2003年12月 |
12/1/2003/MON一昨日、「選ぶのは『生き方』であり、『職業』でも『働き方』でもない」を植栽した。この文章は、先週読んだ、主に大学三年生に向けられた日経新聞の就職活動の特集記事をきっかけにしている。作家、村上龍が「選ぶのは『仕事』『働き方』であり、『会社』ではない」と題されたインタビューを受けている。村上龍の作品は、食わず嫌いで読んだことがない。 この文章は、村上に反駁することを目的としているわけではない。そこでインタビューを引用することはしなかった。ただ、このインタビューは、文化人と呼ばれる人たちがもっている労働をめぐる思い込みを象徴しているように思われたので、題名を借用することにした。 ここでいう文化人とは、やりたいと信じている仕事を職業にしていると信じている人のこと。つまり、自称文化人は二重の自己欺瞞に陥っている。 この問題は、私にとって身近でいて、長く解決できていない問題。文章を書きはじめる前から何冊かの本を読んで考えてきたけれど、なかなかまとめることができないでいる。今回も、酒をあおってようやく第一稿を書き上げた。情けないことに、酒の力を借りなければ、言葉にできないような問題。 後で考えなおすときのために、これまでに読んだ同じ主題の本の名前を残しておく。今回の文章は、これらの本に対する感想でもある。 会社本位主義は崩れるか、奥村宏、岩波新書、1992 ☆
2002年の雑記に、これまで公開していなかった読書記録、雑記を追加。書いたときには、公開したくない、あるいは公開するに値しないと思った文章も、時が経ち、ほかの文章と並べてみると、何か意味があると感じられるものもある。 書評「小林秀雄全集」のほかに、昨年の同じ時期に書いた文章を細かく剪定。論理的な破綻が気になるけれども、それはそのときの勢い、言ってみれば文章のグルーブ感のようにも感じる。それとも、言い訳がうまくなってきただけか。 さくいん:労働 12/2/2003/TUE批評「選ぶのは『生き方』であり」を書いてから、読み返すと何かおかしい。違和感は「やりたい仕事」という言葉にある。先日、図書館の壁に学生向け就職活動を支援するセミナーのポスターが目に止まった。目を止めたのは「ヤリタイ仕事、見つかります」というカタカナ。カメラを持っていたら『VOW』に投稿したいくらい。「ヤリタイ仕事」とは、まるで18禁ビデオの男優ではないか。 アダルト・ビデオの男優を見下すつもりはない。第一人者であるチョコボール向井や加藤鷹の本も、興味深く読んだことがある。もっとも感想は残してない。理由は、それらの作品が私に書評を書かせようと思わせなかったか、感想を公開することをためらわせた、自分のなかにある偏見や羞恥か、ほんとうに感心したので、まだ何も言葉にできていないか、そのいずれでもあるだろう。 いずれにせよ、ここで書いておきたいのは、言葉には使われるべき場所があるということ。しかし、個人個人が言葉に対しそれぞれ計り知れない経験と感覚を持っているから、書き手は読み手の想像力を完全に制御することはできない。 つまり、場違いな響きを止めることはできない。そうだとしても、「読み手が勝手に想像することだから」と開き直り、その場にふさわしい言葉を選ぶ努力をやめることも間違っている。 「出会い」という言葉はいやらしい感じがする、と誰かが書いていた。私は、「出会い」には特別いやらしさは感じないけど、「やりたい」と書いてあると、カタカナの「ヤリタイ」を想像してしまい、文章の内容に目が行かない。 自分で書いた文章でさえ、こういうことが起こる。酒をあおって書くほど意気込んだ文章なのに、たった一語、場にそぐわない言葉があるばかりに、期待したものとは違う雰囲気を漂わせてしまう。といっても、「やってみたい仕事」でも「希望の仕事」でも、しっくりこない。とりあえず、そのままにする。 言葉が勝手に喚起するイメージは、恐ろしい。 ☆
書評「在日外国人と帰化制度」を剪定。現代文化の多様性、いわゆるクレオール性を表現する比喩を「韓系でも、初詣も行けば、ロックも聴くはず」から、「味噌汁も飲めば、餃子も食べるはず。食べ物だけが文化ではないとしても、その他の分野でも状況は同じであるに違いない。」に変更。 初詣に行くかどうかは、根本的には宗教の問題、個々人の信仰に関わる問題。国民性の問題とはやや異なる。これらを混ぜ合わせてしまうことは、「日本人」という語をあいまいなまま使うことと根は同じ。 養老孟司のインタビューが日経ビジネスに掲載されていたので、感想を2003年7月9日の雑記に追加。 12/3/2003/WED昨日の荒川洋治。年賀状について。 新年の挨拶は645年の大化の改新にさかのぼる。江戸時代には、主人が雇い人や取引先などを招き、「大盤振る舞い」をした。明治32年には、郵便によるあいさつ、年賀状がはじまる。 お年玉つき年賀はがきの登場は、昭和25年。明治29年に書かれた尾崎紅葉の小説『多情多恨』のなかに、当時の人の年賀状への思いがわかる文章がある。訪ねあう間柄がもっとも親しく、年賀状のやりとりだけではさみしい。「お互い、はがきだけにはなりたくないね」という会話がある。 年月とともに年賀状を出す人はかわる。学校の卒業、就職、転勤、転居、結婚などで疎遠になる人もいる。年賀状をだすか、ださないか、最後の基準は相手の人柄。 年賀状は粛々、淡々としているほうがいい。生きてるよ、と知らせるだけでも十分。それでも自筆の一言は書いたほうがいい。宛名も手書きがいい。 『徒然草』の三十五段に、字が下手な人が書く字もいい、他人に頼んで書いてもらうのはよくない、と書いてある。家族写真はよくない。日ごろよく会う人、身近な人、すぐそばの人にだす年賀状もいい。 今年の1月、新年一回目の放送でも年賀状が話題になっていた。そのときは、一言が、できれば手書きであったほうがいいと荒川は強く主張していた。 今回の放送では年賀状は「出すこと」に意味があると話していた。「ちゃんと生きてるよ、何かあったら助けになるよ」という気持ちさえ伝われば、年賀状は充分、というのは、ちょうど雑記に書いたビジネスマンの考え方に近い。 12/4/2003/THU夕べは鳥取泊。偶然、鳥取民芸館を見つけて、短いが濃密な時間を過ごした。文章のデッサンもした。アトリエに戻って読み返すうち、いつかは一枚の作品に仕上げられる日が来るだろう。こうした文章の書き方は、小松で見た宮本三郎の絵に教えられた。このことは随想「北陸行」に書いた。 これから書くのも、そんな風にでかけた先でデッサンしたメモから書き起こす一枚。しばらく前の大阪での出来事。 一日歩き回り疲れきって、いつものホテルにたどりついた。もう一度外へ出る気にはなれないほどくたびれていたので、ロビーのわきにあるレストランで食事することにした。 席に座り、ようやく人心地ついたところ、水をもってきたウエイトレスは、「ドリンク・バーなら飲み放題です」と奨める。「では、それにします。」そう応えると、「では、ご自分で好きなものをとってきてください」と返された。 朝食のバイキングでもあるまいし。「小さいとはいえ、ホテルと名のつく店で夕食を注文して、自分で飲みものをとってこいとは何事だ」と、キレるどころか言葉にすることもできないほど、ぐったりしていた。もう酒もどうでもいいや、と思いはじめたそのとき、「それでは持ってきます」とウエイトレスは、すぐにビールを注いだグラスを持ってきてくれた。 そのあと、届けられた食事を食べていると、ほかのテーブルをまわるついでに必ず、彼女は戻ってきて「もう一杯お注ぎしましょうか」と声をかけてくれた。食べて元気になったので、ワインは自分でとりにいった。 うれしい体験だった。サービスとは何かいうことについて考えさせられる体験だった。彼女は、なぜ私に親切にしてくれたのだろうか。 さすが大阪の人は気さくだから。大阪に初めてきた人なら、そう思うかもしれない。外国からの旅行者なら、こういうところに「日本人のおもてなしの心」を感じるのだろうか。経済評論家なら、そのホテルでは社員教育が行き届いていることを褒めるだろう。何気ない出来事を滋味のある文章に書くエッセイストは、さりげなくみせた彼女の優しさを感じとるに違いない。 それでは、批評文作家なら、どう書くだろう。あるいは、問題は、次のようにたてるべきかもしれない。どれか一つに決められず、これだけ書いた私は、いったい何者だろう。疑り深くて、優柔不断であることだけは間違いないとしても。 ☆
