2004年4月

4/1/2004/THU

目次を刷新するときに、題名とともに筆名をアルファベット表記した。Uto MIDORIOKAとすると欧米語風の表記。メールアドレスはその形式になっている。しかし考えてみれば、碧岡烏兎はあくまでも「みどりおかうと」であり、「うとみどりおか」ではない。周恩来はChou Enlaiであり、Enlai Chouとは言わない。最近では、何語で呼ぶときも原語で呼ばれている呼び方を尊重する傾向にあるらしい。そこでMIDORIOKA, Utoとした。カンマを入れると、MIDORIOKAが苗字のようにみえる。

碧岡は苗字だろうか。確かに私の筆名は胡桃沢耕史から借用している。といっても、胡桃沢の場合も胡桃沢家の一員を示しているのではないし、私も碧岡一族を自認しているわけではない。ところでこの筆名は、ラサール石井にもちなんでいる。彼の卒業した学校には点が入るので、厳密には同じ名前ではない。私の筆名も、私が卒業した学校には一字足りない。

いずれにしてもラサールは苗字ではないし、碧岡も苗字ではない。そこで最終的にはカンマを外して、MIDORIOKA Utoとした。

谷川俊太郎『ことばあそびうた』(瀬川康男絵、福音館書店、1979)の中に「うとてとこ」という詩がある。

うとうとうとうと からすとうさぎ/うとうとうとうと たいようとつき

これは間違っている。谷川の詩では「う」は鵜のことだった、はず。

めったにないけれども、ウエブ上で書き込みをするときには、烏兎、あるいは、うと、と記す。うとは雅号のようなものかもしれない。とすれば、碧岡はやはり姓か。

ペンネーム、筆名、雅号、そして名前。興味のつきない話題。

さくいん:名前


4/2/2004/FRI

CHISATO MORITAKA CONCERT TOUR '93 LIVE LUCKY 7、森高千里、Warner, 1994


CHISATO MORITAKA CONCERT TOUR '93 LIVE LUCKY 7

「テリヤキ・バーガー」のことを日誌に書いて久しぶりに森高千里のビデオを見た。最近は、内容によってではなく、音質や曲目が選べる使い勝手のよさからDVDのほうをつい手にとってしまう。過去に買ったビデオ、録画した番組を見ることはほとんどない。森高を聴くようになった経緯を覚書として書いておく。

最初に気になったのは「渡良瀬橋」。それよりも前の「17歳」や「ミーハー」などの派手な衣装や音楽は知ってはいたものの、あまり関心はなかった。

確か「渡良瀬橋」が売れていた頃、どこかのテレビで森高の特集番組を見た。「ひろったサイフ」や「勉強の歌」など、これまで聴いたことのない歌を知り、番組で流れていたライブ・ビデオを買ってきた。

このツアーは風変わりな歌詞を連発していた時期の集大成。この前の二作『古今東西』『Rock Alive』時代より歌も上手で、歌詞も間違えない。この後彼女は顎関節症のため、しばらく活動を停止。復帰後はいわゆる「癒し系」に近い穏やかなラブ・ソングを多く歌うようになった。もっとも、復帰後のライブでは、私がでかけた横浜アリーナと武道館でも「私がオバさんになっても」「この街」などの定番は必ず歌われていた。

森高千里を好きになったもう一つのきっかけは、ラジオ。彼女の歌を聴きはじめた頃、NHK-FMで毎週水曜日の夜、1時間の長い番組をもっていた。「うちのゴハン」など気安いコーナーが親しみを感じさせた。男性女性に限らず、ラジオのパーソナリティは、自分一人に向けて話しているような錯覚をもたらす。声や話し方などラジオをきっけけに気に入った人は、テレビで気に入った人よりも身近に感じる。

さくいん:森高千里


4/3/2004/SAT

過去の文章を読み返し、できるだけ独自で一貫した文体になるように文章の剪定を続けている。「である」「のである」「のだ」を使わないという基本方針を反映させるのは、それほど難しいことではない。スタイルを形式だけの問題とすれば、スタイルの統一はむしろたやすい。

問題は、形式の背後にある思想。そこに統一性や一貫性を持たせることは、過去に遡って推敲してみても、そう簡単にはできない。形式を支える思想が脆いと、スタイルは外面だけで安っぽくなる。筋肉が鍛えられていないと、正しい姿勢は続かない。

もう15年以上前に書いた「ヨーロッパ旅行覚え書き」。書かれていることのなかには、今でも考えが変らないことも少なくない。いまに続く基本的な問題意識は、確かにここに書かれている。肯けないのは、最後の一文。

だから僕は自分の足で訪ね、自分の言葉で批判したい。それだけが自分自身「近代」を乗り越える道だろうから。

「時代を乗り越える」とは、いま読むとまったくどうかしている。こういう書き方をしたのは、青臭い自信過剰、いわゆる若気の至りか、当時の思潮のせいなのか。人はつねに「同時代」を生きるのだから、時代を越えることはもちろん、抜け出ることもできない。今ではそう思う。できることは、あくまでも時代のなかに生きること

時代は変る。“The Times They Are A-Changin'”。Bob Dylanも、PPMも、Phil Collinsもそう歌っている。変えられるのは、自分だけ。自分がほんとうに変るとき、自分の周囲は変りはじめる。そして時代が変りはじめる。それを時代を変えるというのであれば、そう言えるかもしれない。自分が変らずに、時代だけ変えるということはありえない。それは傲慢でしかない。世界が変らないのは、世界を変えるほどに自分が変っていないから。

こういうことは、いくつかの優れた本にめぐり会うだけでなく、自分で文章を書いてみてはじめてわかった。批判する、時代を越える、ということは、もし可能だとしても、それは考えるだけではなく考えたことを表現しなければはじまりもしない。つまり、時代のなかに生ききり、はじめて乗り越えたと言える。ということは、生きているあいだは乗り越えたと完了形ではけっして言えない。

そして、時代を乗り越えたときは、次の時代のなかに生きるとき。だから、時代を乗り越えるということは、やはりありえない。こういうことも「覚書」を書いたときにはわかっていなかった。

形式しか直せないところは、形式もなおすのはやめにして、書いた時のままにしてある。思想も形式も、要するにスタイルそのものの未熟を保存しておく。


4/4/2004/SUN

絶対音感という概念があるように、絶対語感という概念があるのではないか。

そんなことを考えるようになったのは、自分は、音楽に対してはまるで鈍感な一方、言葉に対しては敏感であることに気づいたから。他人との比較ではない。自分の中での比較。

たとえば、歌謡曲やポップスについて書こうとすると、旋律や編曲についてはほとんど触れず、歌詞についてばかり書いてしまう。何度練習してもギターのコード進行は覚えたことがないのに、好きでもない歌の歌詞の二番まで覚えていることがある。

こういうことは、誰にでもあてはまることとずっと思っていた。言葉は誰でも話すもの。だから、言葉に興味をもつことは、当然のことのように思っていた。皆が言葉にこだわりをもつわけではないと気づいたのは、ごく最近のこと。

世の中に暮らしている人は言葉でものを考える人ばかりではない。言葉以外でものを考える人は実は多い。音でものを考える作曲家絵でものを考える画家、それから色でものを考える人もいる

彼らはもちろん、言語という意味での言葉も使う。ただし世界について自分について深く考えるとき、そしてそれを表現するときには音や絵や色など言語ではないものを使う。

言語ではないけれども、広い意味では音符も言葉、素描も言葉、色彩も言葉。数式も設計図面も言葉。そう考えると、狭い意味での言葉、言語で深く考えたり表現したりすることは、実は当たり前のことではなくて特別なことで、そういうことにこだわりをもつことは特別な性質であることがわかる。

音楽も絵も色彩も、日常生活のなかで少しずつ使っている。とはいえ、何かについて深く考えようとするとき、私が頼るのは言葉。だから私の場合は、言葉で表現していくことで、考えはより深まっていくだろう。というよりも、そうするよりほか考えを深める方法はないだろう。

考えることと表現することは切り離せない。理解するとはその二つを両立したものといえないだろうか。


書評「ザ・ベリー・ベスト・オブ『ナンシー関の小耳にはさもう』100」を植栽。あわせて、批評「ナンシー関の方法論」を剪定。ナンシー関は芸能界をイス取りゲームとみているという「方法論」の一文は、彼女のコラムから引用したものではなく、読んだ感想のつもりだった。彼女自身がそういう表現をしていることを知り、驚いた。自分の読みが間違っていなかったと思うと少しうれしい。

