2004年1月

1/1/2004/THU

雑記、身辺抄、日誌などと名前を変えて続けているこの場の文章。毎日書いているけれど、日記とは言いがたい。日々の行動はほとんど書かれていない。

書かれているのは、日々のもの思い。思索以前の思いつき。

年末年始は、両親の家で過ごす。読んだあと、置いたままになっている本がいくつかある。貸してあげると恩着せがましく言いながら、実家を書庫代わりにするようなもの。一年以上も前に置いていった荒川洋治『日記をつける』(岩波アクティブ新書、2002)をぱらぱらと再読。

エリック・ホッファーの『波止場日記―労働と思索』(田中淳訳、みすず書房、1971)について書かれている。ホッファーは立ち読みだけで、まだ読んだことがない。それでも、引用された日記の一部や、荒川の考察を読んでみると、私の雑記と共通するところがあるように感じられる。

 この『波止場日記』はちょっと普通とはちがうところがある。まず今日一日の仕事のなかみを書いたあと、突然、思索に「突入」するのである。
   仕事が退屈でおもしろくないのかというと、そうではない。仕事は楽しかったという意味のことばもちらほら見える。彼にとって思索はごはんを食べるようなもので、しごく当然のこと、一日に欠かせないものだったのだ。でもこれがほぼ毎日つづくのは、いささか異常だ。(中略)働くよろこびも評価されるうれしさもあるが、それだけでは気持ちが晴れないのだ。あれやこれやで心が占められ、一日じゅう何かを考えてしまうのである。子供の先はおとなだが、おとなの先はない。波止場どまり。そこからは茫洋とした海が見えるだけ。ずっとおとながつづくのだ。考えるしかない。思うしかない。

私の雑記は、はじめから思索に突入している。それだけでかなり異常かもしれない。しばらく前に私はまだ大人になっていないのかもしれないと書いた。ほんとうは子どもはとっくに通り過ぎて、大人の先の行き止まりにいるのかもしれない。

もっとも、これが書いた文章のすべてではない。去年は手書きの行動記録、ふつうの日記も書くようになり、夏以降はほとんど毎日書いた。そちらの文章を公開するつもりはまったくない。思索だけを言葉で表現して、公開する。それが、私が見出した、形式上のスタイルといえる。

表紙「あいさつ」、「よろしければ、しばらく、この小さな庭の散歩をお楽しみください」を「あなたの庭、garden、jardin……へ/続く小道が見つかるように願っています」に変更。

音楽のページを新設。

更新履歴を「栽培日誌」の題名にする。2004年のページを新設。

さくいん:エリック・ホッファー


1/2/2004/FRI

ここ何年か、家族が集まる宴会の背景映像として紅白歌合戦を見ている。最近では年間を通じた大ヒット曲、世相を表わすような一曲といった歌が少なくなった。歌われる曲には知らない曲も多いし、何年も前から知っている曲もある。それはそれで、知らなかった音楽を知るきっかけにもなれば、なつかしい気分にもなる。紅白歌合戦の楽しみ方が変ってきているというほかない。

昨年の紅白歌合戦は白組の圧勝だった。その勝因は「花」にあったと思う。もちろん「世界で一つだけの花」のこと。ただし、それは表向きの話。

昨年の紅白に隠された主題は「更正」ではなかったろうか。この主題は大晦日だけでない。2003年のテレビ、出版にも通じる鍵語だった。象徴的なのは『ヤンキー、母校へ帰る』だろう。そのブームは突然はじまったわけではない。『だからあなたも生きぬいて』あたりに始点がありそう。そういえば、著者はどこかの自治体の助役まで登りつめたと年末の新聞で読んだ。

紅白でも歌われた「ソーラン節」も、荒れた学校を更正させた活動として話題になり、今では全国の学校で部活動や行事に使われているらしい。SMAPのなかでは、どういうわけか稲垣吾郎が目立っていた。

そんな非行や交通法違反だけではない。昨年の白組は、もっと深い意味で更正した人々が活躍した。SMAPの「世界で一つだけの花」を作詞作曲した槙原敬之、長渕剛、布施明が歌った「君は薔薇より美しい」の作曲者、ミッキー吉野。対する紅組では、川中美幸だけ、それも本人の話ではない。

そう、「花」というのは、あの花のこと。「花」から更正した人が番組を盛り上げた。この際、審査員にも中島らもといしだ壱成を迎えたほうがよかったかもしれない。満点での圧勝だったからこれ以上白組の援軍も必要なかったか。それでは紅組で、「夏をあきらめて」や「弟よ」を歌わせたほうがよかったか。

こんな邪悪なことを考えたのはどういうわけか。「投稿人は昔のことは忘れるように」と言われそう。自分の中にあるもののせいだとは認めたくない。邪悪なコラムで知られた消しゴム版画家、ナンシー関の版画集を見ていたから。そのせいにしてしまおう。

書評「ナンシー関消しゴム版画」を植栽。もともと書評にいれるつもりの断章を独立して雑記に植えこむ。書評「アメリカン・デス・トリップ」を剪定。12/1612/19の雑記を読み返していて自分が書いた「お前自身の暗黒にまだ気づかないのか」という一文を思い出した。

書評「大手拓次詩集」、荒川洋治が大手を取り上げた文章をカッコ内で紹介。昨日の雑記のように、両親の家に置き去りにした本を読み返してできた作業。

さくいん:紅白歌合戦ナンシー関


1/3/2004/SAT

手塚治虫全史 その素顔と業績、手塚プロダクション、森晴路、片山雅博編、秋田書店、1998


手塚治虫全史

手塚治虫の軌跡を、連載当時の雑誌の表紙写真やインタビュー、講演記録、そして関わりのあった編集者たちの回想などにより跡付ける大型書籍。

「私の人生劇場」は、1967年、東京新聞に連載された、手塚治虫自身による半生記。トレードマークであるベレー帽は、まだ若い医学生だったころ、作家らしく見せるための衣装だったこと、「鉄腕アトム」を書こうとした動機が、言葉の通じない進駐軍の軍人に有無もなく張り倒された体験にあったこと、などが書かれている。

はじめに共生ありきでなく、他者の存在、流行の言葉でいえば「バカの壁」がアトムの出発点であったことは興味深い。

とにかく作品が多い。読んだことがあるのはほんの一部だけ。膨大な仕事量に驚くと同時に、これだけの仕事をこなしていれば、50代半ばで健康を崩しても、不思議はない気がする。多くの編集者がその超人的な情熱、体力、遂行能力に驚嘆と賛嘆を記している。締め切り前の修羅場は、誰の回想を読んでも壮絶というほかない。

「限られた命の中で何ができるか」という問いは、医療をあつかう『ブラック・ジャック』だけでなく、手塚の作品全てを貫く重要な主題の一つ。1979年11月に母校である大阪大学医学部で行われた講演でも、熱っぽく語られている。読みながらブラック・ジャックのなかから、二篇の物語を思い出した。「しめくくり」(第207話、新書17、文庫8)と「絵が死んでいる!」(第86話、新書9、文庫1)。前者では生き残る素晴らしさが、後者では、短くても命尽きるまでに仕事をなしとげる尊さが、それぞれ描かれている。

手塚自身は自分についてどう考えていたのだろうか。いくつかの作品は未完のまま。その事実だけをみても、仕事を完成して亡くなったとは言えない。同時に、仕事にケリをつけなかったことは、手塚が最期まで生きることにしがみついたことを示している。

人は生きてこそ意味がある。生きる時間は限られている。手塚の作品には、生命に対する二つの思いがあざなうように貫かれている。彼の生き方、すなわち彼のスタイルそのものが、それを物語っている。

余談。『ザ・コンプリート・ダイジェスト』のおかげで、『ブラック・ジャック』の検索が非常にしやすくなった。

表紙写真を「江ノ島遠景―稲村ガ崎から」に変更。1月2日撮影。

さくいん:手塚治虫『ブラック・ジャック』


1/4/2004/SUN

正月の新聞には、文化人と呼ばれるようなエライ先生方の対談が特集されている。世は仏教ブームらしい。宗教学者や心理学者、哲学者、作家や文芸評論家がこぞって仏教について語り合っている。

それらの対談を読んでみると、いずれの論者も二重の意味で宗教を誤解しているようにみえる。まず、キリスト教=西洋、仏教=日本というあまりに大雑把な図式に思考が陥っている。ヨーロッパ社会はキリスト教だけを柱にしているわけではない。人口の面で見ても、イスラム教徒やユダヤ教徒も少なくない。

もしキリスト教=西洋ならば、合衆国とヨーロッパの違いはどう説明するのか。結局は宗教以外の要素を持ち出さざるを得ない。それならはじめから、宗教だけで括ることが間違っているのではないか。

日本をみても、仏教だけでなく神道もあれば、キリスト教にしても伝来してからすでに400年以上たっていて、充分伝統と呼べるような歴史をもっている。「日本人にはもともと仏教的感覚がある」などという言い方は、暴論でしかない。そうでなければ、まったくの空論。

次に、社会を構成する倫理的土台としてだけ宗教をとらえることも、あまりに表面的。宗教の本質を見逃している。確かに強大な宗教が多くの人の心をとらえれば、社会や政治の動きにまで影響を及ぼす。けれども宗教とは、本来信仰、すなわち一人一人の内面の問題ではないのか。宗教を社会心理の色調としてだけとらえるから、ある社会や国家を一つの宗教で色づける考え方に陥る。その結果、どちらが自然にやさしいだの、どちらが戦争をしにくいだの、さらにはどちらが優れているか、という意味のない議論をはじめることになる。

多くの人々をひきつけている、いわゆる世界宗教のなかで、自然破壊や殺人を奨励する宗教があるだろうか。個人の内面がひとり神と対峙することを禁じて、集団に帰属することだけを迫る宗教があるだろうか。