書評「小林秀雄4」を剪定。小林がベルクソンについて書いた「感想」の原稿を破棄するよう遺言した理由と、彼が趣味や私事を切り売りしなかった例として『全集別巻Ⅱ』で読んだ逸話を挿入。題名と執筆者は、図書館で要再確認。 2003年8月20日の雑記に追記。絵本「はじめて学ぶ絵本史Ⅲ」の段落、表現を剪定。 12/5/2003/FRI言語 Vol.31 No.1 2002年1月号 特集 読書が変える世界 世界が変える読書 読書のパワーと愉しみを捉え直す、大修館、2002『言語』は図書館でときどき借りる雑誌。特集記事はもちろん、さっぱりわからない言語学の専門的な小論文や、巻末の専門書の広告も面白い。いろんなことを研究している人がいて、いろんな本がでていることがわかる。 今号では、紀田順一郎(「『読む』文化から『引く』文化へ」)、阿部謹也(「西欧における個人形成の原点にあるもの―贖罪規定書に見る」)など、これまで読んだことのある人の文章も掲載されている。 面白く読んだのは、月村辰雄「書物の形と読書の姿―巻子本の文化と冊子本の出現をめぐって」。月村によれば、活字を黙読することが知的な活動とみなされたのは印刷された本が広く普及してからのことで、それ以前は読むといえば、朗読したり、朗読を聴くことだった。自分で読むことは、むしろ卑しいことと思われていたらしい。 古代ローマでは、人物を評価するのは演説や外交上の口上で、書記や朗読は奴隷のする仕事だった。読むことは書いた人の魂が乗り移ってしまうことだから、使用人にさせていたのだという。説明されれば納得はするけれども、今の読書の感覚とはまるで違うので驚く。 黒崎政男「物質性から解放される情報」は、これまで数百年の間続いた活字情報と読書のあり方をインターネットは変えるだろうと予言する。本という形はなくならなくても、情報だけならば、もう印刷したり、製本したりする必要はない。また、ネット上におかれた文字情報は、改竄される可能性もあれば、自由に加工される可能性もあるから。 あまりにも不安定なネット上の読書。しかし、同時に、印刷、製本、流通に依存した、あまりにも強固な本という従来の形式を打破する可能性も秘めている。実際、自分自身をふりかえってみても、ふだん読む文字の半分くらいは、ネット上の、しかも文筆を生業としない個人が発信する、非商業的な文章になっている。 12/6/2003/SAT「本好きへの100の質問」というネット上のゲームがある。本との関わりについて、次々に質問に答えていくというもの。完答すると自己紹介が出来上がり、おまけにちょっとした自己分析にもなる。回答した人たちの感想を読むと、答えているうちに自分でも忘れていたこと、気づいていなかったことを発見したという人が少なくない。 私も、挑戦してみた。紹介の一部になるかもしれないし、反省の道具にもなり、新たな発見があると思ったから。何度か挑戦してみたのだけれど、結局できあがらなかった。どうしても答えられない質問がいくつか残る。考えるたびに、思いつく答えが違う質問もある。そうかと思えば、書名や一言だけではなく、延々と回答を書き続けたくなるような質問もあった。全問は答えられなかったけれど、一通り答えてみると、本との関わりが、自分にもわずかに見えてきた気もした。それでも、何か、物足りない気もした。 そのうちに気づいたことがある。本をめぐって自分自身を見出していくことが、「100の質問」の目的ならば、この「庭」全体が、その道のりではないか。回答できた質問のうち、いくつかは意識してこれまでに書いた文章のなかに残してある。いつか、すべての質問に回答できるようになったら、整理して掲示できるかもしれない。 自分では回答できないくせに、他人の回答は読んで楽しんでいる。作家でも学者でもない人たちが、どんな本に、どんな思いを寄せているのか、さまざまで面白い。つくづく私は天邪鬼だと思う。 ☆
表紙の「ごあいさつ」、「手元にはみすぼらしい花の苗しかないこと」を、「草のような苗」に変更。絵本「アリの街のマリア」の結語をはじめ、「庭」に書かれる文章の主題の一つと呼応させるため。 絵本短評“So You want to be President”、“Magical Hands”を植栽。 表紙写真を「枯れ木」に変更。 12/7/2003/SUN昨日のつづき。 本好きへの100の質問」の回答例をみていると、本についての好みは実にさまざまであることがわかる。いろんな分野の本を読む人もいれば、分野や作家に絞って読む人もいる。分野の絞り方も人それぞれ。時代小説とか、詩集とか、人文書とか、そんなありきたりな分け方では説明できない。個人的、局所的な分け方がされている。そういえば、斎藤美奈子は『趣味は読書。』のまえがきで、「読書人は多民族である」という説を唱えていた。 そんな千差万別の回答のなかで、自分が知っている本に当たることは、ほとんど奇跡といっていい。それでも、一冊知った本のある回答のなかには、何冊かほかにも知った書名を見つけることがある。それは、似たような嗜好性をもつ人が世の中にいて、同じ本を読んでいるということかもしれないし、ある嗜好をもっていると、似たような本を読むように世の中はできているのかもしれない。偶然かもしれないし、ハビトゥスの仕業か、マーケティングの結果かもしれない。いずれにせよ自分が気に入っている本を、しかも複数にわたって読んでいる人を見つけるとうれしくなる。 出張先の電車のなかで、蛍光ペンを引きながら『森有正エッセー集成』を読むとき、「もしかしたら碧岡烏兎さんではありませんか」と誰かに声をかけられるのではないか、と恐れもし、また少し期待することもある。まったくもって、自意識過剰。でも、ネット上で見つけた同志は、どこかでばったり会っても、すぐにわかるような気がする。昔聴いたRCサクセションの歌のように。 気の合う友達って たくさんいるのさ 今は気づかないだけ ずっと前にテレビで見た『ダイ・ハード』でもそうだった。一度も会ったことがなくても、同じ嵐をくぐりぬけた同志はすぐにわかる。同じ「種族」であることは、文章を読むだけでもわかる。 その一方で、すぐにわかるということは、わかりあうということに直結しないだろうとも、私は予想する。明日に続く。 ☆
さくいん:RCサクセション(忌野清志郎) 12/8/2003/MON気の合う人はきっと世の中のどこかにいるだろう。それはネットを通じて見つけられるかもしれない。けれども、その出会いは、あくまで本という一つの切り口を通じて見つけたものであり、即全人格にわたる信頼関係になるわけではない。むしろ、気の合うことに寄りかかれば、譲れない違いに苦しむかもしれない。 反対に、身の回りで、直接会ったり、話したりする機会のある人々は、話題がかみ合わないように感じることも少なくないけれども、ネット上の友人たちに比べれば、自分との共通点ははるかに多く、またそれがすでにわかっているという点で、大きく違うことがわかる。 インターネットを媒介にした政党、また、現実に住んでいなくても税金を払ったり、その場所に関わろうとする信託住民という考え。ヴァーチャルな関係が、人々の新しいつながりを生み出しはじめていることは事実だろう。しかし、リアルな関係はけっしてなくならないし、つねに最優先されなければならない 悲観的ではない。私は、インターネットに期待している。ネットは、見えなかった同志の存在を知らせてくれる。そしてヴァーチャルな関係をリアルなものにする可能性をもっている。それだけではない。ネットは、すでにあるリアルな関係を、よりリアルなものにするよう促すに違いない。 遠い親戚より身近な他人。表面的な意味はまったく反対だけれど、このようなことは、昔からいわれていることかもしれない。身内だと思っていた人が、身近な他人にみえたとき、はじめて独立した人間どおしのリアルな関係がはじまる。 12/9/2003/TUE毎晩子どもに絵本を読み聞かせている。子どもにとっては、一日を終え安心して眠るためのおまじない、いわゆる入眠儀礼なので、読みなれた絵本をせがむ。この数ヶ月、ほとんど変っていない。 子どもはすっかり文章を覚えてしまっている。覚えてしまっても、同じ本を読んでもらいたがる。覚えてしまっているからこそ、聴いているだけでゆったりした気持ちになれるのだろう。最近では題名と作者の名前を読むだけで、寝入っていることもある。 余談。絵本は、草木のように自然に生えたものではない。誰かがつくったからある。そのことを教えるために、読み聞かせをする時には作者や画家の名前を読んだほうがいいと思う。 読んでいる方は、意外なことにちっとも文章を覚えていない。毎回、字面を読み上げているだけで、覚えようとして読んでいないからだろう。覚えようとして読まないかぎり、朗読は暗誦に直結しない。これは大人の場合。 子どもは文字を想像しないで話だけを思い浮かべているから、聴いているそのままを覚える。こういうことは、大人でもないわけではない。ラジオに流れる広告や、アタックと呼ばれる番組開始の決まり文句は、字がないために、かえってすぐに覚えてしまう。 第二言語を学ぶときはどうだろうか。耳から覚えろとよく言われる。けれども、文字を知っている大人は、かなり努力しないと、絵本を聴く子どものような気持ちになれない。会話教材を何度聴いても、中途半端に文字や単語を知っていると、どこで切れるのか、どんな綴りなのか、気になって仕方がない。 12/10/2003/WED昨日は風邪で寝込んでしまい、荒川洋治のラジオを聞き逃した。何度か目を開けたり閉じたりしてから、起き上がって時計をみると午後3時になっていた。 毎年一度か二度、寝込んでしまう。たいていは、年が明けてから。去年は例年と違い11月のはじめに、ほとんど二日間、眠り続けた。自分のサイトを開こうと思いついたのはその時。寝込んだときに、何か思いつくこともある。 ずっと寝ていると腰が痛い。痛いのは、そればかりではない。熱が上がると、身体の節々が痛くなり、なかでも腰はかなり辛い痛みになる。 自己紹介の一部である「烏兎以前」のなかに、腰痛持ちであることを書いた。腰痛が持病であることは私にとって、本名よりも、学歴や生年、住所よりも、私の特徴を如実に語っているように思う。実際、雑記のなかでも腰痛がときどき現れる。