2003年9月 |
9/1/2003/MON森有正氏の思い出、丸山眞男、丸山眞男集第11巻 1979-1981、岩波書店、1996丸山眞男「森有正氏の思い出」を読みなおすため、『丸山眞男集第11巻 1979-1981』(岩波書店、1996)を借りてきた。そのなかで丸山は、思想に関心をもつ人間を、思想的人間と思想史的人間とに分けている。森は南原繁と同様に思想的人間に入る。丸山は自身を思想史的人間とみる。前者は、自分の思想と過去の思想家を対話させるから、歴史的順序に関心がほとんどない。後者は、歴史的変遷を重視し、思想内容を自分の言葉で表現したり、再構築したりすることに執着しない。 どちらかといえば、私は思想的な人間といえる。そういう私にとって、思想史は自分の思想を探求するための補助教材。もっとも有益な史料は、どうやら自分自身のようだ。それはたんに自分史をたどるということではない。思想史のなかで自分の過去や現在を考ええるということ。書評を書いた竹内洋『教養主義の没落』や、鳥越信編『はじめて学ぶ絵本史』などを読んで、自分の存在を社会史や思想史のなかで考えるようになった。 ここでいう歴史とは世紀単位の大歴史ではない。十年単位、一年単位の微視的な歴史。自分が読んだ本、聴いた音楽、見た番組。そうしたものを整理して思想史、社会史のなかに自分を再構築することは、自分のスタイルを理解し、育成するためにも悪いことではないだろう。 ☆
9/2/2003/TUE子どものころ、家にはいわゆるグラフ誌がたくさんあった。『太陽』『グラフ・ヨコハマ』『アサヒグラフ』。入江泰吉が撮った奈良の写真や、モントリオール・オリンピックで活躍したナディア・コマネチ、大桟橋に入港したクィーン・エリザベス二世など、グラフ誌で見知ったものは少なくない。 写真家、橋口譲二が太陽賞を受賞した連作「視線」(1981)も、その一つ。金バッチをつけた15歳とはとても思えない少年の視線が、今も突き刺さる。トヨタ・クラウン、オメガ・シーマスター、それからカミュ・ナポレオン。そういうものもグラフ誌で覚えた。 いま、グラフ誌というと、無料で読んでいるものが多い。飛行機の機内誌やクレジット・カード会社の会員雑誌、通信販売を一度買ったら送られてくる広告雑誌。いずれも宣伝だけではなく記事も充実している。きれいな写真に、読み応えある文章。こういう事態をどう考えたらいいのだろう。広告の延長である広報誌が、本来それ自身の価値に対して買われるべき雑誌を駆逐しているとみるべきだろうか。 今さら広告だから面白くない、品がないとはいわない。小林秀雄のなかで一番美しい文章は、全集の内容見本に寄せられた広告文と思っているし、山口瞳『諸君、この人生大変なんだ』(講談社文庫、1992)に収められた酒にまつわる軽妙かつ含蓄ある文章の多くも、もとはウィスキーの広告に添えられた文章。 どこに書かれたか、ということは作品の価値とは、直接関係がない、ということだろう。当たり前というえば当たり前。古くは、文章が売買されていない時代に「詠み人知らず」と詠みすてられた言葉もある。今では、広告のなかにも商品を買わせるだけではない、味わい深い文章がある。 近頃はグラフ誌どころか、雑誌をほとんど買わない。そのかわり、機内誌をはじめ、鉄道会社の広報誌、書店、出版社の広報誌が積まれていると、つい手が出る。それを読みきるだけでもひと月はあっという間に過ぎる。活字離れだけではなく、産業構造の変化が出版業界を苦境に陥れているようにみえる。 9/3/2003/WED昨日の荒川洋治。読書の秋がきたので全集の話。昭和三十年代に二十社近くから出版された文学全集も、今では新潮と筑摩が注文に応じて増刷しているだけ。明治から大江健三郎、寺山修司あたりの世代を含む。 文学全集だけではなく、個人全集も魅力あり。最近では、小林秀雄、幸田文のほか、全42巻にわたる三島由紀夫全集が刊行中。森本毅郎も購読中。 個人全集のよさは、名作、大作だけでなく、書簡や日記まで同じ活字で読めること。一人の人間の重みを実感できる。最近では、文庫だけでもほぼ全集になるものもある。夏目漱石、芥川龍之介、坂口安吾などは、文庫でもほぼ全作品が揃う。 荒川がもっているのは、梅崎春生と高見順の全集、あといくつか。手持ちは少ないがかわりに内容見本を集めている。約500種類。 荒川、「文章を書くときに利用するんです。」全集は買って、並べて、開いて、ときどき干して、整理して。森本、「で、読まなくてもいいんですか」。 『三島由紀夫全集』の全42巻は多い。現代の作家は、雑誌や新聞にも頻繁に書くし、それらがきちんと記録されているから膨大な分量になるのだろう。量は確かに多いが、最近では気楽なコラムやインタビューも増えている。それらは果たして今後、個人全集として編まれる価値があるのか、疑問にも思う。 書かれた作品、作家としての対外的な活動、書簡などの個人的な言葉。データベース技術が高度化している現在であれば、著名人の発言から動向までのすべてを事細かに記録しておくこともできるにちがいない。 その集約は、文学全集とよべるものになるだろうか。作品とは、そうした小さな逸話や個人的な経験を凝縮して生み出される物ではないか。