この二冊の面白さには共通点がある。それは、読み聞かせている大人と聞いている子どもとが、それぞれ違う目線で楽しむことができるという点。子どもは子どもの目で、親は大人の目でこの本の中へ入っていける。さらに、少しおおげさに言えば、『きょうはなんのひ?』は子どもがはじめて読むミステリーとも言えるかもしれない。
最後のページではさらになぞが残る。両親は結婚記念日をわすれていたのだろうか。それでは、まみこはどうして結婚記念日を知っていたのだろう。まみこを寝かせてから、この仲のよい夫婦はどんな話をするのか、最後の絵を見ながら想像するのも楽しい。
『おでかけのまえに』は、日頃つい些細なことでこどもを叱りがちな親としては、反省の薬になった。この親はよく知っている、子どもにとってピクニックは公園に着いてからではなく、朝起きたときから、いや、表紙に描かれているように前の晩からはじまっているということを。子どもと暮らす、それを楽しむことの原点を再確認した気がした。
しばらく前から気になっていることを書いておく。専業主婦、庭つき一戸建て、従順な一人っ子、ピアノ、子犬を飼う、などなど、本書の舞台設定は、都会的で希薄な生活感、ジェンダーへの理解欠如、現状維持的な雰囲気など典型的な福音館書店=松居直の世界。この絵本を読むには、こうした批判的な視点も必要かもしれない。
とはいえ、本書は『マドレーヌといぬ』を教えてくれた、私にとって思い出深い作品でもあることにかわりはない。
さくいん:瀬田貞二、林明子
『アンナの赤いオーバー』と『ペレのあたらしいふく』はまったく同じ主題の絵本。素朴な絵も似通っている。違うのは、『アンナ』は家族の財産を交換しながら服を手に入れるのに対して、ペレは自分の労働と交換にしている点。
『ペレ』のほうが教育的であるように見えるけれども、『アンナ』は戦争後の物語であることを考え合わせると、どちらがいいとは簡単に言うことはできない。また『アンナ』には『ペレ』にないあたたかい結末が用意されている。
二冊の本に共通しているのは、自然と動物への感謝。どちらも素材は羊毛なので、殺生はない。それでは、食肉を主題に同じ物語が描けるだろうか。
雪の絵本を2冊。『だるまちゃん』シリーズでは『だるまちゃんとてんぐちゃん』をすでに持っている。本書では最後のなぞときが面白い。子どもも、はじめから読み返しすことで答えを探すことができる。精読という読み方もこうして覚えるのかもしれない。物語のなかに、雪の遊び方、冬の屋内での遊び方などが織り込まれていて実験的でもある。先日書店で加古里子による新刊がでていて健在ぶりを知った。
『ゆきのひ』は、1963年のコールデコット賞受賞作。子どもの目線に立つという絵本の鉄則が守られている。気に入ったのは、風呂に入って一日の出来事を思い出すところ。雪が降った一日目はずっと一人で遊び、二日目は友達と遊ぶ。
経験は一人でかみしめるからこそ、他者と共有できる開かれた経験へ深めることができるという思想が、簡潔に描かれている。
切り絵のような挿絵は、『暮らしの手帖』や『銀河鉄道の夜』の劇で見た、藤城清治の影絵を思い出させる。
さくいん:かこさとし、コールデコット賞
加古里子最新刊。付録にある著者のことばのなかで「わが国での児童文化の品位が落ちたと言われる昨今、自らの育ちも省みず……」と謙遜しながら書かれていたことが印象に残る。良質な絵本を多数世に送り出してきた作家は、送り手側として相当な危機感を持っているようにみえる。
さくいん:かこさとし
紙芝居を二作。『くれよんのはなし』は最初に紙芝居を聴き、次に絵本で読んで、もう一度紙芝居を借りた。原作を忠実に訳した絵本より、絵本を原案とした紙芝居のほうが面白く感じる。それは、物語が書物を飛び越えて聞き手の側へ広がってくるからだろう。紙芝居は絵本と違い、作品をはさんで読み手と聞き手が積極的に交流する、あるいは物語に入り込むことで面白さが増す。
そのいい例が『ごきげんのわるいコックさん』。これはじっと読んでも面白くない。コックさんを探したり、読んだりすることで、子どもは紙芝居に参加する。文字通り、子どもが主役となって芝居が進む。上手な読み聞かせを聞くと、子どもたちの興奮も高まる。
紙芝居や絵本でも、保育園、幼稚園、図書館などで読んでもらう場合には、こうした集団的な読み聞かせが楽しい。絵本や紙芝居は、「読む」だけで楽しむものでもない。一人だけで呼んだり聞いたりするものではない。もっと身体的で相互関与的、さらには共同作業的な性格があるような気がする。
大人にとって、本は基本的に一人で読むもの。ラジオや映画(DVDを含む)も一人で楽しむほうがいい。身近なところで紙芝居に近いのはテレビ。テレビは集団で見て騒ぐのに調度いい。これはテレビだけがもつ特性のように思う。テレビ、すなわち動く紙芝居ではないだろうか。
ほら話というのは、スケールが大きいほど面白い。登場人物たちが自分の特技を活かすという点は『空飛ぶ船と世界一のばか』(Arthur Ransome文、Uri Shulevitz絵、神宮輝夫訳、岩波書店、1986)に似ている。どちらも馬鹿馬鹿しさが愉快。
違いは、あちらはお姫様と結婚、こちらは落語ならではのオチ。そこへ話がもどるのかという驚きに可笑しさがある。加えて上方ことば、日本語の民話ならではの面白さがある。
『ちからたろう』(今江祥智、絵は本作の兄、田島征三、ポプラ社、1968)にしろ『かにむかし』(木下順二文、清水崑絵、岩波書店、1959)にしろ、慣れ親しんだ昔話を見ると、言葉の不安定さが民話のもつ魅力ではないかと思えてならない。だらだらと句読点なく続く文や、同じ言葉が一つの文のなかで繰り返される冗長性、かと思えば、一つの擬音だけで落下した動作、表情、気持まで伝える表現力。
落語をもとにした本作は、演者の身振りや表情を求める。この絵本を読み聞かせていると、ついつい芝居がかってしまう。
囲炉裏端でおばあちゃんから昔話を聞くなんて体験は、私にはない。思えば、民話はもっとも身近な芝居だったのかもしれない。読み聞かせとは、決定的に違う性質があるような気がする。演劇性は、現代の家庭に欠けている要素の一つと聞いたことがある。相撲ごっこで父親が倒されることが、子どもには大きな意味があるらしい。
ガブリエル・バンサンの絵は、『シュナの旅』(徳間書店、1983)や、マンガ『風の谷のナウシカ』で見た宮崎駿の素描に似ている。劇場版のアニメとは異なり、手書きの絵はどことなくものがなしい。『わたしのきもちをきいて』は、物語まで悲しくて、やりきれない気持ちになる。
絵本が広げる世界は楽しいものばかりではない。そして、子どもの世界もまた、楽しく美しい物ばかりではない。
さくいん:宮崎駿
絵本は総合芸術。文、絵だけでなく、編集、装丁、紙、印刷、流通、販売、紹介まで、絵本を好きな人が関わってできあがる。多くの人が関わっているということは、それだけプロデューサーとしての編集者の役割が大きいということでもある。
いずれの記事も面白い。とくにおもしろかったのは、絵本作家へのインタビュー。どの作家、画家も芸術家肌というか、子どものような一面を残しているのが印象的。
紹介されている本にはまったく知らないものも少なくなかった。これから少しずつ探すのが楽しみ。
ロシア、ウクライナ、カザフなどロシア周辺の地域から採集されたなぞなぞ。短い詩のようで言葉もやさしければ、答えも身のまわりのものばかり。でも自分で似たようななぞなぞをつくろうとすると、ちっともできない。
荒れ野に立つ、一本の木。その風景に惹かれるのはなぜだろう。この絵本を読んで、はじめに思い浮かんだのは、クールベの大きな絵、「フラジェの樫の木」(村内美術館)。葉祥明にも同じ主題の絵がたくさんあった。もちろん、「この木何の木」も思い出さないわけにはいかない。
解説書によると、クールベの絵はローマ軍に対抗した民衆の英雄ヴェルサンジェトリクスの名を頂いた巨木によって、「政治的、文化的な圧制に対する民衆の反抗心」を描こうとしたらしい(『クールベ展 狩人としての画家 図録』、井出洋一郎監修、毎日放送、2002)。
けっしてかなしみばかりではない、力強さや優しさも、一人立つ木が湧き起こす感情。一人立つ木は多義的。それだけに本書のように著者の思いが一途であるほど、受け手の世界は広がる。
タイガー立石は、『ユリイカ 詩と批評 2002年2月臨時増刊号 総特集 絵本の世界』所収の高山宏「こうしてくるんとひとまわり——絵本表象論・覚え」で初めて知った。かつてこのような原色系、平面的、ヘタウマ調のポップな絵は絵本の世界では好まれていなかった。今ではそういう偏見もない。実際、子どもは一目で気に入った。