問題は、個人の信仰、内面の救済、心の平和、そういうものをもともと目指しているはずの宗教が、いつ、なぜ、どのようにして、集団的になったり排他的になったり暴力的になったりするのか、という点にあるのであって、どの宗教がより優れているか、という点にあるのではないだろう。

血みどろの争いや硬直した制度にこりごりしているにもかかわらず、それでも人々が宗教や、信仰を求めてしまうのはいったいなぜなのか少なくとも学者を名乗るならば、対象は特殊であっても、問題意識は普遍的、根源的であってほしい。既存のある宗教をもちあげたり、さげすんだりしたいのなら、評論家を名乗ってやればいい。


1/5/2004/MON

クラプトン エリック・クラプトン コンプリート・クロニクル(CLAPTON: THE COMPLETE CHRONICLE)、Marc Roberty、丸山京子訳、シンコー・ミュージック、1992

Eric Claton's Rainbow Concert (1975)、Eric Clapton、ポリドール、1986

エリック・クラプトン コンプリート・クロニクル Eric Claton's Rainbow Concert

ナンシー関手塚治虫につづいて「眺める伝記」の三冊目。クラプトンのことをもっと知ろうと思ったきっかけは日経新聞夕刊のインタビュー・コラム「人間発見」。ジョージ・ハリスンとの友情と彼の妻への恋慕、ドラッグ、息子を失くしたこと、ブルースへの思い、節制した現在の生活。これまでラジオや雑誌で断片的に見聞きしていた挿話が本人の言葉で回想されていて、興味深く読んだ。評伝写真集と一緒に再起のきっかけになった伝説のライブ・アルバムも借りてきた。

クラプトンの音楽といっても、これまで彼個人の作品は、ほとんど聴いたことがない。印象に残っているのは、他のグループやミュージシャンの楽曲にゲストで参加したもの。The Beatles,“While My Guitar Gently Weeps”(“The Beatles: 1967-1970”、東芝EM、1973)や、Phil Collins, “I wish It Would Rain Now”(“But Seriously,” Atlantic, 1989)など。そのPhil Collinsがゲストとしてドラムを演奏したロンドン、ロイヤル・アルバート・ホールで行われた“Journeyman”ツアーのライブはビデオで見たことがある。

ほかには、自動車の広告で見た“Bad Love”。ふだん映画はほとんど見ないけれど、機内で見た“A Story of Love”は主題歌“I got lost”と一緒によく覚えている。クラプトンの名前を意識するようになったのは、おそらくはアルバム“Unplaged”。これはアルバムも、ほとんど弾けるようにはならなかったけれど楽譜を持っている。

クラプトンの曲のなかで一番気に入っているのは、“Change the World”。この曲は、The Beatles, “Across the Universe”とあわせて聴くと感慨深い。何ものにも傷つけられない私の世界、“Nothing’s gonna change my world”。しかし、それを変えていく出会い。

I would be the sunlight in your universe
You would think my love was really something good
Baby if I could change the world

仮定法になっている。つまり、世界を変えられるかどうかはわからない。でも、信じている。その日が来るまでは、愚か者、バカ者でいるだろう。“Till then I would be a fool, wishing for the day”という一節も、バカであることと、バカになることの違いが気になる私には特別な響きがある。

手塚治虫と同じように、本書でもクラプトンの仕事量に驚かされる。ワールド・ツアーを続けながら、ヒット・アルバムを製作し、なおかつそこに自分の思いを込める。スーパー・スターとは、まさに超人的な働き方を意味する。貧乏暇なし、ともいうけれど、三が日はごろり、などと言っていられるのは、凡人の特権かもしれない。

“Rainbow Concert”は、私には重い。ヘヴィーなロック、ヘヴィーなブルースは苦手。“Change the World”がグラミー賞を取れたのは、アメリカで好んで聴かれるカントリー、ソウル、ブルース、ロック、すべてのジャンルの要素を音楽面だけでなく、作詞、作曲、編曲など製作面で兼ね備えていたからと聞いたことがある。それは商業音楽の妥協の産物ともいえるし、クレオール・ポップスと呼ぶこともできるだろう。いずれにしても、そうした音楽が私には心地よい。

他にも彼の曲では「あの子はだあれ、だれでしょね」ではじまる「あの子はだレイラ」も気に入っている。いや、あれはエリック・カケブトンの歌だったか、それともグッチ祐三の妄想だったか。もともと好きだったのは、クラプトンではなくてエリック・プランクトンだったかもしれない。クレオールと書き出してみたら、何が何だかわからなくなってきた。

さくいん:エリック・クラプトン


1/6/2004/TUE

去年の末に、民藝と題したページを新たに設けた。私がふだん読んでいるサイトへのリンクのページ。

このページは、「庭」全体のなかでもっとも重要で、もっとも大切な場所になるだろう。それは、エピグラフで暗示させたように、ルソーと森有正が共振するところだからというだけではない。私自身、十年以上前に書いた文章の最後で次のように書き残している。

ルソーを批判し、ルソー以後の時代を創るのは、かぼそく弱々しい声たちが集まり、それらの声がとどろくほどに歌い上げる大合唱によってなのである。

出版されない、宣伝されない、書店に並ばない。おそらくベストセラーの本に比べればはるかに少ない人しか読んでいない。そうした文章が私を変えていく。つまり書いた本人だけでなく、読んだ他人を変えているという意味で、世界を少しずつ変えている。

もちろん、出版されている本や、売れている本がすべて人気とりに迎合しているというつもりはない。私はただ、自分が見つけて面白いと思った「作品」を読むだけ。研究者や作家の作品が読めるのは、ある意味では当前のこと。そうではない人々の日々、考えていることや、読んだ本の感想を読むことができるということに、大きな意味がある。

彼らとあいだに直接の議論も交流もないかもしれない。けれども、彼らの文章を読むことが、私の新しい表現を生むことになる。私にとってはそれが彼らとの対話になる。

一昨年の暮れに書いた「丸山眞男と小林秀雄――『思い出』と『伝統』についての覚書」の最後に書いた言葉の意味が、自分自身で書いたにも関わらず、いまになってようやくわかってきた気がする。

雑記を書きながら思い出し、批評「丸山眞男と小林秀雄」を読み返し、推敲。

このところ「庭」のなかで点と点とをつなぐことが増えている。「庭」が内的連関をもつ作品であることを証明しようとする、わざとらしい補助線にみえるかもしれない。それでも紙に印刷された文章では絶対にできない機能を使わないのももったいない、すべての言葉を縦横無尽につないでしまえ、という気もする。いつか索引のページをつくりたい。

随想「カウンタック・リバース」に接木。結語がしまらないために、全体の構成がまだ不安定。いずれ書き直すことになるだろう。

さくいん:ジャン=ジャック・ルソー


1/7/2004/WED

昨日の荒川洋治。元日の新聞、大手出版社の広告について。

各社創業何十周年と銘打って大型企画を準備している。戦後勃興した出版社で50年近く、三省堂は創業100年以上をうたう。

大手出版社の老齢化が進んでいるが、にもかかわらず、出版不況といわれる時代に何を出版したらいいのかは不透明なまま。その結果、長い歴史を祝う形でしか大型企画が通らないような事態になっている。確かに長寿を祝うだけではなく、ミネルヴァ書房の評伝選、小説の舞台となった地域ごとに編集される岩波書店の新しい泉鏡花全集など、意欲的な企画もある。

全集や、シリーズものとは別に人気があるのが限定版。夏目漱石の『こころ』初版の復刻本、『道草』の自筆原稿ファクシミリ、島村藤村短編集の復刻版などは、いずれも豪華で価格も安くはないが、限定部数は売り切れている。「こころ」は漱石自身が装丁したものの復刻。『破戒』など藤村の初期作品は、自費出版だった。本をつくる意気込みが強かった時代の精神を復刻しようとしているのかもしれない。

文章を書くとはどういうことか、作品とは文章がどのように集まったものか。そういうことについては、いくつか文章を書きながら考えてきた。いま、よくわからないのは、本とは何なのか、ということ。

本は言葉の作品を形にしたもの。ならば、いったい誰の作品を。編集にも装丁にも、印刷にも製本にも関わらず、本文の原稿を出版社に手渡した著者の作品なのか。私の問いは、荒川のいう「本をつくる意気込み」という言葉に重なる。

音楽の場合、商業音楽でも事情はすこし違う。歌い手と作詞家、作曲家との分業が当たり前だった時代もあった。今でも歌、作詞、作曲と分業化された仕事しかしない人もいる。一方で、シンガー・ソングライターと呼ばれるように、自分で歌う曲を自分でつくり、自分で演奏する人も少なくない。なかには編曲からすべての楽器の演奏までこなす人もいる。作詞作曲、演奏だけでなく、作品全体の製作指揮、すなわちプロデュースを自分自身で行うミュージシャンも少なくない。

これに対して文章、本の世界では、本文と本づくりの分業に対して、ほとんど疑問はつきつけられていないようにみえる。まして、作品全体の製作を支配するプロデュース、編集という営みに、本文を書いた人はどれだけ参加しているのだろうか。実態がどうか以前に、読み手にはその気配さえ感じられない。

本のあとがきに「遅筆の筆者が書き上げられたのは、編集者の叱咤激励のおかげ」という文章をしばしばみかける。また最近、ある小説家が新聞に書いた随筆で、小説の結末は編集者の意見によって左右されると読んでかなり驚いた。荒川も、最近では出版されるまで装丁を知らない著者もいると、以前ラジオで話していた

著者は書きたいことを書き、つくりたい本をつくっているのではないのか。それとも、書いてほしいと望まれたように本文を書いているだけなのか。そうとすれば、作品とは、本とは、いったい誰の作品なのか。やはり問わないではいられない。


