もうひとつのピアノ、山崎玲子作、狩野富貴子画、国土社、2002図書館の児童書新刊の棚で見つけた。ピアニストをめざす少女が、ほんとうの自分を見つける物語!――奥付に書かれた文章がすべてを語っている。結末まで見え透いている物語だけに筆運びが難しい。むしろ、それが全てといっても過言ではない。どんな風に書いてあるのか、少し気になって読み出したら、止まらなくなってしまった。 人が驚くほど感傷的になってしまうとき、実は極めて現実的な悩みを抱えているもの。そして、あまりに現実的に見える問題は、しばしば自分の存在論的な悩みが創り出す幻影でもある。自分の存在が危ういから、現実に対し不安になり、気持ちが憂鬱になる。 存在に関わるような深い悩みにおちいったとき力になるのは、超越的な存在と超現実的な体験。自分の外側にある存在が助けてくれるように感じたとき、あるいは、これまで体験したことのないような体験をした時、生まれかわったように苦悩から解き放たれる。前者を神ということもあれば、後者を解脱ということもある。 そこまで極端に宗教的だったり修練的だったりしなくとも、深刻な悩みを解く鍵は、たいていどちらかの要素をもっている。この物語でも、風呂場の窓に映る不思議な像と高山列車にあるスイッチバックに乗り合わせた体験とが、それぞれを示している。 悩みを吹っ切るとは、いわば超越的な原理を見出すことによって、現実的な問題と、情緒的な不安定さを同時に解決すること。ただし、超越的な原理を自己の内側に見出すことと、自己の外側にある超越的な存在にすがることは違う。後者は、丸山眞男なら「惑溺」、より現代的な言葉を用いる鷲田清一なら「癒されたい願望」と呼ぶような状態と言える。 超越的な存在が自分を助けてくれるように思うのは構わない。それでも最終的には超越的な原理が自己の内面で発見され、そこで確立されなければならない。内面で確立するということは、目に見える形で表現するということ。それをしないでいると、外在する超越的存在は、単なる偶像やカリスマに終わる。悩みはすりかえられるだけで、癒えるどころか徐々に内側から人間性を蝕んでいき、やがて崩壊させる。 また、個人的な超現実的体験を、普遍的な原理と解釈してしまえばオタクになるし、超越的な存在にまで押し広げれば、神秘体験と言えるかもしれないし、オカルトになる可能性もある。 主人公の少女はコンクールに落ちたショックから小指が動かなくなる。辛い気持ちで母親が病院で患者のために弾いたピアノを聞いて、何かに気づく。そして、ガラス窓の像は守り神かもしれないという祈祷家や、迷信を恐れる家族の声をふりきって、ピアノを弾く大切な手で窓を叩き壊す。 偶像を破壊することで、少女は解決を自分の外側に依存する道を断ち切る。さらに、列車に乗るというありふれた体験を、自分だけに固有の特別な「経験」として読みかえることにより、ピアノが弾けないという現実的な悩みも、コンクールに落ちたという感情的な苦しみも、一気に消し去る。 もはや彼女にはピアニストになるかどうかは問題ではない。彼女は生きるためだけにピアノを弾くだろう。職業にしようとそうでなかろうと、彼女のピアノは聴く人を感動させるだろう。その演奏には、彼女の苦しんだ軌跡も苦しんだ末に見出した喜びも、それらのすべてを含んだ彼女の生が響いているから。 悩む原因を生み出したものも、苦しみを突き抜けるきっかけを与えたものも、彼女が愛して止まないピアノだった。彼女の生は、ピアノを離れてはありえないのだろう。 この物語は、文章がピアノの音色のようにやさしく流れていく。文章の巧みさが、わかりきった筋書き、しかも「自分を見つける」というありふれた主題を、道徳の読み物や、安っぽい体験談に終わらせないでいる。筋書きをほとんど書いてしまったのも、この物語に限っては何の問題もないと思うから。 むしろ、筋書きがわかって読むと、作者のただならぬ力量を堪能できる。主題にふさわしい文体、ありがちな物語であるにもかかわらず読みごたえのある展開。それらが成り立つのは、何よりも作者が書きたいことを明瞭に把握しているからに違いない。 さらに付け加えると、この物語がかもし出すやわらなか雰囲気は、挿絵によるところも大きい。しかも物語が進行するなかで、的確な場面で象徴的な絵が挿入されている。才気あふれる作家と画家の後ろに、はっきりとした企画意図をもった編集者がいたことがうかがわれる。 ふと手にとった本がこんなにも素晴らしくて驚いた。偶然というより、この出会いははじめから用意されていたような気さえする。それは超能力でもなければ、神様の贈り物でもない。純然たる私だけの文学体験というべきだろう。 |
碧岡烏兎 |