もちろん気に入ったのは文の力もある。「ままです すきです すてきです」は、しりとりあそび。動物ばかりを集めたり、題名のように文章にしたり、あえて意味のない言葉をならべて、不可思議な挿絵を楽しんだり。ずっと前に読んだ丸山圭三郎の本に出ていたソシュールの連合関係・連辞関係ということを思い出した。
連合とは、言語全体のなかで語がとりもつ関係性、意味上の類似性や形式上の類似性、連辞とは、コンテクストで初めて決定される語の意味、文のなかでの言葉の役割。これを積み上げたり、こわしたりすることで面白いことばの世界が生まれる。
詩人は、こんな学説を知りもしないで(あるいは知らないふりをして)、イメージ豊かな言葉のかたまりを繰り出していくから恐ろしい。そんなゆらゆらした言葉にイメージ豊かな絵を添える画家も、また恐ろしい。
『さかさまさかさ』と『はてしない世界の入口』は、科学と数学の入門絵本。言葉遊びと論理学と数学、そのいずれにもぴったりする絵。タイガー立石の魅力を言葉にするのは難しいけれど、彼が絵をつけた絵本をならべると、何となく見えてくる。
アナログのなかのデジタル、デジタルのなかのアナログ。そのままずばり、『タイガー立石のデジタル世界』、『アナログ? デジタル? ピンポーン!』と題された著書もあるらしい。すでに亡くなられているそうで、新しい作品が見られないのは非常に残念。
さくいん:谷川俊太郎、タイガー立石
『あめのひ』は、街から山や海まで話が広がっていくけれど、実はすべて想像の中の話。雨で外へ出られないからこそ、想像力は山も海も越えて行けてしまう。
『かさ』には文がない。文がない不自由さがかえって、子どもが傘をもって父親を迎えに行く気持を想像させる。
ふと谷山浩子の「今日は雨降り」(『ヒロコ・タニヤマ セブンティーズ』、ポニーキャニオン、1999)を思い出した。この歌も、部屋の中でひとり雨を眺めながら恋人がどうしているか、案じる内容だった。
雨は人を内省的にして、想像力を高める。それはきわめて陳腐な連想かもしれない。それだからこそ、優れた表現によって普遍的な思想になる。
さくいん:ユリ・シュルヴィッツ
原題は、“A hole is to dig”。不定詞toが、ここでは形容詞的用法として訳されている。そこで原文にはない「もの」という語が形容される名詞として追加されている。「もの」や「とこ」など、名詞を追加しないと形容詞的用法はうまく訳せない。原文では使い分けられていないのに、「もの」や「とこ」が場面ごとに違って使われてしまうため、少しニュアンスが変わってしまう。「もの」や「とこ」を使わないで訳すことはできないか。
思いついたのは、古語の助動詞「べし」。推量、可能、当然、命令、適当、予定を表す「べし」を使うと不定詞toはうまく訳せる気がする。
「べし」を使うと、現代風ではないけれども、「もの」や「とこ」を使い分ける必要がなく、小気味よい短文の雰囲気が出せる。「あなはほるべし、手はつなぐべし」。悪くはないが何だか丹下段平からの手紙みたい。
「おやゆびはひょこひょこうごかすべし」「園長先生はとげをぬくべし」。書名は、『穴はほるべし 落っこちるべし』。この調子で読むと、なんだか可笑しい。
「べし」の多様な意味は、推量、可能、当然、命令、適当、予定それぞれの頭文字を並べて、「スイカトメテヨ(西瓜止めてよ)」と覚えればいいと、もう何年も前に代々木ゼミナール古文講師、土屋博映先生に教わった。
さくいん:モーリス・センダック、土屋博映
昔話の体裁ではあるけれど、このナンセンスは古来のものにはないような気がする。あるいは、意表をつく展開に意表をつく結末という二回ひねりが、現代的な面白さを感じさせるのかもしれない。実は書かれていることは、「子沢山はそれだけで幸福」という昔ながらの、それでいて今やめずらしい考え。
実際、読み聞かせをすると、たいていの大人は「どうしてこんなにおおぜいのこどもをやしなっていけるの」という母親の台詞にウケルらしい。ぎこちないフォームからいきなり直球を投げられた。こちらは大振りするしかない。尻もちつくほど大笑いした。
図書館の新刊棚にあった出版されたばかりの絵本。1995年「野間国際絵本原画コンクール」奨励賞。絵が美しい。1ページずつ、文字と絵が区切られていて、文字は細密画を思わせるモノグラムによって囲まれている。巻物や寺院の壁画を見ているような気にさせる。活字も形、色とも一工夫されていて、物語の雰囲気に似あう。
王様、若者、泥棒、鬼と民話に定番の登場人物を配しながら、物語はありきたりではない。鬼がマザコンで知恵者、俗世からはなれた隠遁者の一面も見せていて面白い。黒海沿岸では互いに反対の岸に住む人を鬼だと思っていたのかもしれない、と巻末で訳者は解説している。恐怖だけではなく、羨望や憧れの対象であったのかもしれない。
もう一つ面白いのは、結末で幸福になる若者に対して、欲深な王様を待っているのは死ではなく、惨めな一生というところ。物語が終わっても、ずっと王様はあのままでいるのかと思うと、絵本を閉じたあと不思議な余韻が残る。「うみのみずはなぜからい」(『おそばのくきはなぜあかい』、石井桃子文、初山滋絵、岩波書店、1954)と同じ。
さくいん:斎藤裕子
私の持論。よい絵本は、大人は大人の目線で、子どもは子どもの目線でそれぞれに楽しめる。こういう絵本は意外と少ない。多くの絵本は、大人には子ども時代を懐かしく思い出させる。それは悪いことではないが、大人はそこにしばしば甘い思い出ばかりを見てしまう。そして、その今の大人に都合のいい思い出を通じて、今の子どもを見ると、子どもの現実が見えなくなってしまう。
大人が期待するほど、子どもは面白がらない絵本も少なくない。
センダックは子どもの現実を描く。すると不思議なことに、大人にも、大人の目で見て面白い作品になる。作家が自分のなかの子どもを、大人の目で冷静に見ているからに違いない。
ババール・シリーズはわざとらしい皮肉や残酷ではなく、世界をありのままに表現しているという解釈も、そのような絵本観に基づくのだろう。ブリュノフに対する見方をすこし改めた。
センダックはスピーチがうまい。出だしと締めの言葉に気が利いている。インタビューでの発言も理知的。それにしても「絵本は私の戦場です」と言い切るこの人の自信と、絵本という芸術にかける意気込みは、なみなみならぬものがある。
さくいん:モーリス・センダック
セイの描く「日本」の風景には、いわゆる異国情緒が映し出されている。外から見た「日本」に感じる人も多いに違いない。しかし、セイは「日本人」の親から生まれ「日本」に住んでいた。だから、これもまた「日本人」のみた「日本」の一つといえる。いや、どこで誰から生まれた人であろうと、ここに描かれているのも間違いなく一つの「日本」の受けとめ方。
「日本文化の真髄は、日本人にしかわからない」などということがある。森巣博は、『ナショナリズムの克服』で、そんなものは誰にもわからない空虚に過ぎないと喝破している。日本人であろうとなかろうと、誰かがこれが「日本」と思えばそれが「日本」。
これこそ「日本的」というふうに名づけをしたがる人がいる。また、誰もがそうしたステレオ・タイプを抱いている。そうした先入観に寄りかかった作品も少なくはない。もちろん記号は悪い面ばかりではないにしても、それを打破する作品、「一見、日本にみえない日本」を描く作品が、文化の多様性、奥深さを教えてくれる。
『おじいさんの旅』は、そうした多様性を築いてきた先人の足跡をたどる。ステレオ・タイプを打破する人が、文化と歴史をつくっていく。静かな肖像画が、かえって彼らのたどった厳しい道のりを物語る。
新聞で知った『よあけ』(Dawn)が気に入って、『空飛ぶ船と世界一のばか』(The fool of the world and the flying ship)『ゆき』(Snow)『あめのひ』(Rain Rain Rivers)と、続けてシュルヴィッツを読んできた。この作品は、モチーフでは『空飛ぶ船』に近く、全体では『よあけ』と『あめのひ』の物静かな雰囲気に近い。
ロシアか、スラブ地方の民話を題材にしているものと思われる。主人公はばかがつくほどに正直な人間。正直といっても、弱い者にやさしいとか不正をしないという意味ではない。小石を積んで山まで築いてしまいそうな実直さ。
Now and then, some gave him a ride, but most of the way he walked.
