北陸行


1

福井に泊まった。福井県へ行くのは初めて。情けないことに福井といわれても何も思い浮かばない。石川県ならば加賀百万石と即答できる。それもそれだけで乏しい知識に変わりないから自慢にもならない。まだまだ知らないことが多い。

大阪を発つのが遅くなり、少し街を歩けるかもしれないという期待はかなわなかった。新幹線で米原まで移動し、最終の特急加越に乗り込む。福井に着いたときには、すでに真夜中。驚いたことに金沢には一時過ぎに到着するという特急はほぼ満席。近畿北陸間を移動する人は思ったよりも多い。直流交流が変換される暗闇が長かった。

駅前の様子では思ったよりも大きな街。やはりなにも知らなかった。想像すらできていなかった。タクシーで宿まで来てしまったから、ここが街のどのあたりなのかもわからない。

初めての、予備知識すらない街の、位置も方角もわからない場所で眠る。無重力空間にいけば、こんな奇妙な気持ちがするだろうか。


翌朝、最上階にある浴場から見下ろすと、ホテルは川沿いにある。桜がわずかに残っているのが見える。カリフォルニアへ電話する用事があるので、携帯電話をもって散歩することにした。むこうはまだ帰る時間になっていない。

誰もいない川べりを、川下に向かって歩く。川にそって歩くのは好き。生まれそだった場所に広い川はなかった。川を眺めるのは、いつも旅先。

帷子川、滑川、相模川、野川、多摩川、利根川、桂川、淀川、足利川、大和川、柘植川、吉野川、セーヌ川、テムズ川、ブリュージュの運河、コロラド川、ドナウ川、ハドソン川、長江。

去年、やはり仕事ででかけた京都で、加茂川沿いを歩いた。あのときは川床が用意されたばかりの初夏。賑やかさと華やかさが黄昏と入り混じる時間で、二人連れも少なくなかった。

今は土手のうえを通勤通学の人が自転車で走る。川原を歩いている人は、犬を散歩している人を除けばほとんどいない。桜はほとんど散っている。葉桜もまだ充分には芽吹いていない。宴のあとに残る疲れとわびしさをかみしめ、次の仕事までのしばらく休息しているように見える。


仕事であちこちの街へでかける。行った先で、通勤通学する人たちを眺めてはいつも想像する。この街で生まれていたら、どんな暮らしを送っていただろう。この街で働いていたら、どうだろう。

この数日、続けて『ちいさいおうち』を子どもに読み聞かせていた。「ちいさいおうち」は遠くにまたたく街の灯りを眺めて考えた。

まちって、どんなところだろう。まちに すんだら、どんな きもちが するものだろう

都会で生まれ郊外で育った私は、反対の想像をしてみたくなる。地方ってどんなところだろう。田舎に暮らしたら、どんな気持がするものだろう。

今から地方の街で生まれ育った自分になることはない。大きな会社で働いていれば、地方や、都会から離れた場所に転勤を命令される可能性もあったかもしれない。それも今はまずない。この街に住むことがあるとすれば、今、自分でこの街に住むことを選択した場合。それも、おそらくないだろう。想像は、ただ想像してみるだけに終わる。

ふだんの暮らしのなかでは、そんな想像すらしない。自分がしている都会の暮らしがこの国全体の暮らしだと平気で思い込んでいる。そんな風に東京の人は、自分が話している言葉が日本の言葉だと思ってはいないか。

そして自分が訪ねていって目にした風景のなかから、何となく気に入った風景だけを「日本の原風景」などと決め込んではいないか


地方に暮らす人にしてみれば、東京の標準語は習得するにも外国語のように苦労が必要で、話す時にも緊張を強いるもの。ある地域に根を下ろして暮らしている人たちにとっては、見たことのない風景は、故郷でも原風景でもない。

「日本の風景」「日本の言葉」という時、それをとりわけ東京人が発する時、どれほど傲慢な響きを伴っているか、当の東京人はまったく気づいていない。

今、私は東京都に住んでいる。それには自分なりの理由があるつもりでいる。それでも、こうしてまったく知らない場所に来てみると、なぜここではないのか、合理的でなくても、思想とまでは言わないまでも、とことん考えたうえでの結論なのか、わからなくなってくる。