どれだけ資料を集めたところで、作品が作品として独立してもつ力は変わることがないと思う。全集はただ生きた記録の集積ではないはず。 私の持っている全集は一種類。白水社版『ルソー全集』。全14巻、美装函入。題字はルソーを最初に和訳した中江兆民の筆跡から一字ずつ採用するほどの凝りよう。これなら読まなくても、持っているだけで充分に満足する。 文庫の全集は、買いやすく、読みやすく、置きやすい。函入の豪華本にも、所有する歓びがある。そういう喜びを味わう機会はなかなかない。全集は、買えなくても図書館でずらりと並ぶ姿を眺めたり、ところどころ拾い読みするのも楽しい。 全集のもう一つの楽しみ。ぺらぺらの月報に、ときに本編以上に面白い文章がある。こういうものを好むのは、書痴というのか、一種のフェティシズムかもしれない。 9/4/2003/THUある政治的な動きが起こると、新聞に必ずと言っていいほど、「今までは黙っていましたが、今回は我慢できません」という投書が掲載される。だから投票に行きます、だからデモに行きます、などと続く。 こういう考え方は、民主主義と政治をまったく理解していないように思う。何かが起こってからでは遅い。政治は決断の積み重ね。気づく前からすでにいくつもの出来事が起こっている。突然戦争が始まったり、税金が上がったりするわけではない。 コップの水があふれてから蛇口が閉まらないと大騒ぎしても始まらない。黙っていたあいだにすべての下準備はできあがっていたのだから。 そうかといって、気に入らないからといきなりコップをひっくり返すことはできない。それまでの積重ねを、すべてひっくるめてご破算にしようとするのは革命かテロというもの。テロに反対するなら、漸進主義者、改良主義者、修正主義者にならざるをえない。 気づくのが遅かったからといって、悪政をしぶしぶ受け入れなければいけないということではない。黙っていたことを認めたうえでなければ、改革ははじまらない。悔い改めるという言葉は、宗教的というより、実はきわめて政治的で、民主主義には欠かせない言葉であるように思う。 9/5/2003/FRIYUMIN BRAND 1(1976)、荒井由実、Alfa、1993コバルトアワー(1975)、荒井由実、Alfa、1987思い出してみると最初に聴いたユーミンのアルバムは『YUMIN BRAND 1』。1983年の春ごろのはず。「守ってあげたい」のあと、「時をかける少女」の前、あたりだろうか。松田聖子でいうと「秘密の花園」と「天国のキッス」の間か。 持っていたカセット・テープでは、本来B面の「12月の雨」がA面の最初になっていた。間違いを知った後も、私が聞いていた曲順はいつも最後が「ルージュの伝言」。今回、はじめて正しい曲順で聞いた。やはり陰鬱で大袈裟な「翳りゆく部屋」がトリになっているほうがいい。 『コバルト・アワー』は珍しく、最後の曲が陽気。冒険を主題にした「アフリカへ行きたい」は「SHANGRILA」(NO SIDE)へ通じる。「中央フリーウェイ」「コバルトアワー」「カンナ8号線」などのドライブソングも、冒険のスパイスが効くと「ナビゲーター」(シングル)「ワゴンに乗ってでかけよう」(Surf & Snow)のようになる。 「航海日誌」を久しぶりに聴いてみて、同じように船を題材にした、さだまさし「フェリー埠頭」(『私花集』)を思い出した。同じ頃に発表された曲のはず。どちらも、船に託しているのは、ゆっくり悲しみ、ゆっくり忘れるということ。流行りのことばをもじれば、スロー失恋となるかもしれない。 ☆
さくいん:荒井由実 表紙背景を写真の同系色から薄闇色に変更。 絵本短評「せかいいち うつくしい ぼくの村」「まち」「ちいさなやま」を植栽。 9/6/2003/SAT森永卓郎が、著書『年収300万円時代を生き抜く経済学 給料半減が現実化する社会で「豊かな」ライフ・スタイルを確立する!』(光文社、2003)で展開した自説を、週刊誌や新聞から、テレビ、ラジオまで、さまざまなメディアで披露している。こうなると怖いのは、言っていることがもともとの意図から離れて図式化され、一人歩きすること。新聞や雑誌の簡潔すぎる見出しは、そういう曲解を助長する。 激しい競争社会では、勝ち組と負け組がはっきりわかれる。勝ち組といっても、楽して贅沢ができるというわけではない。エリート層になれば、責任と負担が飛躍的に増大し、収入の増加や社会的地位の向上では相殺しきれないほどになる。一方、負け組は低賃金のうえ、やりがいのない仕事、賃金に相応しない過剰労働を強いられる。 勝ち組をめざすなら生活を犠牲にするほどの努力がいる。その気がないなら、勝ち負けにこだわりあくせく働くことをやめて、好きなことを好きなようにしよう。森永の言葉を借りれば、「ラテンで行こう」ということになる。 素朴な疑問。勝ち組になるのはほんとうにたいへんなことか。楽して勝ち組になる人もいるのではないか。勝負は時の運。勝ったのは偶々で、能力や努力の結果というわけでは必ずしもない。にもかかわらず勝ち組は、「私たちは努力したから成功した」と言いたがる。