Sometimes one must travel far to discover what is near.
虚飾のない文章が、老人の質実な性格に似合う。トルストイの民話集『人はなんで生きるか』(中村白葉訳、岩波文庫、1932)にも、同じように一途なまでに誠実な人が登場する。どちらも含蓄ある寓話。
ところで、老人が見つけた宝が文字通りの財宝で、あたかも貧しさから脱することが幸福であるかのように結ばれているのは通俗的すぎるという見方もあるかもしれない。私はこの意見には同意しない。
食うにも困るほど貧しい老人が手に入れる宝が、友情や神の祝福だけではあまりに気の毒ではないか。お金より大切なものがあると思えるのは少しでもお金があるから。貧しいけれども幸せ、ということはありえない。生きていけるほどに貧しくないから、そう言える。
貧しい者が正しく生きて現世的な利益を得ることは、けっして間違ってはいない。裕福になったから悪徳に落ちるという考えも偏見にすぎない。現に老人は、宝を遊興に散財したのではない。大判小判がざっくざくで終わっていないところにも、本書の深い意味があるように思われる。
さくいん:ユリ・シュルヴィッツ
『よあけ』は、漢詩を題材にして、舞台は山奥の湖、『空飛ぶ船と世界一のばか』と“The treasure”は東欧。本作の舞台は、ニューヨーク。シュルヴィッツは、舞台、素材、画風まで作品によってがらりとかえる。
子どもの内面を主題にしているので、『あめのひ』の系統に属する。内面で自由にはぐくむ空想とどうすることもできない現実のあいだに立つ子どもの心理が描かれている。文章は淡々と、絵はやや物憂げであるところが不思議な対照をみせている。
感心したのは訳者あとがき。作品の本質はどこにあるのか、そこはどこを見て、たどっていけばわかるのか、そういうことが種明かしではなく、道案内としてさりげなく書かれている。
ちょうど立ち読みした鹿島茂『解説屋稼業』(晶文社、2001)に「解説は読書の伴走者」と書かれていた。あとがきだけでない。訳者は、はじめからおわりまで、絵と原文の本質を読者に伝えるべく、読者の隣を走っている。
合衆国図書館協会が毎年優れた絵をもつ絵本に贈るコールデコット賞。選考対象は合衆国民と合衆国居住者に限られている。この受賞リストをみたとき、日本語的な名前に目が止まった。いわゆる日系人なのか、移住者なのか、そのときはわからなかった。その後、偶然手にした『瀬田貞二子どもの本評論集』(福音館書店、1986)で、反戦運動から投獄、子どもを置いて夫婦で合衆国へ亡命した経緯などを知った。
『森有正エッセー集Ⅰ』の解説で、二宮正之は、日本文学には亡命文学がきわめて少ないと述べ、森作品を稀有な一例としている。また、二宮は『小林秀雄のこと』のなかでも、とりわけ第二次大戦期には、反戦、反体制の意見をもっていても沈黙することさえできず、まして亡命の途はほとんどなかったと書いている。そうしたことを考えると、八島太郎は非常に稀な境遇であったと言える。いずれ八島の伝記も読んでみたい。まずは絵本を順繰りに借りてきた。
『あまがさ』は、私好みの世界文化混淆(アレクサンドリア)的な作品。ニューヨークで生まれた八島の子、桃子が買ってもらったかさを初めて一人でさして歩くまでの物語。漢字を挿絵に交えることで、英語圏に暮らす日本語話者という多文化性を感じさせる。
『からすたろう』も、深みのある作品。題名の由来がわかるとき、いわゆる「現代人の忘れている自然」を強く感じさせる。その「現代人の忘れている自然」という主題が、『道草いっぱい』と『村の樹』ではさらに追求されている。正直なところ、この二作品はわからなかった。何の感動ももてなかった。
このような自然を私は知らない。私が育った場所も自然がまったくなかったわけではないけれど、それは開発によって切り落とされた自然の断面だった。私はせいぜいその断面をなでるだけ、文字通り自然に触れるだけで、この作品のように自然のただなかに遊んでいたわけではなかった。
だから『道草いっぱい』と『村の樹』には、懐かしいともうらやましいとも思わなかった。それくらい、この世界は私が生まれ育ち、いま暮らしている世界とはかけ離れている。『からすたろう』も「忘れられた自然」を題材にしているけれども、人間を介在させているために理解がしやすい。
ニューヨークには一度しか行ったことがなくても、都会の暮らしのほうが、私にはよくわかる。
さくいん:コールデコット賞
NHK教育テレビ『にほんごであそぼ』を見ているうち、子どもは「じゅげむ」をすっかり覚えてしまった。といっても番組は、街角でいろいろな人が長い名前をそらんじてみせるだけ。長い名前にどんな意味があるのかも、もとは落語であったことすら説明がない。それでも覚えてしまうのは、音やリズム自体に面白さがあるからにちがいない。それはそうとして、名前を覚えたのなら元の話を知るのも悪くない、いや、いい機会だから話も知ったほうがいい。そう思っていたところ、手ごろな絵本を見つけた。
骨組みは落語の原作に沿いながら、読み聞かせやすいように繰り返しを減らしたり、原作にはない女の子を絵の中で登場させたり、現代の絵本として読ませるために細かく工夫されている。もちろん落語ならではの、語り口の面白さはそのまま。そこが読み聞かせでは難しい。「〜して、〜で、〜して」といつまでも文が終わらないところは、調子よく進む。そうかと思えば「あら、寝てる」の場面などは、落語ならば、仕草と間で笑いをとるところなので、単調に読み進んでいては可笑しさがでない。読み手にも一工夫いる。
決まり文句を覚えて、筋書きを知って、次は、ほんとの落語を見せたら面白がるかもしれない。
西村繁男の絵には物語がある。時間がある。同じように仔細にまでこだわる絵でも、図鑑的な加古里子とは対照的。
『はらっぱ』の構成は絵本の古典『ちいさいおうち』(“The Little House,”1942), Virginia Lee Burton)によく似ている。定点観測を通じて、一軒家が建つ田舎が都会に変わっていく『ちいさいおうち』は、「まごのまごのまごの、そのまたまご」にまで渡る長い歴史。
『はらっぱ』はより微視的。わずか数十年、せいぜい子から孫が生まれたくらいの短い時間。場所ははじめから街。街のまんなかにあるはらっぱに焦点をあてて、同じ街が少しずつ変化していく様子を人物、建物から看板までにぎやかに描く。
この絵本の素晴らしいところは、ただ懐かしいだけで終わらせていないこと。はらっぱの歴史をたどったあとで、今、これからはらっぱはどうあるべきか、思い切りよく主張している。その点では、田舎へ逃げただけで、いずれまた都会化を繰り返すかもしれない『ちいさいおうち』より、はるかに建設的かもしれない。
「ほんとうは怖い童話」という名のついた本がベストセラーになったことがある。確かに原作に忠実な三作はいずれも衝撃的な展開。とはいえ、可愛らしい絵を見ながら読み進むと、子どもにとってはやはり童話。
なかでも面白かったのは、『ろばの皮』。
