「ビールをやめた理由」
図書館でクリスマス・アルバムを追加して借りてくる。『クリスマス・ファンタジー』では、映画『ルパン三世、カリオストロの城』の中で、クラリスと伯爵との結婚式の場面で流れていた曲が、J.S.バッハ、「パストラーレBWV590」とわかったことが収穫。
手持ちの『ルパン三世「カリオストロの城」オリジナル・サウンドトラックBGM集』(コロムビア、1985)では、「18世紀ドイツ音楽」としか書かれていない。いつか調べてみようと気になっていた。
マルサリスはホリデイ・アルバムでもかなりヘビー。他の2枚に続けて聴くと、雰囲気もだいぶ違う。別な取り合わせで深夜に聞くのがよさそう。
☆
さくいん:ルパン三世
ウチナーのうた-名曲101選&CDガイド、藤田正、音楽之友社1998
『新建築』では「集合住宅をユニットから考える」が面白い。公団住宅が果たした役割を建築設計の視点から検証している。
参考文献。藤森照信「昭和住宅物語」(新建築社、1990)、杉浦進「昭和の集合住宅史」(日本住宅協会、1994)、本城和彦「都市住宅地の設計-計画編」(理工図書1975)など。本城は公団の元設計課長。
緑人の魔都(1948)、南沢十七著、日本少年小説体系 第18巻、横田順爾編、三一書房、1992
餓狼の弾痕、大藪春彦、角川文庫、1997
『トンデモ本1999 このベストセラーがトンデモない!!』で、トンデモ本として紹介されていた小説二編。読んでみると、それほど奇妙ではない。
確かにおかしな台詞やつじつまがあわない展開もあるけど、「緑人の魔都」は読み物として引き込まれていくので流れに任せているあいだは「トンデモ」感はあまり感じられない。
映画『太陽を盗んだ男』のターザン・ロープのように、物語の波に乗っている時はかなりおかしなことでも読者、視聴者はそのまま引きずられているもの。
『日本航空史』では、横田順爾『明治ふしぎ写真館』(東京書籍、2000)で「トンデモ」写真の一例とされていた、キャサリン・スチンソンの着物姿と合成された曲芸飛行の絵葉書に真面目なナレーションが添えられていた。
同じ素材でも文脈と背景、展開により「トンデモ」にもなれば資料にもなる。過去の史料であればなおさらという好例。
『百年の居場所』は静かな写真。章末に添えられた文章も静か。これらの写真と文章に応える言葉は今はみつからない。まだまだ知らないことが多い。ハンセン病一つとっても、これまで何も知らなかった。
京都。座れる書店で読書。
Comme dans un film, André Gagnon, Epic, 1986
J. S. Bach: Partita, Richard Goode (piano), パイオニア、1999
しばらくギターの音を好んで聞いていたけど、この頃はピアノの音が心地よく感じる。
きっかけはアンドレ・ギャニオン。それから最近、NHK-FM「ベストオブクラシック」で聞いたエマニュエル・アックスによるパルティータ5番。
今回聴いた2枚ではグードがよかった。
新建築2001年7月号
新建築2001年8月号
「ノーベル賞はいらない」
Jacques Lussier plays Bach, The Jacques Lussier Trio, London, 1986
グレイス~パッヘルベルのカノン-Baroque Harp、吉野直子、フォノグラム、1998
Debussy: Images 1 & 2, Children's Corner, Arturo Benedetti Michelangeli (piano), ポリドール、1986
“Image”は、NHK-FM、ベストオブクラシックより。
「子どもの領分」は、娘シュシュに贈った曲。ドビュッシー死後、シュシュもジフテリアで夭折。
図書-2002秋-特集 岩波新書新赤版800点、岩波書店、2002