それは図式的に、負け組に対する不遇を正当化するため。「努力が足りないから賃金が低いのだ」と言い含めて。 また、「好きなことをやっているのだから、収入が少なくて当たり前」という言い草も、同じ図式から引き出されかねない。好きなことをするかしないか、ということと、勝ち組を目指すか負け組に甘んじるか、ということは別の次元の問題であるし、労働に対して正当な報酬を得るということは、さらに別の問題。これらを丼にいれてかき混ぜていると、妙にわかりやすい図式ができあがってしまう。 「ラテン式で生きる」ということは、負け組に甘んじるということではないはず。満員の鈍行列車に揺られるよりは、いっそ飛び下りて自分の足で歩いたほうが、はるかに快くひょっとしたら列車よりはやく目的地にも着けるかもしれない。そういう意味ではないか。 企業労働についてのこれまでの議論は、自己実現、自己表現といった言葉を通じて、結局、企業労働を肯定的にとらえる傾向があった。確かに私自身、人はいまいる場所からしか自分のスタイルを生み出すことはできない、とつねづね思っているので、仕事をいやいやするより、そこに積極的な目的を見出していくべきという意見には賛同したい。 しかし、現実を見まわすと、労働をめぐる事態はかなり深刻。つまり、ともかくまずは列車を下りたほうがいいのではないか、とさえ思われてくる。そもそも、終着駅の名前も場所もわからずに、漫然と列車に乗るのは不安どころか危険な旅だから。 森永の発言や著作が、これまでの論者と違うのは、この「まずは下りろ!」を明快に打ち出した点にある。それがここのところ、賛同する側でも反論する側でも、もともとの意向とは異なる意図で図式化されているように見受けられる。 ☆
さくいん:労働 9/7/2003/SUN昨日のつづき。 「下りろ!」という言葉を書いて思い出したのは、Billy Joel, “Movin' Out”(“Stranger,”Sony, 1978)。20年以上も前に、“You can pay Uncle Sam with the overtime / Is that all you get for your money?”と問いかけていた。もらえるかどうかもわからない年金を払い続ける私は、何と答えたらいいのかわからない。 歌詞の最後。“Good luck monvin' up / Cause I'm movin' out”。「勝ち組行きでも負け組行きでも、どうぞご勝手に、オレは下りるよ」。そんな風に聴こえる。 先週、大阪で久しぶりにお好み焼きを食べた。ときどき出かける老夫婦で、というよりおっちゃんとおばちゃんで切り盛りする小さな店。正午前に開いた扉からなかを覗くと、「ちょっと待ってね」とおばちゃん。「ちょっとは長いでぇ。昨日休みやったから、イチから出直しや」とおっちゃん。こんな調子でおっちゃんの漫談が始まる。お好み焼きも逸品だけど、鉄板で焼いてる間のおっちゃんのしゃべくりを聞いているのが、何より愉快。 「たこ焼きも、いろんなもん入れたりかけたりしたやろ。みぃんな消えました。あんなもん、続くわけないんや。」 舌がなめらかになると、辛口になってくる。 鉄板を置いたカウンターの向こうで、二人はほとんど会話しない。狭い厨房で呼吸を合わせたように、互いに邪魔にならないよう身体を動かしている。手先は震えているが、真丸のお好み焼きがあっという間に出来上がる。 かえりみると、自分の仕事には、技もなければ芸もない。阿吽の呼吸もなければ、「遊びじゃない」という啖呵もない。下りる前に、まだしなければならないことがあるような気がする。それとも、下りてやりなおせばいいのか。ここでもだめなら、下りてもだめか。いやいや、下りるといっても、すでに列車には乗り遅れて、今では線路の上をとぼとぼ歩いているようなものではないのか。いまさら、列車を追いかけろというのか。また、よくわからなくなってきた。 ☆
さくいん:ビリー・ジョエル 9/8/2003/MON森有正「アリアンヌへの手紙」、紫式部について書かれた一節(『エッセー集成4』)。 また彼女は自分の書いたものを出版しようなどと一度でも考えただろうか。わたくしの感じではこの創作は《無償の行為》と言ってもよいようだ。それに反して、川端康成の作品は本質において《人為の》ものであり、《商品》として書かれている。これは軽蔑する意味では全くない。しかし、わたくしは、折り折り、「源氏」に涵ることで十分である。これは段違いに本物なのだから。すでに鎌倉時代の日本人は「源氏」のような作品を創造できる状態になかったのである。川端康成のようなタイプの作品は跡形もなく消えさるであろう、少なくとも本物の読者にとっては(「書簡二十三」)。 数日前、直接取引きされる単行本や雑誌と間接的に買っている機内誌やクレジット・カードの会報誌などを比較したばかり。ここで森は、資本主義社会で書かれるすべての「作品」は《商品》であり、《人為の》ものであり、文学的、芸術的価値はないとまで言おうとしている。川端がとりあげられているのは、純文学中の純文学である川端文学ですらそうした本質を免れないという意味に違いない。 