子どもは無邪気に親と結婚したいという。素直な愛情表現。同じことを親が言い出したら大変なことになる。まして妃を失った王が言い出したとなれば、国中大騒ぎになる。お伽話らしい紆余曲折をへて、大団円に終わる。悲しみから壊れた王も結末では理性を取り戻し、男親としてはほっとする。
子どもが結婚というとき、それは結婚を意味しているのではない。二人の人間が並んで写真に納まることを結婚だと思っている。だから結婚とは、仲良しのことに過ぎない。
子どもは戦いがしたいという。でもそれはほんとうに戦うことを意味しない。じゃれあうことを「戦う」といっているに過ぎない。彼らにすれば、ウルトラマンと怪獣は遊んでいるように見えるのかもしれない。
子どもの言葉は大人の言葉とは違う。語彙が少ないから、簡単な言葉で広い意味を表そうとする。それが親をどきりとさせることがある。結婚にしても、戦いにしても、親が思うほど、子どもは狭い意味で使っているのではないようにみえる。
子どもにとっては心温まる童話も、大人にとってはどきりとするサスペンス。面白い、と思う絵本は、いつも多面的で重層的。「読んでもらいたい」と「読み聞かせたい」が交差するところにある。
サンノゼの書店で立ち読み。
子どもはよくペットをつくる。タオルや人形、ときには自分の身体の一部を、始終愛撫している。そうしたものがなければないで、すんなり成長してしまうのかもしれない。一度見つけてしまうと、取り上げるのも厄介だし、何時も手放さないようでも困る。ところで、ペットという用語は、松田道雄『育児の百科』から。
この絵本は『ジェインのもうふ』(“Jane's Blanket,” Arthur Miller文, Al Parker絵、厨川圭子訳、偕成社、1971)と比較してみると面白い。ミラーとパーカーは、ペットを通じて、子どもがどのように自我を見出し、また自分の外にあるモノを見出していくか、すなわち自我とモノとを切り分けていく過程をあたたかい眼差しで丁寧に描く。
セイは、思い切って、ペット(この絵本では、ラグ、小さなじゅうたん)を子どもの想像力=創造力の源泉にしている。これは発見。
創造は、自分の外にあるものを模倣することにはじまる。そして、外側にある何かを自分の内側に見つけ出したとき、ほんとうの創造がはじまる。
さくいん:アレン・セイ。
久しぶりに図書館へ出かけた。新聞の書評などで下調べした本はどれも貸し出し中。こういうときは、また新しい出会いのときでもある。なるべく何も考えずに書棚のまわりを歩く。背表紙、題名、題字、表紙絵。そうしたもので眼にとまるものを探す。
『やまとゆきはら』は、日本からはじめて南極大陸へ探検に行った白瀬探検隊の一部始終を絵本におさめようという意欲的な作品。白瀬は寒冷地に慣れるために、けっして温かい湯茶を飲むことがなかったという逸話は聞いたことがある。探検のために借りた金を一生かけて返したという話は知らなかった。亡くなったのは昭和21年。江戸、明治、大正、昭和にわたる人生というと、まず時代背景を思い浮かべるだけでも難しい。
さらに、冒険への野心、アムンゼン、スコットとの競争、撤退の決意、無一文の晩年、アイヌ人との交流、政府からはほとんど援助がなかったにもかかわらず南極の氷原に国旗を立てた気持ち、など、絵本に散りばめられた逸話は、いずれも簡単に理解できるものではない。ところが作品は穏やかな版画で、そうした逸話を淡々と語っていく。読み終えて、もっと調べたいこと、もっと考えたいことがたくさん残る。
巻末にあるあとがきは、言ってみればメイキングオブ絵本。構成、文章、絵の細部にまで、淡々とした絵本には、たくさんの配慮と決断があることがわかる。
さくいん:関屋敏隆
昨日の『やまとゆきはら』と同様、画家が一人で書いた絵本。いずれも絵だけでなく、言葉の表現も気が利いている。同じ時間に、地球上のさまざまな場所で、人々が異なる時間を過ごしているというモチーフは、小学校の国語の教科書で読んだ谷川俊太郎の詩「朝のリレー」から、城達也が案内していたFMラジオの深夜番組「ジェットストリーム」のオープニング、インスタント・コーヒーの宣伝でも見たことがあるから、けっして新しい発想ではない。
この作品では各地を別々に写し取るのではなく、緯度に沿い飛ぶ鳥に託して、東西の交流を描いている点が新しい。その交流は必ずしも平和的ではないことまで、さりげなく織り込まれている。
きっと 大きな鳥は しっているのだ。
にんげんが、じめんに線をひき、 その線をなんども ひきなおすことを。
世界のあり方を、広告のようにばら色でもなく、ルポルタージュのように灰色でもなく、太陽の光があたるそのままに描こうとしている。それは作品としては、ほとんど成功している。あとは受け止める方が、そんな実感をもって世界を見直すことができるかどうか、にかかっている。
さくいん:小林豊
まえがきに、裁判所を扱った絵画は多くないと書かれている。裁判の映画は多い。
このところ裁判づいている。といっても、現実の裁判ではない。『ルオー展』で「裁判官たち」を見た。先週は、何年も前のテレビドラマ『続・続・事件』の再放送を見た。裁判官役は中村伸郎だった。中村伸郎演ずる裁判官は、冷静で厳格。これが一般的な裁判官像だろう。もっとも中村は元々は喜劇俳優であり、彼が厳格な裁判官を演じるところに、配役の妙がある。ルオーの裁判官は、人間を裁く人間の傲慢さが滲み出ていて、顔を歪ませている。
バンサンの描く裁判所では、弁護士、検察官、裁判官、どの顔を見ても、苦悩が満ち溢れている。人間が人間を告発し、弁護し、裁く。そのいずれの場面にも苦悩がある。もちろん、もっとも苦悩した表情を見せるのは被告人。苦悩の底には、何とか生き残りたい、命だけは救われたいという最低限の、きわめて現実的な要望がある。
人間の思惑は、単純ではない。人間の心理は複雑で、それでいて、いつも全体的。悲しみとともに安堵があったり、怒りの裏側に気楽さがあったりする。ところが、人間の複雑で全体的な感情は、身体の一部分に局所的に現れる。
バンサンの素描は多く眼をとらえる。たいていの場合、眼が表情を作ってしまうから。眼ばかりではない。髪の乱れ、肩の線や傾き、すぼめた口先、そうした小さな部分が、恐ろしいことに感情の全体を語る。バンサンは、表情をつくる部分だけを描く。目だけ、髪だけ、身体の線だけ。身体の全体は見えないが、感情の全体が見えてくる。
ブリュッセルの裁判所は巨大。300以上の部屋をもつという。威圧的な建物の中で、人間は、告発し、弁護し、裁き、そして裁かれる。ときに被告は、自分には理解できない言葉で裁かれることもある。これもまえがきで触れられているように、フラマン語を話すベルギー人もフランス語で裁かれる。
バンサンは絵を見て《聴け》という。被告は、自分のわからない言葉を聞いているのかもしれない。その苦悩が、表情になっているのかもしれない。
『やまとゆきはら』の作者による作品を続けて読む。
魅力ある人間がそうであるように、面白い絵本にはいくつもの顔がある。本書でいえば、紀行文であり、冒険物語であり、生き物図鑑、植物図鑑であり、歴史書でもあり、旅行ガイドでも、版画集でもある。