縦書にしたことさえ忘れていた書評「誰も言わなかった『大演奏家バッハ』鑑賞法」を雑評から書評に移動。

読者は踊る、斎藤美奈子、マガジンハウス、1998


4/5/2004/MON

世界の橋―3000年にわたる自然への挑戦(BRIDGES ThrEE THOUSAND YEARS OF DEFYING NATURE)、David J. Brown、加藤久人・綿引透共訳、丸善、2001


世界の橋

図書館の返却棚で見覚えのある橋の風景に思わず手に取った。本書の表紙写真はスコットランドにあるフォース(Forth)橋。はじめてヨーロッパを旅したときに、列車で橋を渡ったあと、岸から見上げた記憶がある。旅にでるとよく川を眺める。眺めるだけでなく川を渡る。これまで気づかずにいたけれど、思い出に残る旅には、川だけでなく橋がある。

本書は原始時代から説き起こして橋の歴史をたどりながら、世界各地の有名な橋を写真入りで紹介する。有名であるのは、技術的に画期的なだけではなく美しさを備えているからでもある。技術的な解説だけではなく、社会的な背景なども織り込まれている。流れていく歴史を橋の上から眺めているような本。

本書は、本文はもとより、本自体が「橋」によってできあがった。巻頭に添えられた「推薦のことば」によると、共訳者の一人の加藤は1995年に原著と出会い翻訳を思い立ったものの、日本語での出版は思うように行かなかった。6年をかけて人から人へ橋はつながり、最後はロンドンに駐在する会社の同僚から原著者へと橋がかかる。原書はそうして橋が架かることを待っていた。はしがきにある原著者の一言。

「橋を架ける」という言葉以上に、人間の活動のあらゆる肯定的な側面―すなわち闘争ではなく協調、妨害ではなく援助し合うこと、ばらばらになるのではなく連携しあうこと―を比喩する言葉がないことを示したい。

無数の人々が築き渡ってきた橋の歴史はもちろんのこと、この本の日本語版が出版されたことじたいが、人間の活動の肯定的な一面を映し出している。


4/6/2004/TUE

土曜日のつづき。

あくまでも時代のなかで生きること。森有正が定義した言葉を借りれば、耐えること。耐えることは、ガマンすることではない。試し続けること。

「石の上にも三年」という諺がある。これは石の上にただじっとしているということではないと思う。ごつごつした石の上でも、無理せず楽にいられる姿勢がある。正座したり、足を組んだり、胡座のようにしてみたり。三年は試してみよ、三年も試していれば、何か見つけるだろう、そんな意味ではないか。三年もの間何もしないでいるのは、預かった金を地面を掘って隠しておくのと同じ。

Bob Dylan, “The Times They Are A-changin”(“Greatest Hits,”SONY, 1999)は、まさしく耐えることは泳ぐことと歌う。

If your time to you is worth savin’
Then you better start swimmin’
Or you’ll sink like a stone
For the times they are a-changin’

耐える。それは、試しながら過ごすこと。穏やかに過ごせるように、自分に合う時代が来ることを期待しながら泳ぐ。そうして時代が変わっていく。新しい時代が自分が望んでいたものとは違っても、また耐えるしかない。

耐えることは、時代を受け入れること、理解すること、赦すこと。耐えることについて、こうして考えたことは、どこかで別な言葉で聞いたことがある。

信じ、待ち、許すこと。どこかと思ったらドラマ『スクール☆ウォーズ』。滝沢賢治(山下真司)が、座右の銘としていた中学時代の恩師の言葉。

イソップ。そういう名前も、急に思い出した。

4/11/2004SUN追記

一週間遅れで、ヒルティ『眠られぬ夜のために 第二部』(草間平作、大和邦太郎訳、岩波文庫、1973)の4月3日の項を読み、似た意味の文章を見つけた。

人生において何が「最も困難」(原文傍点)であるか、あなたはそれを知りたいと思うか。(中略)最も困難なのは「忍耐」(原文傍点)であった。人間の最もよい性質は、ただゆっくりと、しかも多くの忍耐によって初めて、伸びて行くものであり、また悪や利己心はなかなか急には退散しないものである。

4/7/2004/WED

昨日の荒川洋治。

東京の地域雑誌『東京人』が200号を迎え、「私の好きな東京」と題する特集を組んでいる。作家、著名人が書く東京は十人十色。

東京は広く、地域差も大きい。書き手はそれぞれの地域に思い入れをこめた文章を書いている。それぞれに魅力があるということだろう。けれども、それらの小地域と東京全体とがなかなかつながらない。東京がつかみづらくなっている。

荒川の考える理由。鉄道の拡充が東京を拡散させているのではないか。たとえば、神奈川を起点にする電車が東京を抜けて、千葉や埼玉まで続いているものが増えた。西国分寺駅から東京駅に行くには、中央線を直進する方法と、武蔵野線をぐるりと回り船橋から東京へ入る方法とがある。東京の土地は広く、交通は複雑。

『それから』のなかで、「都会とは、あらゆる種類の美に触れるところ」と、夏目漱石は書いている。都会はもともと大きく、複雑なものかもしれない。

荒川の好きな東京は、銀座。これは意外か。意外とすれば、なぜ、荒川と銀座はつながらないか。

東京は広い、という感想は、写真集『東京日記二〇〇一』(安達洋次郎(写真)、遊人工房、2003)を読んだときにももった。これまで三多摩地域に暮らしてきた私には、山手線の東半分から向こうはほとんど馴染みがない。住んでいる地域をのぞけば、東京で馴染み深いところといえば、羽田空港、東京駅、銀座や新宿など、交通や買物の中心地になる。

三多摩地域は今では東京都だけれども、もともとは相模国に属し、廃藩置県以降も長く神奈川県だった。東京市が東京都になったときも未開の三多摩を排除しようとした経緯があり、三多摩は東京であって東京でない微妙な位置づけにある。いまでも多摩地域に関しての写真集や歴史書は多く出版されている。多摩学という学問を提唱している人もいる。

出張で地方に出かけると、村おこし町おこしが盛んに行われていることに驚く。駅や空港ではどの町も豪華なチラシを並べている。活気があるのではなく、むしろ名産品や歴史を宣伝しなければならないほど衰退しているから、と街を歩けばすぐ気づく。

その一方で東京の場合は、隣県都市を巻き込んで大東京圏を形成しているため、「わが街」という意識があまりない。「わが街」だけで暮らせる人はほとんどいない。この街に住み、あの街で働き、その街で休日を過ごす。相互依存、均一化、画一化が進むグローバリズムは、国際社会という大きなところではなく、身近な場所でも進んでいる。

「東京」と口にするとき、どの範囲をいうのか、どこのあたりを指しているのか、それが相手の思う「東京」と違ってはいないか、よく点検したほうがいい。重なることは、むしろ少ないだろう。


4/8/2004/THU

火曜日のつづき。

ドラマ『スクール☆ウォーズ』の台詞、「信じ、待ち、許すこと」というの前には、「愛とは」という前置きがあった。

「愛とは」と言えば、“Love means never having to say "you are sorry.”という映画『ある愛の詩』の台詞も思い出す。

言葉でものを考えるためには、言葉をひとつずつ定義する必要がある。概念化といってもいい。それはわかったつもりでいるけれど、「愛」という言葉ほど、定義や概念化にそぐわない言葉もないように、これまで私は感じてきた。

まったく正反対の言葉まで「愛」の一言ですまされてしまいかねない。どんな概念でも飲み込んでしまいそう。だから、どんな説明でも定義しきれない。要するに、あまりにも漠然としている。思想、なかでも私がもともと興味をもっていた社会思想では「愛」という概念はなかなかなじみにくい。

「愛」は、学問としての思想、とくにキリスト教思想では非常に重要な概念であることは知っている。これまで読んだ思想家のなかにも「愛」にこだわった人が少なくない。

ハンナ・アーレントが学位論文として最初に書いた論文は「アウグスティヌスにおける愛の概念」だったし、森有正は「パスカルにおける愛」を学問研究上の主題にしていた。アーレントには「世界への愛」という社会思想とのつながりが感じられる概念があると、聞いたこともある。

これまでむしろ避けてきた「愛」という概念について考える時が、近いうちにくるかもしれない。

「愛」という概念に関心が向きはじめた、もう一つの理由。あまりに漠然としてすべてを含んでしまいかねない概念は、そういうすべてを包む概念としてならば有益で、なおかつ必要かもしれない、そう思うようになってきた。惑星、恒星、彗星、ブラックホールという言葉だけでは、全体を説明できない。「宇宙」という一言が、すべてを包むから、そこに存在するさまざまな要素を考えることができる。