腰が痛いときは、身体が熱で火照っているときと同じように、感覚が鋭敏になっているときでもある。 12/11/2003/THUBye Bye、長渕剛、Express、東芝EMI、1981浜田省吾とともに、一時期熱心に聴いていたのが、長渕剛。日本語の浜省や長渕を聴いていたせいか、彼らに大きな影響を与えたといわれているBruce Springsteenは、ほとんど聴かないで過ごしてしまった。聴かないなかでも耳に残る3枚組のアルバム、“Live 1975-1985”(CBS SONY, 1986)を最近聴きなおしてみて、なぜ十代の頃にもっと聴かなかったのか、自分でも不思議に思った。 英語で聴いていたのは、もうすこし洗練された歌。似たような歌詞でも、泥臭いものは日本語で聴き、気取ったものは英語で聴く。そうした傾向があることに、最近気づいた。 こうした傾向は、たんに好みだけではなく、英語に対する上昇志向的な憧憬と関係があるに違いない。このような屈折した英語観は、日本語話者にとって、そう不自然なものでもないだろう。 しかし、長渕の曲を泥臭いと切り捨てるのも、間違った思い込み。ピックを使った彼のスリー・フィンガー奏法は充分洗練されているし、初期の歌詞には、バタ臭いとはいわないまでも、泥臭いというより、ハードボイルドを感じさせるものもある。 スリーフィンガーといえば、アルバム『LIVE』の「夏祭り」はずいぶんと練習した。結局、上手に弾けるようにはならなかったけれど。 「ほこりまみれのブルージーンズ」は、ギタリスト、石川鷹彦の編曲。アコースティック・ギター、スライド・ギター、バンジョーなどを中心にする石川の編曲は、かぐや姫の作品でも気に入るものが多い。 アルバムの最後、「Bye Bye――忘れてしまうしかない悲しみに」では、「一つめの夜」「二つめの夜」という言葉が印象的。自分を根底から否定しなければならないような夜。何か特別なことがあったせいではなく、自分が自分でいることに耐えられないような夜。そういう夜を体験したことがない人もいるのだろうか。 いずれにせよ、「忘れてしまうしかない悲しみ」だけでなく、それを忘れようとして「苦い涙を流した」夜も、いずれは忘れていかなければならない。最終的には、何もかも、忘れてしまわなければいけないのかもしれない。 永遠のいのちに到るには、単に「罪の赦し」ばかりではなく、それ以上に罪を自分で忘れることが大切である。 出典の領域はまったく違うけれども、ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』(草間平作・大和邦太郎訳、岩波文庫、1973)、十二月一日の項にも、そう書いてあった。 ☆
批評「選ぶのは『生き方』であり『仕事』でも『働き方』でもない」の、「仕事」を「職業」にかえる。仕事と職業は、重なる部分もあるかもしれないとしても、一致することはありえない。本来それらは異なるものであると意識することが肝要ではないかと考えはじめている。 職業は、選ぶものではなく、こなすものではないだろうか。仕事は探すものではない。おそらく見出すものではないか。そうだとすれば、生き方も選び取るものではなく、むしろなじんでいくものかもしれない。 すっきりした表現ではまだないが、色分けとしては間違っていないだろう。そうすると題名は適切ではないが、文章を書いた背景と修辞上の効果を残しておくことにする。 書評「エクソフォニー」を剪定。エクソフォニーは五層と書いていながら箇条書きは四項目しかない。五層を四層に訂正。この部分が個人サイトに引用されていることを知り、読み返して気づいた。 12/12/2003/FRI昨日の続き。 忘れる、という言葉は、これから繰り返し考える鍵概念になりそう。忘れるということは、単に脳という記憶装置から消去するということではない。金森修『ベルクソン 人は過去の奴隷なのだろうか』(NHK出版、2003)を通じて知ったベルグソンの純粋継続という考えに従えば、記憶を消すことはできない。すべては見聞きしたまま、感じたまま残っているのだから。ただ、思い出せないでいるだけ。 忘れてしまったと思っていることが、何年も後、ふとしたきっかけで鮮やかに脳裏によみがえることがある。また、見聞きした覚えすらないことでも、些細なことに誘引されまるでそのとき注意深く見ていたかのように思い出されることもある。つまり、覚えている忘れている、という自覚はまるであてにならない。 だから、ここでいう「忘れる」とは、通常、忘れるという言葉にこめられた意味よりも、気にしなくなるという意味に近い。忘れることはない。意識にはある。しかし、こだわり、執着はなくなる。そういう状態を「忘れた」というのではないだろうか。昨日の雑記に引用したヒルティは、『眠れない夜のために 第一部』の別の項で「高貴な無関心」とも言っている(一月五日)。 無関心という語は、森有正の一連のエッセーを貫く頻出語でもある。つい最近読んだ日記のなかにも、ヒルティと関連づけられそうな記述がみられる。 Pecca fortiter, sed creda firmius(勇気をもって罪をおかせ。しかし、それ以上の勇気をもって信ぜよ)。マルチン・ルッターのこの言葉が僕の中に浸透しはじめた。罪と義認との分離がそこから露われてくる。これはジャン・カルヴァンの言う“oblivio voluntaria”(意識して忘れること)と同じである。そうすると罪の観念を訂正せざるをえない。キリスト教にとって非常に重大なこの問題をとりあつかうには極めて慎重でなければならない。(中略)問題は、創造の鍵そのものに拘るのであり、「宇宙」(原点傍点)的な性格を帯びているのである。そして忘却! 何という崇高な言葉であろうか。それは我々の経験の条件そのものである時間とかくも内密に結ばれている。(『森有正エッセー集成5』、一九七〇年十一月三十日) 「忘れてしまうしかない悲しみ」という長渕剛「Bye Bye」にある歌詞を忘れることなくいたのは、こうした考えにたどりつくためだったのだろうか。長渕剛と森有正とが、ヒルティと読みかじったベルクソンを仲介に出会うという風景はほかの人にとっては奇妙かもしれない。だから、自分にとっても奇妙でなければならないと思い詰めるところに、これまで重大な問題があったように思う。 今ではもう、ようやく、そんな風に思うことはなくなった。そんなことに気をとられていてはいけないと、励まし、叱りつけてくれたのも、森有正だった。 しかし要点は、それらが皆私の日常生活そのものの中から取られているということである。私はそういう思考しか信じない。こういう卑近な事柄を自分の経験に即してさぐって行くと、いつしか過去の偉大な思想家、哲学者の述べているところに逢着するようになる。その助けによって自分の経験がいっそう明らかになり、更に深められさえする。(「雑木林の中の反省」『森有正エッセー集成5』) 励ますだけでなく、厳しく叱りつけるのは、もっと重大な問題が別のところにあるから。誰がどこでどう言おうと、それらの言葉が私のなかで、どのように共振しようと、たいした問題ではない。問題は、果たして自分で実践できるのか、ということにつきる。 ☆
批評「選ぶのは『生き方』であり『仕事』でも『働き方』でもない」を剪定。やりたいことにこだわるために派生する問題を、もう一つ提示。仕事と職業の区分を簡単に提示。これから考えながら追記、もしくは別記していくことにする。 12/13/2003/SAT長渕剛の初期の作品には、自己否定や内面的な葛藤を直接に表現した歌が少なくない。このアルバムの「碑」のほかに、「暗闇の中の言葉」「逆流」「もう一人の俺」など。いずれの曲にも、強く揺さぶられた。 浜田省吾やブルース・スプリングスティーンの歌詞は、物語性に富む。複雑な状況を詳しく説明することによって、そこに置かれた人間の複雑な心理や、複雑な内面を暗示するような手法をとっている。そのため、その状況が自分とかけ離れていると、しらけてしまうことにもなる。 長渕の場合は、あまり具体的な描写がない。そのため冷静になって聴いてみれば、いったい何に対して、なぜ、それほど怒っているのか、不思議に思われる。あるいは、抽象的であるために、同じように行き場も理由もない怒りを抱えた人間に共感をもって迎えられたのだろう。もちろん、彼のギターも、ひきつけられた魅力の一つに違いない。上手にはならなかったけれど、楽譜集も買って練習してみた。 もう一曲。「道」には、「右を向いても左を向いても/誰も教えてはくれません/自分のやりたいこと/したいこと」という一節がある。この曲を繰り返して聴いていたころ、鈴木邦男と菅孝行、それから永山則夫を同時に読んでいたので、妙に共感した覚えがある。久しぶりに聴いてみて、そんなことも思い出した。 いま聴いてみると、鶴田浩二「傷だらけの人生」(1970、藤田まさと作詞、吉田正作曲)の「右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆のからみあい」という言葉を思い出す。 そういえば、この歌には、「日陰育ちの泣きどころ」という言葉もあった。 ☆
