多和田葉子の名前は知らなかった。新聞広告で「母語の外へ出る旅」の副題が目を引いた。多言語社会については以前から関心があり、また日本語話者が母語以外で表現することにも興味があるので、ドイツ語で創作活動をしているという紹介も気になり、本書を読みはじめた。
エクソフォニーとは、聞きなれない言葉。言語学の難しい用語を多用しているのではと怖れていると、文章は読みやすく、内容も作家生活の日常を題材にしていて、難しいことはなにもない。
文章は読みやすく、語られる内容も難しくはないけれど、多和田のいうエクソフォニーを定義するのは案外やさしくない。厳密に整理して用いてはいないから。読みやすさにのんびりしていると、世界にはいろんな言葉があるんだな、複数の言葉をあやつる人もいるんだな、という平板な理解に終わりかねない。
エクソフォニーは、その概念自体が、シンフォニーのように多声的で多層的。引用されている田中克彦や高島俊男を念頭におきながら、彼女の文章からエクソフォニーを私なりにまとめると、次の五層になる。
- 1. 社会のエクソフォニー。言語と国家との直接的な連関の解体。日本国民は日本語を話す人ばかりではない。また、日本語話者でも日本国民でない人がいる。他の言語でも同じ。国家と言葉は、同根ではない。国語は作られた言葉。
- 2. 生活世界のエクソフォニー。ラジオからは英語、レストランではハングルやイタリア語に中国語。街の看板からTシャツのプリントから文具のデザインまで日本語以外の言葉があふれている。日本にいても、日本語だけに接して暮らしているわけではない。それは世界のどの場所でも同じこと。
- 3. 母語のエクソフォニー。日本語といっても、中国語からきた漢字、欧米語からきたカタカナ外来語なども含まれる。単語だけではない。「よい週末を」のように、日本語を装っていても、考え方が他の言葉から入ってきたものもある。
- 4. 日常語のエクソフォニー。ふだん何気なく使っている日本語は、上記のように外側から見ても「日本語」だけでできているのではない。また、内側から見ても一つの厳格な体系ではない。方言もあれば、性別や職業、年齢、さらには社会階層による言葉の違いもある。また、敬語のように相手によって使い分けられることもある。「XX語」といっても、それはどれも一元的ではありえない。
- 5 自分自身のエクソフォニー。日本語が母語であっても、たとえ他の言葉を話さなくても、自分の中にはつねにいろいろな言葉がある。それは上記のような多言語世界に生きているから。
多和田の観察は、世界が多言語から成り立っていること、自分が多言語世界に生きていることを指摘するにとどまらない。積極的にそのただなかへ、すなわち言葉と言葉の狭間に自らの身を投げ入れる。エクソフォニーは、きわめて動的な言葉。
言葉と言葉の狭間。それは新しい言葉が生まれる「詩的な峡谷」(3 ロサンジェルス)であり、そこは「個々の言語が解体し、意味から解放され、消滅するそのぎりぎり手前の状態」(20 マルセイユ)にある。
そこはまた、今ある言葉によって差別されたり、苦しめられた人々の叫び声が聞こえる場所でもある。だからその場所は、これから新しい言葉と同時に新しい人々が生まれ、そして人々の新しいつながりが生まれる場所になる。
昔なら、数年ごとに住む場所を変えるような人間は、「どこにも場所がない」、「どこにも所属しない」、「流れ者」などと言われ、同情を呼び起こした。今の時代は、人間が移動している方が普通になってきた。どこにも居場所がないのではなく、どこへ行っても深く眠れる厚いまぶたと、いろいろな味の分かる舌と、どこへ行っても焦点をあわせることのできる複眼を持つことの方が大切なのではないか。あらかじめ用意されている共同体にはロクなものがない。暮らすということは、その場で、自分たちで、言葉の力を借りて、新しい共同体を作るということなのだと思いたい。(3 ロサンジェルス)
このようにまとめると、多和田の思いを少し堅苦しくしてしまうかもしれない。これまでは国境を越える方法というと、“exodus”(越境・脱出)にしても“exile”(亡命・追放)にしても、眉間にしわを寄せ、苦しみながら渡っていくような語感があった。彼女の文章はもっと楽しげで、気さく。エクソフォニーは、彼女にとっては言葉の世界を渡り歩く、楽しいエクササイズでもあるのだろう。言葉を楽しむ作家や学生たちとの交流はほんとうに楽しそう。
ここから蛇足を承知で追記。彼女のように複数の言語を操り活躍する人が増えると、あたかも複数の言語を使いこなせなければエクソフォニーの世界で生きていけないように錯覚する。多和田の場合、ドイツ語でしかも文学創作なのですこし違うとはいえ、一般的には現在、英語が使えなければ国際人ではない、さらに普遍的な価値をもたないとまで考えられているように感じる。
多和田は母語以外の言語を学ぶことは楽しいと奨めてはいるけれど、そうしなければエクソフォニーな生き方ができないとは言っていない。すでに、私たちは一つの言語と思われていてもさまざまな言語から成り立つ世界に生きているのだから。それに、ふだん使っている日本語が必ずしも日本語のすべてでもない。
多和田も引き合いに出す方言や、職業上の言葉、子どもの言葉と大人の言葉、男言葉に女言葉。日本語を使っていると言っても、実はそのほんの一部分を使いまわしているに過ぎない。使い慣れた言葉の外へはみ出すことがエクソフォニーならば、はみ出す先は必ずしも「外国語」である必要はない。
「外国語」でなければと思うのは、多和田が捨てた「母国語」イデオロギーというものの裏返しではないか。英語が使えなければ国際人でない、という見方に違和感があるのも、そこに「外国語」アレルギーの裏にある「母国語」イデオロギーが見え隠れするから。
日本語でしか書かない作家、外国語に翻訳されていない作品だからといって、普遍的価値がないとはいえない。当然、海外の学会や雑誌で発表しているというだけで、即、価値のある仕事とも言えない。
確かに英語ができれば、英語話者だけでなく、世界の多くの人と意思疎通はしやすくなる。英語は、とりわけビジネスの世界では世界の公用語となりつつある。しかも最早、片言でも気持ちが伝わればいいという時代ではない。然るべき立場の人は、然るべき言葉遣いを英語でも求められる。
それでもあえて言いたいことは、日本語で書いているから地域限定というわけではないということ。日本語を読み聞きしているのは、日本国民だけではない。日本に住んでいる人だけでもない。
母語ではなくても、日本語を使う人は思ったよりも多い。かつて大日本帝国の植民地だったところで日本語を覚えさせられた人、日本の外に飛び出した日本語話者の子孫、自発的に日本語を学ぶ人。
だから日本語で語るとき、読み手として「日本人」だけを想定することはもうできない。たとえ他の言葉にも翻訳されなくても、この日本語を日本国民でない人、日本国居住者ではない人、「日本人」ではない人が読むかもしれない。
だから、「私たち日本人」と書き出すことにすでに間違いがある。間違いでなければ、読者を限定する枠となってしまう。
また、文学作品についても、外国語に翻訳されていないからといって普遍的な価値がないとはいえない。
日本語イコール日本人という図式が解体されたいま、なぜ日本語で書くのか、という問いに白紙から答える必要がある。同時に、日本語を世界語として書くこと、つまり、「国語」イデオロギーから脱却して、普遍的なことがらを普遍的なスタイルで書く決意が必要になっている。
なぜなら、日本語が多層多様であるように、「日本人」という属性も、充分にエクソフォニーであるに違いないから。
uto_midoriXyahoo.co.jp