それでは、資本主義社会にあって、芸術はありえないのだろうか。引用文には「本物」「本物の読者」という言葉がでてくる。荒川洋治のエッセイ「まぼろしの読者」(『本を読む前に』)にも似たような表現があった。 金のために書く。それは文章にとっては、目的における一つの制約。《商品》として書かれるものにとっては、いつまでに書き上げなければならないという締め切りも、一つの制約。それでは芸術作品にとって、制約は、お金と締め切りだけだろうか。 画家は、キャンバスからはみ出して描くことはできない。ピアニストは、鍵盤以外から音を出すことはできない。逸脱を試みる実験はあるだろう。それでも、制約を破ることはできても、制約をなくすことはできない。むしろ芸術とは、制約を破る、あるいは制約の中で表現する、それらどちらかの戦術しかとりえないのではないか。 長くなりそうなので、続きは明日へ。 ☆
9/9/2003/TUE昨日の続き。 確かに紫式部は《無償の行為》として書いていたかもしれない。そうだとしても、読む人は皆《無償の行為》として読んできたか。私が「源氏物語」の一部やあらすじを読んだのは、受験勉強のため。知っておくため、覚えるために読んだに過ぎない。だから私は「本物の読者」などではなかった。楽して覚えようとする「受験生」でしかなかった。 いまでも巷には、「源氏物語」を覚えるために読む人もいれば、そうした人のために、書いている人もたくさんいる。紫式部はどうだったのかはわからないが、いま、紫式部で商売をしている人はいる。彼らにとって「源氏物語」は、作者の意図に関わらず、《商品》の原材料にすぎない。 今、私が森有正を読むことに目的はない。何ら代償を求めていない。確かにこれまで彼の著作に多くを教えられた。けれど、それは読書のあとに結果的に学んでいただけであり、何かを求めて読みはじめたわけではない。本物かどうかはわからない。少なくとも私はただの読者。だから森有正が次のように書き残しても、まったく気にしない。 こうして出版社に約束したものは、凡て六月末までに終えることになるだろう。今のわたくしは万事にわたって驚くほど出費がかさんでいるので、どうしてもこうしなくてはならないのである……(「アリアンヌへの手紙、書簡十五」)。 著者が金のために書こうと、無償の行為として書こうと、読者にとって問題ではない。問題は読み手の側にある。「源氏物語」であろうと、「雪国」であろうと、たとえ「聖書」や「コーラン」であろうと、読み手が《無償の行為》として読まなければ、読後感は、知識や虚栄や自己満足のうちに跡形もなく消え去るだろう。 《無償の行為》としての読書。それはいきなりはじめられるものではない。情報収集のための読書、見栄を張るための読書、暇つぶしのための読書。そうした目的ある読書から、思いがけない仕方で、目的のない読書が生まれる。 《無償の行為》としての読書は、ある本からは生まれて、ある本から生まれないということはない。どんな本からも生まれる可能性がある。 だから「本物の読者」も「本物の作者」もない。「本物の本」もない。本当にあるのは、「本物の読書」だけ。それは、しようと思ってできるものではない。 読書体験は、どこからともなく降ってくる。大切なのは、流れ星を見逃さないこと。 ☆
さくいん:紫式部 9/10/2003/WED昨日の荒川洋治。作家主導の文芸雑誌について。 大手出版社から出されている文芸雑誌とは別に、作家が同人的に集まってつくった雑誌がいくつか出ている。柳美里、坪内祐三、福田和也らによる『ex-taxi』のほか、『新現実』『重力』など。 文学史をみると、文芸雑誌は作家主導ではじまったものが少なくない。明治時代は、ジャーナリズムや商業出版が、まだ充分な力をもっていなかったから。『我楽多文庫』(尾崎紅葉、山田美妙)、『白樺』(志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎)、『文藝春秋』(菊池寛)など。 これらの文芸雑誌は、作家が編集だけでなく執筆をした。これに対し、作家がスポンサーになって文芸誌を興すこともあった。この場合、編集に口は出さない。丹羽文雄が主宰した『文学者』からは、新田次郎、瀬戸内晴海など、多くの新人が生まれた。 作家主導の雑誌には、作家が書きたいことを書きたいように書けるという利点がある一方、営業面で不安定。そのため印刷所もたびたび変わる。また、仲間どうしで作ると、あの人はあっち、この人はこっちという派閥ができあがり、文壇ができあがる。さらには記憶が曖昧になるという欠点もある。 『歴程』という雑誌は、後に同人の一人、草野心平が文化勲章を受けたため、草野が中心になって創刊したと思われているが、そうではない。本人までそんな風に思いはじめると困ったことになる。創刊時に関わった高橋新吉は、草野を非難する文章を方々で発表した。こういうことを避けるために、玄人の編集者を立てるのがいいかもしれない。 荒川の結びは、最近の動きに対する批判なのか、助言なのか、はっきりしない。 音楽や映画にも、セルフ・プロデュースと呼ばれる作品がある。製作、指揮あるいは監督、それから演奏あるいは演技。