12/14/2003/SUNGuitar Renaissance, Kazumi Watanabe, ewe, East Works, 2003渡辺香津美の新盤を買いたいと雑記に書いたのは4月のこと。ようやく手に入れた。バッハ『無伴奏チェロソナタ』で始まり、ビートルズの“Across the universe”も収録されたアルバムは、私には、2003年の締めくくりに聴くにふさわしいかもしれない。 “Let it be”の新版が“naked”ならば、渡辺の演奏は“skelton”。穢されないわが世界(nothing's gonna change my world)という“Across the universe”の主題が、このような、アンプラクドで、ライブの、ソロ・プレイにより、その核心だけが抽出される。 以前テレビで、渡辺とモト冬樹が共演する番組を見たことがある。「同じ学校の後輩。オレがギターを教えたんだ」とモト冬樹がうれしそうに紹介していた。ということは、グッチ祐三とも同じ学校。バンドマンになるような不届き者はこの学校はじまって以来、二度と学校へは顔を出すな、と言われていたのに、売れはじめたら「たまには顔を見せろよ」と言われたというネタを、機内番組で披露していた。 ということは、三人が通っていたのは森有正が幼少からフランス語を学んだ学校とも同じ。何十年も離れているのだから、同じ学校が何というわけではないけれど、面白いつながりではある。 ☆
短評“A TREE IS NICE”、“THE POLAR EXPLRESS”を植栽。 批評「メビウスの輪としての言葉」を植栽、というより開始。この文章は、文章のライブ演奏を目指している。言葉の断片が命題になり、断章になり、段落になり、やがて文章になる。私の文章は、いつもそういう過程を繰り返している。表題や断片だけを掲げた項目は、これから少しずつ成長し、やがて一頁分の文章になっていくだろう。それは私自身の期待でもある。 さくいん:渡辺香津美 12/15/2003/MON批評「メビウスの輪としての言葉」を書きはじめた。この文章はいろいろな意味で実験になる。全体の趣旨を冒頭に書き、一例を次にあげた。あとは項目だけで白紙のまま。 これからそれぞれの項目に書き加えていく。まず、言葉の断片、次に命題のような文、そして断章。段落を組み、最後に一つの作品に仕上げる。これは文章作成の生演奏という実験る。あるいは宇宙のチリやガスが、ぐるぐる旋回しながら星になる過程を、文章表現で再現する実験。 この実験は、書き手にとって実験であるばかりでなく、読み手にとっても実験になる。白紙のページには、いま、項目しか書かれていない。碧岡烏兎のほかの文章を読んだ人ならば、いや、読んだことがなくても、並んだ項目と空白を眺めれば、これからそこにどんな文章が書かれていくか、想像するに違いない。 そして、そこに文章が書かれはじめたとき、否が応にも、その想像と実際に書かれた文章を比べることになるだろう。「思ったとおり」あるいは「そういう書き方になるのか」、そして、「自分ならそうは書かないな」。そのとき読み手は読んでいるのではない。すでに書いているだろう。読み手は、書くように読むことを促される。これは文章に自己を読み込む実験。 むろん私自身、書き手としてだけでなく、読み手としてこの実験に放り込まれている。烏兎はどんなふうに書くだろう。私は想像している。そして、書かれた文章を読んでは、いちいち言うだろう。これではわかりにくい、これは本心ではない、上辺だけの表現だ、こんな書き方もできるのか、こんなこと忘れていたな、などなど。書くよう読み読むように書く。実験は、新しい創造の経験でもある。 少し気張って書いたけれども、はじめから明確な思惑があってこうしたわけではない。要するに、いつまでたっても断片のままでまともな形にならないので、陽の当たる場所に出して外から見てみようという、いつもの手に過ぎない。 少し知恵がつくと、こむずかしいことを言いたくなる。それは、知恵がついたどころではない。まだまだ青い証拠。 ☆
書評「1.5流が日本を救う」を剪定。「教職員組合ユーゲント」という語を追加。最近読んだある新聞記事に「ヒットラー・ユーゲントは若者が若者を指導するという理念を具体化したもの」と書かれていたので、借用した。 12/16/2003/TUE歩き続けるとき、松山千春、ポニーキャニオン、1978先週、飛行機内の映像番組で道東の雪景色を見た。屈斜路湖では湖面が凍るとき、天地がとどろくような轟音がするという。それは地元では神が渡る音と信じられていて、「おみわたり」と呼ばれている。 北海道の冬景色を見て思い出したのは、松山千春。私の中でも、雪の記憶と一緒になっている。昨年夏、図書館で借りて録音しておきながら、記録さえ公開していなかったアルバムを取りだして、クルマのなかで聴いてみた。 北海道には、学生のとき二度行った。夏と冬。松山千春を聞いていたのは、それよりずっと前。長渕を聴くより少し前。実存主義の前に、ロマン主義があったと言うべきか。サイモン&ガーファンクルのハーモニーをまねしたように、「歩き続けるとき」の大げさなエコーを教室の隅で友人と歌ったこともある。 千春の曲は、ギターは長渕に比べてやさしい。この程度のアルペジオは弾けるようになった。結局、これ以上は上達しなかった。ギターは、さびれた弦を張ったまましまってある。 松山のデビューは、1977年。出演を拒否していた「ザ・ベストテン」で「季節の中で」を歌ったのが、2年後の1979年、11月。この放送は、見た記憶がある。アルバムをまとめて聴くようになったのは、もう少しあとのこと。 1983年から1984年の冬。横浜にも雪がたくさん降った。雪をわけながら、高校受験の願書を出しに行ったこと、当日、学生帽を忘れて頭をこずかれたこと、その道すがら、『風の谷のナウシカ』の巨大な看板を見上げたこと、昇降口に積もった雪のうえに大きく「バカ」と足で書いて、ボロキレのように教員になぐられた男子生徒のこと、その一切を四階の窓から見下ろしていたこと。 谷山浩子「窓」、松山千春「窓」、それから浜田省吾「独立記念日」、そうして冬中、空が鉛色に見えたこと。次々に思い出される。 そんなことを急に思い出したのは、一緒に願書を出しに行った友人から昨日、手紙が来たから。彼もまた、いま、北国に住んでいる。散り散りの記憶がつながって、きびしい冬景色が心に描き出されていく。 ところで松山千春という歌手は、偉大なカントリー歌手、すぐれた演歌歌手だと思う。その意味は、地域に根ざし、地域で歌い続けているということ。 演歌は、もともと土着性を出発点にしながら、一つのジャンルとして確立されたとき、優れた、また売れる歌手ほど全国区の活躍を強いられようになる。そのためはじめは地域に密着していた海、山、港、雪、酒、春、などのイメージが、茫漠とした日本全体の風景に溶け込まされている。 松山千春は、足寄ではないにしても、いまでも北海道に住んでいるらしい。歌だけではなく、政治的行動でも強烈に地場に根づいている。地域に生きることは、地域の政治に生きること。それは確かに基本であり、究極のスタイルでもあるかもしれない。しかし同時に、彼のスタイルは地域の古い政治構造、いわゆるアンシャン・レジームの極点とねじれながら接しているようにもみえる。その原因がどこにあるのか、よくわからない。 思い出したついでに思い出したこと。今日は松山千春の誕生日。同じ日が誕生日の同級生がいたので覚えている。ずっと聴いていなかったアルバムを、この日に思い出すというのも不思議な偶然。 ☆
書評「中島飛行機物語」を剪定。最初の段落に追記。ハンナ・アーレントと森有正から学んだことを意識して織り込む。このような地道な作業が、いつかは全体を一つの庭、一つの伽藍、一つの作品にしていくことを願う。 書評「KINOKUNIYA TIMES」も、段落や文末処理など形式的なところを剪定。はじめの頃に書いた文章には、「なのだ」「なのである」が少なくない。いまはほとんど使わないので、気づいただけ揃えておく。こういう点を推敲してしまっても、内容はもちろん、文章技法においても、変化していることは充分にわかる。 ☆