「昭和住宅物語」は、一般向けとはいえ建築の基礎知識を要するので、興味のある「3DK誕生記」と「ステンレス流し台の生い立ち」だけを拾い読み。
3DKの歴史的意味:ダイニング・キッチンの完成(食寝分離、テーブル生活の促進)、主婦のスペースの地位向上、工業製品によるモダニズム。
「戦後は終わった」といわれてからもすでに久しい。でも、集合住宅の間取りひとつとっても、戦後の延長線上から抜け出てはいない。
一方、高度成長期に生まれ育った私にとっては、3DKが住宅の基本。初めから洋式の生活の中で育ってきた。このことだけを見ても、日本対西洋という図式は私の生活や思考に即座にはあてはまらない。日本は無ではないとしても、西洋に覆われた中にしかない。
戦後の焼け跡で、暮らしと社会を立て直そうとした人々の意気込みには、ダイニング・キッチンやステンレス流し台のように、埋もれていた逸話を知るたびに驚かされる。あの意気込み、夢への挑戦は、いつ効率最優先にかわってしまったのか。
洋式生活への移行、住民共同体の創設など、生活様式まで変えようという意欲的な理念をもっていた敗戦直後の集合住宅が、田の字型のマンションに押し込められた、いびつなマイホーム主義に変わってしまったのは、いったいいつのことだろう。
いや、それともはじめの意気込みに、見通しが甘かったとは言わないまでも、いずれ綻びはじめるすきまがあったのだろうか。
Brutus、2002年10月号、マガジンハウス
集合住宅とウィスキーの特集。このところ、読書は図書館と古本ばかりだったので、久しぶりに新刊を買った(といっても雑誌だが)。
Stepping Out, Diana Krall, Universal, 1993
吉田正自撰77曲 上、Victor、1998
FM fan 2001年No.19 9/3号 特集:流行歌の記憶、共同通信、2001
Pearls, David Sanborn, Waner, 1995
Soulful Strut, Grover Washington Jr., Sony, 1996
ダイアナ・クラールは日経新聞の音楽評でほめられていた。「今、世界で一番人気のあるジャズ・ミュージシャン」らしい。まったく知らなかった。図書館で偶然見つけた。
吉田正は前から「異国の丘」をNHKの特番でたびたび耳にしていた。ちょうどリサイクル文庫に昭和歌謡史の特集雑誌も出されていた。吉田のメロディはもちろんのこと、佐伯孝夫の歌詞がいい。
「公園の手品師」の「銀杏は手品師/老いたピエロ」というところもいいし、「西銀座駅前」の「ABC・XYZ~」はフランク永井の歌い方とあいまって渋い。この二曲はラジオで聞いて知っていたのだが、吉田の作曲とは知らなかった。
デイビッド・サンボーンとグローバー・ワシントン・Jrは未聴盤。
これはいわゆるトンデモ本。本文はもとより渡部昇一によるまえがきと、中川八洋によるあとがきと解説はかなりのトンデモ度。
理由はルソーというたった一人の存在によって社会主義とファシズムという、中川の考える二大極悪思想が生まれ、それはソ連とナチという形で現実のものになったと、解釈ではなく事実として信じているようにみえるから。
ルソーから直接、ポル・ポトへと矢印が引かれている図はあまりにも直接的で衝撃的。一人の思想家や一冊の本で世界が変わるのならば、思想史研究などいらない。さまざまな解釈がありうるからこそ、古典として読み継がれているのではないか。その意味では、古典はたんなる史料ではないはず。
☆
さくいん:ジャン=ジャック・ルソー
10/22/2002/TUE
「『新しい戦争』について」
10/24/2002/THU
KINOKUNIYA TIMES-2002読書週間号-紀伊国屋書店創業75年記念「私の人生に最も影響を与えた1冊」、紀伊国屋書店、2002