それらの役割を一人でこなしてしまう作品。 雑誌となると、少し様子が違う。言ってみれば、コンピレーション・アルバムをミュージシャンが集まって作るようなもの。新機軸の雑誌を出すという総論では賛同できても、どれを入れる、どこに載せるという各論になると、まとめるのは簡単ではないだろう。 一人で書くのは、気楽だ。 9/11/2003/THUイカロスMOOK飛行機プラモの世界 HASEGAWA Since 1941、世界のファンを魅了するモデルのすべて、イカロス社、2003言語2003年5月号 特集:辞書を作ろう、大修館、2003言語2003年6月号 特集:移民コミュニティの言語、大修館、2003作らないのになぜか模型雑誌は気にかかる。模型本体の写真も面白いけれど、プラモデルの箱絵を見るのも楽しい。 雑誌『言語』6月号では、在日韓国人の世代ごとの言語の使い分けや、ブラジルから来日している人たちの日本語とポルトガル語の使い分けなどが分析されている。興味深いが、専門的でわからないところも多い。 『言語』では、斎藤美奈子が連載をはじめている。題名は、「斎藤美奈子のピンポン・ダッシュ」。ご丁寧に、「ピンポンダッシュとは人家の呼び鈴を押しては逃げる子どもの遊び」と注記がある。街で拾った気になる言葉の使い方について、考えるヒント(!)を投げつけるだけで結論は出さずに逃げてしまおうというつもりなのだろう。 斎藤美奈子は、近頃あちこちに書いている。しかも思いもかけないところで見かけるので驚く。『噂の真相』『言語』に加えて『婦人公論』で見たし、つい最近は『通販生活』で筑摩書房『明治文学全集』の広告文を書いていた。書く媒体にもアクの強さが出ているように感じる。 職業的作家にとっては、何を書くかだけではなく、どこに書くかも看過できない問題。とりわけ、同時代の作家については、そう言える。発表や露出の手段や頻度、その場所など、もろもろを含めて作家像はつくられるのだから。 もう亡くなっていて全集でしか読めないような作家の場合、今度は彼らが書いていた時代の雰囲気や受け止められ方を想像するのが難しい。いまでは文学史上の金字塔と言われる作品が新聞や売れてはいない雑誌の連載だったり、多くの人の眼には止まらない同人誌に掲載されたものだったりするのだから。 同時代に書かれた原産地で出会うか、百貨店のように小奇麗に並べられた全集で出会うか、そういう点でも、作品への気持ちはずいぶん違ってくる。 ナンシー関が亡くなって、辛辣でいて愉快なメディア批評は斎藤美奈子に継承されている。メディアの世界は、魔界同然。浮かれてしまえばこき使われて磨り減るし、本気で戦うと、思ったより援軍は望めないから、これまた消耗が早い。磨滅せず、消耗せず、健闘を祈る。 ☆
9/12/2003/FRIIT業界の開拓者たち、脇英世、ソフトバンク、2002IT業界の冒険者たち、脇英世、ソフトバンク、2002知人のすすめ。IT業界の英雄というより、ほとんど奇人変人列伝。開拓者たちは際物たちであり、冒険者たちは変わり者たちでもある。著者の好みなのか、インタビューや自伝から、とくに人間味あふれる奇天烈な逸話を収集しているから、そう感じられる。それにしても、彼らはもともとトンデモない人々だったから、世界を変えるような偉業をなしとげたのだろうか。そうでもないようにみえる。 最初から奇人という人は意外と少ない。ちょっとモノ好きとか、ちょっと野心的くらいな人が、ふとしたチャンスから成功を得ると同時に一気にぶっとんでいく。誰もがもってるような少し異質な部分が何かをきっかけにはじける。とりわけIT業界では、子犬があっという間に成犬になるように、栄枯盛衰のサイクルがすさまじく速いうえ、成功の報酬も桁外れ。それだけ逸話も突拍子もないものになる。 著者は多くの場合、親の世代から書き起こし、学生時代の逸話を拾い上げ、平凡な人間が時代の寵児へと変貌するさまを短い文章のなかに手際よくまとめる。 コーラを飲みながらジーンズのまま徹夜で働く億万長者。そんな風景は、最近ではIT業界でもほとんど見られなくなったのではないか。聞くとところでは、過剰労働や職場のイジメなどは日本企業の専売特許ではなく、合衆国や欧州の企業でも見られるらしい。それももっとも先進的であるはずのIT業界の企業に。 だから本書は、めまぐるしく転変してきたIT業界全体の衰亡史と読むこともできるし、一つの産業革命に参加した風変わりな義勇兵たちの物語として読むこともできる。何が彼らを革命に駆り立てたのか、彼らが生み出した会社、技術、そして文化はどのように旧来型へと収斂されていったか。読みながら、そんなことを考える。 IT業界の歴史は明治維新に似ている。たった数年で役者も舞台も大違い。アップルとマイクロソフトの移り変わりを読むだけでも、そう感じる。 ☆