「愛」という概念が定義できるとすれば、そういう広さと深さに出発点があるような気がする。

表紙写真を「朝陽に赤い桜」に、背景を水色に変更。今年はよくよく桜をみた。福井駅近くで、車窓越しだったけれども、足羽川の土手の満開の桜を見ることもできた。


4/9/2004/FRI

仕事を終えて大阪空港へ。予定の便には乗り遅れ、空席待ちで何とか最終便に。

今週は疲れた。業務の疲れか、例によって、呑み疲れたのか。確かに立ち飲み屋に長居すれば足から疲れるだろう。

あるいは式典疲れか、歌一つに立つ立たないにやきもきして。それとも新しい環境になじもうとひたむきな姿を見ているだけで、こちらまでくたびれたか。

空港からの帰路。道は空いている。こんなときは久しぶりにナイト・ドライブ。音楽は、Donard Fagen, “The Nightfly”(Warner, 1982)。こんな自動車でも音楽さえあれば快適な夜間飛行。

車を運転できるようになったばかりの頃は、うれしくてただ夜に飛ばした。そのときに流れていたのも、Steely Dan。首都高速を流す。東京の夜景。まだ朝も明けやらぬうち走った道を、今度は薄暮のなか、海岸から街中へ遡る。

パリのノートルダムのように、見るたびに反省を促すようなモニュメントが高速沿いにあればいいのだけれど。レインボー・ブリッジ、東京タワー、裁判所、高層ホテル、それからエンパイア・ステート・ビルディングの引用。どれも少し違う。

いつでも渋滞、たまに事故、気まぐれにガラすき、頼りないこの自動車専用道路が、実はいまの私にとっての「東京」かもしれない。

ようやく暖かくなってきた。2月から3月にかけては毎年、辛い。たぶん寒さと花粉症のせい。そういうときは腰痛の具合もひどい。運転を楽しめるのは、陽気がよくなってきた証拠かもしれない。

音楽は、いつのまにか“A Decade of Steely Dan”(MCA, 1985)にかわっている。気に入った曲だけを集めたミニ・ディスクだから。そろそろ次の私家集をつくる時期。

“Home”と題した私家集の第三弾。題名と副題は決めてある。“Home Sweet Home――あの頃のまま”。日本語の曲ばかり集めるつもり。ちょうどいまは、“Deacon Blues”が流れている。

A world of my own
I'll make it my home sweet home

“Home”とは、私だけの世界。あかりが見えてきた。私だけの世界が近づいている。寝静まった静かな部屋。陽が昇れば、またにぎやかな部屋。“A world of my own”は、宵闇に浮かぶクリスタルグラス。琥珀色した磯の匂い。今夜の琥珀は、Skye島生まれ。Skyeとは、空に浮かぶ島でも、天国にいちばん近い島という意味でもなく、ゲール語で翼のことらしい。

夜のしじまの、何と饒舌なことでしょうか

夜間飛行に憧れて、そんなささやきを聞いていたのは、ずっとむかしの今頃の時間。静かに、週末がはじまる。そろそろ「毎度おなじみ流浪の番組」がはじまる頃。

4/10/2004/SAT追記

「流浪の番組」は、インドネシアのガムラン音楽がネタだった。

さくいん:HOME


4/10/2004/SAT

ダンディズムという言葉がある。最近、週末の新聞に男性誌と紳士服メーカーや販売店が協賛した別冊特集がついてきた。ダンディズムは19世紀末に、貴族社会の没落と産業化のなか、失われていく精神的な貴族性の維持を目指す意識として生れたらしい。ダンディズムをつくる要素は、独立、反骨、高貴、洗練、選択眼、判断力、など。

思想を内面の問題としてだけではなく、容姿や持ち物、振舞いにまで広げる点では、ダンディズムに共感するところもある。

ダンディズムという概念は、男性性の問題から逃れられない。ダンディズムは結局、男らしさという言葉に安直に収斂しかねない。

男らしさを無自覚、無批判に前提とするならば、思想として、少なくとも二十一世紀に生きる思想に活用できる概念とはならないだろう。その一方で男らしさを批判的にとらえたり、いったんはないものとして考えはじめるというのならば、ダンディズムという言葉を最初に持ち出すことはできないだろう。

男らしさなんてものはない、とまで言うつもりはない。生物的な性別があるのだから、そこに何らかの社会的な違いもあるかもしれない。とはいえ、それを習慣や思い込みに基づかないで定義することは簡単なことではない。

ダンディズムという言葉をファッション雑誌の宣伝文句以上にするためには、あらゆる前提をなくして考えはじめる覚悟が必要になる。

表紙写真を「青い空と桜」に変更。次に変更するときは、おそらく新緑。


4/11/2004/SUN

昨日のつづき。

ダンディズムを概念として思索することは、難しいとは思うけれども、思索することを否定するつもりはない。これまで男性のファッションとライフスタイルを同時に含むような概念はあまりなかったように思う。

ファッションとライフスタイルをわかりやすい言葉にこめて、服装から小物、化粧、インテリア、お金の使い方まで提案することは、女性雑誌がずっと続けていた手法。見方によっては、女性のほうが生活や身体に密着した概念をいくつももっているともいえる。

男性はどちらかといえば、そうした言葉を概念ではなく、ファッション誌上の宣伝文句やキーワード程度にしかとらえず、思想はもっと生活から離れたところにあると思いがちだったようにもみえる。その結果、何らかの作品であれ仕事であれ、生活感のない思想というものに真剣に取り組む一方、日常生活では習慣と思い込みに埋もれたままになっていたのではないか。

大げさにいえば、ダンディズムは男性にとってファッションとライフスタイル全般を包む新しい思想を考えるいいきっかけになるかもしれない。とはいえ、今はまだ宣伝文句の域をでない。

ダンディズムとは何かということについて、いまは百家争鳴の状態。新聞の特集記事では、作家から学者までインタビューに応えていたほか、面白かったのは、いくつかの男性誌の編集長が、それぞれ自誌の考えるダンディズムについて書いた記事。

ある雑誌の編集長は、ダンディズムとは「イタリアオヤジのごとく良い意味で脱力した感じ」といい、別の雑誌の編集長は「ダンディズムは『もてるオヤジ』のためのテクニックではない。」と書いていた。

何がダンディズムなのか、各誌が思うように提案していけば、つまらない論争を総合雑誌で読むよりずっと思想のためになる。そうした試行錯誤から、ダンディズム以外にも男性の生き方を考える概念が、次々生れてくるかもしれない。

絵本短評「ふしぎなたいこ」「百まいのきもの」を植栽。『ふしぎなたいこ』とあわせて、『あなはほるもの おっこちるとこ』『花さき山』を買ってきた。

「愛とは」「ダンディズムとは」と、続けて言葉の定義について考えたのも、『あなはほるもの おっこちるとこ』を、読みなおしたからかもしれない。


4/12/2004/MON

碧岡烏兎の名刺をつくることにした。きっかけは、友人に「庭」の存在を告げようとしたとき、手帳を破いて教えるしかなかったこと。小道具があれば、秘密の告白はたやすくなる。瀬川丑松は手ぶらだったから、教壇にしなだれてやがて自分でも気づかぬうちに土下座することになってしまった。

はじめは近所の名刺屋や、ネット上の通販で名刺を注文してみるつもりだった。考えてみれば、それほど多くの人に渡すわけではない。そこで名刺大の台紙を買ってきて、一枚ずつ手書きすることにした。台紙は薄い緑色。ネット上の「庭」はすべてディスプレイ上のフォント。せめて顔を合わせて「庭」を紹介するときくらいは筆触にこだわってもいいだろう。

文章がうまく書けないときや、理由もなく気持ちが沈みこんでいるときは、単純作業を続けていると、意外なことに気持ちが落ち着いてくる。

名刺に書くこと。名前、碧岡烏兎。ふり仮名、みどりおかうと。ふりがなはディスプレイではアルファベット、名刺ではひらがなにした。烏兎の庭と住所、すなわちURL。いまは、副題“jardin dans le coeur”は書いていない。そのうち改訂するかもしれない。手書きだから、次の一枚からでも違う仕様にできる。

名前のうえにはたいてい肩書きがつく。まず考えたのは庭師。師を自称するのは避けたいので、これは辞めた。

次に考えたのは、現代詩作家を名乗る詩人荒川洋治にならって、批評家を名乗らず批評文作家。批評という概念には、こだわりも憧れもあるけれど、看板に掲げるほど実は好きではない。詩人が書いていたように、批の文字が批判という否定的な概念を思い起こさせるし、評の字は、評価という別の否定的な概念も思い起こさせるから。本来、どちらも否定的な意味はないはずなのに、そんな手垢がついている。

