10/7/2006/SAT
2003年11月25日の日誌にある同年12月23日の追記に加筆。最近、このように日付を明示した追記はしなくなった。
アニメ『こち亀』の麻里愛から、声優の麻生かほりを経由して、『ナースエンジエルりりかSOS』へリンク。アニメ版の『こち亀』はほとんど見ていない。それでも漫画を読む時、両津の台詞はラサール石井の声で聴こえる。最近、日経新聞の文化欄に、連載30周年を迎えて秋本治が書いていたので、この日誌の記述を思い出した。
もう一つ、昨年の夏に書いた絵本評「むぎわらぼうし」に曲名だけあった小椋佳「時」に歌詞の一部を引用して追記。
さらにもう一つ、変えようとして変えなかったところ。
図書館の視聴覚室、歌謡曲の棚で富田靖子のベスト盤『14-19』(コロムビア、1988)を見つけた。歌以外に彼女が主演した映画のセリフが部分的に収録されている。
映画『さびしんぼう』(大林宣彦監督、東宝、1985)から、「Home Position――失われた声を求めて」で引用した部分が聴ける。記憶に頼って書いた台詞は違っていた。実際はもう少し長く、二つの文に分かれている。
正確に引用すると冗長になり、自分の記憶と違ってくるので、文章はそのままにした。
三つの追記に客観的な関連はない。主観的にはすこし感傷的になっているかもしれない。
感傷的になると、偶像について考える。つまり、結果から原因をみれば、偶像崇拝は感傷性の延長線上にある。
感傷性の原因は、実は、精神の問題というよりも現実の問題にある。どうにもならない生活上の問題を前にして、甘美な空想に逃げ込もうとしている状態。だから感傷性に溺れないようにするには、精神的な問題を探求するのではなく、現実の問題を実際的に解決する方が早い。
少なくとも、そこまでは、よくわかっている。
写真は、東京、代々木公園の木陰。
さくいん:『ナースエンジェルリリかSOS』、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』
10/14/2006/SAT
前に書いた書評「ぷちナショナリズム」(香山リカ、中公新書ラクレ、2002)、出版元の名前を訂正。新書シリーズの名前はラクレ。フランス語の鍵(la clé)に由来するという。ずっとクラレと思っていた。台所のラップのような名前と思い込んでいたのは、どういうわけか。
香山リカは、新聞や雑誌で名前をよく目にする。書店で見かけると、立ち読みすることもある。共感するところも少なくないけれども、仕事が多くてついていけない。どれが中心の仕事なのかもわからない。『ぷち』のあと、単著は読んでいない。
最近は『西田幾多郎 善の研究 能動知性5 実在と自己』(哲学書房、2000)という本で、長い解説を読んだ。ここで香山は、厚底サンダルで転倒した女性の話から文章を書き起こしている。わずか6年の後に、解説が本編よりも古臭く感じられてしまう。気の毒というほかない。彼女自身、自分が書いたこの文章を覚えているだろうか。
西田幾多郎にとって、『善の研究』は渾身の一作だった。だから、何度も読み返し、書き直した。岩波文庫版には、明治44年(1911)、大正10年(1921)、昭和11年(1936)にそれぞれ書いたまえがきがある。
最後に書かれた「版を新にするに当って」では、『善の研究』の執筆後、「実在と自己」を追いかけてたどった思索の道程が簡潔に述べられていて、そこから原点をふりかえる優れた自著解題となっている。
『善の研究』の解説を香山リカが書いているように、西田幾多郎の思想は精神医学とも関連があるらしい。香山も参照している、木村敏「西田哲学と精神病理学」(『関係としての自己』、みすず書房、2005)も読んでみた。精神医学の本を読むようになった時期に西田幾多郎に興味を覚えたことに、必然的な偶然を感じる。
哲学や文学を精神医学で分析する手法は、今では珍しくない。精神医学者以外にも、脳科学者や解剖学者が哲学や文学について語っている。そういうことが多才の証明のようにも扱われている。