1/8/2004/THU

昨日のつづき。

音楽では、シンガー・ソングライターやセルフ・プロデュースの作品がある。もちろん、それが音楽作品のすべてではない。コンサートには、舞台、照明、音響技術などの協力が必要だし、アルバムにも録音技術、マスタリングなどの技術がいる。職業としてやっている以上、製品の製造に品質も求められるし、宣伝、流通、販売の手法や質も、作品に影響を与えないではいられない。

実際は、作詞作曲、セルフ・プロデュースをうたっていても、多くの関係者との協同で音楽作品はつくられているに違いない。実態としては、本の場合とさほど変らないのかもしれない。

だからこそ、作る側の意識が気にかかる。本を書いている人にとって、自分の作品とは何を意味しているのか。文章か、本か。受け手の側からすると、つい本文だけをとりあげて書評を書いてしまうけれど、実際には装丁や活字、印刷の質などが、本の印象を決める大きな要素になっている。文だけではなく、本を見て、著者を判断している場合が少なくない。そのことを、著者となっている人たちはどこまで意識しているだろうか。

そんなことを考えるようになったのは、自分でウェブサイトをつくったり、個人サイトをたくさんみたりするようになったから。文章のサイトであっても、文章だけではない。全体の構成、色、活字、画像などによって、読みすすめるかどうかを決めてしまうこともある。

個人サイトは多くの場合、私の「庭」のように、完全に一人で作られているのだろう。だから記述言語の習熟度を含めて、その人の文章、画像、色彩、デザイン、すべての能力と感性が個人サイトには反映されてしまうし、それだけに、すべての面で作者のスタイルを表現することもできる。

「烏兎の庭」は、完全なセルフ・プロデュースであり、ひそかな一人あそびでもある

誰の助けもいらないし、誰にも触らせたくない。そのつもりもない。


1/9/2004/FRI

昨日のつづき。

音楽の世界では、作詞作曲、楽器演奏から歌唱、プロデュースまで一人でこなす人もいれば、完全な分業なっている作品もある。その中間には、バンドのような存在もある。別々の人が楽器演奏を行い、全体で一つの作品をつくっている。そういう場合、誰がどの楽器を演奏しているか、つまり、作品のなかでどういう部分を担っているか、アルバムでもコンサートでもよくわかる。一人で演じる、いわゆるソロ・ミュージシャンのコンサートでも、伴奏をするバンドの一人一人が紹介されることもある。

本の場合にも奥付がある。著者だけでなく、発行人、印刷所、製本所、装丁者などの名前が書かれている。けれども、そこには肝心な編集者の名前がない。発行人には、たいてい出版社の社長の名前が書かれているから、商品としての本の責任者は明らかにされているけれども、作品としての本を企画し、全体の製作を統括するのは編集者であるのに、その名前は必ずしも明記されていない。

編集者からすれば、裏方に徹しているつもりなのだろう。しかし、これはきわめて奇妙なことで、このせいで著者と編集者の関係はいびつになっているようにみえる。編集者の名前は、奥付にはない。それでも本のどこにもないわけではなく、たいていあとがきにある。著者はたいてい、あとがきを編集者への謝辞でしめくくる。

文章を書いているのは著者であるとしても、作品としての本をつくる指揮をとっているのは編集者のはず。このことは、荒川洋治『本を読む前に』の書評に書いた。本を送り出す側の編集者が、やはり本を送り出す側の著者から感謝を送られている、おそらくは「先生」と呼ばれる見返りに。この馴れ合いは、映画の終わりや音楽作品でいう、「クレジット」、すなわち、本という作品に対する責任をあいまいにしている。

裏方に徹するという謙虚な気持ちが、かえって本を作る側の責任を不明瞭にしているのは皮肉なこと。こうした不明瞭さは読者にとっては百害あって一利もない。先生扱いと内輪の謝辞という互酬も、読者にとっては白々しいだけ。

編集者の役割は、もっと高く評価されるべきだと思う。同時に本づくりの主導者である責任を明確にしたほうがいい。そうすることで、著者の書いた文章という純粋な作品に対しても正当な評価を下せるようになる。現代のように、執筆、編集、出版の段取りが高度で複雑になっている時代ではなおさら、映画や音楽のように役割分担を明確にしたほうがいいと思う


1/10/2004/SAT

何でも見てやろう。何でも一度やってみるといい。知らないよりは、知っているほうがいい。いろいろな言い方で、何かをすることが奨励されている。一種の体験主義といってもいい。主義というのは、もちろん行き過ぎているという含意をもたせてのこと。

こうした考えには、何かをすることのほうが、しないよりはまし、それどころか、何かをすることによって、より物知りになり、より思慮深くなれるという思い込みがある。確かに何かをすることは、何かをもたらすかもしれない。しかし何かをしないことも、同じように何かをもたらすに違いない。

つまり、何かを体験しないでいることは、しないことをするという意味で、一つの体験になっている。反対に、何かをすることは、それをしないことを体験できないでいる。

放浪は定住していない。消費は節約していない。放蕩は貞節をしてない。どちらかがよくて、どちらかが悪いというものではない。はっきりいえることは、どちらかを選べば、もう片方は選べないということ。

さらにいえば、その中間もまた、どちらでもない体験になる。生涯放浪をすれば、生涯定住を選べない。しかし、同じところに住みながら少し旅をする暮らしも、選べない。こうした考えを突き詰めていけば、ある程度体験することは、ほかの程度に体験することをしていないことを意味していることがわかる。

経験はそれ自体固有である、とはこういうことだろう。自分のしたことのないことをしたことのある人をうらやましく思ったり、行き過ぎに思ったり、反対に、自分がしてしまったことをまだしていない人をうらやましく思ったり、うぶに思ったりすることがある。それは、まったく独断的な見方で、何の意味もない。いずれも、相手からみれば、同じように見 ているのだから。

何かを自分がした程度にした固有の意味を探ること。それはけっして独断や独善に陥ることではない。なぜならその探求を通じて、他人がその人がした程度にそれをした、あるいはしなかった固有の意味がみえてくるはずだから。

批評「メビウスの輪としての言葉」に少し水遣り。「理解と説明 つづき」を追加。「職業と仕事」に加筆。「プロフェッショナルとアマチュア」への導入になるようにする。「知識人と大衆」を最後にする。今後は、この構成のまま、これらの項目を1ページずつ書きあげることにする。

bk1に書評『魂の労働』(渋谷望、青土社、2003)を投稿。植栽は後日。


1/11/2004/SUN

昨日のつづき。

高度情報化社会といわれる現代にあっては、何でも体験してみたほうがいい、という体験主義よりも、何かをしないことの意味を考える非体験主義のほうが、重要であるように思う。

本屋に行けば、面白そうな本がたくさん並んでいる。読んだほうがいいと言われる本も多い。翻訳のおかげで、別の言葉で書かれたいい本も読むことができるし、輸入したり違う言葉が話されている街へ出かけたりすれば、いろいろな言葉で書かれているいい本を手に入れることもできる。昔の本もあれば、毎日、新しい本も出ている。それらを全部読むことなど、とてもできない

世界には、美しい、素晴らしい、そして行ってみたほうがいいと言われる場所が沢山ある。やはり、すべてをまわることなど、お金と時間がいくらあってもできそうにない。

そういうことは、もうあきらめたほうがいい。どうしたって全部は無理。ではどうすればいいか。いいと言われるもののなかでも、とくにいいと言われるものを選ぶ、というわけにもいかない。何を基準にするか、誰の言い分を基準にするのか、そうならそうで、誰に従うかを決めるために本を読んだり、人の話を聞いたりしなければならないから。

だから、出会ったものが、すべていいものだと信じるしかないのかもしれない。言葉をかえれば、出会ったものに、何かいいものを見つける。固有の意味を見出すといってもいい。

言葉の上では、それがいいと思う。けれども、実際のところ、たとえば本屋に行って、手にとった本を何でも面白く、意味のあるものに感じるわけではない。瞬間的な決断がどうしても必要になる。どれを読むか。決めたら、とりあえずは、ほかは読まない決心をしなければならない。

それでも、読んでよかったと思うこともあれば、時間をかけて読むだけ無駄だったと思うこともある。ところが、無駄だと思ったもの、何も感じ取らず、読み流した本が、後々になって、何かを考えるきっかけになることもある。

決断と実行、後悔と反省。結局、これを繰り返すしかないのかもしれない。

書評「筆蝕の構造」を植栽。読みながら、そして感想を書きながら、共感と反感のあいだで激しく振動した。書評「『教養』とは何か」(阿部謹也、講談社現代新書、1997)を書いたときのことを思い出した。書いている内容は、2003年7月22日の雑記と同じ。


1/12/2004/MON

AV、Audio and Visualという表現がごく日常的に使われている。音楽だけのいわゆるピュア・オーディオに代わって、マルチチャンネルのAV機器が増えている。また、音楽を楽しむ場合にも映像つきのプロモーション・ビデオやライブ・ビデオが増えている。

もともとオーディオとビジュアル、音声と映像は切り離せるものではない。目が見え、耳が聞こえる人にとっては、幸か不幸か、音と絵は通常分けて感じているのではない。生演奏を聴くときには、ピアノの音を聴くとと同時にピアニストが弾く姿を見ている。滝の前に立てば、轟音とともに水しぶきを見ている。

そういう見方をするなら、マルチチャンネルのライブ演奏ビデオは、2チャンネル・ステレオのコンパクト・ディスクに比べて、音が生成された場面、いってみれば原音、原景をより忠実に再現している。そう言えるだろうか。やはり、言えないだろう。