10/25/2002/FRI
時代のきしみ-<わたし>と国家のあいだ、鷲田清一、TBSブリタニカ、2002
10/26/2002/SAT
小林秀雄 美を求める心展、東京・渋谷・松涛美術館
近代文学館、東京駒場、高橋和巳文庫、川端康成記念分室
さわやかな朝がゆの味 高橋和巳コレクション5、巻末エッセイ、増田みず子、河出書房新社、1996
10/27/2002/SUN
アメリカン・デス・トリップ 上下(The cold six thousand、裏金六千ドル)、James Ellroy、田村義進訳、文芸春秋、2001
J.S.バッハ:ゴルトベルグ変奏曲、熊本マリ(ピアノ)、キング、1995
Starlight、小曽根真、Victor、1990
Only Trust Your Heart, Diana Krall, Victor, 1997
All For You: a dedication to the Nat King Cole Trio, Diana Krall, Victor, 1996
ピアノばかり。ダイアナ・クラールのつづき。小曽根真はちょうどよい軽さ。
「帰れ! 帰るな! いったいどこへ?」を植栽。
10/28/2002/MON
最近、朝は、中村雅俊主演の青春ドラマ『ゆうひが丘の総理大臣』(1978~1979)の再放送を音声だけ聞きながら通勤。
AFNが設備更新で休止の後、再開されたら8時5分から放送されていたDavid Letterman、“Top Ten List”がなくなってしまった。
10/29/2002/TUE
ルオー:出光美術館蔵品図録、Georges Rouaut、出光美術館、1991
ルオー:世界の巨匠シリーズ、Georges Rouaut、美術出版社、1989
バロック・ファンタジー、井上圭子(オルガン)、Denon、1989
渋谷の松涛美術館で見た「小林秀雄展」でとくに印象に残ったのがルオー。「聖顔」「郊外のキリスト」「ミセレーレ」。
ルオーはカトリックで、バッハはプロテスタント。時代も場所も作風も符合しない点が多い。緻密な音楽を聴きながら緻密な絵画を見るのも悪くないが、息が詰まりそうにもなる。
緻密なバッハを聞きながら、素朴なルオーを見ていると、何となく、バッハのなかの荒々しいもの、ルオーのなかの計算されたものが滲み出てくるような気がする。まったく気のせいかもしれないが。
☆
さくいん:ジョルジュ・ルオー、バッハ
10/31/2002/THU
デジタル書斎活用術 紀田順一郎 東京堂出版、2002
11/4/2002/MON
日本語練習帳、大野晋、岩波新書、1999
中川一政生涯展図録、定村忠士編、TBS・TBSビジョン、1992
梅原龍三郎遺作展 1988、東京国立近代美術館、朝日新聞社、1988
日本にある印象派その前後:美から美へ、加藤進治編、ロータリーの友事務所、1990
『日本語練習帳』 にあった面白い指摘。接続助詞「が」の連続に要注意。「のである」「なのである」は説教調になるので注意。短いコラムだけれども、フランス語を国語にと主張した志賀直哉への批判は痛烈。
中川は短歌、詩から出発、二十一歳で画具を手にいれ、独学で画家になった。
11/6/2002/WED
裏庭、梨木香歩、理論社、1996
バッハ:ゴルトベルク変奏曲BWV988、鈴木雅明(チェンバロ)、キング、1997
J. S. Bach: Sechs Partiten, Edith Picht Axenfeld (cembalo), Victor, 2002
チェンバロ2枚。
ピヒト=アクセンフェルトはCD店で試聴した。その時は衝動買いを抑えたが、あとでもう一度聞きに行って買った。
11/7/2002/THU
美を求める心(1957)、小林秀雄全集第十一巻、新潮社、2001