絵本短評「とどまることなく」「キング牧師の力づよいことば」を植栽。 9/13/2003/SAT新潮日本文学アルバム 永井荷風、中島国彦、新潮社、1985そのうちに、永井荷風を読んでみたいと思っている。小林秀雄や森有正の著作にも、永井荷風はしばしば出てくる。学歴の歴史を研究している竹内洋も、永井荷風を学歴エリートから逸れていった一人として取り上げている。図書館にちょうど写真を中心にした伝記があったので借りてみた。 明治人の海外体験談は面白い。当時の旅行事情を知るだけでも楽しい。本書では、旅程図や通った学校や寄宿した家の写真、荷風の書いた英文の恋文なども収録されている。 前にも福沢諭吉や高橋是清の自伝で、愉快なカルチャーショックの逸話や痛快な冒険談を読んだことがある。荷風は、横浜正金銀行の社員として駐在している。当時から企業人で外国に暮らした人がいたことがわかる。もっとも、その数はごくわずかだった。高橋是清のように、荷風もほとんど行って帰ってきただけでも大学の先生になっていることからも、そうした事情が伺える。 それでも、外国へ行った人はまったくいなかったというわけではないし、移民した人も少なからずいた。日本語話者は外国が苦手という感じ方は、どうも敗戦後につくられた作為的な自虐イメージのように思えてならない。 遠藤周作が寄せている「荷風ぶしについて」の一文は、やや手厳しい。遠藤は荷風文学の特質、「荷風ぶし」とは「情緒化する眼」だと述べている。それはフランス文学のもつ「明晰な眼」ではなく、「獏としたイメージと言葉の集積で、捉えがたい悲しみの情感をつくりあげる」。 遠藤自身は非難のつもりはないと断っているけれど、文末では戦後の荷風について「彼の文学を裏切った一人の老人のイメージがあるだけだ」とまで書いている。荷風の文学を知らない私には、遠藤の指摘が正当なものかわからない。ただ、人物評としては少し酷なように感じる。 ☆
書評「テクストとは何か」を植栽。 9/14/2003/SUN地球の歩き方MOOK ヨーロッパ列車の旅、植木孝編、ダイアモンド社、2002フランスへ旅するという人が近くにいたので、少し羨ましく思い、図書館の本で旅行へ行った気持ちになることにした。 パリやロンドンなどヨーロッパの大都市には、文字通り終着駅と呼べるような巨大な駅がいくつかある。『ヨーロッパ列車の旅』は、それら終着駅に共通する要素をまとめて典型的な終着駅として鳥瞰図をのせている。あきれるほど高い天井。道路と線路が同じ高さ。改札の正面に真直ぐ続くホームと線路。改札といっても駅員もいなければ、自動改札機もない。通りからホームに待つ列車の最後尾が見える。ホームの先端に立つとこれから進む線路がずっと続いているのが見える。 こういう駅の風景は日本国内ではあまり見かけない。大きな駅はたいてい地下から高架まで多層構造になっているから、通りから線路をみることはほとんどできないし、まして始発駅に列車の最後尾から列車にそってホームを歩くこともめったにない。 私の知る限り、そうした雰囲気がかろうじ残っているのは京都駅。改札口の向こうに同じ高さで列車が止まる。しかも一番北側のホームが東海道線の上りなので、夜遅く、東京行き寝台急行「銀河」が見える。 見ていると、改札、ホーム、列車、線路、東京と気持ちが次第に遠くへ遠くへと続いていく。京都駅も途中駅なので、出発を待つ始発列車を後ろから眺めることはできない。かろうじて福知山線のホームにその名残がある。 延伸感はずっと不足しているけれども、私鉄のほうが終着駅の雰囲気をもった駅が多いかもしれない。それも、最近は地下鉄や他の路線と相互乗り入れが進み、一社の終着駅は見分けづらくなっている。東急東横線の桜木町駅は、小ぶりながら終着駅のたたずまいをもった駅だった。 桜木町駅のことを考えると、麗美のファーストアルバム“Reimy”を聴きながら、駅近い指路教会の前を歩く自分の姿が思い浮かぶ。腰痛を治療するために、病院へ行く途中だった。高校時代の記憶の断片。横浜駅から地下鉄となり、みなとみらいから元町へと延伸するため、この駅も近くなくなるらしい。 9/15/2003/MON遥かなる中世の街角で フランス古都紀行、三輪晃久、クレオ、2001パリ 都市の詩学、海野弘文、村井修写真、河出書房新社、1996紙上旅行の続き。 フランスをよく知っているわけではない。旅行や仕事で何度か行ったことがあるだけ。それでも、ほかの場所はほとんど一度行ってみただけだから、複数回行ったことがあるだけで親密度はだいぶ違う。写真を眺めて思い出すこともある。 『都市の詩学』は、「広場」「大通り」「庭園」「噴水」などパリを彩る場所の写真とそれぞれを題名にした文章の二重奏。パリの街をくまなく歩き、パリに関する書物を渉猟した海野の文章を読んでも、思い出すことがある。 「駅」では、19世紀、鉄道が都市の表玄関だったことから書き起こして、それゆえパリの各駅が豪華で、それぞれ異なる趣の建築であることを解説する。サン・ラザール駅に降りたった永井荷風も引用されている。 「美術館」では、有名なところばかりでなく、「パリらしい、小粋な」美術館も触れられている。カルナバレもその一つ。正式には、パリ市歴史博物館。ルソーやヴォルテールの手稿があると聞いて、アンジェに出張した帰りに一人で行ったことがある。プルーストの寝室が復元されていたことは、海野の文章で思い出した。 展示は、古地図、古写真から、生活道具やさまざまな法令の資料などが延々と続く。歩きつかれて座ったカフェ。私にとってパリの詩学は、一杯のカフェ・オレにあった。 ☆