さくいん:松山千春、サイモン&ガーファンクル、『ザ・ベストテン』、浜田省吾、谷山浩子 12/17/2003/WED昨日の荒川洋治、ラジオコラム。冒頭から森本がイジる。「フセインがつかまろうと、ヒロスエが結婚しようと、荒川さんはいつもどおりですね。」「自分でもどうかなと思うんですけど……。」 そんな前置きから、いつもどおりの文学の話。今日は「文学作品に現れる人数」。尾崎放哉の自由律俳句「咳をしても一人」は一人の世界。与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」は自分と弟の二人の世界。一茶「雪解けや村いっぱいの子どもかな」は、大勢。作品の世界は、登場する人数によって、だいぶ違ってくる。 一人。田山花袋「田舎教師」、国木田独歩「武蔵野」 一人と一匹。志賀直哉「城之崎にて」 二人。川端康成「伊豆の踊り子」、伊藤左千夫「野菊の墓」、谷崎潤一郎「春琴抄」 三人。夏目漱石は、三角関係から人間の心理を描いた。「それから」「門」「こころ」はどれも三角関係が題材になっている。人間関係は、一人や二人ではなく、つねに自分と相手とその関係に関わる第三者の三角関係からなる。漱石にとっては、三者関係は、人間存在そのものだった。 いっぱい。典型はバルザック。90編以上からなる「人間喜劇」には2,000人ほどの人物が登場する。そのうち、600人は再登場する。これにより、作品世界の厚みが増し、人間描写もより現実的に感じられるようになった。登場人物を再登場させるというアイデアを思いついたとき、バルザックは自分を天才だと思った。「人間喜劇」は社会を見事に写し取った「動く模型」とも言われていた。 バルザック以上に人物を登場させたのが、プルースト。『失われた時を求めて』には、二千数百人が登場する。 三角関係は人間存在そのもの、という漱石の考え方は、日本語は二人称の関係に依存していて、三人称の関係による個人の独立が不充分だという森有正の考えと共通するところがあるようにみえる。 たくさんの人間が登場すると聞いて、思い出されるのは手塚治虫の作品。同じ人物が再登場するというバルザックの手法とは違うけど、別の作品の登場人物が、元とは違う性格の役柄で登場するという『ブラック・ジャック』の「スターシステム」には、作品世界を奥行きあるものにみせる効果がある。 マンガついで。登場人物が多いマンガというと、水島新司『ドカベン』。9人のチームが毎回登場し、それぞれ名前がつけられている。重要な人物は繰り返し登場し、中学校にはじまった物語は、今や舞台をプロ野球にしているのだから、人の数だけでなく、過ぎた年月でも、桁外れの規模になっている。 書評「『おじさん』的思考」に、「問題は、「おじさん」という「世代」を意識させる言葉にある。」の一文を接木。渋谷望『魂の労働』(青土社、2003)から。 マンハイムは「年代の同時性」――同一の出生コーホートに属していること――だけでは、類似した「世代状態」を作り出すことには十分ではなく、「共通の事件や生活内容」に参加すること、つまり歴史を共有し、経験することが必要であると指摘している(「世代の問題(“Das Problem der Generation,” 1928)」、Karl Manheim、『マンハイム全集(3)』鈴木広訳、潮出版、1976) この書評をこれ以上いじると、こちらが墓穴を掘りそうなので、もうやめることにする。それは相手の土俵へ踏み込めば必ず足元をすくわれるという理由からだけではない。鏡像憎悪は必ず自己撞着の末に自分の墓を掘るものだから。 12/18/2003/THU空を飛ぶ鳥のように野を駆ける風のように、松山千春、ポニーキャニオン、1979一昨日の『歩き続けるとき』と同じ頃によく聴いたアルバム。加えてデビューアルバム『君のために作った歌』(1977)、シングル集『起承転結』(1979)、それから真駒内競技場で行われた大規模なコンサートを録音した『STAGE』(1985)もよく聴いた。とくに『歩き続けるとき』と『空を飛ぶ鳥のように野を駆ける風のように』は、凍えそうな冬の思い出。そういえば、「しばれる」という言葉を教えてくれたのは、松山千春の歌詞だった。 二つのアルバムは去年図書館で借りて録音してあったのに、すぐには聴かず放ってあった。かつては心を傾けて聴いていた。いつしか「昔聴いた音楽」「昔の音楽」になり、聴くことも、聴いていたことを口にすることも、なんとなく気恥ずかしくなっていた。 あてない旅でもこの旅に/すべてをかけても悔いはない(「失くした心」) 名も知れず咲き誇る野の花に送られて/歩き出せ 若者よ 今すぐに/その胸に 夢を抱いて(「空を飛ぶ鳥のように野を駆ける風のように」) かつて、心をとらえ、また、いつしか青臭いとさえ思うようになったこうした言葉に、もう一度揺り動かされるのはなぜだろうか。 そもそも、かつては心動かされた音楽を気恥ずかしく思うのはなぜだろう。いまの自分とあまりに違うからだろうか。その頃の無邪気さ、幼稚さが気に入らないからか。それとも、たんにその音楽が今、売れていないから、あるいは、当時とは別の社会的評価を受けているから、つまり、世の中の偏見に自分が惑わされているからだろうか。まったくわからない。 それでは、二度と聴くことはないとさえ思った音楽を、再び聴いているのはどういうわけだろう。過去の自分を肯定できるようになったからか。千春の音楽から想起される記憶からいっても、そうではないだろう。無邪気さを取り戻したわけでもなさそうだし、社会的な評価を越えて、本質的な価値がわかったからというのでもなさそう。当時と同じ、心理的苦境に今、いるからという説明も、正しくはない。 おそらく、何の解決もなく、さまざまな形で誤魔化し、目を逸らしてきた事態が、視野に戻ってきたからではないだろうか。しかも当時は、今日、明日の問題と、どうすることもできない問題とが、こんがらがっていて見えずらかった結び目がようやく見えてきたのかもしれない。もっとも、今も結び目は堅く、複雑に絡み合っている。しかし、それがそう見えるだけでも、たいしたこと。そうなるまでに二十年かかったと考えるべきかもしれない。 そうした意味合いに限っていうのであれば、長渕や千春を聴くと非常に懐かしい、と今、いえる。 ☆
さくいん:松山千春 12/19/2003/FRI三日前に、中学時代に見た暴力の記憶について書いた。二十年も前に見た小さな出来事を、いまだに覚えていて、しかも文章にするというのは、どうかしているのだろうか。心の狭い、みみっちい人間のすることだろうか。勝谷誠彦・ラサール石井「1.5流が日本を救う」(K.K.ベストセラーズ、2001)の書評を書いたときも、同じような気持ちになった。 少し自己嫌悪気味になっていたところ、読んでいる渋谷望『魂の労働』(青土社、2003)のなかで、私がいた学校の風景を一語で言い当てる術語を見つけた。 「ゼロ・トレランス」。ニューヨークのジュリアーニ市長がはじめた徹底した警察の取り締まり政策。ほんの軽微な犯罪でも見のがさずに取り締まる。それどころか犯罪に到りそうな行為だけでなく、態度まで対象にする。 それは取締りの対象を軽犯罪から日常生活における些細な不品行にまで拡大し、しかもそれを徹底的に行うことを目指している。たとえば通りで車の窓拭きを申し出ること、物乞いをすること、あるいは学校をサボること、地下鉄の自動改札を飛び越すこと、これらはもはやれっきとした犯罪行為とみなされ、違反者には容赦なく手錠が用意される。(「3 消費社会における恐怖の活用」) この政策は、確かにニューヨーク市の重犯罪率を激減させて、市長は名声をあげた。その結果、政策は全米に広がっている。この政策がはらむ最大の問題は、渋谷が指摘するように、品行だけでなく態度までが処罰の対象になるため、一方ではミドルクラスの「ノーマルな」「秩序」ある生活の質が相対的に審美化されていくこと、そして他方では、「この水準に追いついてけない者は必然的に犯罪者とみなされることになる」こと。 学習用具を一つでも忘れること、提出期限に一日でも遅れること、靴下に刺繍があること、靴が白でないこと、大きな声で返事しない、姿勢が悪い、目つきが悪い。これらはすべて処罰の対象だった。 処罰とはもちろん暴力、教育用語でいうところの体罰。そして処罰の対象になる生徒はできそこない、ダメ人間とみなされた。処理能力が低い生徒だけではない。明らかに抵抗の姿勢をみせた生徒は、恒常的な標的となった。「今日だけはおとなしいな」。そういう言葉を聴いた記憶もある。 生徒は格付けされ、格付けされた学校へ配分された。配分しきれなかった生徒は、他県の全寮制学校や職業学校へ送られるか、そのまま放り出された。 自分ではうまく説明できない事態が、学問的な用語で整理されると、すっきりはする。ただし、今回は違う気持ちもいりまじる。自分の見た風景は、いま世界に広がる「社会的排除の究極的表現」の一変奏だったことがわかったのだから。 『魂の労働』の読書は、いろいろな意味で気が重く、なかなか進まない。 さくいん:体罰 12/20/2003/SAT昨日書いたことの続き。 暴力の記憶を書くことは、三重に苦しい。 第一に自分が暴力の被害者ではないということを思い知らされる。傍観者でもない。むしろ加担者であり、受益者でもある。 「こうしてなければ、おれも生きられぬのだ!」と自分の体制追従を正当化し、他人を足蹴にして身の安全を確保し、脱出の切符を手に入れた。しかもこう書きながら、いまでもほとんど後悔していない! もし審判が行われたら、政策を決定したA級戦犯ではないにしても、末端で手を下し、施行に協力したC級戦犯以上にはなるだろう。 第二に、暴力は受けた記憶だけでなく、見た記憶も心の底に残る。心の傷などという受動的な一面だけではない。暴力を見た記憶は、暴力の種子として心の奥底に静かに埋め込まれ、いつか思いもよらない時に芽を吹き出して、自分の暴力性を呼び覚ます。 自分があげる怒声は、どれもどこかで聞いたことのある台詞。そして自分の凶暴性の由来と、その引用元に気づくとき、それは三度目の鶏の声を聞くとき。 だから、暴力を容認する人とは一寸でも関わりたくないけれど、自分は一度も暴力に訴えたことはないという人はもっと信用できない。 自分のことは棚にあげて、よく言える、まだ逃走中なのに。 ☆