どれほど技術が向上しても、原音や原風景を完全に再現することはできない。原音と再生とは、そもそもまったく違うもの。ピアノの演奏とピアノ曲の録音とでは、同じ音階を出したとしても違う表現。録音は、演奏の代替には絶対にならない。同時に、録音は演奏にないもの、録音にしか表現できないものを表現することもできる。

何かの代替ではなく、それ自体に表現として固有の意味があるとき、その表現方法は芸術になる可能性をもっている。技術の向上は果てしなく、その技術を通じて何かを表現しようとする人間の審美的欲求も限りない。


1/13/2004/TUE

「メビウスの輪としての言葉」と題して批評文を書いている。メモや断章だった言葉を、少しずつ文章にしている。メビウスの輪の表と裏のような関係にある、いくつかの言葉をとりあげて段落を組みながら、文章全体も表から裏をまわって表にもどるような構成にできないか、思案しながら推敲している。

このように書き出しにもどる文章が、自分が書く文章のなかに増えている。たとえば最近書いた随想「カウンタック・リバース」も、最後と途中のあいだでぐるぐる回る構成になっている。

このような構造は作品として、いいことか、わるいことか。よくわからない。だらだらと巻物のように書くよりは、全体の構造があるのはいいことかもしれない。メビウスの輪のような文章は、逆説循環ということもできる。しかし、全体が内側に向いて閉じたままぐるぐると回れば、思考は文章世界の外へ飛び出すところがない。

メビウスの輪は、表になったり裏になったりするもの。外へ向いたり内へ向いたりするもの。表裏の均衡と移り変わりの滑らかさが、全体の構造をまとまりある作品にしたり、ただのかたまりにしたりする。

ただし、それができたとしても、終わりない循環は作品としては不安定な余韻を残す。その余韻がただの不足感か、想像の余地を残す心地よいものか、という点が、作品の価値を決めるような気がする。

書評「魂の労働」を植栽。bk1へ投稿した書評に大幅に加筆した。機械化人間という言葉を思いついて、アニメ『銀河鉄道999』(松本零士原作)を思い出した。書きながら、まったく別の想像をする。そんな奇妙な空想が、私には心地よい。

雑文「ブラック・ジャック 第17巻 ほか」を剪定。引用した作品名の出版元、出版年を追記し、段落をページの区切りに揃える。

批評「メビウスの輪としての言葉」を剪定。「プロフェッショナルとアマチュア」に追記。「知識人と大衆」の最後を、「理解と説明」でしめくくる。

書評「アーレント政治思想集成」を剪定。全体主義に対する態度を四種類から五種類にする。あわせて、これらの態度について書いた昨年11月10日の雑記を推敲。


1/14/2004/WED

ここのところ、これまでに書いた文章を推敲するときに、段落区切りとページ区切りを揃えるようにしている。それから、句読点が行頭、あるいは行頭三文字目程度に入らないいようにも気をつけている。これらはもちろん、文章の内容というより形式、体裁に関わること。執筆というより編集の作業。

本を出版する人のなかには、喋るだけで文章は編集に書かせて、文章の様式にはまったくこだわらない人もいれば、文章だけは書くけれど、それがどのような活字で、どのような配置で印刷されるかには頓着しない人もいる。とはいえ、なかには原稿を書くだけでなく、その文字が最終的にどのようにページに表示されるかまで気を配る人もいないわけではない。

例えば、荒川洋治もラジオで紹介していた、黄霊芝『台湾俳句歳時記』(言叢社、2003)。出版される本の文字配置に合わせ、いわゆる禁則文字が行頭に来ないように、一度書いた原稿のすべてを見直したという。開いてみると、整然と活字が並んでいる。

本を書く、本を作る、本を出す。どれもやさしい言葉で、同じように響くけれども、それぞれが意味するところはすこしずつ違う。いや、言葉の違いなど、どうでもいい。言葉の機微にこだわっているようで、本の機微には何の配慮もない人がいる。いるどころか、そんな人のほうが多いくらい。

それでも、隅々まで作った人の配慮の行き届いた本もないわけではない。それはけっして著者一人の意図ばかりではない。一人で作るなんてことはありえない。執筆、編集、印刷、装丁、製本。本かかわった人々の気持ちが、えもいわれぬハーモニーを奏でる本もある。

過去の文章を読み返し、段落をページの区切りに揃える作業を続ける。


1/15/2004/THU

サンフランシスコから東京へ帰る機内で、書いている。

年があけてすぐ、業務で合衆国へ来ることになった。ここ数年恒例になっているラスベガスでの展示会。

「庭」を作りはじめてから、これまでに二回合衆国へでかけた。二度とも、海外出張を特別な出来事として、そのとき雑記では、そのとき感じたことがそのまま書かれている。

国外に出ることは、それだけで特別なことではない。家を出て旅に出るのは国内でも同じ。昨年は大阪へ30回近く出かけた。はじめのうちこそ、大阪で見たこと聞いたことをそのまま雑記に書いていたけれど、やがて見慣れていくうち、そういうことはなくなった。大阪が特別なのではなく、一人の時間をもつことが特別だと気づいてからは、出かけた場所と関係がなくても、その前から考えていたこと、準備していたことについて書くようになった。もちろん、その場で何か特別なことがあれば、そのことを書きもした。

ラスベガスへ行くのは、はじめてではない。ましてや合衆国へは何度もでかけている。国外へ行くからといって、特別な書き方をすることはない。そう思って、これまでの通り、思いついたことを書いた。アメリカについて考えたことではなく、アメリカで考えたこと。

外国にいても、ネット接続さえできれば「庭」の更新も可能。「民藝」と私が呼んでいる他のサイトを読むこともできる。一人でいる時間が長いので、「庭」の掃除もはかどる。段落の区切りをページの区切りにあわせたり、雑記の禁則文字を文頭から文末になるようにする作業は、就寝前の息抜きになった。

滞在中には、いくつもデッサンをした。もちろん言葉のデッサン。去年奮発して買った革の手帳に、昔からもっている大切なボールペンで、思いついたことをばらばら書いた。そのうち、思い出しながら、雑記に書けるときがくるかもしれない。

書評「文藝別冊 総特集 山口瞳」を植栽。今日は、かつての成人の日。山口瞳をはじめて読んだ日でもある。

さくいん:サンフランシスコラスベガスアメリカ山口瞳


1/16/2004/FRI

東京へ帰る機内の続き。

行きの機内では、提供されるオーディオ番組を聴いた。村上“ポンタ”秀一の30周年記念アルバム、ヴァンゲリスのベスト・アルバム、小林克也が案内役をつとめる「ベストヒットUSA~タイムマシン・スペシャル」で、Sting,“If You Love Somebody, Set Them Free,”George Harisson,“Get My Mind Set on You”など。

ヴァンゲリスでは高校生のとき見た映画『炎のランナー』の主題曲“Chariot of Fire”がなつかしい。ヴァンゲリスを聴きながら、映画音楽を集めたベスト盤にはない“Alpha”を思い出していた。小学五年生のとき、眠い目をこすりながら見た科学番組『コスモス』で流れていた。惑星の映像とニューエイジの音楽、それからカール・セーガンの声、正確には彼の吹替えの声が、私のなかでは一緒に残っている。

帰りの便では、パソコンにしまってある“Home”“Home Again”、それから、まだ編集中の日本語の歌を集めたアンソロジー、“Home Sweet Home”、各地のご当地ソングを集めた“Home Ground”を聴く。

“Take me home,” sings Phil Collins.  No, you don’t need to take me home. ‘Cause I am on my way home. I am coming back HOME!

Home at last, home at last, thank god almighty, I will be home at last.

Happy Birthdy, Marting Luthur King Jr.!

書評「失われた時を求めて13 見出された時Ⅱ」「プル―ストを読む」を植栽。正確には、今は15日と16日のあいだ。太平洋上空で書きあげる。『失われた時を求めて』は年始休みに、『プルーストを読む』は、ラスベガスからサンフランシスコへ行く飛行機の中で読んだ。

さくいん:カール・セーガン


1/17/2004/SAT

雑記は、私にとっては日々の思索の記録であり、手帳に書きなぐった素描を読める文章に書きなおした習作でもある。もう一つ、最近気づいた雑記の役割。書評や批評、随想が私の作品の主旋律であるとすれば、雑記はベースラインやギター・リフ、ドラムが刻むリズムのようなもの。

ほんとうなら通奏低音とか対位法とか、言ってみたいところだけど、そういう言葉は、私の辞書にはない。聞いたことはあっても、経験に結びつかない言葉で表現することはいいことではない。これは吉野秀雄から山口瞳が学び、山口から井崎脩五郎が学び、そして、これら三人から私が学んだこと。

Earl Klugh“Second Chance”という曲がある(“Life Stories,” Warner, 1987)。この曲では、主旋律の一度目に、背後で細かなリズムで、独特なメロディのベースが響いている。二度目はもっと単純な伴奏になっている。ところが、聴いているほうには、最初に聴こえたベースが耳に残っていて、クルーの弾く主旋律と聴いている自分のなかでハーモニーを奏でる。聴こえていない音が、音楽の重要な一部分になっている。

雑記の新しい役割はそれに近い。今、そうなっているということではなく、これからそうなるようにしたい。一昨日の雑記は試みのはじめ。書評に書いたことと同じことを、別な文章で書く。説明や注釈ではなく、別な表現として書く。そうして「庭」全体の調和をつくりだす。ただし、ハーモニーが聴こえるかどうかは、読む人によるだろう。少なくとも、私は自分の文章の読者として、ハーモニーを楽しみたい。


ところで、一昨日植栽した書評「文藝別冊 総特集山口瞳」のなかで、「僕の代わりにガンガン飲んでくれ!」を引用したつもりが、「僕」が「私」になっていた。書きながら確か「僕」だったと思っていたのだけれども、ムックに転載された「人生仮免許」では「私」が使われている。はて、山口は僕派だったか私派だったか、よく思い出せない。