文章について(1932)、小林秀雄全集第二巻、新潮社、2001
かささぎ(1962)、掌の小説、川端康成、新潮文庫、1989
11/8/2002/FRI
高橋新吉詩集:現代詩文庫1027、高橋新吉、思潮社、1985
ふと高橋の「皿皿・・・・・・倦怠」と「るす」を思い出して読み直したくなった。驚いたのは中原中也が「高橋新吉論」を書いていること。私が高橋を知ったのは彼の死亡記事だから1985年のこと。だから中原には戦前の若者というイメージをもっている一方、高橋には戦後の過激な老人という勝手な思い込みをもっていた。
何のことはない。「倦怠」を含む詩集は1923年、高橋23歳の作品であり、彼と中原は同時代人で、中原よりも年上だった。こういう勘違いはよく起こる。もっとも、「るす」は1950年、50歳の作品で、それはそれでただ驚嘆するほかない。
11/9/2002/SAT
誰も言わなかった「大演奏家バッハ」鑑賞法、金澤正剛監修、講談社、2000
バッハ:バロック音楽を集大成した近代音楽の父、Sharlotte Gray著、秋山いつき訳、偕成社(伝記 世界の作曲家)、1998
近ごろ、バッハばかり聞くようになり、バッハに関する本を探してみところ、難しい音楽史か評論家の名盤解説ばかりで手ごろなものが見つからない。ふと、手に取った本書に千住真理子の談話が出ていて読みはじめた。
千住が天才と呼ばれもてはやされ、その後プレッシャーに屈して演奏から遠ざかったが復活したという逸話は日経新聞夕刊のインタビュー記事「人間発見」で読んだことがある。
本書の談話で天才と呼ばれたきっかけも、バイオリンが弾けなくなったのも、再び人前で弾けるようになり演奏家として完全復活したきっかけも、すべて無伴奏ソナタ・パルティータだったと知った。彼女のみならず、本書に執筆している演奏家のバッハに対する思い入れがよく伝わってきた。小塩節による「マタイ受難曲」の解説も親切。
バッハの評伝も探した。児童書の棚にあった偕成社『世界の作曲家』シリーズが読みやすかった。図版も多く、音楽用語の解説もわかりやすい。それでいてBWVが原語で"Bach Werke Verzeichnis"の略語であるというような細かな情報もおろそかにしていない。
こういう、子どもを子ども扱いしない児童書はありがたい。まったく知らない分野を学びだす大人にも役に立つ。
11/11/2002/MON
岩波講座文学9 フィクションか歴史か、小森陽一ほか編、岩波書店、2002
国を愛するということ:愛国主義の限界をめぐる論争(For Love of Country? (New Democracy Forum), 1996)、Martha Nusbaum、辰巳伸知・能川元一訳、人文書院、2000
アメリカニズム―「普遍国家」のナショナリズム、古矢旬、東京大学出版会、2002
ラインホルド・ニーバーとアメリカ、鈴木有郷、新教出版社、1999
ナショナル・ヒストリーを超えて、小森陽一・高橋哲哉編、東京大学出版会、1998
11/17/2002/SUN
「オリンピック・メダルは誰のものか」
11/19/2002/TUE
「クールベ展~狩人としての画家~、村内美術館
11/20/2002/WED
映画で考える戦争、奥田継男、ポプラ社、2001
11/21/2002/THU
有閑倶楽部 虎の巻、第十九巻、一条ゆかり、集英社、2002
11/24/2002/FRI
小林秀雄全集(1)(第五巻、第七巻、第八巻)、小林秀雄、新潮社、2001
小林秀雄全集(2)(第九巻、第十巻、第十二巻)、小林秀雄、新潮社、2001
1.5流が日本を救う、勝谷誠彦・ラサール石井、K.K.ベストセラーズ、2001
日記をつける、荒川洋治、岩波アクティブ文庫、2002
11/25/2002/SAT