書評「森有正エッセー集成5」を植栽。「無意」という言葉は、しばらく前に大阪、京阪淀屋橋駅前の「適塾」で見た福沢諭吉直筆の掛け軸にあった言葉「無意人乃如意人」(無意の人はすなわち如意の人)から借用。直前には、「休説不如意」(世情意のごとくならずと説くをやめよ」と書かれている。 日記からの引用文中、細かすぎてきれいに表示できない「祈禱書」は「祈祷書」と表記した。 表紙写真を「ひとつかみの雲」に変更。この言葉はアニメ『母をたずねて三千里』の主題歌からの引用。「一掴み」ではなく、「一つ紙」の雲だとずっと思っていた。『巨人の星』の主題歌にある「重いコンダラ」と同じ。 絵本「雪の写真家 ベントレー」を植栽。短評のつもりで書きはじめたら長くなったので独立させた。 短評「アメリカ・インディアンはうたう」「おれは歌だ おれはここを歩く アメリカ・インディアンの詩」を植栽。 さくいん:体罰 12/21/2003/SUN起承転結(1979)、松山千春、ポニーキャニオン、1983週末の図書館。あらかじめ何を借りるか決めて出かけるのは、最近では珍しい。探していた三作品はいずれも冬の思い出。どれも蔵書で、なおかつ貸し出し中でなかった。よかった。 『起承転結』は、ヒット曲を揃えたシングル集。ずっと聴きなおしたいと思っていたのは「夜明け」。松山の曲には、一人称の、卑俗な言い方をすればナルシスティックなものが少なくない。もちろん、それが千春節ともいえる。この歌はそういう傾向と違い、相手に語りかけるスタイル。 誰かを責めちゃいけない もちろん君自身も こういう言葉に慰められていたのか。励まされていたのか。今ではもう思い出せない。 記憶違いでなければ、この曲はNHK銀河テレビ小説の主題歌となっていた。鉄橋を古い横浜線のような茶色の列車が走り抜ける映像が、歌といっしょに思い出されるが、間違っているかもしれない。ドラマの中身は何も覚えていない。 ところで先日、松山千春の土着性について書いた。それは何も政治家との密着だけをいうのではない。以前、『ラジオ・ビバリー昼ズ』で聴いた逸話。高田文夫が札幌に出かけ、すすきののスナックか何かで飲んでいたところ、店から電話を渡された。ここにいることを知っている人は誰もいないはずなのに、と訝りながら受話器をとると、「高田先生!札幌に来てるの。水臭いじゃない。」と千春の声。札幌では誰がどこで飲んでいるのか、千春の耳には筒抜けらしい。 土着性というと、こういう逸話のほうが、千春らしい気がする。 ☆
絵本「パンのかけらとちいさなあくま」を植栽。随想「中途半端」を剪定。頻出する「のである」を削除し、体言止めの多い今の文体に合わせる。段落も整理する。 さくいん:松山千春 12/22/2003/MON愛していると云ってくれ(1978)、中島みゆき、アードバーグ、ポニーキャニオン1986DA・DI・DA、松任谷由実、東芝EMI、1985すこし前に中島みゆき「お前の家」のことを書いた。それから暴力の記憶から「世情」のことを思い出した。二日前に書いた「ゼロ・トレランス」という言葉は当時はなかった。そのかわりに、管理教育を支える信念は、「腐ったみかんの方程式」と言われていた。一人の不良、一つの非行が、学級のすべて、学校のすべてを破壊する。だから一人も一つも厳しく処罰する。腐ってしまったみかんは箱から放り出す。 この言葉が題名になっていたのが、テレビドラマ『3年B組 金八先生』の一話。 隣りの学校から持て余されて転向してきた直江喜之演じる問題児「加藤」(亡くなった沖田浩之はそう呼んでいたが、川上麻衣子やひかる一平は「加藤くん」と呼んでいた)。案の定、桜中にもなじめず、仲間を集めて放送室を占拠し大暴れ。その週の最後に延々と「世情」が流れていた。それはまだ、中学校に入る前の記憶。つまり、ドラマから予想していた事態と、私が見ることになった事態は正反対だった。 ところで「世情」をはじめ、『愛していると云ってくれ』のなか、いくつかの曲はレコーディング・エンジニア吉野金治による編曲。最近、EPOのラジオ「エポック・ミュージック」にゲストで出演していた。「ワン・マン・ショー」というありふれた言葉をジュリーが唄うと「歌」になったという逸話が印象に残る。対談後、流れた矢沢永吉「時間よ止まれ」の録音にも関わったらしい。 『DA・DI・DA』は、「青春のリグレット」を聴くために借りてきた。松任谷由実が他人のために書いた曲をセルフ・カバーしたアルバム『FACES』が発売されている。機内では、それに合わせてユーミン自身の案内により、過去に他人に贈られた曲を集めた番組が放送されている。 番組でも流れていた「青春のリグレット」は麗美のために書かれた曲。「NO SIDE」は麗美の方が好きだけど、この曲は編曲、歌もユーミンのほうを好む。 おととしの私 思い出せない 笑って話せるの 幸せかどうかわからないけど どの言葉も、かつて聴いたときとは違う響きをもって聴こえる。例えば、バビロンという言葉一つとってみても、今ではまったく違う重みをもっている。 ☆
庭師紹介に「世界市民と現代」を植栽。論文としてはどうしようもない水準だけれど、 それでもその後にもう一度書いた形式だけ学術論文を装った駄文より、思考や表現の点ではるかに現在に近い。庭師紹介の一部としては、こちらを掲げる。 烏兎以前の文章なので、一部校正したほかは、「のである」など、当時の文体はそのまま。 12/23/2003/TUE何かを成し遂げようと思ったら、目的を考えてはいけない。それから方法についても悩んではいけない。何のために、とか、どうやって、とか、考える暇があるなら、成し遂げようと思うことを少しずつでもしたほうがいい。 何かを成し遂げた人は、皆そうしている。バッターは、振る。ドライバーは運転する。登山家は、考える前に、目の前の山に登る。作家は書く。 思想家になろうと思ったら、思索を続ける。思索を表現する。字でも絵でも、音楽でも彫刻でも。演技でも踊りでも。 思想家になろうだって。学者でも、作家でもないのに。 ittai nannno tame ni その思いが言葉になる前に、ごくんと呑み込んでしまえ。何かになろうとして、それになった人はいないことをまず知るべし。 ☆
随想「メビウスの輪としての言葉」に水遣り。少し伸びてきた。葉も増えてきた。2003年11月25日の雑記に追記。 12/24/2003/WED昨日の荒川洋治。今年話題の本をふりかえる。 今年は、何といっても養老孟司。270万部を売る『バカの壁』をはじめ、新書が何冊も売れている。語り下ろしという点に新味があった。 森本曰く、会って話してみるとすらすら話す人ではないが、文章にすると語り口はなめらか。 絵本でも、「語りもの」が脚光を浴びた。雪の結晶で知られる中谷宇吉郎が子どもに語った「うらしまたろう」。一人暮らしを題材にした蜂飼耳『ひとり暮らしののぞみさん』も、評価が高い。 地図にまつわる本も豊作だった。番組でも紹介した原武史『鉄道ひとつばなし』、道にまつわる人と歴史をたどる『道』、大日本地理辞典を編纂した吉田東伍の評伝、『地名の巨人』。 100円ショップで売られている分県地図も売れた。荒川は、いくつも買った。本を読む時に地図は必要。旅するときの地図は新しいほどいいが、本を読むときの地図は、本と同じ程度古いほうがいい。 語り下ろしで、今年一年私が好んで読んだのは、日経新聞夕刊の「人間発見」。このコラムは、元は一方的なインタビュー。特異な経験を重ねた人物に、記者が話を聞いている。ところがで掲載されている文章は、その人物の一人語りになっている。 質問は省略され、語り手が自分のたどった道筋をふりかえりながら、ぽつぽつと思い出を話すような文章になっている。それはもちろん、記者の構成力、修辞力、それらを含む総合的な文章力のおかげにちがいない。 誰にも文才があるわけではない。誰もが話すのが上手というわけでもない。上手下手という程度の高低ではなくても、誰もが自分のスタイルの特徴を自分で把握しながら話したり書いたりするわけではない。映画監督のスタイルは映画にいちばん現れているし、音楽家のスタイルは演奏に表現される。表現を生業としない人は、日々の仕事や行動に秘められている。それが本人だからといってわかりやすく文章や話にできるものではない。 こういうところで文章を書く専門家である新聞記者の力が発揮される。しかも、記者はここでは黒子に徹している。まるでその人物の語りがそのまま面白いように感じられる。プロの仕事とはこういうものをいうのだと、愉快な逸話を読んだときには思う。 これまで面白く読んだのは、小野田寛郎、千住真理子、シンディ・クロフォード、今村昌平。最近のなかでは、エリック・クラプトン、さいとうたかを。文章や語りとは違う分野で活躍する人々。彼らのスタイルが文章という表現形式に翻訳されている。 ☆