家に帰って『諸君!この人生、大変なんだ』を開いてみると「僕」になっている。ほかのエッセイではほとんど「私」が使われているが、成人の日のサントリー広告では、二年目以降、「僕」になっている。


私もかつては「僕」派だった。日記でも、雑文でも「僕」を通した。学生時代に書いた「ヨーロッパ旅行覚書」でも「何のための思想か」でも「僕」を使っている。その頃読んでいた村上春樹の影響も多少はあったかもしれない。

今はもう使わない。話し言葉でも使わないし文章ではまったく使わない。私にとって、「僕」は何だか気恥ずかしい、青臭い言葉。そういう言葉は人によって違う。「出会い」も「魂」も「人生」も、もう気恥ずかしくない。でも「僕」は使えない。

文章では、「私」を使っている。「私」を使うようになったのは、会社員になってから。「私」は、大人の言葉。よそよそしい言葉。それゆえに、自分から距離を置きながら書く文章では好都合。


公開していない文章では、「オレ」を使う。それだけでも、「庭」の文章は、私自身とは別個の存在であることが明らか。同時に「オレ」と自称しなければ書けないようなことが、別なところに書かれているということでもある。

それでも、「庭」のなかに思わず「オレ」と書いてしまったことも、ないわけではない。

さくいん:山口瞳アール・クルー


1/18/2004/SUN

山口瞳は、長編小説を書くことをやめたあとでも、身のまわりのことを題材にした随筆だけは亡くなるまで書き続けた。それは、彼がスタイルを表現する方法、変奏を二種類もっていたからできたこと。

人は誰でもスタイルを備えている。スタイルを表現、あるいは芸術と呼ばれる水準にまで高める人もいる。恐ろしいのは、一つの表現でなく、いくつもの方法、形式、変奏で表現してしまう人もいること。

もちろん、それらがすべて金銭的な報酬を得られる職業になるとはかぎらない。そもそもスタイルの表現は、芸術と呼ぶような表現形式に収まらなければならないものではない。

ほとんどすべての人は、日々の労働や、衣食住や、人間関係に関わるささいな言葉づかいや、何気ない仕草のなかに、スタイルをこめる。そうした言動はもちろん、作品として未来へ継承されるわけではない。しかし、その言動を直接受け止めた、そばにいる人間には、継承される。もっとも、継承されるのは、いいことばかりではない。

芸術家は、スタイルを形にする。しかし、芸術家は芸術家である以前に一人の人間。だから、人間として、作品にならない、歴史にも残らないスタイルの表現をする一面も、必ずもっている。

歴史に残らないスタイル、身近に触れ合う人々にだけ継承されるスタイル。それは「思い出」と呼ばれる。日経新聞日曜日に連載している精神科医、大原健士郎の文章「ちょっと気ままに」が教えてくれた。

この期間は自分自身の思い出に残るのは無理かもしれないが、やりようによっては周囲の人々の思い出に残ることは可能だろう。

大原は、おもに老年期のことについて書いている。考えてみれば、人は生まれてから死ぬまで、長かろうと短かろうと周囲の人々の思い出でありつづける。それは作品とはまったく異なる生身の思い出

死ぬまで創作を続けた芸術家は素晴らしい。しかし、創作をやめて、一人の無名の人間として生きること、つまり、身近な誰かの思い出になることだけを選ぶ人がいても、おかしくはないと思う。どちらがいいというものではない。実際、そのような選択は自分でできるものではないような気がする。

短評“We're Going on a Bear Hunt”、“WHERE THE WILD THINGS ARE”、“Starry Mesenger”を植栽。

身辺抄としていた雑記の題名を鉢植に変更。

さくいん:山口瞳スタイル


1/19/2004/MON

出張のあいだ、一人でいる時間の暇つぶしに「庭掃除」をはじめた。書評、批評など縦書きの文章は段落の区切りがページ区切りに揃うようにしてみた。引用文は勝手に段落を切れないので、そのまま。

ついでに、横書きで書かれている雑記も、句読点などの禁則文字だけでなく、品詞の区切りが次の行頭へまたがらないようにしてみた。これが難しい。英語では、ハイフネーションの約束事も決まっているし、コンピューターのワープロ・ソフトでは、いくつ単語が入っても、自動的に同じ幅になる。

日本語では、禁則文字は自動的に行頭に来ないように調整されるけれど、一文字の助詞が行頭に来ることなどは制御できない。例えば「なぜならば」という単語も、「なぜ/ならば」と切れるといいけれど、「な/ぜならば」となるとすっきりしない。

こういうことを気にしはじめると、切りがない。人名や地名など固有名詞の途中で行がかわることは失礼なことにも思えるけど、どうしても調整しきれない。作業ははかどらず神経ばかり磨り減ってくる。

「美的感覚」は大切だけど、もともとは暇つぶしではじめたこと。だいたい、この短い文章のなかでも、区切りよく行をまたぐことができないでいる。「美的感覚」を求めるつもりが「病的感覚」にならないように掃除もほどほどにする。

書評「時のなかの肖像」「海峡の霧」を剪定。最終段落、「愛して止まない」をその後の「尊敬して止まない」に合わせて二字熟語の「感動して」に変更。「感動」はやや受動的、「尊敬」はやや能動的な響きをもつ言葉。方向性の微妙な違いをみても、こちらの方が座りがいい。

表紙写真を「雲海」に変更。


1/20/2004/TUE

一昨日の雑記の続き。

スタイルの変奏を多く持つ人は少なくない。それらが正反対であったり、無関係であったりするほど、それぞれ長続きし、また職業的な成功もしやすいようにみえる。

シリアスな演技もこなせるお笑い芸人。歌うのは悲しい歌ばかりなのに、曲の合間のステージ・トークやラジオでは、涙が出るほど笑わせるシンガーソング・ライター。深刻な長編小説と洒脱な随筆を異なる筆名で書き分ける作家。

現代メディアは、多芸を求める。小説しか書かない作家は、ほとんどいない。随筆も書けば、対談もする。ラジオやテレビにもでる。見た目もそれなりに大事。多芸をこなせなければメディアの生存競争では生き残れない。

一芸にすべてをかける人もまだいなくなってはいない。台詞はなめらかでもインタビューには訥々とする舞台俳優。数年に一枚しかアルバムを出さないミュージシャン、同じ図案の絵を描きつづける画家。

どちらの道も険しいに違いない。一つのスタイルを究めることだけでも苦しい道であるのに、そこに金銭や競争がからめば、もつれた糸のように何が何やらわからなくなって不思議はない。そういう苦境にもかかわらず、優れた作品を提供しつづける人がいる。そういう人はプロ中のプロとか、スーパー・スターと呼ばれる。

スターという言葉はとうに死語かもしれない。それでも成功に奢らず、競争を拒まず、喧騒に惑わされない強靭な人を人々が賞賛することは今も変わらない。スーパー・スターがいるから、凡人は恐れをなして、また安心してアマチュアでいられる。

書評「知識人とは何か」を剪定。知識人を特別な存在にみなしていた結語部分を書き換える。段落を整理するために読みなおしはじめたところ、批評「メビウスの輪としての言葉」、「知識人と大衆」の項目に書いたことと整合性がないことに気づき、修整した。

「無視される知識人」とは、最近読み終えた詩集『ルバイヤート』を書いたオマル・ハイヤームのこと。書評は後日

絵本短評のうち、2002年から2003年までを日付降順に並べ替える。目次では昇順、本文は降順。このような自在な読み方ができるのも、ウェブサイトの利点。

さくいん:スタイル


1/21/2004/WED

昨日の荒川洋治。名作のあらすじ本がブームになっている。各社から本が出ている。帯のコピーは、「今、名作を読むのがトレンディ」。

最近のあらすじ本の特徴は、物語を要約するだけでなく、文体をまねるなど、読んだ気にさせる構成になっている。

プルースト『失われた時を求めて』は、原稿用紙8,700枚にわたる大長編。「あらすじ」では400分の1になる。

大切な部分を切り落としているという見方もできる一方で、余計な部分をそぎ落としたともいえる。最初に書かれたときには、稿料を稼ぐために水増しされている場合も少なくないから。

荒川は、あらすじ本が好き。長編だけではなく、短編でもほしいくらい。郷土出版社『島崎藤村全短編集』の内容見本は、全ての短編を40字程度にまとめて読書意欲をかきたててくれる。かつて読んだ記憶を整理するのにも役立つ。

あらすじ本は単なる紹介ではない。あらすじ本自体が独立した読み物にもなる。一度読んだ名作は、忘れてしまうことも多い。あらすじ本は、思い出すために読む実用書でもある。

前回あらすじ本が話題になった時も、今回同様、森本毅郎は休みで中村久人が代行司会だった。

あらすじ本は名作を壊すと切って捨てずに積極的な面をみる点は前回と同じ。前回と違うところは、あらすじ本は読書への入り口だけではなく、それ自体で独立した本であるという見方まで踏み込んでいる点。

放送でも話題になったように、あらすじ本は、文学の世界だけではない。思想書では文学以上にあらすじ本が多い。学生時代に、思想史の講義で買わされた本もあれば、自分で買ったあらすじ本もある。

歴史に残る思想書をすべて読むことは、ほとんど不可能。読んでみたところで、その体系や歴史的意義などがすぐにわかるわけでもない。自分の知識を分析してみても、思想書そのものから得た知識よりもあらすじ本、いわゆる概説書から得た知識が実は根幹になっている。もとの言葉で書かれた原典から得た知識は意外と少ない。