多くの面をもっていて、しかもそれぞれの面がよくできている絵本。それが実現できるのは、作品に一本筋が通っているから。けっして厳格でまっすくな一本道というわけではない。子どもたちとともに歩き、驚き、疲れ、喜んだ経験が、多彩な構図の版画を貫いている。
絵本のなかには、「トシさん」という名前で作者がところどころで描かれている。本書を貫いているのは、感動した自分までも静かに絵のなかに描きこんでしまう、自分を見るもう一人の自分。
トシさんの絵は、かわいらしい。トシさんの描くも絵も、描かれたトシさんも。
さくいん:関屋敏隆
『えほん北緯36度線』が気に入って、同じ作者の新作を借りてきた。
子どもは経験が少ないので、置かれた状況を苦しいと感じるまえに、そこに楽しみを見出して順応しようとする。戦火を逃れて疎開することすら、この兄弟にとってはちょっとした冒険。苦しいのは圧政のせいじゃない、おなかがすいているだけ。こわいのは戦争のせいじゃない、夜が暗いだけ。
しかし、戦火は着実に近づいている。兄弟が祖父母の家にたどり着いたとき、両親が住む町はすでに燃えているかもしれない。このまま、慣れ親しんだ家には帰れないかもしれない。
そういう過酷な「その後」はこの絵本に描かれていない。この兄弟はなぜ旅をしているのか、この物語のあとに、どんなことが起こるかもしれないのか、そうしたことは誰かが話してやらなければいけない。
話したところですぐにはわかるまい。それでも、小さなときにこの絵本を知れば、何度も繰り返し読んでもらい、また自分で読むうちに、想像できるようになるのではないか、この物語の前と後にどんなに苦しい、悲しい物語があるかを。
本書は対比をこらして明るい挿話で苦しみを、朗らかな表情で哀しみを映す。戦車も爆撃機もでてこない、「楽しげな」戦争の物語は、想像力のなかに平和の種を蒔く。
さくいん:小林豊
ヴァージニア・リー・バートン『ちいさいおうち』では何百年、『せいめいのれきし』では何万年、何十万年という長い時間が流れる。西村繁『はらっぱ』では何十年が流れる。
小林豊の絵本には、ゆったりした時間が流れる。一日たらずの短い時間のなかに、ゆったりと密度の高い時間が流れる。『ぼくの村』では山のうえの村から下りてくるだけで季節が変わる。そんな風に短い時間のなかに流れる濃密な時間をとらえている。
『ぼくの村』は、『ぼくは弟とあるいた』より前に書かれた作品。同じ主題がより衝撃的な結末で締めくくられている。衝撃は充分すぎて、直接的すぎる気さえしないでもない。実際、子どもに最後の一行の意味を聞かれ、説明に苦慮した。説明すればするほど、物語の深みをとらえずらくしてしまうように思えたから。
思い切って結末の一行をとりはらった『ぼくは弟とあるいた』は、その一行を読み手の想像力に埋め込み、発酵させる効果をあげているように思う。
『まち』『ちいさなやま』を郷愁をさそう。しかし、そればかりではない。よく見ると、この街にはビデオ屋やカラオケの看板がある。信号で止まるスポーティなワゴン車は流行のレジャーボックスを載せている。つまり、これは作者の記憶を描いているように見えて、実はそうではない。街は今、こうあるべきだ、という作者の提案とみることもできる。
哲学者の鷲田清一は、人工的な居住区であるニュータウンに欠けているものとして、大木、心のよりどころとなる何らかの宗教的な施設、そして、いかがわしさとぬくもりとを街に加える場末をあげる(『普通はだれも教えてくれない』)。
小林豊の描く街はそれらを備えている。街の真ん中には神社があり、それは単なる宗教施設というより、子どもたちが集まる遊び場でもある。門前で子どもたちは小遣いを出し、駄菓子を食べている。大人たちは街のなかで、それぞれ仕事をしている。通りを歩けば、顔見知りに出会う。
ルソーは直接民主制の都市国家を理想とした、というと、皆が顔見知りで衆人環視の村落共同体が住みよいわけがないと反論される。では、見知らぬ人どうしが監視しあう街はどうか。カメラを通じて権力者が監視する街はどうか。少なくとも、理念のうえでは、どれが住みやすいか、はっきりしている。
過去の肯定がまさる郷愁としてではなく、未来への提案として『まち』を読んでみると、一つ一つのページに話し合う材料がたくさん描かれている。小林の描く風景の中では、とりわけ夕暮れから夜への移り変わりが美しい。『ぼくの村』のような一文は、『まち』の最後にはない。夏休みははじまったばかり。街をつくる物語はこれから書かれる。
さくいん:小林豊
図書館の返却棚で、『とどまることなく』を見つけた。ソジャーナ・トゥルースの名前は知らなかった。黒人解放運動に献身した人といえば、まず思い浮かぶのは、マーティン・ルーサー・キング。リンカーン像の前で行われた演説、“I Have A Dream”を、高校生の頃英語の勉強にケネディ大統領の就任演説といっしょに暗誦の練習をしたことがある。
コールデコット・オナー賞を受賞した『キング牧師の力づよいことば』は立ち読みして、借りないままでいた。思い出して、一緒に借りてみると、同じ出版社で同じ訳者。原著の出版社は異なる。ということは、二作を同じ訳者で出版したのは、国土社独自の企画。
二つの作品に共通するのは、大胆な絵。クリスティーはデフォルメにより、ソジャーナの力づよさを表現する。コリアーはコラージュによりキング牧師が生きた時代の複雑さ、彼の発言の奥深さを象徴的に浮かび上がらせる。
伝記は、単なる記録ではない。一つの物語。そこでは捨象される事実もあれば、強調される逸話もある。従来、伝記の物語性に対して無自覚であるあまり、男性社会に奉仕する女性のように、差別性を盛り込んでしまうこともあった(斎藤美奈子『紅一点論』)。
裏を返せば、伝記の物語性に自覚しながら、ある面から意識的に照明をあてれば、一人の人間を特別な偉人としてではなく、歴史をつくった常人の一人として描くことができるということでもある。二つの作品は、思い切った手法により、二人の黒人を「偉人」や「活動家」としてではなく「肌の色による差別という物語」に抗う「人間」として描くことに成功している。
キング牧師について、少しは知識のある私には、『キング牧師の力づよいことば』は、新しい描き方だと思う。ソジャーナ・トゥルースのことは、何も知らないので、一つの物語として読む。子どもたちもそうだろう。ソジャーナもキング牧師も、ぐりとぐらと同じように、物語のなかの登場人物に過ぎない、いつか、彼が、実在した人物であったことを知る日までは。
個性的な絵をあつらえた絵本は、偏見を暗黙のうちに刷り込むような物語から偉人を救い出し、個性豊かで立体的な人間へと還元する。ただし、そのままでは彼らは物語の登場人物のまま。彼らは、あらためて世界を変えた「偉大で献身的な人(a great dedicated man)」(リンカーン像の前でキング牧師を紹介した言葉)として、読者の心に抽出される時を待っている。
さくいん:コールデコット賞、マーチン・ルーサー・キング
ヨーロッパの架空の町が時代とともに移り変わる姿を定点観測する絵本。透視図になった建物を覗くのは、人形の家を見ているよう。たくさんの人に埋もれて町を観察するタイムトラベラーを探す『ウォーリーをさがせ!』の要素もある。