しばらく考えて、名前のうえには、小文字essayist2と書くことにした。


4/13/2004/TUE

新聞の下段には、週刊誌の広告。いつもたいして笑えない駄洒落を掲げている週刊誌の広告が、今週はどういうわけか無地。テロリストへの抗議か、政府への批判か、被害者家族への配慮か、それとも世論への迎合か。

たいへんなことが起こっている。冗談を言っている場合ではない。単純にいえば、そういう心理だろう。その意識はけっして悪いものではない。

それにしても、冗談を言っている場合はあるのか。週刊誌の記事は、政府の批判やタレントの噂話ばかりではない。聞き捨てならない悪事や見過ごせない世相も、毎週、盛り込まれている。それらは冗談まじりに流せるものなのか。駄洒落を表紙にする時としない時は、一体、どこで線引きされるのか。駄洒落の題材にされた人々は、駄洒落のない号をみて、どう思うだろう。

自主規制はキャラの変節であり、スタイルの変貌ではない。自分で決断しているようにみえて、実はどこか外側、それもたいてい目にみえない基準に合わせているから。

抗議と批判、配慮と脚光。それらをすべて掛けた、うまい言葉は見つからなかったのだろうか。そういう表現がないものか、しばらく自分でも考えてみる。

たとえ答は見つけられなくても、ジャーナリズムとは、何か、などという深遠で複雑な問題を考えるより、言葉でものを考え、表現する手近な訓練になりそう。


4/14/2004/WED

昨日の荒川洋治。限定本について。

限定本には二種類ある。意図したものとしないもの。前者はたいてい豪華本。戦後に生れた。後者は、戦災、震災、火災などの結果、残存する本が結果として限定になったもの。例えば中野重治の詩集は、印刷中に特高に踏み込まれた時、とっさに座布団の下に隠した一冊が後の詩集の底本になった。究極の限定本。いまはどこにあるのか、わからない。

文学全集では、皮装、天金、文字二色で、普及版の6倍する限定版もある。全集は、名の知れた文豪でも、それほど売れないので、250部から1000部程度しか印刷されないから自然に限定版となる。

詩集は、どれも200部から500部しか印刷されない。最初から限られているので限定と謳うのは恥ずかしい。最近は、夏目漱石の自筆原稿を印刷した9万円の「草枕」など、超豪華限定本も売れている。

荒川自身は、限定本はあまり好きでない。限定だから持っている人が少ない。だから人と共通の話題になりにくい。所有する責任を感じて、あとから重荷になる。通し番号があると、自分より若い番号の所有者が気になる。

限定版よりさらに限定されると私家版と呼ばれる。何冊か、そうした本をもっている。考えてみれば自分でつくってみたこともある。学校で書いた論文は、きちんと印刷され、簡易的にではあるけれど製本されている。私家版より少ない、ほとんど自家製。これは本と呼べるものだろうか。

図書館で借りてきたばかりの、辻村益朗『本のれきし5000年』(たくさんのふしぎ傑作集、福音館、1989)にある本の定義。

本とは、「ものごとや、自分の考え方、気持ちなどを文章や絵であらわし、書き写したり印刷して、ひとまとまりにしたもの」といえばいいでしょうか。(こうなると、あなたのノートを本といってもいいかもしれませんね。)

この定義に従えば、論文を簡易製本したものも本。手書きの手帳も、本のはしくれ。ウェブサイトは本と呼べないだろう。本には、手にとることのできる形がある。本はモノ。その点が、活字になっていても、形になっていないウェブサイトと決定的に違う。


4/15/2004/THU

芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』(新潮文庫、海老井英次解説、1968)を読みはじめた。しばらく前に日経新聞終面の文化欄に「大正文化に見直しの兆しあり」との記事があり、芥川も採りあげられていた。芥川は、森有正が精魂込めて仏訳を試みた作家でもある。そんなわけで、そのうち読んでみたいと思ってはいた。

芥川の作品は、これまで国語科で読まされた「羅生門」しか知らなかった。読みはじめてみると、アフォリズムという形式は面白いけれども、少し物足りないようにも感じる。

「こうした『人生』とか『神』とかは、結局は言葉の問題に過ぎなくなっており、そこに晩年の芥川の問題が露呈されているというべきであろう」という解説の言葉を読むと、少なくとも前半は正しいように思う。ただしこの問題が、芥川個人に帰する問題なのか、彼の文学全体を知らない私には判断できない。私には、誰が書こうとアフォリズムという形式はこうした問題を避けられないように思える。

「山、山に非ず、これを山という」という禅の言葉をマンガ『エースをねらえ!』(山本鈴美香)で読んだことがある。この一文のなかで三度繰り返される「山」はそれぞれ意味が違う。それぞれの意味の違いに気づかない人が朗読すれば、それはただ同じ音の羅列にすぎない。しかし、その重みの違いを知った人が口にすれば、そしてその深みに気づいた人が聞けば、言葉遊びではすまされない思想を感じるに違いない。

アフォリズムは言葉の意味を定義しようとしながら、実は使い古された意味に頼らなければ、新たな意味が生み出せないという矛盾をもっている。

森有正は経験という一語を定義するために、生涯をかけ、またおびただしい文章を書いた。箴言、断章、格言で何かを言い表せると思うのは、傲慢か、そうでなければ軽率とはいえないか。少なくとも、そういう態度は、言葉が既にもっている意味に信頼を置く、というより全面的に依存している。断章で勝負するなら、それを承知のうえでなければ。

アフォリズムは、限られた語彙や表現のなかで思想を表現しようとする。それでいて、形式に限りがない。俳句、短歌は形式に縛りがあるからこそ、自由な表現を生み出す。その逆説とは反対に、アフォリズムでは自由な形式が意味の空虚を生みやすい。その空虚を埋めようとすると、かえって音や字の皮相で形式的な技法に陥りやすい。

もちろん、そうなりやすいだけであって、すべてがそうというわけではない。とはいえ、単なる巧みなコピーなのか、思想の一部を切り取った断章なのか、見分けることはやさしくない。アフォリズムを理解できないのは、作者が技巧だけに走っているからだけではない。

読み手が言葉の重みに気づかず、修辞にしか目が行かないから。アフォリズムは、書くことはもちろん、読むことも難しい。


4/16/2004/FRI

昨日のつづき。まずは昨日書いたことを、もう一度整理。

確かにアフォリズムは魅力的な表現形式。けれども、ただの言葉遊びになってしまう危険も小さくない。その理由は、アフォリズムは形式に限定がないところ。俳句、短歌、絶句、律詩などにはみな、厳格な形式がある。形式に従いながら表現を豊かにし、なおかつ何らかの思想をこめるところに、こうした文芸ジャンルの面白さがある。

アフォリズムには、外から押しつけられた形式がない。自由に表現することができる。自由になれるところで、自由にふるまうのは、実は自由になれないところで自由にふるまうことより難しい。自由に思想を表現しているつもりが、陳腐な形式に酔っていることにもなりかねない。

だから、アフォリズムはそれだけで成り立つものではなく、ある全体、ある形式のなかに埋め込まれてより輝きを増すものではないだろうか。人物や物語を設定して小説にしたり、起承転結をはっきりさせて、論説文、批評文にしたり。あるいは、アフォリズムを無数に重ねて、小惑星群のようにする方法もある。

私自身は、断章集、警句集は読んでいて疲れる。一時期、名言集のような本を好んで読んだこともあったけれども、いまではしない。利き酒のように、一度にたくさんの種類を少しずつ飲まされるような感じがするから。小説でもエッセイでも、ある程度の長さのなかで、はっとさせる一文を見つけたときの悦びが、私には読書の楽しみになっている。酒は料理とあわせたほうが美味しい。

批評「メビウスの輪としての言葉」を剪定。福沢諭吉の言葉、「無意」を見つけた大阪の適塾について追記。訪れたのは、もう数ヶ月前。適塾には、『福翁自伝』と手塚治虫『陽だまりの樹』を読んで以来、ずっと見てみたいと思っていた。

2003年11月29日の雑記に追記。


4/17/2004/SAT

外国で事件や災害が起こると、まず必ずと言っていいほど、「邦人」の犠牲者がでたのかどうかが報道される。この「邦人」という言い方は、こうした報道以外ではほとんど聞かない。

「邦人」とは日本国籍保持者、すなわち日本国民のことだろうか。それとも日本領土内の居住者か、いわゆる日系の血が流れている日本人という意味か。おそらくは日本国民を指しているのだろう。「日本人」というあいまいな意味ではない、と思いたい。