若い頃には、「要約しただけじゃないか」と吐き捨てていたけれど、その要約が難しいことに、ようやく今になって気づいている。

書評「魂の労働」に接木。絵本「きょうは みんなで くまがりだ」からの借用を追加。絵本の一節を借りるのは、書評「『聴くこと』の力」に「たんたのたんけん」(中川李枝子文、山脇百合子絵、学研、1971)以来。この手の細工は、ねらうとわざとらしいけれど、何気なく思いついたときには、これほど楽しい遊びもない。


1/22/2004/THU

私の中の微風、岡村孝子、ファンハウス、1986


私の中の微風

図書館の棚を眺めていて、目に止まった。久しぶりに聴いてみると、このアルバムは一時期、繰り返し聴いていたことを思い出した。

どの曲の歌詞もよく覚えている。不思議なのは、ほかには何も思い出されないこと。曲や歌詞を覚えているほど聴きこんだ曲には、いつも一緒に思い出される風景がある。ときには人の名前や、匂いまで思い出すことがある。懐かしく温かい気持ちだけでなく、吐き気がするほど嫌な気持ちになることもある。あるいは、聴いた記憶がなくても、ある時代に特徴的な音楽を耳にしたとき、まるで昔よく聴いていたかのように、音楽が過去の記憶となじんで、あふれだすこともある。

それがどうしたことか、岡村の曲は、どれもいま聴いてもいい曲だとは思うけれども、どんなときに聴いていたのか、誰と一緒にいたのか、誰のことを考えながら聴いていたのか、何も思い出さない。

どういうことか。彼女の音楽に純粋継続を封じ込める力が足りなかったか、あるいは彼女の音楽からそうした力を引き出すほど、こちらの思い入れが深くはなかったのか。それとも、はじめに聴いていたときも、特別な気持ちは何もなくて、心地よい音楽として聴き流していたのか。あるいは、今はまだ思い出せない記憶が封じ込まれているのか。

しばらく、20年近く前に聴いた音楽を聴きなおしていた。こんなからっぽの気持ちははじめて

岡村孝子で一番好きだっのは、このアルバムでなかったかもしれない。ソロになってからのデビュー曲、「風は海から」はよく聴いた。それよりも、あみん時代、「待つわ」の次に出された「琥珀色の思い出」が好きだった。

この二曲を聴けば、もっと何かを思い出すかもしれない。


1/23/2004/FRI

夕べは今年初めての大阪。今日の昼食は、ときどき出かける店でお好み焼きと明石焼き

このごろ、書店や図書館で、英語に翻訳された日本語絵本をいくつかみかけるようになった。訳されているのは、何十年も増刷されている、絵本の古典と呼べるような作品。多くの日本語話者が親しんだ絵本には、何かしらの普遍的な価値があるに違いない。英語でしか字の読めない人にとっても楽しい読書になるだろう。

日本語絵本が英訳されることじたいは、歓迎すべきこと。けれども、いくつか目にした最近の翻訳絵本には二つの点で不満も残る。しかも、どちらも致命的な欠陥にみえる。

一つめは、訳者名が明記されていないこと。翻訳は、原本を土台にして、まったく別の工法で建てられる別の建築物。その設計者を明らかにすることは、その責任を明確にすることであり、その仕事を称えることでもある。

もう一つは、登場人物の名前を英語風に変えてしまっていること。人物名は、意味なくつけられているものではない。例えば、アトム、ウランという名前には、原子力に象徴される科学技術にたいする手塚治虫の愛憎両面の気持ちがこめられているに違いない。

仮に作者に明確な意図がなかったとしても、名前は作品のなかで特別な意味をもつ。いつの時代の、どこが舞台なのか、そこで主人公は多数派であるのか少数派なのか、主人公はどんな言葉の世界に暮らしているのか、ということまで、名前一つからわかる。

登場人物の名前を勝手に変えることは、作品の根幹に傷をつけるようなもの。翻訳は原作の上に建つものであり、土台を変更することは本来、許されない。実際、名前が変えられている絵本を読むと、文章が日本語から英語にかわっているだけでなく、絵本の醸し出す雰囲気までかわっていることに気づく。

うがった見方かもしれないが、最近の英訳絵本は、日本語話者の「英語勉強あそび」の道具になっているようにみえる。英語を一つの文化を支える柱として学びたいのなら、はじめから英語で書かれた絵本を読むべきだろう。やさしい英語で書かれた絵本にも、傑作は数え切れないくらいある。

もし、意志を表現する道具として英語を学ぼうというのなら、日本語や他の言語から訳された時に、元の文章にあった雰囲気ができるだけ残されているものを選んだほうがいい。簡単な目印は、人物名がそのままになっているかどうか。

生まれたときにつけられる自分の名前は、必ずしも自分で決められるわけではない。けれども、ふだんの暮らしの中で自分がどう呼ばれたいかを決めることはできる。批評「名前の呼び方、呼ばれ方」に書いたように、それは人権のもっとも基本的な一つであるとさえ思う。そういえば昔聴いたゴダイゴの歌に、こんな言葉があった。

名前 それは 燃える いのち ひとつの 地球に ひとりずつ ひとつ
(『ビューティフル・ネーム』)

作詞は、奈良橋陽子。どういうわけか何かの拍子で、この歌が政治思想史の演習で話題になったlことがあった。そのときは、この歌は政治的経済的な問題が抜け落ちたユートピア的な意味しかないというとらえ方を皆していた。名前があるなんて当たり前、それ以上のことが問題なのだ、と思っていた。

今になって考えてみれば、名前があるのは当たり前としても、名前がどう呼ばれるかといことは、けっして当たり前ではない。ずっと昔に見たテレビドラマ『ルーツ』のなかで、アフリカからアメリカまで奴隷として連れてこられた青年、クンタ・キンテは、トビーという名前を受け入れるまで鞭で打たれつづけた。身近なところでは創氏改名の例もある。

そもそも、人を知るといっても、目のまえにいる人物について、名前以上の何を知っているだろう

どこに住んでいるのか、どんな食べ物が好みか、どの学校を卒業したのか。そういう情報を持っていることは、名前を知っている以上にその人について知ることにどれほどつながっているだろう。

つまり、人を知るということは、その人の名前を知る、それだけを意味するのではないだろうか

書評「魂の労働」を再び剪定。絵本「きょうは みんなで くまがりだ」の出典を明記。最後の一文を変更。

さくいん:大阪ゴダイゴ


1/24/2004/SAT

Diana Krall LIVE IN PARIS, Diana Krall, Verve, 2002

Come Away with Me, Norah Jones, Blue Note, 2002
Remembering Patsy Cline, Various Artists, Nashville, MCA, 2003
the best of Anita Baker Anita Baker, Rhino, Atlantic, 2002
Love Scenes, Diana Krall, Impulse, Universal, 1997

ラスベガスで行われたデジタル家電・通信業界の展示会にでかけた。巨大な展示場では、あちらこちらで大型スクリーンでDVDの映像がデモンストレーションされている。DVDソフトは数え切れないほどあるにもかかわらず、多くのスクリーンで使われる人気作が毎年ある。数年前は、Eagles,“Hell freezes over”がその手の定番だった。

今年目についたのは、Diana Krall,“Live in Paris”。二年前に新聞で知って以来、自分でも好んで聴くようになったからというだけでもなさそう。むしろ私でも知っているくらいだから、ジャズに詳しくない人にまで知名度が広がっているといことだろう。

そのDVDをショッピング・モールの音楽店で探したけど、見つからなかった。かわりに同じライブを収めたCDを買った。

Norah Jonesの名前もPatzy Clineの名前もまったく知らなかった。Patzy ClienへのTribute albumには、Jonesのほか、KrallやNatalie Callも参加している。

Norah Jones,“Come Away with Me”は、2002年の大ヒットという。全然知らなかった。私の場合は、一曲め“Don’t know why”の前奏を聴くたび、2004年1月のラスベガスを思い出すだろう。

Anita Bakerは、J-Waveが開局した1980年代終わりごろによくラジオで聴いていた。“Love Scenes”は、今年はじめて出かけた図書館で見つけた先月入庫の新資料。

こうして女性ボーカルばかりまとめて聴いてみると、正直なところ、どれがどれだかわからなくなる。一つ一つのアルバムにこれといった感想もない。続けて聴くと、穏やかな休日になる。


1/25/2004/SUN

芸術新潮 2003年2月号 特集 ワビサビなんてぶっ飛ばせ! バロック王国ニッポン、ガイド:小野一郎、山口由美、長井和博編、新潮社、2003

バロックと小野と山口がいうのは、装飾過多、ケレン味たっぷり、俗悪、一言でいえば派手。日本文化にはワビ・サビのような簡素なものばかりでなく、派手なものもたくさんあるという視点で、日本にちらばるバロック文化を探す。

取り上げられているのは、目黒雅叙園、姫路城、円通院、西本願寺飛雲閣、東照宮陽明門、輪王寺大猷院、さざえ堂(会津若松)、富士屋ホテル、老舗ラブホテル、戦後の看板建築、大連に残る植民地時代の建築、霊柩車など。

小野と山口がまとめる、バロックニッポンの5カ条が面白い。

1 変であること、異端であること
2 異文化をパッチワークすること
3 大衆を喜ばせること
4 素人が魂こめて頑張っちゃうこと
5 新しモノ好きであること

バロックという呼び方では、まだ洗練されていて手ぬるい感じがする。日本の文化に隠された俗悪趣味は、現代では暴走族文化、あるいはヤンキー文化といえる。これはナンシー関が繰り返し使ったネタ。例えばX Japanが人気絶頂だった頃、元ヤンキーがショパンを弾くという売り出し方に、暴走族文化と教養主義の奇妙で絶妙な配合を観察していた。工藤静香が二科展に参加したときに使ったのも、同じ論法。