絵がとても写実的。戦闘場面や処刑場面もこまかく描かれている。眼に止まったのは便所。それぞれの時代、それぞれの場所で用を足している人が描き込まれている。これを探すのも楽しい。
航空史は好んで読む分野。今年は折りしもライト兄弟初飛行から百周年。
飛行機の歴史の本を読んで驚くのは、歴史の速さ。ライト兄弟の飛行からわずか数年後に日本でも飛行実験が行われ、数十年後には戦争で使われるようになっている。第二次大戦後のコンピュータも、その技術革新と普及はすさまじい速度だったけれど、飛行機の場合は、機械そのものが巨大化するという点で、利便性も凶暴性も、直接に人間生活に影響を与えた。
この絵本は、まだ飛行機が夢だけを乗せていたころの話。羽田空港ができるずっと前にあった小さな航空学校。たった一機の複葉機に十人ほどの練習生。新しい機体が墜落して学校は廃校になった。その七年後、1931年に羽田空港ができた。
砂浜を滑走路にしていたときから、二十年もしないうちに羽田には霞ヶ浦航空対羽田分遣隊ができた。民間空港として、それ以前には民間飛行学校としてはじまった羽田は軍都にかわっていった。あとがきには、そうした背景が詳しく書かれている。
日本飛行学校は、羽田空港には直接の関係はない。この絵本が、見えなかった点と点をつなぎ、私の航空史に新しい補助線を引く。
羽田には今も空港がある。立川や所沢には、もうない。知らない人は、なぜ航空公園という駅名なのか、なぜ駅前にYS-11が置かれているのか不思議に思うかもしれない。ファルマン通りという名前も、意味のない言葉に聞こえるのだろう。アンリ・ファルマンは日本で初飛行した複葉機の名前。開発者は、イギリス生まれのフランス人。英語はほとんど話せなかったらしい。
航空公園の記念館を見た後で、所沢の空が広い理由がはじめてわかった。点と点がつながるとはそういうこと。
家の近くの図書館には、日本語以外の絵本はそれほど多くない。職場の近くの図書館も、市の中央図書館。全体の蔵書数は多くないけれど、多言語の絵本を揃えている。どちらも蔵書のほとんどは、日本語訳でも知られた名作の原書。この絵本は、家の近くのほうでみつけた珍しい最近の絵本。日本語訳はまだない様子。
Homeとはどこのことか。鳥にとっては鳥小屋がホームなのではなく、大空がホーム。ホームとは、くつろぐ場所ではなく、好きなように振る舞える場所。スポーツでいうホームグランドというのもそういう意味。
もう少し正確に言えば、本書の中では鳥小屋もまた“home”。大空は、鳥たちにとって“at home”になれる場所。作者は、大事な言葉をイタリックにして、使い分けている。
先日の夕刊、「子どもと暮らす」という欄で、岡田斗司夫が、妻子と別に住み、家庭へ「父親をするために出勤する」と話していた。家庭はただくつろぐだけの場所ではない、ましてや脱力するところではない、という考え方は、新鮮で教えられる。ただし、何もしなくても同じ場所で同じ時間を過ごすことにも、家族の意味はあると私は思う。
この絵本は、コラージュで描かれている。コラージュといっても、『ゆきのひ』のエズラ・ジャック・キーツのような素朴な切り絵とは違う。『キング牧師の力づよいことば』のブライアン・コリアのように多声的にみせるため異なる色や素材、活字を貼り付ける手法とも違う。写実性を極めるために、自然の素材を集めて小さく刻み塑像のように盛り上げて絵をつくっている。素材集めから完成まで、作者は二年間を費やしたという。
丁寧な細工は、映画のスチール写真のようにもみえる。鳩が戻ってきた時のマイクのうれしそうな顔が印象的。
さくいん:HOME
作品によって、まったく技法を変えるシュルヴィッツ。この作品では直線を基調にして人物や動物はかなりデフォルメされている。一頁めは、夜明け前の暗い村。二頁めは、山際から昇る朝日が村を照らす。
以下、まぶしい日差しが小さな郵便局を照らす。日差しと影が物語を彩る。大きな町から監査に訪れる女性は、午後の光を受けて、大きな影を床に落とす。郵便局が閉鎖され、村を出るヴァーノンは、夕陽を浴びて、悔しさと未練を込めた細い影を伸ばす。
英単語のなかで、presenceという言葉が好き。軍事上で、「太平洋圏での米軍のプレゼンス」などとも使われる。「ただ、そこにいる」というのが、私の好きな意味合い。ヴァーノンは、ただいるだけで村人の役に立っていた。それだけではない。郵便局を訪れる人々も、ただいるだけでヴァーノンを楽しませていた。
ちょうど、今朝の新聞に、全国にある測候所が次々無人化されていると書いてある。漁業や農業の関係者からは無人化の中止を求める声も多いらしい。「地元で生活している人たちにとって、同じ空気を肌で感じて天気の相談に乗ってくれる専門家が大切な存在だったから」とある。
ここでも、人間が「そこにいる」意味が問われている。
2016年6月17日追記。
「そこにいること」を英語の"presence"という単語と重ねていた。最近、"nearness"といういい言葉を知った。教えてくれたのはジャズのスタンダード、"The Nearness of You"。
スタンダードと書いておきながら、私はつい最近までこの歌を知らなかった。
「そこにいること」から一歩踏み込んで「すぐそばにいること」へ。"Nearness"という言葉が私の辞書に加わった。
さくいん:ユリ・シュルヴィッツ
今から百年以上前のニューヨーク州。港町ハドソン近くの山間でかごを作っていた人たち。作ったかごを満月のたびに町へ売りに出かけた。今はもう、その人々はいない。
かつていた人々の暮らしを切り取った一編の物語。8歳の少年が山で暮らし、父親について町に下りていくことを許され、町を見て、そしてかごづくりに目ざめるまでの話。
町の人々は、かごつくりの人々を「山ザル」と呼んで見下している。実は、山の人々も内心、町の人々を蔑んでいる。でも、彼らはかごを売り、町の物産を手に入れ、生活をしている。その関係は、実は、お互い様。それでも町で傷ついた少年は、かごづくりを、父親を恥ずかしく思う。そんな少年の暗い気持ちを変えた、かごづくりの一言。
風からまなんだことばを、音にしてうたいあげる人がいる。詩をつくる人もいる。風は、おれたちには、かごをつくることをおしえてくれたんだ。
風に教えられた仕事をする人は幸せ。今、こんな台詞を子どもに言える人がどれだけいるだろう。他人はともかく、自分はどうか。
今はもう、かごづくりはいない。お互い様だったはずが、町が山を呑み込んでしまったから。とはいえ、この物語は、昔のことを語りながら、昔話ではない。風は今も、街中を吹いているのだから。満月もまた、町の上にも静かに浮かんでいる。
月の表情が見えるか。風の言葉が聴こえるか。
コールデコット・オナー賞受賞作品と奥付に書かれている。コールデコット賞は、作品全体ではなく、絵に対して贈られる。確かに、有名な科学者の伝記を絵本にするような場合、まず絵が印象的でなければ成功しない。本書では、地図や祈祷書に似せた平面的な絵や、ブリューゲルの描く子どもの遊びなどの雰囲気を出しながら、中世の気配をかもしだしている。もちろん、中世画を模しているだけではない。やわらかい線やあたたかい色使い、肩をすくめた小さい人間などは、現代的でポップな様子もうみだしている。