9/16/2003/TUE9月9日の続き。 森有正は、紫式部が書いた文章を《無償の行為》と読んで賞賛した。ところが《無償の行為》のような表現行為は、ときに生活感がないと批判されることもある。そのような作品に比べれば、森が結局は《商品》にすぎないと言った川端康成の作品は、むしろ生活のため、金銭のために書かれたにも関わらず、売らんかなという目論見以上の価値をもった優れた作品とみることもできる。 実際、プロの作家たちはその点にプライドをもっているようだ。自分の作品を含めて金のために書かれたから《商品》に過ぎないというより、生活をかけて表現したことに価値があるとみている。晩年の小林秀雄が自分を「売文家」と呼ぶときも、韜晦のなかに自信と矜持がうかがわれる。荒川洋治が揶揄するように、現代の作家は「筆一本で」という言葉を乱用する。 これ以上考えても、前に書いたことと同じ結論になるだろう。金のため、生活のためかどうか、あるいは無償の行為かどうか、ということは、作品の価値とは直接には関係ない。前者にこだわれば、奴隷制を支えにしていた古代の芸術や哲学はすべて価値がないことになるし、後者を基準にすれば、映画やアニメやマンガなど、娯楽産業の存在を前提にした作品には意味がないことになる。 確かに芸術の出発点は生活にあったという見方は正しいだろう。それは人々の暮らしに生活しかなかったころの話。現代では、生活と職業、生活と余暇は、見方によって別ものだったり、対立したり、互いを含んだりしている。生活のためとは何か、定義することはやさしくない。同様に《無償》とは何かを定義することも難しい。 文学史も批評理論もない。目の前の文章表現にどれだけ素直に感動できるか。その上で感動してしまった自分をどれだけ厳しく見つめなおすことができるか。専門知識から見れば、浅薄で前時代的で差別的な感動かもしれない。鑑賞する、というのは、この両極端の気持ちを保つこと、いわば情熱的に醒めることではないだろうか。 ☆
9/17/2003/WED三宮泊。 昨日の荒川洋治。涼しくなってきたので旅行の話。池内紀編『小さな桃源郷』(幻技書房)の紹介。昭和三十年代に山岳雑誌に掲載された旅のエッセイ集。 多くの人が人里はなれたうらさびしい場所を選んでいるのが興味深い。31人中3人は神流川の流れる下仁田付近をとりあげている。 住めば都というけれど、行けば都でもある。自分の足で出かけてみると、その場所のよさがわかる。森本のまとめ。昭和三十年代は、旅らしい旅があったんですね。 涼しくなったので、と言うが、先月には夏休みになったので旅の話と言っていた。荒川は旅好き。あるいはそれ以上に旅を扱った文章が好きなのかもしれない。桃源郷は、意外に身近なところにもあるとも言っていた。 このところ、週末にもほとんど遠出しない。休日だった月曜日、すぐ近くの公園へ出かけた。雑木林に囲まれた大きな公園。こんな近くにも、めったにでかけない。 何年か前、この公園のそばに住んでいたことがある。その頃結婚はしていたけれど、仕事もなく、子どももいなかった。暇なときには、ぼんやり芝生に座って過ごした。やがて仕事が見つかり、子どもができた。毎朝、駅へ行く前に自転車で公園を一回りした。 桜の名所で、満開の頃は公園全体が酔っぱらったようになる。冬にはほとんど誰もいない。大雪の夜、足跡をつけに行った。 同じサイクリング・コースを子どもと並んで走る。木陰でドラムの練習をする人、笛を吹く人、調子はずれのラッパの音。8月と9月が入れ替わったような暑さ。Chicago, “Saturday in the park”そのままの風景。 桃源郷の空に写実画のような入道雲が光っていた。 9/18/2003/THU夕べは三宮泊。 ふらっと入ったビルの七階にある小さなバー。マスター、常連客と話に花が咲いた。 こういうことは珍しい。どこから話ははじまったのだろう。レコードをかけているので、ギターで何かかけてくれと頼んだら、Al Caiola、“Deep in a Dream”というレコードを聴かせてくれた。 釣りの話から開高健の話になり、ブラッド・ピットの『リバー・ランズ・スルー・イット』に寄り道して山口瞳の話になり、直木賞や芥川賞の話になったのかもしれない。「あれはサプルマン氏やったかな」とマスター。どこにでもいる江分利満氏は、そんな栄養剤みたいな名前ではない。マスターはわざとボケているのか、ほんとに度忘れしているのかよくわからない。 第一回芥川賞受賞作、石川達三の『蒼茫』は雨の降る神戸の描写ではじまるという話。阪神優勝の話題から、甲子園は兵庫県にあるのに大阪の球団と思われているのは悔しいという話。それから神戸と横浜の比較になり、舞鶴、城之崎、有馬温泉の話になり、そういえば手塚治虫『アドルフに告ぐ』も舞台は神戸。有馬温泉で芸者が殺されるところから始まると私がつないだ。 神戸といえば、新田次郎『孤高の人』の主人公、昭和初期の社会人山岳家、加藤文太郎は和田岬の近くに住んでいて、このあたりの山を一日で縦走したと書いてあった。「それ、富士山測候所の人ちゃうの」。またマスターはボケている。