自動車批評の徳大寺有恒も、日本市場では、洗練されたデザインばかりでなく、ワル顔のクルマが一定の人気をもっていて、定期的に大ヒットになると、毎年出版される『間違いだらけのクルマ選び』で指摘している。

現代日本社会では、今ヤンキーであるというならともかく、元ヤンキーは必ずしも否定的な響きを持たない。民衆、大衆に属しているという風味を属性に加えることができる。タレントや自動車、コミックや音楽の世界をみてみると、ヤンキー文化は一つの体系、層をつくっていることは間違いない。

文化とは洗練されたものという見方は、教養主義者の思い込みであり、誤解だろう。また、民衆は簡素な生活を営み、機能美を好み、そこにそこはかとない清廉な文化があると考えるのも、民衆を過度に理想化した誤解というべきだろう。

実際には、文化はつねに洗練されたものと俗悪なものとの混合であり、同時に反発であり、そうした混沌と運動が文化を活性化させているに違いない。また、小野と山口が指摘するように、民衆ほどバロック好きなものもいない。

私自身をみてもそう。ヤンキーや暴走族とはほとんど無縁であったけれど、持ち物や服装、色の趣味では、ある時期強く影響を受けていたように感じる。がんじがらめの中学時代の反動から、高校時代には標準的な学生服とは微妙に寸法や形の異なる服を着ては悦に入っていた。そうした異形の学生服は、宣伝ではキャンパス・スーツ、巷では中ラン、ドカンと呼ばれていた。ワタリの巾、タックの数やポケットなどの細部が少しずつ違う上着やズボンは、どういうわけかどれもクルマの名前がつけられていた。

もっとも、中学では禁止されていても、高校に合格した日に買いに出かけて、そのまま中学校へも通いだした。内申書にもう用がなくなってからのささやかな反骨精神。実際、優等生の異変に気づいた教員はいなかった。それにしても、卒業式は、中ランのなかにボタン・ダウンのオックスフォード・シャツ、民族差別的な呼び名のついた薄っぺらい白いズック、それに銀縁眼鏡。こんな格好では、バロック以前にまるでチグハグ。

その後、高校の途中から、都内にある予備校へ通うようになった。しゃれた私服や、学生服にローファーを合わせた都内の高校生を見て、自分の格好がひどく田舎じみてみえたことを覚えている。

本書を眺めていたら、小学六年生の修学旅行で陽明門の特大ポスターを土産に帰り大笑いされたことも思い出した。バロック、ヤンキーといえるほど積極的に関わるのではないけれど、いつもその波打ち際に足先をつけている気がする。

短評“THE BICYCLE MAN”を植栽。


1/26/2004/MON

今回の米国出張も、行きはロサンジェルス空港、略称LAX、トム・ブラッドレー国際線ターミナルから入り、帰りはサンフランシスコ空港から帰国した。サンフランシスコ空港、略称SFOはすべての建物が一新されて気持ちがいい。LAXでは、国際線ターミナルは改築されたものの、国内線は古いままで、雑然としている。

新しいサンフランシスコ空港でうれしいのは、まず天井が高く室内が明るいこと、次にサンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)の土産屋、航空機関連の専門店があること、それからSFMOMAが監修するギャラリーと航空博物館(Aviation Museum)がターミナル内にあること。近くまで来ていながら毎回SFMOMAには行かれない。それでも空港内の特設展示を見るだけでも毎回小さな美術館に出かけた気になれる。

東京便は午前発。少し早めに空港に着けば、ギャラリーやショップを一周することができる。航空博物館は、残念ながら開館時間前。ガラス越しに展示の一部をのぞくと、カリフォルニア州ソラノ郡にあった民営空港、“The Nut Tree Restaurant and Airfield”のことが書かれている。

農場でできたものを供するレストランの客層を広げるために、農地の一部を飛行場にしてしまうという発想は、広大な土地と民主導の合衆国経済ならでは。空港=公共物=政府が管理=破綻しそうになったら民営化という発想は、貧弱で常識にとらわれすぎている。この空港はあとになって郡に移管された。つまり民から公となった。同名のレストランは現在も営業中らしい。

SFMOMAの移動展示は、アフリカン・アメリカン・キルト、Arthur Putnanのブロンズ、アール・デコの照明。キルト展の題名は“Ties That Bind: Three Generation of Quiltes”。アメリカのキルトはヨーロッパのアプリケとアジアの刺繍と、そしてもちろん、アフリカの衣装、生活用品、美的感覚を受け継ぎ、統合している。

African American Quiltes are singular―a fusion of two alternative textile traditions that produce a third aethetic tradition.

Singular, two, thirdと形式を変えながら数字を重ねていく文章表現が面白い。こういう表現はまねしたくなる。先日bk1に投稿した短評「よこすか開国ものがたり」(かこさとし、エツコ・ワールド、2003)の題名は「一つの港町、二世紀の歴史、三人の人間」にした。

さくいん:サンフランシスコシリコンバレー


1/27/2004/TUE

今朝の日経新聞、「経済教室――改革と対立を超えて 最終回」で、佐藤俊樹(東京大学助教授、社会学、階層論)が、次のように書いている。

だが、そもそも収入は自分の力でがんばった証なのか? 1959年に実施された第五回「社会階層と移動」全国調査によると、父親が専門職、管理職(自営をふくむ)だった男性の平均年収は624万円、全体の31%が750万円以上の年収を得ている。それに対して父親がブルーカラーの男性の平均年収は481万円、年収750万円以上は15%にとどまる。(中略)父親の地位が高かった男性は、自分も高い収入を得やすい。それが日本の現実なのである(原文漢数字)。

働くとはどういうことか。それを考えていると、報酬とは何かという疑問についても悩むことになる。佐藤の指摘から明快にいえるのは、報酬に合理性はないということ。今の報酬を得ているのは、自分の努力というより、前の世代が築いた資本のおかげ。

ブルーカラーから高収入で社会的に高い地位に昇りつめたとしても、それが努力の成果とはいいきれない。同じ商品を売る会社でも、儲かる会社もあれば、潰れる会社もある。個人の努力だけではどうにもならない部分の影響は小さくない。同じ会社で、同じ職種であっても、どこの国で働いているかによっても、現実には給料は著しく違う。

バブルがはじけて、これまで羽振りがよかった金利で金を稼ぐ産業が斜陽になると、金は金利で稼ぐものではない、働いて稼ぐもの、という考え方が、働く側でも、働かせる側でも正論として心地よく響くようになる。働いている側からすれば、報酬は働いた証と思いたい。報酬に合理性はないと言われると、自分の足場がぐらつく。耳が痛い。

報酬とは何か。労働から生じた剰余価値の分配か、労働者への生活費の支給か、拘束と苦痛に対する代償か。さらに問えば、労働の対価ではない生活保護とは何か。温情か、当然の権利か。私にはまだ説明がつかない。いずれにしろ報酬は経済状況や社会環境、運によっても左右される。納得はできても、合理的な説明はできない。

金は天下の回りもの。金は入ってくる、ある時、ある量で。自分で制御することはできないのだから、その多寡を人の能力や資質と結びつける必要はないし、できもしない。制御できるのは、せいぜい金の出方。金も出て行く、あるとき、ある量で。スタイルは、金の稼ぎ方より使い方によく表れるように思う。

ところで、佐藤は報酬の非合理性という抽象的な議論をしようとしているのではない。彼の論点は、より具体的に、日本社会では、「『庶民』、簡単にいえば大都市高学歴層以外の人たちの不信感」が構造改革を足踏みさせているという点にある。

この層は、改革の名の下に行われているさまざまな政策が、「勝ち組に新たな既得権益を生んでいるだけではないのか」と疑っている。森永卓郎なら、その疑いは的中していると断言するだろう。

そこで佐藤は、前世代の築いた資本から得られた利子、つまり既得権益にかさ上げされた業績、結果ではなく、機会の平等に基づいて、それぞれの(人だけではなく、自治体も)「がんばり」を測るモノサシを議論すべきだと提案している。

趣旨はわかるけれど、具体的な施策は、ちょっと思いつかない。とりあえずは、現在流布している既得権益にかさ上げされた業績主義、「この金は私が働いて稼いだもの」という考え方を、徹底的に骨抜きにする必要がある。勝ち組の足場を崩すこと。

勝ち組かどうかはともかく、大学に行かせてもらい、東京に住んでいる私は間違いなく大都市高学歴層に入る。つまり、今書いたことは、まず自分を否定することになる。そういうことがほんとうに必要なのか、必要だとしても、どこまでできるのか、具体的に何をすればいいのか、それがわかったとして、できるのか。実際に差し迫った問題となると、なるべく考えたくない。だんだん尻込みするようになる。問題はしばらく先送りにする

さくいん:日経新聞労働


1/28/2004/WED

昨日の荒川洋治、ラジオ・コラム。

出版元の社会思想社が倒産したため品切れになっていた現代教養文庫がオン・デマンド出版で復活することになった。そこで教養について。

教養を辞書で引くと、文化についての幅広い知識、専門以外の知識、とある。エキスパートとは意味が違う。

英語のcultureには耕す、独語のbildungには形成する、成長するという意味が語源にある。教養という考え方が発展した19世紀ドイツでは、ただ知識ではなく、知識をもった豊かな人間性、完全な人格という含意があった。いわゆる教養小説(ビルドゥング・ロマーン)は、そうした理想的な人間にたどりつく軌跡を描く。

そうした教養小説のひとつ、シュティフターの『晩夏』では、主人公は独学でさまざまな知識を得た後、自然を学ぶために山へ登る。雲行きから雨を予想するが、山の老人は否定する。結局雨は降らない。老人は空模様だけでなく、虫の様子など庭模様にも気を配ることを教える。