秋の風景を表紙に植える。過去の文章も暇をみつけて推敲している。植木の剪定のようなものか。「裏庭」、「1.5流が日本を救う」などを見直した。
11/28/2002/THU
大阪泊。
11月28日になった。ブロードバンドで夏川りみのライブを聴きながら、「烏兎の庭」を正式に開く。
夏川りみの紅白歌合戦出場が決まった。
「堕落論」
「感動について-ホームページ開設に寄せて」
11/30/2002/SAT
新宿の美術館へ行く。期待していた展覧会だったが、楽しめなかった。
殺風景なオフィス・ビルの一角という立地がまず楽しくない。ロビーもなく内装もそっけない。これなら、バブルのさなかに建てられたような成金趣味でも、ある世界を作り出してくれたほうがまだましに思う。
専門家や美術を心から愛する人ならば、どこで見ても絵に没入できるかもしれない。私は美術の専門家ではないので美術そのものを楽しむことがなかなかできない。
私が楽しむのは、美術館の静かな雰囲気や高い天井とか広々した空間、そこでただ黙って絵を見るという贅沢な時間。そうした条件がそろってはじめて、絵をゆっくり見ようという気になる。
常設展の印象派絵画も、高額で購入したという先入観を助長するだけの嫌味な展示。あれなら図書館の隅で静かに画集を見たほうがいい。
12/1/2002/SUN
随筆「書く、ウェブに書く」
「ナンシー関の方法論」
書評「丸山真男における近・現代批判と伝統の問題」
書評「裏庭」、「1.5流が日本を救う」を剪定。
12/3/2002/TUE
荒川洋治のラジオ・コラム。作家の翻訳について
作家による翻訳は、勉強、取材のためや、創作とは異なる仕事をするためだけではなく、生活を支える手段でもあった。
文壇の大御所、尾崎紅葉も下訳作家のもとへ、書生を装い自分の文章の評価を聞きに行った。モーパッサンの「女の一生」を訳すことで、「男の一生」や「作家の一生」を支えた作家もいる。
荒川洋治が担当するラジオ・コラム(TBSラジオ、日本全国8時です、毎週火曜日)は楽しい。最近わかってきた。話していることは、別なところで随筆やエッセイとして書かれている、あるいはこれから書くことらしい。
それを知って、楽しみは二倍になった。荒川洋治の朴訥とした話し方も魅力的だし、名アナウンサーから名パーソナリティへと成長した森本毅郎との掛け合いも面白い。
話したことを詩人であり批評家でもある荒川がどんな文章にするのか、話すことと書くことの両方に魅力のある人は少ないだけに、楽しみでならない。
12/5/2002/THU
会いたくなる携帯、というコピー文はよくできていると思う。
技術を、技術のための技術ではなく、より人間的なコミュニケーションのための道具、きっかけとして理解しているから。
とはいえ、広告では離れている家族や恋人に会いに行く設定になっているところを、見ず知らずの人に会いたくなってしまっては、身もふたもない。
12/6/2002/FRI
小林秀雄全集(3)(第十三巻)、小林秀雄、新潮社、2002
もうひとつのピアノ、山崎玲子作、狩野富貴子画、国土社、2002
批評「異文化コミュニケーション」
批評「国内国際最高記録」、剪定。
12/7/2002/SAT
子どもと歯医者へ。
虫歯の治療ではなく定期健診なので、説明すれば怖がらないで行ける。衛生士が、機械を見せては「これで磨きます」、緬球を一つ握らせては「これを口に入れます」と話しかけてくれる。こういう気配りはありがたい。
大人は自力で「今、削ってるな、消毒してるな」と想像して自分を安心させようとする。いずれにしろ何がこれから起こるのか、具体的にわかることが不安を取り除くのだろう。安心した子どもは、大きな口を開けておとなしくフッ素を塗布してもらった。
同じ歯医者に6年以上通っている。いろいろ配慮されていて頼りになる。