日本国政府は、たとえ外国であっても、日本国民の安全に対して責任を負っている。だから日本政府は旅券を発行し、国交のある外国政府に対し、旅券を持っている人の安全を確保するよう要請している。ということは、外国籍の人に対しては、たとえ定常的な住所が日本国内であっても日本国政府は、国外での安全に対して責任を負ってないということだろうか。

「日本人」が、人質になった。「日本人」が、解放された。誰もが喜んだり怒ったり、何かしらの感情を示している。実際には、日本国民以外でも人質になっている人もいる。言うまでもなく、現地ではすでにたくさんの人が人質どころが犠牲になっている。そうした状況に対する気持ちと、「邦人」の安否に対する気持ちに差があるのはなぜだろう。

犠牲になったのが、国籍変更者であったらどうだったろう。少なくとも日本政府は二等市民という制度を建前として認めてないから、同じ対処をとっていただろうと期待する。それでは、日本で生れ育ち住んでいた外国籍の人であったら、どう報道され、どう対処されたか。長い間本国からは離れて暮らした人に、国籍元の政府はどう動いただろう。あるいは、被害者が日本国籍を持っていて、ずっと現地に暮らしている人だったら、どうだろう。

ある人に助けをだして、他の人に出さない合理的な基準を見つけることはできるか。それ以前に、ある犠牲者に対して、心配になったり無関心でいたりする基準はどこにあるか。何もかもが合理的であればいいというものではない。にしても、国民というもの、nationalという、あまりに不合理なものに、知らないうちに心まで動かされていることに気づかないではいられない。

昨日は神戸で仕事だった。そのせいか、手塚治虫『アドルフに告ぐ』(文芸春秋、1985)の登場人物の一人、ドイツ国籍のユダヤ人で神戸に住んでいたパン屋の息子、アドルフ・カミルがたどった数奇な一生を思い出した。彼の身の安全に責任を負おうとした政府が一つでもあっただろうか。

まだ段落を揃えていなかった書評「教養主義の没落」を剪定。「経済成長の担い手は高学歴者だけではなかった。学歴はなくても熟練した職工が日本経済の成長を支えたことも、教養と社会の発展の関係を考えるときには見過ごすことはできない。」を追記。

工場実習を通じて学んだことの一つ。


4/18/2004/SUN

昨日のつづき。少し違う角度から。

最近は社会的な反響の大きな事件が起きたときに、被害者やその家族がまったくの私人であっても、事件と同時に公の場で発言を迫られたり、積極的にそうしようとしたりしている。マス・メディアが公人の独占するものではなくなってきている。言葉を換えれば敷居が低くなっているともいえる。

そのこと自体、悪いことではない。悪いと思ったところで変えられるものでもないから、価値を論評すべき問題ではないのかもしれない。気になるのは、そういうメディアの場に引きずりだされた、あるいは私人でいながらも表舞台へでてしまった人たちが、知らないうちに担わされてしまう役割。

もう少し具体的に。被害者の家族がしばしばメディアに登場するようになった。彼らの発言は、往々にして本人たちの意図や事実からは離れて、「ありうべき家族」あるいは「日本人の家族」というきわめてあいまいで偏見に満ちた概念として一人歩きさせられているようにみえる。

家族のありかたはさまざま、国民のあり方もさまざま。ところが本来多様なありかたがあるはずの家族や国民性が、ある例だけが公にされたときに、そこにメディアの解釈がまぎれこんで報道されていないだろうか。しかも、そうした印象は何の自覚もないままに歴史的社会的な偏見や政府の意向にそったものになってしまってはいないだろうか。

たとえ事実が政府の意向や社会の了解に反していても、そうしたものに真正面から対峙することでかえって暗黙の了解を浮き彫りする効果を担わされていないだろうか。

タレント政治家のような公人であれば、話はちがう。どんなに微笑ましい風景でも、またそれが事実そうであったとしても、タレントの夫婦や家族は、演じられたもの、公の場に提示されたものとして、受け止められている。

ところが私人、あるいは素人の場合は違う。ちょうどタレントのでるドラマより、無名の役者が演じる再現ドラマのほうが、現実らしく感じられるように、私人が見せるものは、それがたとえ演じているものであっても、事実がそうであるかのように受け止められる。また反対に、演じてないことが演技のようにもみえる。つまり、私人がメディアにでると、演技と真実が混乱する。マス・メディアでのタレントと素人のあいまいな境界線に辛辣な批判をしていたナンシー関の言葉を借りれば、虚構と実像が入り混じってしまう

いったい、この事態をどう考えればいいのだろう。カメラを向けられたときに、どんなキャラになるか、今からよく考えておくべきということだろうか。それとも一生、メディアの舞台に登場しないようにひっそりと暮らす術を見つけるべきなのか。仮にそうだとして、果たしてそんなことができるのか。ずっと前から考えている素朴な疑問。答は依然としてみつからない。


4/19/2004/MON

San Jose Museum of Art, San Jose

たまには行動記録をまとめて日記風に。

土曜日からシリコンバレーに来ている。来るのは1月以来。また出かけてきたとも言えるし、また帰ってきたとも言える、不思議な気分。昨年は1月のつぎは6月だった。その前年は正月だけ。今年は、二度目が早い。

機内では、東京発の便では珍しく和食ではなく、洋食を選んだ。選んだ機内番組は、まだ買っていない夏川りみの新盤全曲と小林克也司会の“Best Hit USA-Time Machine Special”。Hole and Oats, “Maneater,” Chicago, 「素直になれなくて」、Donard Fagen, “New Frontier,” Elton John, “Your Song,” それからChristopher Cross, “Sailing”など。Donard Fagenのビデオ・クリップを見たのは初めて。

歌謡曲の番組では、北原ミレイ「石狩挽歌」奥村チヨ「恋の奴隷」(作詞はいずれもなかにし礼)、千昌男「北国の春」、由紀さおり「夜明けのスキャット」、それから坂本冬美「夜桜お七」。映像では、ダイアン・レイン主演の映画『トスカーナの休日』を少し。

今回の出張は珍しいことが重なる。洋食を選んだだけでなく、そのあと次の食事までぐっすり眠った。週末に入ることも滅多にないことだし、クルマを借りていないのも、めずらしい。クルマの代わりにLight Railと呼ばれる路面電車が移動手段。大通り沿いのショッピング・モールには行けないけれど、クルマでは行きづらい街の中心部では便利。

サンノゼには、ハイテク産業の街らしく Tech Museum of Innovation がある。そこは以前見たことがあるので、市立美術館(San Jose Museum of Art)を訪ねてみた。絵画、写真、工芸など現代美術の作品を多く展示している。現代美術の見方を手ほどきしてくれる丁寧な解説がありがたい。印象に残ったのは、Tamiko Thiel and Zara Houhmand, “BEYOND MANZANAR.” コンピュータ・グラフィックを使った仮想現実の展示。

正面に大きなスクリーン。ジョイ・スティックで自由に動き回れる。自由に、といっても、舞台は強制収容所。第二次大戦中に日系人が収容されたキャンプを想起させている。砂漠につくられたキャンプの奥にはオアシス。現実にあるものというより、収容された人々が思い描いていたものだろう。

そこには、イラン系移民のたどってきた歴史が小さな部屋に飾られた肖像写真で語られる。おだやかな写真は実は透かしにすぎない。実はホメイニ革命、米国大使館事件など、1970年代以降の苦難を表現している。50年前の日系人に対する排撃を下敷きにして、現在のイスラム教徒に対する差別と偏見を浮き彫りにし、カリフォルニアがたどってきた、そして今、置かれている複雑で難しい状況を提示している。

主題もその提示の仕方にも感心したけれども、画像の動きはそれほど滑らかでなく、操作をしているうちに乗り物酔いのようになってしまった。真剣に見つめると気分が悪くなることがときどきある。

絵本評「浦上の旅人たち」を植栽。今西祐行の名前には、聞き覚えがあった。調べてみると、光村版の小学国語教科書で読んだ「ひとつだけ」の作者。今西がどのようにして千吉の帰る場所を選んだか、「ひとつだけ」の背景と関わりがあるように思う。

文中にある「証言」という言葉は、森有正「ルオーについて」(『経験と思索をめぐって』)の最後の一文からの借用。「証する」という言葉も残しておく。

表紙写真を「さいたさいた」に変更。

さくいん:シリコンバレー


4/20/2004/TUE

昨日のつづき。

サンノゼにはJapan Townと呼ばれる一角がある。Japan Townはサンフランシスコにもあり、ロサンジェルスにはリトル・トーキョーと呼ばれる通りがある。どちらも行ったことがないので、サンノゼの日本町を見てみることにした。

