仕事でサンフランシスコへ行った。カリフォルニアへ行ったら、レンタカーを借りる。借りたクルマを運転するときは、ラジオをつける。合衆国はラジオ局が豊富で数え切れないほど。ほとんど広告もなく、細かく区切られた分野の音楽を流している。私の選局先はソフト・ロック専門局か、エイティーズ専門局。
アメリカにずっと憧れていた。いつか行ってみたい、住んでみたいとも思っていた。旅行や仕事で何度か旅したことはある。でも、アメリカに住むという夢はかなわなかった。あるいは、自分で選ばなかったのかもしれない。ともかく今は年に一度か二度、仕事ででかけるだけ。
アメリカに憧れていたとき、憧憬の気球を膨らませるポンプとなっていたのはアメリカの音楽だった。ビリー・ジョエル、サイモン・アンド・ガーファンクル、カーペンターズ、イーグルス、クリストファー・クロス、シンディー・ローパー、シカゴ、ジャーニー。専門局からは知っている曲、よく聴いていた曲、お気に入りの曲ばかりがかかる。慣れない六車線のフリーウェイでもハンドルは軽い。
ときどき、思い出のある曲がかかると、涙があふれそうになったり、頭が破裂しそうになったりする。それは、思い出したくないことまで思い出してしまうからと思っていた。
帰国の日、サンフランシスコ空港へ向かい車を走らせる。走る道は101号線。助手席をみると、近ごろクルマでよく聴いているコンパクト・ディスクが鞄からこぼれている。新しいレンタカーには、プレイヤーがついている。何気なく手にとりディスクを入れる。聴きなれた音楽が、見慣れない風景のなかに流れ出す。
突然、これまで感じたことのない気持ちに襲われた。いったい、これは何だろう。ここはどこだろう。なぜ、こんな風に思うのだろう。
これまで何度も合衆国へ来ているけれど、実は一度もほんとうに来たことはなかったのかもしれない。そう気づいた。いつもいつも、憧れていたアメリカの音楽を聴きながら憧れの窓からだけ、アメリカを見ていた。
東京で聴きなれた音楽。自分がすこしずつ変わりはじめるきっかけになった曲。その音楽をアメリカで聴く。目の前のカリフォルニアの赤土が、はじめて砂漠に見えた。私はほんとうにアメリカに憧れていたのだろうか。
アメリカの音楽や、その歌詞に憧れていただけだったのではないか。いや、もう少しはっきりわかってきた。何かに憧れていたのではない。何かから逃げ出すために、遠い幻影を作り出していたのではないか。
一体、何から逃げ出そうとしていたのだろう。もし合衆国に住み着いていれば、それがわかったかもしれない。自分が何から逃げ出そうとしていたかがわかったとき、憧れの窓からではなく、アメリカのただ中で、アメリカのほんとうの姿を見出すことができたのかもしれない。さまざまな土地から、何かから逃げ出し、何かを捨てて、合衆国へ来た移民たちは、皆それを繰り返してきたに違いない。
なでるように来るだけの私は、そんなきびしい経験に直面することがなかった。ここへ来るたび憧れをなぞることで憧れていたときの自分に戻っていただけ。だからアメリカを通じて変貌をとげる自分に出会うこともなかった。
激しい頭痛や嫌悪感は、現実のアメリカと幻想のアメリカが擦れあい軋むせいだったのではないだろうか。
その何かから、いまは離れているだろうか。憧れの対象ではない、アメリカの姿に出会うことが、これからあるだろうか。それとも逃げ出す先でない、私が出会うべき場所はアメリカ以外にあるのだろうか。
今日が帰国する日でよかった。帰りの切符もある。帰る準備がなければ、ほんとうのアメリカを探すためと言って、このままこの街に残ってしまったかもしれない。それをしたところで、私は何も見つけられまい。もう少しで空港に着く。右車線に車線を変えておく。フリーウェイ、101号線。
ふと、夕べ見たテレビ番組を思い出した。合衆国で放映されている中国語放送、中国中央電視台。旅行番組の行き先は、南京。孫文の墓である中山稜の長い長い階段が映し出されていた。解説の言葉はわからない。でも、確かに行ったことがある場所。カリフォルニアのホテルの一室、理解できない中国語放送で、過去の旅をなつかしむ日本語話者。
アメリカに憧れるのでもなければ、アメリカに埋もれるのでもない。まして、アメリカを拒絶するのでもない。アメリカの中で、アメリカでないものに出会い、アメリカの外でアメリカに出会う。何を見つけていくのかはわからないけれども、少なくとも見つけ方はわかったような気がする。サンノゼでは、すしとパスタがおいしかった。帰ったら、ステーキを食べに行くのも悪くない。
「憧れ」も「ほんとう」もない。私が出会っていく場所は、もっと頼りなくて、もっと切れ切れで、チラチラと光る、色とりどりの折り紙の切り屑が降ってくるような、そんな風景であるような気がする。アメリカも、ヨーロッパも、中国も、それから、まだ行ったことがない場所も、これまで少しずつ私を変えてきたし、これからも変えていくに違いない。けれども、どこか一つの場所が私のすべてを変えてしまうことは、きっとないだろう。
101号線を上り、空港へ向かう。101は、はじまりの番号と聞いたことがある。アメリカを去る。一度も来たことがない場所を去る。そして何度も寝起きした場所へ行く。親しい人たちの待っている場所へ行く。帰るのではない。
さくいん:シリコンバレー
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