物語は、よく知られたガリレオの生涯を追う。ところどころ、手書き文字で引用される天文学者の言葉が示唆的。
自分が信じたいことだからといって、なにも考えずにうのみにするのは、おろかなことです。なぜ、みずから考え、判断する自由を放棄し、わたしと同じようにあやまちをおかすおそれのある他人にたよらなければならないのでしょうか
科学においては、多くの人が信じているからといって正しいとはかぎりません。たったひとりの知性が、火花のようにきらめいて、真実をてらし出すこともあるのです
深く考えなければならないことがらにかぎって、理解が浅く、知識がとぼしい人ほど結論をいそぎたがるものです
科学という言葉は、社会科学、さらに社会思想という言葉に、置き換えられないか。私自身の関心からは、つい、そんなことを考えてしまう。
さくいん:ピーター・シス、コールデコット賞
ペローやグリムのような昔話の形をとった寓話。原題はよく知られているBilly Joelのバラードと同じ。
作者は牧師と紹介されている。ほかのときに読んでいたら、気にも止めなかったかもしれない。「ただ、そこにいること」ということをしばらく考えているので、強く心に残った。
ペローの童話には、おわりに教訓が書かれている。それにならって書いてみる。
努力することは尊い。努力すること自体に意味はあるとしても、もし何かの目標に向かって努力しているのであれば、その目標のためだけに努力したほうがいい。努力することにこだわりすぎると、目標を見失ってしまうことがあるから。
実は、目標がはっきりわかっているなら、意識的な努力は必要ないかもしれない。
他人には困難な努力にみえても、はっきりと見えた目標に向かう人にとっては、まったく自然な歩みでしかない。
本書は、どういうわけか絵本の棚ではなく、児童向けの単行本の棚に置かれていた。子ども用の手洗いの前。待っている間、書棚から一冊だけはみ出している大判の本が以前から気になっていた。こうして出会うときをずっと待っていたのだろう。
最近は、建築の本は子ども向けを借りることが増えた。文章が読みやすく、それでいて情報量は充分。透視図など、子どもの目をひく工夫は、大人の目にも楽しい。
ローマのコロッセウム。本物を見たことがないので、私のなかではシェンケビチ『クオ・バディス』(吉上昭三訳、福音館書店書店、2000)が映像を作り上げている。どちらかが死ぬまで戦わせる剣闘については知っていたが、水をたたえて海戦までさせていたとは知らなかった。残る文書をみると、布製の屋根もあったらしいが、どのように固定されていたのかは、今もわからないのだという。
確かにローマ人の知恵には驚く。それでもページを繰っていくと、現代のスタジアムの巨大さにはあらためて驚かされる。
La Fée et la Poupée, texte Koza Belleli, ill.,Yura Komine, Ipomée-albin michel, 1995
La Belle et Bossu: petit conteé revours, texte, Koza Belleli, ill., Yura Komine, Ipomée-albin michel, 1996
図書館の外国語絵本の棚で見つけたフランス語の絵本、三冊。“Lisa”はキャラクターとしても人気が出ているフランスの白ウサギが巻き起こすドタバタ・エピソード。今回は、ニューヨークへ向かう機内の話。ニューヨークに到着してからの話は読んだことがある。
このシリーズに共通するのは、シニカルな展開。ほのぼの、しっとり、にこにこ、という絵本の常套句とはかけ離れた感覚。子供即可愛いではない。フランス語の現実感覚、合理性感覚は、こういうところにも現れているとみたら、大げさだろうか。
残りの二冊は、挿絵がこみねゆら。彼女の絵は、知っている。誰かにもらった講談社『えほん 世界のおはなし』シリーズの一冊『シンデレラ』を持っている。文は角野栄子。名作シリーズというと、原作の改竄、デフォルメされた絵など、一般的にはあまり評判はよくない。松居直らの絵本啓蒙書でも、名作絵本は要注意と書かれている。ところが、同書は、原作に忠実で、シンデレラの名が「灰かぶり」に由来することなどを盛り込みながら、わかりやすい再話、再編集となっている。
緻密で、幻想的なこみねの絵は、よく知っている物語の印象をこわすことなく、新しい解釈も与える。私の好きなのは「ようせいは、まるで 空の ほしが ふって きたような うつくしい ドレスに かえて くれました。」の一文があるページ。美しいドレスをまとったシンデレラの戸惑う顔。不審そうな王子の視線。描かれていない周囲の注目。夢の中の出来事のようなぼんやりとした空気。
こみねがフランス語の原作に絵をつけていることは、知らなかった。“Lisa”はやさしいので大丈夫だけれど、詩的な表現が多い二作品は、辞書を引きながらでもよくわからなかった。“La Belle et Bossu”の方は、ハッピーエンド原作から推し量ってもハッピーエンドだろう。とりあえず、挿絵の幻想的な世界を楽しんだ。
数々の傑作を世に送り出してきた絵本の編集者が自らものした民話絵本。大判で、絵も美しい豪華絵本。陶淵明の名は知っていたけれど、「桃花源記」を通じて、桃源郷伝説を生み出した人とは知らなかった。「還園田居」という詩は、高校生のとき、漢文の授業で読んだことがある。
調べてみると、トマス・モア『ユートピア』が書かれた年は1516年。今からせいぜい500年前。「桃花源記」は1000年以上前になる。現代語で読みやすくしているとはいえ、1500年も前の話を読み聞かせる体験は楽しい。その現代語の文章が、わかりやすく、また読みやすい。
さくいん:松居直
アフガニスタンの小さな村、パグマンを描いた三部作が完結。小林豊をつい最近知った私は、三作品をほぼ同時期に読むことができた。初めからの読者は、『せかいいち うつくしい ぼくの村』の出版された1995年から、やきもきした気分で待っていたのではないか。
『ぼくの村へかえる』のなかだけでも、いったいどんな結末になるのか、予断を許さない緊張した展開。子どもと一緒になって、街中にヤモーを探しだす体験は、貴重なひとときだった。
物語の終わりとしては、これでほんとうによかった。もっとも、この結末は単なるハッピー・エンドではない。これからが苦労のはじまりなのだから。
読み終えて、一ヶ月ほど経つ。これでよかった、という安堵以外に、何の感想も思いつかなかった。それほど、『せかいいち うつくしい ぼくの村』の結末は衝撃的だった。
しばらくたって、もう一度読んでみた。最近読んだ本のうち、同じように書評も、簡単な感想すらも書けないでいたサン=テグジュペリ「人生に意味を」(「平和か戦争か?」『著作集3 人生に意味を (un sens à la vie)』渡辺一民訳、みすず書房、1987)の最後の一文が、この三部作に重なって思いおこされた。
農家では、人が死ぬことはない。母親は死んだ。だが母親は生きつづけるだろう!