随想「カウンタック・リバース」を植栽。酒をあおりながらでないと書き進めない息苦しい文章もあれば、この文章のように楽しく書けるものもある。書いている文章について言及する、いわゆるメタ構造は、Todd Rundgrenの“Chain Letter”(“Runt-ballad of Todd Rundgren”)に似ていると書きながら思っていた。そんなことを考えていたら、ずっとその旋律が背景音楽として頭のなかに流れていた。 書評「親のしごと 教師のしごと」を剪定。保存記録を見ると、読み返したのは今年の二月以来。文体、段落を推敲。 書評「森有正エッセー集成5」を細かく剪定。 12/25/2003/THU朝、まだ子どもたちが目を覚ます前に、考える。 サンタクロースっているんでしょうか、と問う必要はない。その質問に対する答えは、ヴァージニア・オハロンに宛てられたThe Sunの社説、“Is There a Santa Claus?”にあますところなく書かれている(Francis Church『サンタクロースっているんでしょうか』、中村妙子訳、偕成社、1986)。 それに、今クリスマス・ツリーの下にプレゼントが置いてある。それが何よりの証拠。問題はだから、サンタクロースはいるか、ではなく、サンタクロースは誰か、になる。 サンタクロースが誰なのか、知ることは残念なことだろうか。そうは思わない。サンタクロースが誰かを知ったとき、人はサンタクロースからのプレゼントは二度といらないと思うだろうか。誰かがサンタクロースのプレゼントを楽しみにしているとき、サンタクロースがいることを信じてきた人はどうするだろうか。 Yes, Virginia, there is a Santa Clause. He exists as certainly as love and generosity and devotion exists, and you know that they abound and give to your life its highest beauty and joy. チャーチは、愛や寛容や献身が存在するように、サンタクロースも存在するといった。きっと、存在するのだろう。では、いったい、どこに。それらは、どこかに、存在するものなのだろうか。 サンタクロースが、どこかに、きっといると信じることができるのは幸せなこと。そしてサンタクロースが、ここに、いること。自分が誰かにとってサンタクロースであることは、たぶん、それ以上に幸せなことにちがいない。 ☆
随想「カウンタック・リバース」を剪定。第一段落に「話したことを文字にしただけでは文章とはいえない」を追加。夏目漱石『草枕』の冒頭は、「山道を歩きながらこう考えた」とあと、文が三つ続いている。借用するなら、きっちり形式をまねすることにする。 bk1に「サンタの友だちバージニア サンタはいるの?」と新聞社へ投書した少女」の書評を投稿。少し剪定して短評に植栽。 随想「メビウスの輪としての言葉」、「プロフェッショナルとアマチュア」に少し水遣り。 12/26/2003/FRI昼食に、寺の門前そばを食べて、仕事納め。帰宅途中、多磨霊園に立ち寄る。 森有正の墓があることは知っていた。でも、来てみようとは、これまで思わなかった。誰でもそうだろうか。墓参りは、好きではない。墓前に立つということは、その人の死を認めること。家族が失踪したり、外国政府に拉致されたりした人びとは、何年たとうと、どれだけ状況が悲観的であっても、墓を立てないし葬式もしない。墓は死を認めた証。つまり死を記念するもの。モニュメントという言葉は、そういう意味だろう。 全五巻にわたる『森有正エッセー集成』を読んでいる間、私のなかで森有正は生きていた。しかし、もう読み終えてしまった。彼は、「バビロンの流れのほとりにて」の冒頭で予言したとおり、多磨霊園のM家の墓へ決定的に還っていった。 『歴史が眠る多磨霊園』というサイトのおかげで、森の墓の位置は簡単に知ることができる。3区1種9側。行ってみると、場所はすぐにわかった。 森家の区画にはうっそうと草木が茂り、ほとんど手入れされていないようにも見える。けれども墓誌は新しい。墓誌に書かれている言葉。
森の伝記的な側面に興味がないわけではない。近親者や交際のあった人の書いた回想録が出版されていることも知っている。いつかは、読んでみたくなるかもしれない。いまは、この墓誌に書かれた名前、生没年、続柄だけで充分胸がしめつけられる。 森有正がいま生きていれば、90歳を越えている。長寿ではあるけど、いまではさほど珍しくない。森が亡くなった年齢は65歳。若すぎる。晩年の作品や日記を読むと、音楽にしても文章にしても、これから本格的な仕事がはじまるところだった。30年近くも前のこととはいえ、残念に思う。 『森有正エッセー集成』を読み終えた今、森の死を認めざるをえないような気がする。二宮正之「詩人がことばを失うとき――『日記』以後の森さんのこと」(『私の中のシャルトル』 ちくま学芸文庫、2000)に書かれた森の最期を思い出しながら、墓前に立ち、彼の死を受け入れることにした。 赤い小さな実をつけた木が生えている。庭師を名乗っているにもかかわらず、植物に疎いので、名前はわからない。突然二十年前の春、多磨霊園へ来たことを思い出した。目的は忘れてしまった。ひどく沈み込んでいて、ヘッドホンステレオで荒井由実『YUMIN BRAND 1』を繰り返し、聴いていたことを覚えている。今は手元にない。クルマに落ちていた『悲しいほどお天気』から「さまよいの果て波は寄せる」を聴きながら、家路につく。 夢中になれる何かが どこまでも導く 一つの読書が終わった。ここは、森が思索の旅に出発した場所、そして、いつか決定的に還ると予感した場所。私の還るところは、ここではない。それでも、ここから新しい思索がはじまることは同じ。ときどき還ってこようと思う。 帰り道、古書店で昨夜忘年会の帰りに見つけて買わずにいた『遥かなノートルダム』(筑摩書房、1967)を買った。価格は、500円。定価は560円と書かれている。森自身があとがきを記した最後の作品。森有正の単行本を買ったのは、『遠ざかるノートルダム』に続いて二冊目。 ☆
随想「カウンタック・リバース」を剪定。エンジンの出力と回転数の比喩を追加。頁の区切りもすっきりして気持ちがいい。 批評「ノーベル賞はいらない」のなか、「小学生のときの逸話」を「小学生や中学生のときの逸話」に変更。最近雑記に書いている中学生時代のことに呼応させるため。 書評「森有正エッセー集成5」に「バビロンの流れのほとりにて」冒頭の引用を追加、細かく推敲。 書評「時代のきしみ」、最終段落を具体的にするため「なぜなら」以下の一文を追加。 9/20の身辺抄に追記。 12/27/2003/SAT今年、印象に残った文章。ある水泳選手が小学生のときに書いたという作文。とあるスポーツ新聞で読んだ。公開するつもりで書いたのでない子どもの頃の作文が、大人になってから公開されることは、本人には面白くないかもしれない。私ならば、拒むだろう。自分では嫌なことを他人について論評するのは、非礼に違いない。わかっていながら、それでも忘れられない文章なので、彼が書いた文章ではなく、私が読んだ記憶について書くことにする。 その作文のなかで、彼は二つのプールについて書いていた。一つは学校のプール、もう一つはスイミング・スクールのプール。スイミング・スクールのプールで、彼は次々の学童記録を塗り替えていた。それにもかかわらず、彼は学校のプールのほうが好きだと書いている。なぜならそこで彼ははじめて記録をつくったから。そしてそのプールでは、速く泳ぐ楽しさではなく、着衣泳法の訓練を通じて水の恐ろしさを教えてくれたから。 プロフェッショナルとは何か、アマチュアとは何か、11、2才の少年にもはっきりわかっている。しかもその文章では、その定義が彼がふだん使っている短く簡潔な言葉で表現されている。 彼は、その後もずっと泳ぎ続けた。記録を打ち立てるためにスイミング・プールで泳ぎ続けた。おそらく、心のなかで、もう一つのプールをゆったりと泳ぎながら。そういえば、悩みを吹っ切った少女も、手で鍵盤を叩くだけでなく、心のなかに『もう一つのピアノ』を見つけて弾きはじめた。 そうして、彼は今年、世界記録を打ち立てた。 ☆
批評「民藝――民衆的文藝――について」を植栽。同時に「民藝」のページを開設。 短評「けんたのたんけん」を植栽。 12/28/2003/SUN昨年は荒川洋治のラジオ・コラムにあわせ、一年を通じて印象に残った言葉について考えた。今年は、一年の最後に今年話題になった本について話していたので、今年の言葉については、自分で考えてみる。 今年、印象に残った言葉。「健全な肉体は健全な精神に宿る」。 11月に健康診断を受けたとき、検査を待つあいだに読んだ雑誌「暮らしと健康」(保健同人社)の一冊に書かれていた。執筆者も、発行年月も忘れてしまった。私物を置いて診断用の服に着替え、手帳もしまってあった。 「健康な肉体に健康な精神が宿る」。そう考えることができたのは、古代の人々。その文章を書いた医師は、現代では精神の健康を最優先するべきという。 どんなに身体を鍛えても、食事、酒量を抑制して、健康食品を食べてみても、精神が健康でなければ、人間として健全ではない。それどころか、精神的に健康でなければ、そうした健康増進の技術が、心身を不健康にする恐れすらある。頭痛胃痛だけでなく、腰痛も心理的な要因が少なくらいらしい。 言われていることは、経験的にわかる。強迫的に運動したり、節制しても楽しくない。楽しくなければ、気持ちは沈み、かえって不健康になる。酒や煙草のように、健康を害しかねないといわれているものでも、心持ちを穏やかにさせる効果もある。気持ちが安定すれば、身体も健やかになる。腰痛については、そのまま私の精神状態の保護回路になっている。 だから、なにより心理的なストレスを生活からできるだけ取り除くことが大切、とその医師は説いていた。身体を鍛えて、ストレスに立ち向かおうという態度はあまりよくないらしい。それほど現代人は精神的疲労が高まっているのだろうか。 そうみるより、それほど現代人は身体的な活動から離れ、精神的な活動に依存しているということなのだろう。身体を動かすだけでは制御できないほど、精神的な活動が肥大しているとみるべきかもしれない。ということは、精神的な活動を減らし、そのうえで身体的な活動を増やすことが、現代人の課題といえる。 来年の目標がみえてきた。といっても、今年も、去年も、おととしも立てた目標。この二年間で精神生活はだいぶ変った。それなのに、身体生活はほとんど変っていない。二年前に心機一転しようとしたことが「烏兎以前」に書いてある。図書館、腰痛の治療、それから文章を書くことは続いているけれど、水泳も散歩もいつの間にか止んでいる。 今度こそ、という自戒も空々しい気がする。それでも一年の計に備えて、箇条書きをつくることにする。 ☆