確かな技術と深い知識、顧客を思いやる心配りと静かな情熱。
鑑定士なら「いい仕事してますねぇ」と言うにちがいない。
12/8/2002/SUN
日経ビジネスの購読延長を迷っていたが、結局継続することにした。理由は、ウエブマガジンを読みたいから。
日経新聞より日経ビジネスは辛辣で、ウエブマガジンはさらに先鋭。本家の社説や、大磯小磯などの経済コラムを露骨に批判することまである。先週のNEC相談役解任についてのコラムなど、印刷されたメディアでは読めない。
わかりきったことかもしれないけれども、メディアは対象が狭いほど面白い。一番うれしいのは、自分宛の手紙。
12/9/2002/MON
鍼灸院へ。
中学生のころから、腰痛が持病になっている。年に一度か二度、鍼を打たなければならないほどの痛みになる。腰が痛いときは、たいてい憂鬱な気分だと最近気づいた。
どちらが先か因果関係はわからない。思い出してみると、どちらが先の場合もある。いずれにしろ、腰の痛みと心の痛みはほぼ連動している。
腰は身体の要と書く。私の腰は、精神状態についての最も鋭敏な保護回路。早めに手当てすれば、気持ちが沈みこむことは予防できるかもしれない。
そう思って行ってみた。
12/10/2002/TUE
荒川洋治、ラジオコラムは書名の長さについて。
最近のベストセラーは、ビジネス書、実用書が多く、それらは書名がいずれも長い。過去から見ると実用書の書名は、どんどん長くなる傾向がある。理由は、主題がはっきりしているため、それ以上に、主題が細分化しているため。
文学書の書名は、短いものが多い。もっとも極端なのは、鶴見佑輔。母、子、弟、友、師、と一字を題名にした本を書き続けた。
吾輩は猫である、惜しみなく愛は奪う、余は如何にして基督者となったか、は例外的。
長短に関わらず文学の書名に共通するのは抽象性。何が書いてあるかわからないから、買って帰って家でゆっくり本の世界に浸れる。実用書は何が書いてあるかわかってるから、帰りの電車で読めてしまう。
聞きどころは、最近さらに厳しくなってきた出版業界への苦言。「書名が長い一番の理由は、編集者が含蓄のある、端的な題名を考える暇もないほど忙しいからでしょう」。
12/11/2002/WED
プルースト評論選Ⅰ 文学篇、Marcel Proust、保刈瑞穂訳、ちくま文庫、2002
紅一点論、斎藤美奈子、ビレッジセンター出版局、1998
トンデモ本女の世界、と学会編、メディアワークス、1999
トンデモ本1999 このベストセラーがトンデモない!!、と学会編、光文社、1999
思い余って4,000字(正味)近く書いてしまった。
荒川洋治は、人に読んでもらうなら7枚(2,800字、スペース込み)までと言う。
読み手の都合からすれば、そうだろうし、書き手にも長くは書かない事情がある。
書いている暇はそんなにないし、書きたいことがたくさんあって、一つの主題で長々と書いてはいられない。
12/13/2002/FRI
久しぶりにアルバム“Let It Be”を聴いた。ふと高校時代のことを思い出した。
現代文の宿題で「城の崎にて」の感想文を書かされたとき、志賀直哉のことはほとんど無視して、“Let It Be”と「則天去私」という内容で、無理やり作文した。
今から思うと、あの頃から文学への憧憬とポップスへの沈潜という分裂が、私のなかでは矛盾でもあり、自分らしさの拠りどころでもあった。あまり好きではない教員だったけれども、授業で読まれて少し気をよくしたことは覚えている。
作文は、落書きだらけの教科書と一緒にきっとどこかにしまってあるはず。
☆
さくいん:ザ・ビートルズ
12/14/2002/SAT
児童館で落ち葉拾いともちつき。
勉強は、塾と土曜の予備学級で教わることができる。行事と社会勉強は、児童館で楽しく経験できる。では、学校は何をするところ?