見方が反対ではないか。かつては文学者や哲学者と呼ばれた人たちは、今では医学の最先端にいる専門家が考えるようなことを、書斎で海岸で、また散歩道で、一人きりで考えていた。そのことの方が、ずっと驚きに値する。
荒川洋治が最近しきりに使う、「文学は実学」という言葉の意味は、こういうことではないか。いまでは実学とされていることを、文学は一人一人の言葉を通じて担ってきた。
文学が実学に屈しているのではない。一人一人の思索とそれを表す言葉が自分に負けているから実学に依存することになる。『文芸時評という感想』(四月社、2005)をようやく借りてきて、まずぱらぱら読みながらそんなことを考えている。
この本の文章は、かなり厳しい。毒気に当って、私も少し意地の悪い書き方をした。
西田幾多郎に関する本は、入門書から専門書まで数え切れないほどある。何冊読んでもきりがない。それでもつい手に取ってしまうのは、西田の言葉から直接に響いてくるものを掴みあぐねているから。
確かに何かを感じている。それが何かわからない。言葉にできない。それだから、つい哲学の言葉を実学の言葉に言い換えた本に安易に頼ろうとしてしまう。
でも、心に響いた、言葉になる前の何かを掴むことができなければ、純粋経験という概念を理解したことにはならないし、哲学者の仕事に驚いたことにもならない。あらためて西田幾多郎の文章だけを読むことにする。
写真は、逗子、長者ヶ崎の砂浜とすすき。
さくいん:西田幾多郎
10/21/2006/SAT
書評「徴候・記憶・外傷」にあったSimon & Garfunkel,“Sound of Silence”の詩句を少し詳しく書き入れた。
一つの光景が、私の頭に種子を残していった。そして、ときおり私を暗黒と静寂に招き入れる。
暗黒、暗闇という言葉も、名前、バカ、モグリ、エッセイと同じように、「庭」の中に繰り返して登場する。ここにも跡を残しておきたくなった。
今週、一人で映画『ブラック・ダリア』を見た。映画館へ足を運ぶこともほとんどないし、一人で見るのはもっと珍しい。原作は、ジェイムズ・エルロイ。
前に見た作品と比べると、ミステリーや青春ドラマの傾向が強くて、期待していたノワールらしい雰囲気はあまりなかった。主人公がやや純情すぎるようにも見えた。
ノワールを期待していた、ということは、つまり、この映画に私は暗黒を求めていた、ということ。
嫌な気持ちをますます嫌な気持ちにする、沈んだ気持ちをわざとさらに滅入らせる。それがかえってカタルシスをもたらすこともある。人間の奥底にある暗闇を暴き出し、覗き見ることさえ、娯楽にしてしまう。そこに二重の暗黒がある。
新聞の評を読んで期待していたせいか、上り詰めたジェットコースターが頂上で止まったような気持ちになって帰宅した。暗黒をのぞいて暗黒を知ることを求めるという、第三の暗黒を知る。第四、第五、第六、きっと暗黒は連鎖している。
暗黒の項に入れるために、2006年4月2日の箱庭に「きっと輝くものは、その暗闇の奥にしかない。」の一文を挿入。
写真は先週のつづき、逗子、長者ヶ崎の海。
さくいん:暗黒・闇、サイモン&ガーファンクル、ジェイムズ・エルロイ
10/28/2006/SAT
2003年3月13日の雑記に高史明とNHKのドラマで彼の役をつとめた愛川欽也の名前を書き入れ、索引に高史明の項目を作った。
岡真史『ぼくは12歳』を最初に読んだのはいつだろう。初版は1976年、手元の本には、1978年、14刷とある。テレビドラマは1979年の4月に放映されたという。ドラマを見たときには、すでに知っていたような気がする。でもドラマの中身は覚えていない。
父親役が愛川欽也だったこと、母親役がのちに『続・続・事件』で被害者役になった樫山文枝だったことは覚えている。尾美としのりが中学一年生を演じていたことは、あとで『転校生』や『さびしんぼう』で尾美としのりの顔を何度も見ているのに、覚えていない。
小学校四年生だったか、国語の授業で、気に入った詩を発表する宿題に、ある女生徒が「空のすべり台」を読んだ。
「労働」という言葉を、生れて初めて音として聞いたように響いたことを覚えている。12歳の少年に「労働」の意味が理解できていたとは思わない。その頃、詩集のことは知っていたような気がする。小学校四年生であれば、ドラマ放映の前年のこと。