大きな公差点を中心に広がる一角がJapan Town。せいぜい2キロ四方で広くない。20世紀のはじめに増えはじめた移民一世が集落をつくったところらしい。Betsuinという名の和風建築の寺もある。交差点の四隅にはこれまでの歴史を記した掲示板がある。一世は合衆国市民になることも、土地を買うこともできなかった。大戦中はオレゴンなど北方に強制収容されていたが、戦後には多くが元住んでいた場所に戻ってきたという。

街はひっそりとしている。二世、三世には、日本町を出て米国人として合衆国社会に溶け込んでいる人も多いのだろう。

路面電車のLight Railは、サンノゼからサンタクララ、マウンテンビューまでシリコンバレーを横断している。マウンテンビューから先はCal-trainと呼ばれる郊外電車が空港を越えて、サンフランシスコまで通じている。サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)へ行くつもりで出かけてみると、マウンテンビューからのCal-trainは週末は運休。公共交通は平日の渋滞を緩和するために導入されたものなので、休日には依然としてクルマで移動しているのかもしれない。あとで聞いたところでは、路線高速化のために週末に突貫工事を続けているらしい。

街を歩き、古書店でBilly Joelの古いアルバム“Cold Spring Harbor”を買い、書店で街案内の小冊子を手にとる。スペイン人の殖民、HPの車庫での創業など街の歴史と名所を紹介している。

一緒に絵本を三冊買った。

Silicon Valley--Exploring the Commuities Behind the Digital Revolution: A Souvenir & Guide, David A. Laws, Windy Hill, 2003

ELLA SARAH GETS DRESSED, Margaret Chodos-Irvine, Harcourt, New York, 2003

THE STORY OF Little Black SAMBO, written by Helen Bannerman, illustrated by Christopher Bing, Handprint Books, New York, 2003

MUSIC FOR ALICE, Allen Say, Houghton Mifflin, Boston, 2004

昼食は、ブロッコリーと鶏肉の照り焼の入った鍋焼きうどん。これをつくった人は、鍋焼きうどんという料理の写真を見たり、作り方を聞いたりしたことはあっても、日本のそば屋うどん屋で食べたことはないのだろう。とはいえ、この鍋焼きうどんは間違っているともいいきれない。これはこういう鍋焼きうどんであるとしかいえない。私がつくるピザやカレーも、イタリアやインドの料理人が見たら顔をしかめるかもしれない。

さくいん:シリコンバレー


4/21/2004/WED

When in Rome, do as Romans do.  In a city where English is spoken, think in English and express in English.

After a couple of days, English is coming back to me.  The sound from the radio, the conversation in a restaurant, newspapers at the door of the hotel, and the billboard along the freeways: they make the air around me English.  I am returning to English.

Five days trip is not enough to return fully to English.  English, simply a language, does not mean the United States, because I have never lived here. English is a language that I learned in Japan, sometime ago and somewhere away. English, in my teenage when I was dreaming about America, was a vehicle to dream on.

After a couple of days, the surface of my skin starts to absorb English, as it gets drier with northern Californian air. I can read, I can hear, and I can even think in English.

Again, English is not the language of the United States. I know that many people here speak different languages.  Here in California, though I feel as if I were living in a world of English, it is just a part of it.

Japanese is not the language of Japan, either.  Remember my kids. They sing and dance along with Billy Joel in the language that only they can understand.  It is neither English nor Japanese.

I have not yet fully returned to English.  I think partly in English, partly still in Japanese.  I know my English is very poor. But I would say that I think in English, and I live in English.  Well, I should say I live in the world where English is one of the languages that are used.

I speak English to the extent I understand.  At the same time, I speak Japanese only to the extent I can understand.  Each English and Japanese is one of the languages I speak, think and write.

Funny but I find it easy to live in English in the States, but I know that I can live in English even in Tokyo.  I call and write in English every morning.

It is partly the environment around me but mostly my decision that determines the balance among the languages of the world of my own.

I am not flying back and forth between two world.  After all, I am living in the one world, and I feel differently sometimes.  I feel as if I were born again every time I feel differently.

I will be going home soon through 101. I will be flying home soon from the airport.  Some souvenirs are already in the suitcase for my kids.  Surely they will love it. Neither back to the world of Japanese, nor back to the world of English, but back to the world where Billy Joel sings and dances in the way that only WE understand.


4/22/2004/THU

太平洋上空にて。

新しい音楽の私家集をつくり、植栽した。題名は、“Home Sweet Home――あの頃のまま”。1月以来再び米国西海岸への出張になり、車内と機内で聴くためにこれまで集めてきた音楽を編集した。もう少し時間がかかるだろうと思っていたけれども、Steely Dan, “Deacon Blues”にある“Home Sweet Home”という言葉を運転しながら聴いていたら、選曲も文章も労せずこなせるような気がしてきた。

今回は日本語の歌ばかりを集めてみた。そのせいというわけではないだろう、今回の出張では日系、日本国、日本語について考えることが多かった。

夕べでかけたシーフード・レストランでは、給仕をした女性が日系だった。英語と日本語の混じった会話を聞いて、彼女のほうから片言の日本語で話しかけてきた。父親が二世だという。彼女自身はアジア系であることはわかっても、言われなければ日系とは言い当てられない。仕草は日本に住んでいる女性とは明らかに違う。それでも親近感を感じないではいられない。それはなぜか。

二世、三世は、名前も日本語風ではない。もっとも最近では日本に住んでいても日本語風でない名前のほうが多いくらい。もはや名前で「日本人」をきめることはできないのかもしれない。

日本町へ行った。日本語を話せる人と業務の話をした。日本の会社から派遣されて駐在している人と食事をした。日系人の美術作品を見て、日系人を主人公にした絵本を買った。それから日本の会社を辞めて、合衆国にある会社で働いている人と日本語で話しこんだ。彼の言葉は京都なまり、私は東京と横浜のなまり。

仕草もさまざま。肌の色も同じではない。職業も言葉遣いもそれぞれ。それでも、何か近しいものを感じる。それは何だろう。

それは日本という言葉で括れるものだろうか。確かに日系、日本人に共通するものは何かあるかもしれない。しかしそれは「日本」という言葉が先行する限り、単なる幻想に終わる。そんな前もって決めておいた共通項を見つけることには、何も意味もない。

そんなことを考えるのは、肌の色が違うだけで差別されたり信仰が違うだけで殺されそうになることがないからできる、ナィーヴな感傷

それでは幻想ではない、なおかつ因習によりかかったのでもない、そういう共通項はどうしたら見つけられるか。肌の色が違う人や言葉が通じない人とのあいだに親近感が生れることだってないわけではない。その親近感は何と呼ぶのか。新たな疑問が生まれ一つの旅が終わる。

帰る。ともかく帰る。ほんとうに帰るところがわからない、という疑問も感傷に過ぎないかもしれない。とりあえずでも、帰るところはある。それは、とりあえずではすまされないくらい幸福なこと。帰路の機内では、次の私家集“Home Ground――この街”のために集めている曲を聴く。


4/23/2004/FRI

索引のページを開設。まず、人名編から。これから少しずつ整理する。単純作業は、過去の文章を読み返すにもなるし、疲れたときの手遊びにいいだろう。

難しいのは、事項編。これまで書いてきた文章には、繰り返し採りあげられる主題や概念、語彙がある。それらは私の思想、私のスタイルを構成する重要な要素であり、「庭」を形づくる礎石、どの花壇にも植えられている草。どの石がどう似ているか、どの草がどの仲間に入るか、少しずつ読み返して索引にしていくことにする。

索引は「庭」を見渡す展望台のようなもの。索引を設けるに値する構造がなければ、見渡す風景はただの荒野にすぎない。索引をつくることは、「庭」全体を見直すことにもなるし、今後の剪定にも役立つだろう。

例えば今日も、書評「森有正エッセー集成3」のなかにある「クラリスもルソーもいない場所へ」という言葉を、「クラリスもヘーゲルもいない場所」へになおした。クラリスとは、アニメ映画『ルパン三世 カリオストロの城』のヒロイン、クラリス・ド・カリオストロのこと。この文章の中では、クラリスは大衆文化と過去に対するいびつな憧憬、ある種のオタク趣味を象徴している。象徴であるから、他の何か、メーテルでもキャンディス・ホワイト・アードレーでも、あるいは佐倉魔美でも、別にかまわない。

もう一方の言葉は当然、学問や教養文化を象徴する言葉でなければならない。私にとってルソーは学問の世界を垣間見るきっかけになった思想家ではあるけれども、学問的な対象ではない。むしろ、大衆文化と教養文化のねじれた関係を解く鍵になるような存在。だとすれば、ルソーは適していない。