- 成績表と卒業証書をもらうところ。
- 勉強の成績はつけても、徒競走の順位はつけないところ。
- 式典で国旗を見上げて国歌を歌うところ。
- お仕着せの仲良しクラスで、自由、平等、個性が大事というお説教を聞くところ。
これでは不登校にならないほうが気味悪い。
12/16/2002/MON
夕食後、手塚治虫の『ブラック・ジャック』が話題になった。
出て来る、出て来る。登場人物、あらすじ、題名、小道具から台詞まで、労せずにいくらでも話題が広がる。
考えてみれば、昔の人にとってホメロスや、和歌や、シェイクスピアなどは、努力もせずに染み付いたものだったのではないか。
『ブラック・ジャック』が、そうした過去の文化に匹敵する質をもっているかどうかは知らない。それは他人が勝手に議論すること。私たちにとって染み付いた文化であることは間違いない。
☆
さくいん:手塚治虫、『ブラック・ジャック』
12/17/2002/TUE
荒川洋治のラジオ・コラム。速読と遅読について。
目を上下に動かす肉体的な読書の限界は毎分4,000字程度。ページを画像のように頭に焼き付ける方法にすると毎分10万字の読み取ることまで可能だという。
速読のすすめが売れているのは、立花隆と福田和也の影響か。「この二人の本もさっと読み流してしまうのがいいでしょうね。」(彼は10分の番組中、必ず一言、毒舌をはさむ。しかも話の中ほどでさりげなく、聞き流されそうな調子でぽそっともらす)
荒川のおすすめは山村修『遅読のすすめ』(新潮社)。ゆっくり読む、繰り返し読むことで、見落としていた一文に感動することがある。
読書は顔に出る。本の話をするとき、完読、つまり全部読んでいない人は話の筋ばかり話題にする。ほんとうに読み終わった人は筋の話をしない。
荒川は「ゆっくり読むことがむしろ時間の節約になる」という言い方しかしてないが、体験的には、ゆっくりと読みはじめても次第に書物に没頭してしまい、あっという間に読み終えてしまうことがある。
こんなに厚い本をほんとに読み終えたのかなと自分でも驚いて、ぱらぱらページを繰りなおすと、どの文章もよく覚えている。
おそらく、そういう読書をしているときには、たくさんアルファ波がでているのだろう。脳に快適な疲労感が残る。
12/18/2002/WED
ある人物が、一昨年に起こったテロの首謀者とされている。まるでこの人物が、いま起きているテロ犯罪のすべてに関わっているかのようにまで言われている。果たしてそうなのだろうか。
私たちはまだ、ネットワークということをほんとうに理解していない。人間は誰かの指示がなければ行動しないと思い込んでいる。
別々の場所にいる人間が、同じことに共鳴して、別々の時間に勝手に行動することは考えられないか。彼は首謀者でもカリスマでもなく、有力な支持者の一人にすぎないのではないか。
首謀者を決めなければ仕返しができないから、誰かを探しているのではないか。あるいは、自分を頂点にした組織を目指しているから、相手もそんな体制だろうと思い込んでいるのではないか。
12/19/2002/THU
小林秀雄講演 信ずることと考えること1、新潮社、1980
図書館で小林秀雄の講演カセットを借りてきた。神田生まれとは聞いていたけれど、話し方はほとんど北野兄弟。冷静なときは大で、熱っぽくなってくるとほとんどたけし。
それでいて、話の中身はベルグソンの哲学というのだから。まじめに聞きたくても笑わずにいられない。
文章にするときには相当に手を入れていることがわかった。文章になるとほとんど省かれている「諸君、君たち」という掛け声も心地よい。
久しぶりに名講義を聴いた気がする。
☆
さくいん:小林秀雄
12/20/2002/FRI
小林秀雄の講演カセットを聴いて思ったこと。
少し昔なだけだなのに、当時は話し言葉は今よりずっとくだけたものだったのかもしれない。今は、書き言葉と話し言葉にほとんど境界がない。というより、書き言葉のほうがくだけていて、話し言葉のほうが緊張しているくらい。
最近は、迷言に端を発する舌禍事件は多いけれども、筆禍事件は小説のモデル裁判以外にはあまり聞かない。新聞はすぐ片付けるから、社説など繰り返し読むことはないけど、政治家や経営者の暴言や失言はテレビで何度も繰り返される。小林のような牧歌的な講演は今は難しいのではないか。
前の首相がいつも準備した言葉を読み上げる形でしか談話を発表しなかったのも問題発言(=本音)を口走らないようにという配慮があったからにちがいない。
