珠玉というとありきたりだけれど、これだけ含蓄がある作品を毎週、完結した短編として連載していたのだから、手塚治虫は、物語の種を数え切れないほど持っていたのだろう。それでもなかにはしっくりこない結末や、無理のある設定もないわけではない。
文庫版第17巻に収められたのは、これまで単行本化されなかった話ばかり。確かにどれも癖があり、いずれも傑作、名作とはいいがたい。それだけに、かえって高品質の作品を毎週、連載していた緊張感が伝わる。
手塚作品といえば、「ヒューマニズム」と即座に結び付けられやすい。けれども読んでみると、人間の素晴らしさを訴えた作品ばかりではない。人間の愚かしさを徹底的に暴き、さらには人間の存在まで否定するような作品もある。「鳥人間」など、第17巻の作品は、とくにその傾向が強い。そうした作品は、虫プロの経営が行き詰まったことや、マンガの潮流が手塚作品から離れ始めたことなど、手塚自身をとりまく状況の困難に由来すると、『ダイジェスト』は指摘している。
これまで読んだことのある作品では、『鉄腕アトム』単行本別巻(朝日ソノラマ、1976)の「アトムの最後」、『アドルフに告ぐ』(文藝春秋、1985)も、何度読んでも嫌な気持ちになる。
手塚のヒューマニズムは、手放しの人間礼賛ではない。暗黒面の裏返し。あるいは、暗黒面を裏返せば、明るい面があるはずだと信じるところに手塚作品のダイナミズムがあるとも言える。それが可能になったのは、手塚自身が自分の暗黒面から目をそらさず、そうした面を直視していたからに違いない。
『ブラック・ジャック』の面白さは、一話完結の物語だけでなく、手塚作品に登場するキャラクターが入れ替わり登場するところ。山本は「スターシステム」と呼んでいる。手塚は映画監督であり、物語に合わせて、ヒゲおやじや、ランプ、サファイヤなどを配役する。
スターシステムが成り立つためには、膨大な数のキャラクターが出来上がっていなければいけない。それぞれのキャラクターがメリハリのある性格であることは言うまでもない。漫画家や小説家のような、いわゆるストーリー・テラーにとって、この点での才能は必須だろう。手塚作品だけに見られる特色ではない。
注目したいのは、同じ人物がいつも同じような役柄をするわけではないところ。ヒゲおやじはもともとは学校の先生役として生み出されたというが、『ブラック・ジャック』では、おっちょこちょいのスリや厳しい父親などの役柄にも当てられている。もともとは男装の王女役として登場したサファイヤも、『ブラック・ジャック』では、浮き沈みを重ねる劇的な女性を演じる。
キャラというと、いかにも固定した性格、一面的、類型的な人物像を思い浮かべる。手塚作品、なかでも『ブラック・ジャック』では、キャラはもっと複雑で多様な扱いを受けている。この点が物語を生き生きと、より人間味あふれるものに感じさせている。
最近は、往年のマンガやアニメに関するムックのような本が増えている。『コンプリート・ダイジェスト』や『スターズ エンサイクロペディア』のような詳細なリストは、手軽な「謎本」や制作裏話のようなインタビューを中心にした本に比べれば、地味だけれど、作るのは意外に大変なのではないだろうか。
同じ『ブラック・ジャック』でも、単独で報酬リストを作成した先駆者、豊福きこうは、連載、単行本で異同が多い手塚作品を分析する苦労を書いている(『ブラック・ジャック90・0%の苦悩 マンガ・データ主義応用編』、情報センター出版局、1992)。
報酬や登場人物で作品が検索できるようになったのは、便利。一つの話を探して、順繰り読んでは半日潰してしまうような休日は減りそう。
さくいん:『ブラック・ジャック』、手塚治虫
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