小林秀雄全集(1)(第五巻、第七巻、第八巻)、小林秀雄、新潮社、2001東京渋谷、松涛美術館で開かれていた「小林秀雄展」で興味をもったので、全集を借りてみることにした。興味のわく術語、文芸、歴史、社会、政治、戦争など題名となっているなかで比較的短い文章を選んで読んでみる。小林批評の根幹を私なりにまとめれば、「政治から独立した文学精神により人間と人間が残した作品、そして社会を表現する行為」となる。 批評とは、冷ややかに眺め、本質を言葉で表現すること。しかも、表現する内容だけではなく、表現する方法が文学的であること。すなわち批評文の文章じたいが鑑賞に耐える水準であることが求められる。 昭和初めに書かれた「文芸批評の行方」に代表される評論文では、文学の立場から社会や政治のあり方を厳しく批判する姿勢が明快に打ち出されている。今まとめた小林秀雄観は、このあたりの文章に依拠している。ところが時代が進むにつれて、硬派な姿勢が徐々に軟化していくような印象がある。 1938年の南京訪問記など、ほとんど風景描写ばかりで歯切れが悪い。真珠湾攻撃直後の「三つの放送」をはじめ、今から後知恵をつけて読めば「迂闊」ととられかねないほど、大本営発表を賛美した文章もある。 さらに戦火が拡大すると、小林は政治や戦争に直接言及することを避けて、名文、名批評といわれる「無常といふこと」「実朝」「西行」など、遠い過去を題材にして批評文を書くようになる。詳しいことは知らないが、敗戦直後の座談「コメディ・リテレール」での発言によれば、これらの作品ですら戦中には発禁扱いとなったらしい。昭和19年には何も書いていない。 第七巻、その「コメディ・リテレール」には奇妙な雰囲気が漂う。情景を勝手に推測すると、戦中に思うように書けず失意を抱いた批評の大家を若い取り巻きが励ましているのだが、どうも対話がかみあっていない。小林はなにか達観していて、昭和初期の初心に立ち戻り、文芸批評の立場を貫く決心を披露する。この決心が他の座談者にはピンときていないようようにみえる。 もう一つ面白かったのは、坂口安吾との対談。坂口の鋭い舌鋒にいつもは冷静で、むしろ相手の言葉を鋭く切り返す小林が防戦一方になっている。他の作品には見られない表情。 ずっと小林はむずかしい、容易にはとりくめないという先入観があったが、今回、ある程度まとめて読んでみて感じるのは、小林秀雄はけっして難しくともなんともないということだ。ただ、敗戦直後までを時代順に読んでくると、ところどころで今書いたような違和感がある。 名文、名批評という後世の賞賛が曲者だ。年代順に読んだ率直な感想では、「実朝」「西行」などは戦前に書かれたものに比べて小林の批評精神はさっぱり伝わってこない。ほんとうに言いたいことをむりに難しい言葉でからめて煙に巻いているようだ。小林は講演嫌いだと随所で述べているが、むしろ講演を書き起こした文章には、彼が言いたかったことが明瞭に現れている。 それにひきかえ、難解、それを裏返しにした名文といわれる文章からは小林の批評精神が伝わってこない。それが名文だ、批評を確立した文章だと崇められている。その背後には、小林を難解ですばらしい「批評家」として奉っておくことで、その難しさを理解できると自分を一段も二段も高く見せつける勢力があるように感じられてならない。 周囲が大家として奉るのは、読まれ方の問題、すなわち小林作品の外側の問題とも言えるが、そのように偶像化される原因は小林自身にもある。小林には鋭敏な批判や断言的な主張が豊富で、また禁欲的で求道的な側面もあり、これらの要素が手伝って大家の風貌を強く押し出している。 しかしその分、ユーモアや諧謔的な要素が足りないのも否定できない。本人がどのような性格であったかは知らないが、残された作品からは少なくともそうした印象を受ける。本人の一途な気持ちが周囲には大家然としたものに映り、ますます崇め奉られる。「コメディ・リテレール」を読んでいると、小林が神輿のうえで苦笑しているような印象を受ける。 坂口が小林に対して敬意を表しつつも、小林の一流志向、ある種の古典文化を絶対視する姿勢を、「骨董趣味」のようなものだと批判するのも、このあたりの問題と無関係ではないだろう。 さくいん:小林秀雄 |
碧岡烏兎 |