私がひとしきり学んだ政治思想史のなかで、分量の多さ、内容の難しさでは最高峰といえばおそらくヘーゲルだろう。そういう意味から、ルソーではなくヘーゲルにするべきと考えなおした。実際、教科書や研究論文以外ではヘーゲルを読んだことがない。確かに私自身にとっても、学問世界にそびえる巨峰に違いない。

ところで昨日の日誌のうち、後半の文はすべて疑問文だった。読み返して、感傷的に「日本」に傾斜していることを反省し、すべて書きなおした。こうした傾斜は、気づかないうちに災難に会った人のうち「邦人」にだけ同情するような矛盾に落ち込ませる。

思想は、けっして思想からはじまらない。日本とは何かを最初から決めておいては、けっして「日本」に到ることはできない。すこし身体が疲れているだけで、こういう大切なことを見失いそうになるからこわい。

まして経済的な格差や人種的、宗教的な偏見にさらされたとき、感傷が依存症に変りかねない。ハイジャックをして自爆したテロリストにとり憑いた悪魔は、これと同じだったに違いない。「アタの問題は、私たち一人一人の問題」という意味を痛感する。


4/24/2004/SAT

わが生活わが思想、松田道雄、岩波書店、1988

中学生の教科書 今ここにいるということ、林敏之(体育)、大林宣彦(芸術)、荻野アンナ(外国語)、大澤真幸(社会)ほか、四谷ラウンド、2001

わが生活わが思想 中学生の教科書 今ここにいるということ

図書館でいろいろな人が職業との関わりについて書いた松田道雄編『しごとと人生 Ⅱ』を読んだ。続けて松田自身や鶴見俊輔の文章が入った『しごとと人生』を読んだ。

松田道雄といえば、『育児の百科』(岩波書店、初版1967、改訂1987、所有しているのは1996年発行『最新』10刷)『育児の百科』は実用書であると同時に思想書。ここでいう思想とは、鶴見俊輔のいう「日常の思想」。子どもと暮らすことと現代社会で暮らすことについて多くの示唆をいまも受けている。

松田道雄に出会ったのは、ずっと昔。小学校高学年になり、図書館へ行っても、少しずつ乗り物の図鑑以外の本に目が行くようになった。『君たちの天分をいかそう』『恋愛なんかやめておけ』などを手にとったことを覚えている。

松田道雄について、もう少し知りたいと思ったところが、ほとんどの著作は書庫扱い。検索した題名から興味をひいた本を借りた。ちょうど、「『育児の百科』二十年」と題した同書改訂の歴史や、鶴見俊輔丸山眞男らと活動した平和問題談話会の回想などが書かれている。


『中学生の教科書』は児童書の隣り、ヤング・アダルト・コーナーで見つけた。ラグビー選手、林敏之の回想には、大映の青春ドラマ『スクール☆ウォーズ』のモデルにもなった伏見工業高校ラグビー部の監督だった山口良治をはじめ、すぐれた人々との出会いが彼をチーム・スポーツの感動に導いたと書いてある。

荻野アンナは父親と「He is very ケチンボ、n’est-ce pa?」といった会話で話していたらしい。何語でもあり何語でもない、彼女の家庭の言葉なのだろう。言葉は本来国境で区切られていないという実例。


最終章の大澤の文章は難しい。言葉が難しいのではない。中学生向けに書いても、書かれている考えそのものが難しい。それでも、これまで考えてきたこととの接点がいくつか見つるような気もする。

  名前は、その人について、何も確定的なことを意味してはいない。名前が示していることは、その人が何者でもありうる、何者でもありえた、ということである。名前は、その人が何であれ、存在している、ということをトータルに肯定しているのだ。
  このように考えると、名前によって呼びかけるということは、その人を全面的に赦しているのだということがわかる。名前は、その人が何者であろうとも、たとえば善人であろうとも悪人であろうとも、まず存在しているということを赦しているのである。名前は、こうした無条件の赦しの印である。ここで「赦し」ということが出てきた。それは、私たちの考察にとって、とても重要である。というのも、「赦し」は、「責任追及」のちょうど裏面に当たるからである。(四 責任と赦し 「『赦す』という可能性)

これまで書いた文章をもとに事項索引をつくろうとしている。「名前」「赦す」「ただいること」「すべてを受け入れる」といった言葉は、これまで書いた別々の文章で使ってきた。それらがどうつながるのか、つなげられたとき、どのような形をとるのか、まだよくわからない。そもそも、それらの言葉は私の文章のなかで、単なる言葉以上に思想を表現する概念として用いられているか、大いに疑問。

そうしたことを検証するためには、事項索引は、平面的に並べた人名索引とは違い、立体的に構成すべきかもしれない。

さくいん:名前松田道雄


6/18/2004/FRI追記

名前については、考えることがまだある。大澤は、名前を呼ぶことは相手を赦すことと言うけれども、英語で“call one's name”といえば、相手を罵ること。この用法は、Bryan Mayが歌ったQueen, “Leaving Home Ain't Easy”に出てくる。

名前を呼ぶ、ということじたいも、簡単なことではない。ほんとうの名前は家族以外に教えない文化もあるし、神の名をみだりに口にしてはいけないという宗教も少なくない。生活するためには、呼びやすい名前に変えなければならない場合もある

アフリカから連れてこられた奴隷が最初に受けた苦難は、元の名前を捨てることだった。ずっと前に見たドラマ『ルーツ』のなかで、クンタ・キンテが「お前はトビーだ」と言われながらムチで打たれても、自分の名前を叫び続けた場面をいまでも覚えている

名前と赦しが結びつくとしても、それは気軽に呼ぶこととはおそらく違う。


思いがあふれて名前が呼べないということもある。村下孝蔵「初恋」には、「名前さえ呼べなくて/とらわれた心/みつめていたよ」という歌詞がある

おそらく、多くの宗教では名前を呼ぶことを外から禁じているのではない。ほんとうに思いが深いときには、名前を呼ぶことがためらわれるのだろう。

さくいん:名前


4/25/2004/SUN

どの本よもうかな? 中学生版 海外編、日本子どもの本研究会編、金の星、2003

どの本よもうかな? 中学生版 日本編、日本子どもの本研究会編、金の星、2003

読んだ本をきっかけにして、連鎖的に次に読書を進めることが多い。採りあげられた作品や同じ時代の別の作家、ある本を読んで思い出されるほかの作品などを、次々に探していく。こうした読書も楽しいけれど、まったく知らない本との思いがけない出会いも楽しい。読書案内の類は、そうした出会いの場になる。

読書案内には、著名人が書いているものが多い。そういう本はたいてい何を奨めるかよりも誰が奨めるかに重きが置かれてしまう。図書館のヤング・アダルト・コーナーで見つけた中学生向けの読書案内では、紹介者は黒子に徹し、奨める本の方にしっかり力点が置かれている。

本書には、これまで読んだ本も多く出ている。『あなたがもし奴隷だったら』『せかいいちうつくしい ぼくの村』『戦火のなかの子どもたち』『絵で見るある町の歴史』『満月をまって』『忘れないで』など。選択基準が私の嗜好に近いのだろう。

最初に掲げられた細かな選択基準のなかでは、「主題の取り扱い方は、新鮮で創意工夫が見られるか。内容に独創性があるか。」「人間尊重の精神が一貫していて、自己確立やたしかな批判精神および豊かな情操を育てるものであるか。」、それから「真理と正義を愛し、平和を希求する精神に支えられているか。」という三つ項目が、私が本を選んでいる基準と重なる。もっとも、ふだんはそれほど明確に基準を意識してはいない。

目的を前もって決め込んだ読書には意味がなく、楽しみもない、と思う。その一方で、明快な意図や、具体的な契機を意識した本には意味があり、価値があるとも思う。この二つは、似ているようでまったく違う。

つい先日も、シリコンバレーのある書店で、「身近な人の死を経験したら」、「両親が離婚したら」など、具体的な場面ごとに絵本が置かれている棚を見つけた。置いてある絵本もまたそうした場面を直接に扱った内容ではあるけれども、展開や結論は必ずしも単純ではない。それぞれに考えるきっかけを残すような絵本だった。

目的と意図は、どう違うのか。なぜ目的を前もってきめると内容が空想的でも陳腐な表現とありきたりな結末に行き着き、さらには陳腐でありきたりな感想を呼び込むのか。なぜ意図が明確である場合には、内容が具体的であっても、想像と思索の余地を残す豊かな表現になるのか。なぜだろう。興味深い問題。問題の設定は、目的と意図でいいだろうか。考えるのは、まずそこから。