折りしも日経ビジネスのウェブサイトで、政治家と経営者の迷言を読んだばかり。総会屋に取り込まれた経営陣を恨んで、無名社員がパソコンに残した落首を引用し無責任と悲哀を鮮やかに対比させていた。
12/21/2002/SAT
丸山真男における<国家理性>の問題、姜尚中、丸山真男を読む、状況出版、1997
6 解体と終焉、竹内洋、日本の近代12 学歴貴族の栄光と挫折、中央公論社、1999 12.20.02
時刻のなかの肖像、辻邦生、新潮社、1991、海峡の霧、辻邦生、新潮社、2001 12.22.02
「丸山真男と小林秀雄――「伝統」と「思い出」をめぐる覚書」
小林秀雄は今年後半まとめて読んだ。
丸山眞男は6年ほど前に『日本の思想』『開国』『忠誠と反逆』『現代政治の思想と行動』など、主だった著作を時間をかけて精読する機会があった。
どの文章も長い時間をかけて書いてきたが、いっこうにまとまらない。
書き上げたという感触は全くないけど、ひとまず掲載してみることにした。
客観的になって読み返すと、新しい考えが浮かぶかもしれない。
12/23/2002/MON
絵本評「げんきなマドレーヌ・マドレーヌといぬ」
辻邦生の随筆集の書評、雑文「クリスマスを前に」
「アイロニーとしての世界市民」を剪定。
「マドレーヌ」の書評には辻邦生からの引用があるので、同時に公開することができたのは時宜がよかった。
12/24/2002/TUE
荒川洋治のラジオ・コラム。今年流行した言葉について眺めた後、荒川に今年もっとも印象に残った言葉を紹介。
高見順の戦中の小説「東京紳士」の一節。戦地から一時帰国した記者が喫茶店に入ろうとすると、「コーヒーか干し柿になりますが」と言われる。コーヒーはもちろん木の実などの代用コーヒー。記者はその取り合わせの妙にしばし、戦下の窮乏生活を忘れ暖かい気持ちになったという。
荒川は言う。「いつの時代でも新しい言葉が、人々の心を満たし、変えていく」
結論を森本がまとめる。「どうも最近の流行語は直截的で想像力をかきたてるものが少ないようですね。」
私が今年出合った言葉で印象に残ったのは、辻邦生の「世界文化混淆主義(アレクサンドリア)」という言葉。グローバリズムに生きる複合的なアイデンティティをこれだけ前向きに美しく表現した言葉はなかなかない。
12/26追記
「世界文化混淆(アレクサンドリア)」は、楽観的に過ぎるかもしれないと感じはじめていたところ、同じ心情、状況を絶望的に言い表した一言をみつけた。それは、姜尚中「オリエンタリズム」(岩波書店、1996)のはしがきで引用されているエドワード・サイードの「超越論的故郷喪失」という言葉。
「世界文化混淆(アレクサンドリア)」と「超越論的故郷喪失」の感覚。
それらは磁石の両極となって、二十一世紀にモザイクのように敷き詰められている。その表面をふわりと浮かんで、リニア・モーター・カーのように滑る。前に進むのか後ろへ退くのか、後ろを見ながら前へ行くか、前を見ながら後ずさるのか。はたまた遊園地のコーヒーカップのように進みながら回り、滑りながら進むのかもしれない。で、時間が来たら同じところへ戻っているのか。
そこまで考えるのは今はやめよう。ともかく、コーヒーカップはぐるぐるまわることを楽しむものなのだから。
12/26/2002/THU
ご馳走が続いたのであっさりしたものを食べたくなった。入ったのは立ち食いそば。
思ったとおり、まずい。コシというより粘り気だけが強い麺。身体によくなさそうな黒々としたつゆ。衣ばかりのかきあげ。
これが、いってみれば、まずうまい。
見まわすと一人客ばかり。皆黙って猛然と食っている。今は食うことしか頭にない感じ。
これまであったことも、これからあることも、みんな忘れて、目の前のまずいそばをひたすら食う。これしかないと思うと、これが一番うまいと思われてくる。
かきあげそば、360円。まずかった。うまかった。
12/15/2003追記
ずいぶんとしばらくぶりに矢野顕子「ラーメン食べたい」(『オーエスオーエス(1984)』、ミディ、1993)を聴いた。「わたしはわたしの/ラーメンたべる/責任もってたべる」というところを聴いて、一年前に書いた雑記のことを思い出した。
私の文章は、たいてい前に聴いたことがある歌の歌詞に意味が重なる。ときどきそうした歌詞の一言を、すべての文章のエピグラフにしたい衝動にかられる。
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