しばらく歩いたので、橋を二つくぐって宿へ戻ることにする。振りかえると陽がまぶしいから、いままで西へ歩いていたことがわかる。川は東から西に流れている。

それだけがいまの手がかり。


2

小松空港からの飛行機までに時間が空いたので、小松の町を歩いた。宮本三郎美術館、本陣記念美術館を見る。本陣記念美術館では、日本画の企画展のために常設の東山魁夷と中川一政が見られず残念。

宮本三郎を見たのは初めて。芸術家には、二つの型があるように感じる。旅に出てその場で感動を表現する人と、旅に出ないで、あるいは旅から帰って我が家や故郷を細かく観察して表現する人と。宮本は後者であるように思われた。パリやフィリピン、香港の絵は、きれいだけれど、独創的な表現として訴えてこない。これらを題材にした作品の展示が少ないせいかもしれない。

印象に残るのは、熱海と箱根の風景画。見ている私が実物を知っているせいもあるのだろう。画家の独創的な解釈と色鮮やかな表現に驚く。海から見た熱海が淡く輝いている。故郷小松を描いた画も、場所への思い入れがこめられて、この画家にしか描けない風景を再現している。

宮本自身が述べているとおり、「外で見て、写生を持ち帰って、アトリエで描く」ということが、彼のスタイルだったのだろう。

そのまま帰ろうとしたところ、案内板をみると公園内の図書館にプロレタリア作家、森山啓記念室があると書いてある。聞いたこともないが、時間もあるのでちょっと覗いてみることにした。


プロレタリア作家。確かに文学史ではそう呼ばれるのかもしれないが、彼にはそんな公式ではくくれない、もっと奥深いものがありそう。再現された仕事場、自筆原稿や寄贈された蔵書、川端康成や中野重治からの手紙、地元の新聞に連載された自伝、晩年の散歩コースの地図、年譜などを見る。

幼い頃に体験した兄弟の病死と看病に疲れた母の自死。卒業論文の提出が五分遅れて受理されず、授業料を払い込むことを拒みそのまま退学。労働者や無名の人々を描く詩。

スピノザの汎神論、ヘルダー、ゲーテ、ヘーゲルのロマン主義への傾倒、マルクス主義への接近。ナップの編集。「文学界」の同人。中野重治や小林秀雄との交流。

美しい妻。家族をペン一本で養う決意。生活のために、あえて書きたいことを書かない潔さ。思想のための思想でない、生活のための思想

疎開のため、妻の故郷である小松市へ転居、二度と上京せず、北陸人として生きる。高齢になってからひき逃げ事故で半身不随となるも、持ち前の明るい性格で積極的な執筆活動を続ける。87歳で亡くなるまで「幸福に生きた」と信じ続け、語り続けたという。

労働者、名もない人々虐げられた者への共感をもっていても、彼は教条的なマルクス主義者ではなかった。にもかかわらず、「広い意味で転向した」ことに対する後ろめたさを真摯に受け止める誠実さ。人との関わりから意図せず党員になり、後悔する。後悔したにもかかわらず、脱党する際に「お世話になりました」と書く律儀さ。

失礼ながら、森山啓その人が、私には名もない人々のなかの一人だった。まだまだ知らないことが多い。

帰路、飛行機は木曾の山々を越えているようだった。遥か遠くまで山が続く。険しい山脈が本州を貫いている。乗りなれた東京大阪間のフライトでは見たことがない風景。初めて見る日本の風景だった。


福井は、荒川洋治の出身地だった。とんでもないうっかりをしていた。ほかにも加古里子いわさきちひろ桑原武夫など、知らなかっただけで福井県に生れた多くの人にこれまでも関わっている。

最近の新聞で、荒川は森山啓を福井と石川を代表する作家として紹介している。

   人のつながりを知ると、ぼくの気持ちもひろがり、どの土地にも親しみを感じる。楽しいことだ。(「いつもそばに本が」、朝日新聞、2003年5月4日)

郷土愛を排他的なショービニズムへ陥らせない知恵がここにある。どの土地も好きになってしまえばいい。

人と場所と思想。点と点がつながっていく気がする。これまた楽しい。一度しか行ったことがない福井と小松が、私の大切な故郷になった。

思い出の川にも、足羽川が加わった。


さくいん:森山啓宮本三郎荒川洋治


碧岡烏兎