中学生向けの読書案内でも、最近読んで面白かった本、これから読んでみたい本がたくさんある。私の読解能力は、中学生を対象にした文章がちょうどいいように感じる。長すぎても読みきれない。難しすぎても消化しきれない。

中学生向けといっても、難しくないわけではない。言葉はやさしくても後に残る余韻は大人向けの本より難しいこともある。最近読んだ一日系人の絵本評伝差別的表現を克服した“Little Black SAMBO”などは、子どもより背景をきちんと知った大人にとってのほうが意味深い絵本といえる。

絵本は、子ども向けと限られたものではない。大人が読んだほうがいい絵本もある。それは、子どもの心を取り戻すとか、幼い頃を思い出すといったことではない。絵本は、絵と文章と、印刷と装丁とで表現する複合的な表現、総合芸術。それをほんとうに理解できるのは、大人だと思う。

表紙写真を「碧の日」に変更。


4/26/2004/MON

風立ちぬ、松田聖子、CBS SONY、1981

Pineapple、松田聖子、CBS SONY、1982

風立ちぬ Pineapple

大阪で音楽店に立ち寄ったとき、過去の作品を廉価版にした「CD選書」を見つけて、二枚購入。同じシリーズで1983年発売、「秘密の花園」「天国のキッス」などが収録されている『ユートピア』はすでに持っている。最近、松田聖子のすべてのシングルが、CDで再発売されたらしい。

松田聖子が特別に好きだったわけではない。当時は自分でアルバムを買ったことはなかった。けれども、80年代の前半には、いつでも、どこでも、松田聖子が流れていた。中学校では、隣の席の女生徒が休み時間に口ずさみ、クリアファイルにはグラビアの切抜きが入っていた。不思議なことにシングルだけでなく、アルバムの一曲一曲まで確かに聴いたことがある。

彼女のラジオ番組をよく聴いていたことも、特別な親近感を残している要因かもしれない。松田聖子の番組が終わったあと、同じ時間に菊池桃子の番組が始まった。彼女は同い年ということもあり、自分だけに話しかけているように空想できるラジオのおかげで熱心なファンになった。

TBSテレビ『ザ・ベストテン』をはじめ生放送の歌番組をほとんど毎週欠かさずに見ていたから、彼女が今日どこにいて、何をしているのか、仔細まで知っているように感じていた。もちろん、それは彼女の行動のすべてではない。司会の久米宏と黒柳徹子との会話を通じて見せたアイドルの一部分でしかない。それでも、オフィシャル・サイトで日々の行動が事細かに情報として手に入るネット時代の現在とは違った意味で、アイドルの行動が身近に感じられていたようにも思う。いずれにせよ松田聖子の歌声は私にとって80年代のあいだずっと流れていた背景音楽の一つであったことは間違いない

何年も経ってみると、当時自分で好きだと思っていた音楽より、意外なことにほとんど意識せず、なかには鼻で笑っていたようなヒット曲のほうが、「あの頃」のことをよく思い出させる。

さくいん:松田聖子菊池桃子『ザ・ベストテン』


4/27/2004/TUE

人間の思想が深まるとき、思想はスタイルを帯びる。目に見える形式をとりはじめる。そうしてできあがる形は、作品と呼ばれる。スタイルが、作品を生み出す。どんなに抽象的な作品でも、ある様式美をもっている

作品は、自律している。作品は、何かの代弁ではない。作品にはそれ自体の価値がある。

現代社会にはびこっているのは、スタイルある人間ではなく、キャラをかぶせられた人間。キャラが生み出すのは作品ではない。コンテンツ。

コンテンツは、それ自体では自律した価値をもたない。量と鮮度にしか価値がない。違いの中でも新しさが一番大切。鮮度が重要なのは、コンテンツの本質が情報だから。情報は新しければ新しいほどいい。ということは、まだ誰もしていないものがいいということ。つまり、他人との違いだけが重要

量といっても、コンテンツの量は蓄積されない。砂漠に水を撒くように、どれだけ量をこなしても、結局は何もしていないのと同じ。深まりもしなければ、広まりもしない。まして新たな緑は芽吹かない。

コンテンツが蓄積されないのは、器がないから。器がないのは、器をつくる気がないから。コンテンツとは、まさに中身。コンテンツには、中身があって外見がない。

器をつくって土を入れ、水を撒く。芽が出て、緑が育ち花が咲く。種が飛んで、ほかのところで新しい芽が出る。植物の話ではない。スタイルと作品の話、伝統の継承の話。

伝統とは、もちろん、ただ古いものということではない。継続する人間のスタイルという意味。

このあと、「現代という時代は、砂漠に立っているようなもの」と書いてみたけれども、削除した。器もなく、それをつくる意図もあやふやでいるのは、現代という時代ではなく、私自身。自分のできるところから次々と荒野を耕している人もいる。少なくとも、それは知っている。


4/28/2004/WED

昨日の荒川洋治は、文庫の話。文庫は同じようにみえて、サイズも各社によって微妙に違う。傾向としては、エンターテイメント性が高い作品を出す版元ほど少しずつ大きいように感じる。歴史的に少しずつ大きくなっているということかもしれない。

文庫のカバーは、新書に比べて色鮮やかという指摘もあった。近くの小さな書店は、壁一杯に各社の文庫が並んでいる。ボロボロで色もバラバラの文庫が並ぶ自分の書棚と違い、書店の文庫棚は色が揃っていてきれい。

この書店で、いつか文庫本を買いたいと思っていた。きれいに並んだ書棚から一冊だけ抜き取る瞬間は、ちょっとした快感。

買ったのは、芥川龍之介『侏儒の言葉・西方の人』(新潮文庫、海老井英次解説、1968)。読み終えることは終えたけれども、読むのも辛く、書くのはさらに。当分感想を書く気にはなれそうにない


4/29/2004/THU

ふと著作権について考えみた。すると「庭」には問題が少なくないことに気づいた。

これまで毎週水曜日に書き残してきた荒川洋治のラジオ・コラムについては、著作権法上では翻案にあたり、著作権を侵害しているようにもみえる。

しかし、荒川の番組でも本の紹介として、内容を詳しく話すこともある。法律の仔細はわからない。スタイル、自己表現という観点から考えると、引用が問題になるのは、いわゆる「他人の褌」で相撲をとっているとき。

「他人の褌」を借りて自分で相撲をとるならまだいい。問題は、他人の褌を展示するだけで自分の表現にしてしまい、さらには自分までそう思い込んでしまう場合。これは法的にも問題になるだろうし、それ以前に自分の表現にとってもよくない。

読み返してみると、荒川のラジオ番組にしても歌の歌詞にしても、聞いて考えたことを表現するために引用している場合もあれば、何となく掲示している場合も少なくない。

とりあえず、昨日の分から聞いた内容について考えたことを書き残す体裁に変更。

日誌その他も読み返しながら、内容に必要のない引用は削除する。まずは、音楽のページの引用部分をすべて削除した。考えてみれば、引用した歌詞は調べて書き出したのではなく、すべて覚えていた言葉。文章を読むたび、また音楽を聞くたびに当然すべてを聴き返すのだから、引用を残しておく必要はない。

当然ながら引用を減らしたほうが、自分の表現の割合が増える。もともと引用したくなるのは優れた表現だと思うから。しかし、優れた表現を掲示すれば、自分の拙い表現はかすんでしまうことにもなりかねない。

とくに文章の締めくくりを引用で終わる形式は他人のスタイルに過度に依存していて、法律以前に表現とは言えないように思う。他人の文章を引用するよりも、他人が引用したくなるような文章を。

表紙写真を「緑の日々」に変更。


4/30/2004/FRI

索引は、「庭」という作品の一部分。作りはじめた人名索引は、ロボット検索の結果と同じではない。意図的に排除しているものや、文章のなかでは、名前も作品名も書かれていなくても、索引に掲げられている名前もある。

こういう書き方は思わせぶりなだけかもしれない。学生の頃から、私の文章は論点が散漫、論理が飛躍、論旨が不明瞭と言われている。自分では暗示的と思っている書き方でも、成功していないことが少なくないとみえる。書きたいことを書かないで浮き彫りにするという考え方も、単に思わせぶりで終わっているかもしれない。

だから思わせぶりな書き方が自分の文章の特徴であるとまでは、もちろん言えない。それでも、こういう書き方しかできないのかもしれないとは思っている。そして、こういう書き方で書き続けるしかないという自覚ももちはじめている。


碧岡烏兎