高い倫理性と教養志向である。別な言い方をすれば、丸山は、現代における大衆社会の問題を出発点にしながら、解決においては、非大衆=知的エリートによる解決を模索していないか、という疑問である。 北畠親房、佐久間象山、荻生徂徠、隠れキリシタン。いずれも日本史上の事実であったとしても、これらの名前、思想、運動についての知識を、今の日本国民のどれだけが持ち合わせているだろう。まして、どれだけの人が、そのなかに「超越的・普遍的原理」を見出すまで理解を深めることができるのだろう。学ぼうとしない方に問題があるというのは容易い。しかし、論敵はより大衆的、より情緒的、より即物的な接近をしている。 スタジアムに翻る日の丸、アイドルの歌う君が代、観客全員で唱和する「ニッポン」。あるいはごく最近では、北朝鮮からの帰還者に対して行われている行事、例えば演歌歌手との対面、東京のデパートでの買い物、旧友とのキャッチボール、同窓会など、より穏やかで、一見伝統とも無関係に見えるような行事を通じて「日本の伝統」が再度刷り込まれている。 わかりやすい戦略を通じて「国民」の伝統の普及を目論む相手に対して、別の伝統は非常に高度な学術書のなかに書かれています、高い意識をもって学習してください、というだけで充分に対抗できるのだろうか。大衆社会における社会規範の欠如という当初に設定した基本問題を解決することはできるのだろうか。 丸山の仕事はジャーナリズムとアカデミズムの往復であったと言われる。彼の意図、議論、思想は象牙の塔の塀を越えて、総合雑誌での論文や座談、大学の講義を通じて「市民」の政治教育を目論んでいたことは間違いない。では彼が教育の対象としていた「市民」とは誰だったのだろうか。スタジアムに群がるサポーターだったのか、赤門をくぐる学生だったのか。 いずれにしろ丸山は、赤門をくぐった学生も、講義が終われば頬に日の丸を描き、スタジアムで「ニッポン」を絶叫することになろうとは思ってもみなかったのではないだろうか……。 この点は、丸山眞男の、そしてそれを21世紀に発展的に解釈しようと試みる松沢の伝統理解が本質的にはらむ陥穽というより、それを実践的に展開する場合の戦略的な弱点というべきかもしれない。丸山はきわめて実践的な動機から伝統の理解、伝統の「構造化」をめざした。ならば、解決策においても実践的、さらには戦略的であらねばならないはず。 ところが、論説的な仕事は確かに多いが本質的なところでは、丸山には戦術的な視点はもとより、戦略的な視点もあまりないように思われる。なぜなら、彼の信念は、「歴史の中に、歴史を超える理念が投影する意味を、伝統の問題として、どこまでも学問的方法に従ってとらえようとする」ところにあったのだから。 丸山はあくまで「日本政治思想史」の研究者として、伝統の「構造化」を試みたのだと理解するのが、正しいのかもしれない。別な言い方をすれば、ウェーバー的な禁欲的、自律的な学問観に彼は立ち、学者という職業上の責任感に対し忠実だったとみることもできる。だからこそ、日本思想史という特殊な領域において普遍的な原理を探求するという逆説に彼はあえて挑戦したといえる。 そしてその逆説的な挑戦は、「丸山政治学」という伝統として継承されている。広大な丸山思想史からその真髄を鮮やかに抽出した本論文は最高水準の例と言えるだろう。丸山はしばしば思想史の再現性について述べている。古典を繰り返し演じなおすことで理念が継承されていくという考え方である。 本論文には、丸山眞男という古典音楽を、楽譜に忠実でありながらも独自の解釈も織り混ぜて演奏してみせた、短いけれども、見事なコンサートを聴き終えたような感想をもった。 |
碧岡烏兎 |