この挿話が暗示するのは、知識、知恵には限りがないこと、上にある空をみるばかりではなく、平地、地上を観察することが大切ということ。

荒川の考える教養。得た知識をあえてなかったことにする。気になることは自分で、少し手間をかけて調べる。ぼんやりする。

教養とは何か。「庭」に手を入れながらずっと考えている。荒川の示唆するところを私の言葉で言い換えれば、教養とは自己否定を内包する自己肯定、すなわち自己批評であること、理解と説明、知恵と知識、観照と研究、それらのどちらかというわけではなく、それらの往復、それらを両極とする運動であること、そして、ばかであることを自覚しながら、自覚的にばかになること、となる。

ところで、昨日の放送では久しぶりに荒川のさりげなく、鋭い批判を聞いた。英文学専門を名乗る人の中には、日本文学にまったく疎い人がいる。同じ文学なのだからある程度の知識は必要のはず。そういう人はたいてい、「専門ではありませんから」といって逃げる。専門以外を見下している本心がありあり。教養はエキスパートとは違う、という言葉が聞かれたのは、このすぐ後。


1/29/2004/THU

教養人の手帖、現代教養文庫編、社会思想研究会出版部、1961

荒川洋治のラジオ・コラムで社会思想社の現代教養文庫が話題になった。私が持っている教養文庫はこの一冊だけ。数年前に古書店のワゴン・セールで買った。「教養」とは何か。「庭」で文章を書きはじめるずっと前から気になっていた。本書の意図、内容は冒頭の「刊行のことば」に端的に表現されている。

 古今東西、あらゆる領分でふえていく厖大な知識の量を、わたくしたちは限りある能力で、どのように受けとめたらよいでしょう。本書はその要望に応え、現代教養文庫刊行十周年を記念して、その基準の一端として、日常、若人の生活に密着した知識を豊富に収録し、現代生活を展望し解明します。

小さな活字で二段組にして、500ページ以上にわたる本書が網羅する内容は驚くほど広い。以下、目次。

Ⅰ 余暇を楽しむ。旅、山、スポーツ、スキー、味、花と栽壇、日曜大工、小鳥・金魚・犬。
Ⅱ 豊かな生活設計。衣・食・住、手紙、エチケット、株と貯蓄、育児と病気。
Ⅲ 文学と芸術への誘い。文学、美術、音楽、映画・演劇、舞踊、茶と生花、写真。
Ⅳ 社会をみる眼。政治、法律、経済、科学、労働問題、科学、マスコミ、教育、文化。
Ⅴ 世界を動かす10の思想。キリスト教、仏教、実存主義、コンミュニズム、プラグマティズム、アナキズム、人民資本主義、民族主義、ネオ・ファシズム、社会民主主義。
Ⅵ 教養のメモ。昭和史年表、季節のこよみ、歌の花束、読書案内、世界の現勢。

目次だけでも幅の広さだけでなく、時代が色濃く映し出されていることに驚かされる。とはいえ、情報面ではいまでも役立つ内容が満載されている。カクテル・グラスの名前、化学繊維の種類、1961年までの全ノーベル賞受賞者と文化勲章授与者の一覧、文学、美術、音楽の名作リスト、米英独仏ソの教育制度の図解、有名学校校歌の歌詞。

現在このような内容の本を文庫本で製作することがきわめて困難であることは多言を要さないだろう。人々は、いまも生活を豊かにする知識のリストや体系を求めている。「教養としての」と名のついた本は今も多い。それらの本をリストにするだけでもかなりの量になるだろう。

教養とは、知識や情報ではない。荒川はそう話していた。私も今ではそう思う。しかし同時に、豊かな人間性、完全な人格に効率よくたどりつけるための手段として、知識や作品のリストが時代に共有されることもわからないことではない。とくに社会が発展途上にあるあいだは、経済的社会的な上昇志向と精神的な進歩志向が渾然一体となることが予想される。まして、敗戦という、マイナスから出発した時代には、社会は虚無感とともにそうした一体感を共有していたのではないだろうか。その昂揚感の片隅で、一体感からはみ出した人々が差別され、また孤立感を深めたことも想像に難くない。

社会が成熟し、爛熟すれば、一体感はほどけ、また教養のリストも共有されなくなる。「教養としての」と名の付いた本が数え切れないほど出版され、知識から教養へたどる道はむしろ遠回りになる。これは悪いことではない。形から教養へ進む道が近道でないことがわかれば、王道を進むしかないことがはっきりしてくる。荒川の言葉を借りれば、空模様を見上げるだけではなく、庭模様、平地の様子を自分で観察することが、明日の天気を知る簡単で効果的な方法になる。

もっとも二十一世紀初頭の現在は、爛熟はしているかもしれないとしても、成熟した、安定した時代とも言い切れない。経済的社会的には荒廃していると見ることさえできる。だからこそ放送でも言われたように、「教養という言葉はほとんど死語になっている」と前置きされながらも、たびたびゾンビのように持ち出されるのだろう。人々は、少なくとも私は、教養という語で表わされる何かを求めている。

理想とする何かについて、あらかじめ名前をつけておくのは悪いことではないと思う。理想なんて必要ないと無視したり、その名前は気に入らないと打ち捨てたりするよりも、奉られたり、蹴飛ばされたりしてきた昔からの名前をそのままにして、中身についてじっくり考えるほうが、何かとためになるような気がする。

2003年4月13日の雑記に追記。


1/30/2004/FRI

昨日の続き。

社会が爛熟すると、教養の目録は拡散して、体系としての教養は崩壊する。同時に、形式や経路ではなく、隠されていた教養の内実と本質がかえって明らかになる。豊かな暮らしへの道筋は人それぞれ。それは異なる分野で教養を深めよう、己を耕そうとする人々の間では気持ちは通わないことを意味するだろうか。教養を深めるためには、同じ街道を歩く人々とだけ言葉をかわすべきなのだろうか。

そうではないだろう。むしろ、違う道を、違う歩幅で歩く人と言葉が通じないようでは、教養に近づいているとはいえない。教養とは、本来、専門以外の知識から近づいていくものなのだから。

新聞や雑誌などで企画される対談で、まったく違う分野で活躍する人たちが、刺激的で感心させられる対話をしていることがある。いわゆる超一流どうしでは、互いに相手の分野のことは何も知らないのに、まるで昔からよく知っている友人どうしのように話がはずんでいる。

タコツボ文化という言葉がある。丸山眞男が日本の学問世界を批判した言葉。それぞれが自分のタコツボに閉じこもっているから、学問のあいだで交流がないことを批判する表現。この文章について、問題はタコツボになっていることではなく、個々人が自分のタコツボを持っていないことにあると、森有正は喝破した。個人の教養が確立されていないから、他人に依存する。学界、業界のなかに閉じこもることになる。丸山は後に、森の批判がもっとも的確だったと述懐している

何年も前に聴いた講演会で、丸山圭三郎は「知のマグマ」という言葉を使っていた。あることについて深く学んでいけば、あるとき、考えていることが他の分野にまで広がるようになるという示唆。そうならない内は、その分野のことさえわかったことにはならないと言っていた。

昨日の日刊ゲンダイ、『インターネットは民主主義の敵か』(キャス・サンスティーン、石川幸憲訳、毎日新聞、2004)への匿名書評でも、同じタコツボ議論がされていた。インターネットは自分の興味ある情報だけを追いかける“Daily Me”を生み出すだけで、社会への関心へを失わせる可能性があるという指摘。

もっともな意見にみえるけど、問題は、自分の関心事だけを追いかけるところにあるのではない。自分が深く関心を持った分野から他の分野へ問題意識が広がらないこと。これまでは、自分の生活や経験に密着しないニュースばかりが、大型メディアを通じて配布されていた。どちらでも確固とした自分のタコツボがないことは同じ。

教養主義の権化のように言われている人々は、実は教養を主義ではなくスタイルの問題と考えていることが少なくない。誰かが、意図してかどうかはわからないけれども、いつの間にか教養を形だけの教養主義にすりかえていることが多い。

書評「ルバイヤート」「書物の運命」を植栽。

さくいん:丸山眞男森有正丸山圭三郎日刊ゲンダイ


1/31/2004/SAT

The EARL KLUGH Trio volume one, Earl Klugh, Warner, 1991

The Best of Earl Klugh Earl Klugh, Warner, 1998

WEEKLY WORLD NEWS, January 20, 2004


The EARL KLUGH Trio volume one The Best of Earl Klugh

米国へ出かけたときに必ず買うもの。音楽店で見かけたアール・クルーのアルバムとタブロイド新聞。コンパクト・ディスクは東京の音楽店やネット販売でも買える。トンデモ記事はネット上のほうが多い。それでも出かけた先で見つけたものを買って帰る。どれだけ交通機関や情報網が発達しても、Souvenirという言葉はなくらないだろう。

“Weekly World News”の一面。

Saddam Wins U.S. Lottery: just weeks after his capture. It’s only $100 – but it’ll buy him a cigar and a bimbo!

この新聞で不思議なこと。

他国の首脳や、過去の合衆国大統領はかなりおちょくっているのに、現政権については風刺どころか記事がない。サブ・カルチャーは現行体制にたいする批判になるばかりではなく、ナンセンスの世界に安住すれば、現状を追認してしまう一面もあることがわかる。

狭い意味での政治から、ずっと遠いように見えるところにも、政治がある。

書評「文藝別冊 総特集 山口瞳」を剪定。山口の著作では『酒呑みの自己弁護』を最初に読んだことをすっかり忘れていた。酒を飲みながら『ルバイヤート』を読んでいて思い出した。

表紙写真を「澄み切った冬空」に変更。

さくいん:アール・クルー


碧岡烏兎