批評「民藝――民衆的文藝――について」を剪定。箇条書きを、「こと」で終わる体言止めをやめる。「こと」で終わる文は、少し堅苦しい。 12/29/2003/MON私にとって今年一番の出来事。7月以降、毎日文章を書いたこと。酒を飲まない日をつくるようになったこと。 この二つには関連がある。私には、文章を書きながら酒を飲む悪い癖がある。本は、飲まなくても読むことができるのに。 今夏、書くことに夢中になり、毎日書くようになった。つられて酒量も増えた。もともとほとんど休肝日など設けたことなどない。風邪を引いて味がわからないときを除いて、ほとんど毎日飲んでいた。それがあたりまえだった。それが文章を書く量が増え、酒を飲む量が増えたとき、飲むことがあたりまえではないように感じはじめた。うしろめたい気持ちが芽生えはじめた。 アルコール依存症とは、単に量の問題ではないらしい。いくつかウェブサイトで調べてみると、どこでもそう書いてある。酒を飲むことに罪悪感があるようなら、すでに依存症。この点でも昨日書いた「健全な肉体は健全な精神に宿る」はあたっている。 例えば、私はギャンブルをしない。だからパチンコ屋の前を通っても、今日はよそうかしようかなど、迷うこともない。それが酒の場合、とくにこの夏は、酒屋を前を通るたび、やめよう、やっぱり買おう、と逡巡するようになった。 危険な兆候に気づいて、しばらくは完全に断酒した。それでも、しばらくして、また飲みはじめた。はじめは外で、誘われたときだけ。次は、週末だけ。それから、翌日会社が休みの日だけ。最近では、飲もうやめようと意識しないでも、飲みたい時には飲み、そうでない日には飲まない、そういうことができるようになってきた。おかげで11月にあった健康診断は、肝機能を含めて、はじめてオールAだった。 文章だけは毎日書いている。まだ完全にではないけれど、酒と文章を分離することができたのは、大きな収穫。もっとも、読み書きに対する依存度が、今度は高まっている。これも必ずしもいいことではない。 来年の課題はやはり、身体的教養。自分の身体を耕すことを楽しむ。新しくはじめるのではなく、再開するのもいいかもしれない。身体が思い出せば、文章の肥料にもなるだろう。 ☆
批評「民藝――民衆的文藝――について」にエピグラフを追加。合わせて段落がページ区切りに揃うように剪定。 12/30/2003/TUE2002年の雑記を読み返してみると図鑑やムックのような本を多く借りている。それも建築、絵画、アニメ、音楽、航空、など、まったく脈絡のない分野で。そうしたばらばらの知識欲は、トリビア的欲求といってもいいかもしれない。 トリビアというと、私には、テレビ番組より、ボードゲーム。瑣末な知識をクイズにしたすごろく。何年も前に遊んだことがあり、その後、自分でも買ってみた。 あえて分析してみると、トリビアが流行する背景には学校的知識に対する反感があるのではないだろうか。それは、予定調和的な知識体系に対する反感といってもいい。 学校ではさまざまな知識が伝授される。しかし、それがいったい何の役に立つのか、説明はほとんどされない。役に立つかもしれないから、役に立つと言われているから、そういう説明が押し切られる。 トリビアは、本来的には経験に裏づけられた知識。好きなこと、日々関わっていることから得た知識を、人は羨望と尊敬と、少しの軽蔑をこめて消費する。こんなことを知っているんだ、こんなことまで知っていないとできないんだ、こんなことまで知らないでもいいじゃないか、でも、面白い。 トリビアが経験を離れて一人歩きするとき、それはどんなに分裂的で無秩序な編集を装っていても、予定調和的な体系に陥る。やがて人びとは消費することに飽きるだろう。体臭のしない知識は、カビの匂いもしない無臭の古書店のようなもの。 以前ラジオで、本を読む人を表わす言葉について、荒川洋治が話していた。趣味は読書、本の虫、読書家、蔵書家。度が過ぎていくにつれ、他人からは畏敬の念とともに軽蔑も高まると荒川は指摘していた。 知識についても同じことが言える。知識のある人々に対する言葉。物知り、歩く辞書、博学、博覧強記。知識量の程度とともに高まるのは、尊敬だけではなく、侮蔑。それは、知識が経験、すなわちその人の生から離れている度合いと比例する。 つまり、知識がムダ、すなわちトリビアで終わるかどうかは、どれだけその人に必要なものかによる。それは生理的や社会的に、あるいは職業的に必要というわけではない。ムダなことが必要ということもある。 ムダだけれど必要、とはどういうことか。その指標は、隣接する知識を求めているか、という点にあるように思う。どんなにくだらないことであっても、興味をそそる世界には、人は知識を広げていきたいもの。情報は、トリビアで終わる。知識とは、人が、どんなにムダで、他人には無秩序、無意味に見えても、体系として求めて止まないもの、といえるのではないだろうか。 ところで、テレビ「トリビアの泉」にはタモリが出演しているらしい。最近では、タモリは週末の深夜、「タモリ倶楽部」でしかお目にかからない。今年見たうちでは、オーディオの音はコンセントで変るか、鉄道の見えるホテル、船舶技術研究所で最新船舶技術を学ぶ、鉄道DVDと鉄道模型、痔の専門医などが特集になっていた。いずれもバラエティ番組の主題とは思えない内容。それが毎回、笑いながらもためになるのは、番組ホストであるタモリが、情報ではなく、あくまで自分の知りたい知識を求めているからではないだろうか。同じ番組からは、ある会社の社歌が話題になりヒットしたらしい。残念ながら、このときは見逃した。 タモリにしてみれば、おそらくは、何かブームを巻き起こそうとしているわけではない。自分が楽しんでいるだけ。みうらじゅんの言葉を借りれば、マイブーム。 マイブーム、すなわち自分だけの知識の世界には、合理性も必然性もない。同時代の人には奇異に見えるかもしれないし、何かの職業やホビーという出来合いの括りには収まらないかもしれない。 マイブームはトリビアではない。情報でもない。他人にはムダにみえても、自分はどうしようもなく求めてしまう知識。経験の素子、仕事の材料、勇気の燃料、そしてスタイルの素材。自分の世界を形づくる煉瓦。 ☆
さくいん:タモリ 12/31/2003/WED「『庭』というコンセプトはいいですね」と言われて、うれしくなった。自分でも気に入っている。何の気なしにつけた名前だったけれども、ウェブサイトを庭に見立てたのは、あとから考えるとよかったと思う。耕す、植える、育てる、それから、剪定する。そうした庭という語から連想される言葉は、エッセイを書きながら作品に近づこうという今の気持ちに類比できる。 最近、文章を書くことが、非常に機械的な作業に感じられる。書き出すときこそ漠然と文章を書いている気がするけれども、書いた文章を読み返し推敲するときには、文章を書いているというより、パズルを解いたり積み木を並べたりしているような感覚に近い。散策という語を連想する思索というより、構築、整備という言葉が近い。 森有正の文章を読みはじめたとき、「概念を操作する」という表現になじめなかった。考えることは、もっと感覚的で機械的な表現はそぐわないように感じられたから。それが今では、操作する、とか、配置する、といった表現こそ、思想にとって必要で、適切ではないか、そう思うようになっている。 思想は、スタイルを帯びてくると、むしろ、思索とか感性とか、一般に思想につきまとう事態から離れていくのではないだろうか。思想に近づけば近づくほど、実は思想からは離れていかざるをえないのではないだろうか。そして、スタイルが文体や様式と訳される理由はここにあるのではないか。もしそうだとすれば、この頃、私が感じている状態は、思想に近づいている証拠とみなせるのだろうか。 近づくほど、遠ざかる、といって思い出すのは、Paul Simon, “Slip Slidin’ Away”(“Simon and Garfunkul Central Park Concert”)の一節。 God only knows God makes his plan 近づきながら、遠ざかる。遠ざかりながら、近づく。それは今年のはじめ、気に入った英語の歌を集めてつくった私家集「Home」の副題でもある。この自選集は「中途半端」という随想を通じて、私を自分のスタイル、すなわち思想と表現の模索へと向かわせた。 音楽は、思索の源泉ではないけれども、思索の流れを加速させる峡谷のようなもの。しばらくの間準備してきた音楽のページを2004年の新企画として公開することにする。 ☆
さくいん:森有正、サイモン&ガーファンクル |