それは『芙蓉の人』。 極端にドライなマティーニを飲みながら、こんな話をするのは愉快。だいたいこの店はマスターが買い忘れてベルモットが切れている。チャーチル風どころか、これ以上ドライになりようのないマティーニ。想像するだけなのだから。 ふらりと入った店で、こんな楽しいことはめったにない。夏のあいだ、飲みすぎたようですこし控えていた。一人で飲むとつい深酒になる。こういう酒は朗らかに酔える。何ということはない、他愛のない酒席の話題。それを交わせることが楽しい。 しばらく前には、大阪でクラシック・ギターを聴かせる店に連れて行ってもらった。昼間は真面目なギターの先生という男が赤ら顔で「禁じられた遊び」や「アルハンブラ宮殿の思い出」などの定番から、「太陽がいっぱい」や「カヴァティーナ」を聴かせてくれた。いつまでも同じところを演奏している「インスピレーション」もよかった。酔いどれ奏法。 酒は人と飲むもの、楽しく飲むもの。そういうことを教えてくれたのは、山口瞳だった。 ☆
書評「読書のすすめ 特別版」を植栽。 9/19/2003/FRIMY CHERIE AMOUR, Toots Thielemans, Phillips, 1986トゥーツ・シールマンスを知ったのは、図書館で借りたCD、“Love Notes-J-wave presents”(Radio Eyes, 1993)。ハーモニカの音を気に入り、続いて“Brasil Project 1, 2”(BMG, 1992, 1993)を借りた。温もりのあるハーモニカは、どこかで聞き覚えがあるように思っていた。 確かに聴いたことがあった。ビリー・ジョエルの“Leave A Aender Moment Alone”(“An Innocent Man,”Sony, 1983)。ハーモニカによる伴奏は知っていたけれど、シールマンスとは知らなかった。教えてくれたのは、ビリー・ジョエルのベストビデオクリップ集、DVD“BILLY JOEL: The Essential Video Collection”(Columbia, 2001)。“Leave A Tender Moment Alone”のライブ演奏に、シールマンスが登場する。演奏後、指を丸めてつくるOKが、人柄のよさを感じさせて愛らしい。 シールマンスは1922年、ブリュッセルの生まれ。80歳を越えたいまも現役。はじめはアコーディオン奏者だったらしい。そんなことはなかったかもしれないけれども、グラン・プラスでアコーディオンを弾いている少年トゥーツを想像してみたくなる。 ☆
随想「101――ノーカル残像」を植栽。6月に断章を書いてから、一行も書けなかった。突然、はじめから終わりまで書いてしまった。 bk1に書評、多和田葉子「エクソフォニー」を投稿。植栽は後日。 9/20/2003/SAT日本テレビ開局40年記念 ザ・テーマ 日本テレビドラマ主題歌集 80年代~、VAP、1992しばらく前に、日経新聞朝刊の「私の履歴書」に阿久悠が書いていた。あまたのヒット曲の名前がほとんど出てこないで、「渚のシンドバッド」を書いたころに舞台裏で何をしていたのかが、たくさん書かれていた。 阿久悠の作品で私が好きなものは、テレビドラマ『池中玄太80キロ』の主題歌で西田敏行が歌った「もしもピアノが弾けたらな」と、同じ番組の挿入歌で杉田かおるが歌っていた「鳥の詩」。 「言葉で表現できなくなったとき音楽がはじまる」という言葉を、音楽家ドビュッシーは残している。ピアノが弾けない詩人は、音楽で表わせないとき、言葉が生まれると言う。 だけど僕にはピアノがない 夏川りみの新曲は「鳥よ」。20年以上も前に見たドラマの挿入歌を思い出したのは、そのせいもあるかもしれない。 10/2/2003/THU追記「鳥よ」で思い出す曲がもう一つ。谷山浩子「鳥は鳥に」(『水の中のライオン』、ポニーキャニオン、1984)。手元にはカセットテープもなく、店ではコンパクトディスクをみかけることもない。それでも歌詞はずっと覚えている。 鳥には鳥の 名前がある 抱きしめるあなたの手が 私の手ではないということ 名前と存在。自己と他者。いろいろなことを考えさせる歌詞。 調べてみると、作詞は大島弓子と谷山浩子の共作。大島の作品は未読。当時、谷山浩子と少女漫画家たちとの合作ムック『わくわく谷山浩子』(別冊SFイズム、みき書房、1983)を買った記憶がある。 12/26/2003追記先日、NHK-FM「昼の歌謡曲」に阿久悠が出演していた。「自分の気持ちを書くのではなく、映画監督になったつもりで歌詞を考える」と話していた。歌謡曲の歌詞は、詩というより短編小説に近いものかもしれない。 ☆
9/21/2003/SUN忠良せんせい 古里に触れる 木に触る 葉っぱに触る 古里に触る、ヴォイス編、インテリジェント・コスモス研究機構企画編集委員会編、2001三沢博昭写真集 大いなる遺産 長崎の教会、三沢博昭写真、川上秀人、結城了悟、亀井信雄、柿森和年、智書房、2000
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碧岡烏兎 |