図書館の児童書の棚で『生きることを学んだ本』(筑摩書房、1989)を見つけた。沢山の本が紹介されているけれど、結末まで要約しているので、読書案内としてはうまくない。読書案内というよりも、読書指導の案内なのだろう。でも、なぜか、本書のなかで椎名麟三「深夜の酒宴」が気になり、初期の短中篇をそろえた『重き流れの中に』(1950、新潮文庫、1994)を借りてきた。
重苦しい言葉がぎっしり詰まった小説を読んで、先週渇望していた暗黒が満たされた気がする。
うんざりするほど「のだ」が続く文末が独特。重苦しさはリズムだけではなく、語彙にも理由がある。
雨、絶望、思想、堪える、強い意志、精神のきらめき……。語句をひろいながら読んでいる森有正が用いる言葉に驚くほど似ている。愚劣、陋劣、という椎名の言葉は、森であれば、軽薄、夜郎自大と書くところだろう。
舞台も題材も、おそらく二人の感じ方もまったく違う。文末や言い回しも違うから、語句だけに注意を払っていなければ、共通点には気づかなかったかもしれない。
「愛する」という言葉を、人の仕草やものに対して、「私はそれを愛する」と使うことでも二人は共通している。このような使い方は、最近の文章ではほとんど見かけない。使うとしても、「愛している」だろう。昭和前半の言葉遣いかもしれない。
二人には、戦争と敗戦という時代以外にも、ドストエフスキーやキリスト教といった共通点がある。とはいえ、それらが揃えば、彼らのような文章になるとは限らないだろう。
戦争、ドストエフスキー、キリスト教。三点のどれも、私に接点がない。それでも、重く暗い彼らの言葉に、なぜか心を揺さぶられる。私と彼らとのあいだに、似通うものがあるわけではない。おそらく、単にこういう文章が好きなのだろう。
言葉を換えれば、私は一つの娯楽として暗黒をながめているに過ぎない。深淵のまわりを、ぼんやり足取り重く歩いているだけ。だから軽薄で愚劣と言われる。
ある時代にベストセラーになった『ぼくは12歳』も、最近ではもうあまり読まれていない。似た境遇の本がそのあといくつも出ている。前を辿れば、奥浩平、高野悦子、原口統三、藤村操らが、それぞれの時代で読まれた。
似たような本があっても、同じ時代に生きていた者にとって、それぞれの本の代わりになるような本は二度と現われない。読書は個人的な体験とつくづく思う。文学作品としての価値という尺度はここでは意味がない。
つい最近、『ぼくは12歳』と思いがけない再会があった。図書館のヤングアダルトの棚で偶然手にした『最後の手紙』(立川昭二、筑摩書房、1990)。読後に何も言葉が見つからず、この本の書評は残していない。
病気、老衰、戦争、自死。正岡子規にはじまり、さまざまな理由で亡くなったさまざまな人々が最後に残した言葉をたどる、死をめぐる日本近代史。
岡真史は、「繁栄の陰で」と題された最終章で、原民喜、樺美智子、高野悦子とともに採り上げられている。有名人やベストセラーばかりではなく、著者自身の忘れられない体験も書いてある。この主題に対する立川の思いは興味本位や知的欲求だけでないことがわかる。
図書館で検索して立川の近著『生と死の美術館』(岩波書店、2003)を借りてきた。古今東西の美術を紹介しながら、人間の生と死へのかかわりを考える、まさに「描かれた生と死」。専門である医療史の知見も豊富に織り込まれている。
『最後の手紙』の最終章に書かれていた、立川が教え子から受け取った「最後の手紙」にもあった古代ギリシアの墓碑も見ることができる。
ゴッホが最後に収容された病院で描いた「アルルの病院」を初めて見た。「アルルの部屋」と同じように歪んだ空間に明るく、穏やかな光と重苦しい空気が同居している。
最期に目を閉じる直前、ゴッホは弟のテオに、“La tristesse duera toujours”(悲しみはいつまでも続く)と言ったという。
悲しみ。
この言葉は、名前をあげたすべての人の生涯に影を落としている。
去年の10月28日にも、原民喜について書いていた。不思議な偶然。
写真は、江ノ島、頂上から岩戸へ下る途中で見た崖と芒と海。