むろん、悼ましいものだった。しかし、このようにいかにも純朴なものであった。ひとつずつ、道のうえに白髪の美しい殻をすてながら、その変貌をつうじて、なにかわからない真実をめざして歩みつづける、この血統のイメージ。
そう思いながら読み返してみると、長いマフラーをしたミラドーは、星の王子様に似ていないこともない。焦点を戦争と平和に合わせながら、ページいっぱいに生命の継承についての思索が広がっていく。
2016年3月12日追記。
この絵本を読みかえすとき、久保田早紀「帰郷」が聴こえてくる。
さくいん:小林豊
アレン・セイの作品を読むのは四作目。『おじいさんの旅』、“Tree of Crane”、“Emma’s Rug”、挿絵の作品ではさらに“The boy of the three-year-nap”も読んだ。
セイの絵は、どれも楽しげではない。むしろ無表情が多い。『おじいさんの旅』では、肖像画のように正面からとらえた無表情の顔の絵。この作品では、横顔や背中などを描いて、顔そのものが描かれていないページが少なくない。
林明子絵『あさえとちいさいいもうと』(筒井頼子文、福音館書店、1982)でも、大人はほとんど顔を見せない。小さな子どもの目線では、大人は顔ではなく体格で威圧する。また、大人は顔を出さないことで、子どもだけの世界を映し出す効果も得ている。
この作品では、顔がないことは、凍りついた関係を暗示している。働き詰めの父親と山登りにでかけても、父親はずっと先を歩くばかり。森の奥の何もない場所で火を起こしたとき、そこでようやく二人は向き合う。夜が明けて、はじめて二人は同じ方向を見る。そこには、誰も知らない秘密の湖があった。
これから二人は漕ぎ出すだろう。そうして、二人は景色に溶け込でいくにちがいない。ユリー・シュルヴィッツ『よあけ』(瀬田貞二訳、福音館書店)のおじいさんと孫のように。
さくいん:アレン・セイ。
有名な演説だけど、全文を読んだのは、実ははじめて。
合衆国の歴史は、自由と夢の実現などではなく、搾取と抑圧の歴史であると、しばしば批判される。訳知り顔で、それが常識であるかのように説く人もいる。しかし、忘れてはならないのは、搾取と抑圧の歴史であったと同時に、それらに対する抵抗とその克服を含めた自由と夢の実現が、過去から現在までも進行中ということ。
演説の最後にある、あまりにも有名な部分も、詩人のていねいな訳によって、新しい国をつくるという「まだ完了していない仕事」こそが、アメリカ合衆国であることを、あらためて教えてくれる。合衆国国民にとって、この言葉は、昔の言葉ではなく、繰り返し肝に銘じる今の言葉なのだろう。
これらの死者たちの死を空しくしないよう、私たちは決意を堅くしなければなりません。
——造物主のもとで、この国が、市民の自由の新しい誕生を、手にできるように。
——そうして、人びとを、人びとが、人びとのために、自ら律する国のあり方を、この地上から消滅させないために。
合衆国以外の人にとって、南北戦争はもはや教科書の一行に過ぎない。ゲティスバーグといえば、戦場の名前ではなく演説の名前と思っている。リンカーンの次の言葉は、歴史の皮肉なのだろうか、それとも思想は行いではなく言葉に残るという暗示だろうか。
私たちがここで何を語ろうと、世界はさして注意をはらわないでしょうし、末ながく思い出にとどめることもないでしょう。しかし、勇気ある人たちがこの地でなしたことが忘れ去られることは、けっしてないのです。
それでも、白黒の版画は、歴史に埋もれた多くの人々の、苦しみ、喜び、働く表情を再現している。戦場の名前は忘れられても、こうして人々の姿は、絵本のなかに受け継がれる。
いま日本語でこの演説を読んでみると、憲法をもち、民主主義を標榜している国家は、何語が話されていようと、すべて「まだ完了していない仕事」であると思いなおさせる。
さくいん:アメリカ合衆国
映画のほうの『羅生門』は見たことがない。もっとも映画の原作は『藪の中』。こちらは原作どおりの『羅生門』。高校の現代国語の教科書で読んだ記憶がある。冒頭にある「ごまをぱっとまいたような烏の群れ」という表現が、正確ではないかもしれないけれど、不気味な雰囲気を漂わせていて、記憶に残っている。
「こうしてなければ、おれも生きられぬのだ!」そう叫んで男は消えた。
羅生門は、男とろうばのやりとりなど、みなかったのように、くろぐろとそびえたっているばかりであった。そのあと、ろうばがどうなったか、そして、男がどうなったか、それはだれも知らない。
男は、時を超え、姿を変え、目の前の鏡のなかにいる。原作の薄気味悪さををさらに増幅するような、おどろおどろしい挿絵のついた本書をみていると、暗黒絵本、noire picture bookと名づけたくなる。
さくいん:芥川龍之介
ここしばらく、グリム童話やジプシーの昔話などの民話を続けて読んでいる。どれも、あまりに面白くて、まだ感想をまとめることなどできないでいる。
幼い頃には、同時代の創作絵本はいくつか読み聞かせてもらった。小学生に入って、本が好きな子どもならば、昔話や物語を読む頃、そういう本はほとんど読まなかった。かわりに貪るように読んでいたのは、ケイブンシャの大百科シリーズや、小学館の入門シリーズ、それから、学研のひみつシリーズ。雑誌『モーターマガジン』を毎月買っていたこともある。
そのせいで、定番、名作といわれるような童話や民話も、知らないままに過ごしてきてしまった。だからいま、何を読んでも新鮮で面白く感じる。
『たいようの木のえだ』は、以前この作品を含むジプシーの民話集『太陽の木の枝』(1968、福音館書店文庫、2002)で読み、あとで単独作品があることを知って、図書館で借りてきた。民話になじんでいる人にはそうでもないのかもしれないけれど、ジプシーの昔話はつぎつぎ思いもかけない展開になり、そのたびに、斬新な発想、表現に驚かずにいられない。表現の新鮮さには、もちろん、原作の巧みな文章、内田の気の利いた訳に負うところも少なくない。例えば、一頁めの言葉。
ところが、この世で、いちばんだいじなおきさきがなくなってからというもの、王さまは、かんむりを、さかさにかぶるようになりました。じぶんのかなしみをあらわすためです。
これだけで、王の威厳、王妃への愛情、王が受けた悲しみ、要するに事の重大さがまっすぐに伝わってくる。
同じ画家でも、福音館書店文庫では挿絵は白黒。絵本では原作の常識外れをさらに越える大胆な絵が続く。とくに字のないページの絵は、言葉を受けつけないほど強烈。一度見ただけで、夢に出てきそう。
さくいん:堀内誠一
詩画集という種類の本がある。絵に詩を添えた本。本書は批評画集といえそうな本。もともとあった絵のわきに奴隷制や自由について考察するエッセイが添えられている。ブラウンの絵だけでも充分に多くを語る。レスターの文章は、絵を説明するのではなく、絵が投げかけるメッセージをかみ砕き、自分の言葉にして、絵に投げ返す。
それは、魂の応酬と呼べるほど、真剣な交流。だからこの絵本は、読み手にも真剣な取り組みを求める。
書きながら、知らず知らずのうちに、私は読者のみなさんに訴えていた。どうかこれらの絵をただ見るのではなく、魂の総力を結集して凝視してほしい。絵の中に入りこみ、「この人がもしも自分だったら」と想像してほしい。
制度としての奴隷制は、現代ではもうない。しかし、奴隷はいなくなっていない。それどころか、人びとは自由をみずから捨て、すすんで奴隷になろうとしているようでもある。自由になりたいか。それなら、自分で川を渡らなければならない。奴隷たちは、生命をかけてそうしたのだから。本書は、そう訴えているような気がする。
だが、川を渡ることは、逃げる決心をすることにくらべればなんでもなかった。思い浮かべる恐怖のほうが、川よりも数においてまさった。そして、恐怖を乗りこえるほうが川を渡るよりはるかにきついのだ。
つかまったらどうしよう?
連れがケガをしたら? 死んだら?
どうやって餓えをしのごう?
自由の土地に着いたら、そのあとは?
どこに住む? どうやって暮らしていく?
恐怖を乗りこえるには、恐ろしいと思うそのことを実行するしかなかった。
川を越えるよりも、川を越える決心をすることがむずかしい。それでも、そうするよりはほかない人々はそうした。そして自由を得るまでに、多くの人が志半ばで犠牲になった。それでは、そうする必要がないと思えば、川を渡るまでも、そんな決心をするまでもないのだろうか。
自由になりたいか。本書はそう問いかけている。つまり、この絵本には副題がある。
「あなたはいま、奴隷でないのか」
ときどきでかける宿には、絵本がたくさん置いてある。かつてたくさん読んだ小学館の入門シリーズ、学研のひみつシリーズなどの図解本や学習まんがも置いてある。眺めるだけでもなつかしく、楽しい気持ちになる。本書もそこで見つけた。
絵本のそろえ方にも、ただ本を並べればいいというのではない、担当者のこだわりが感じられ、背表紙をながめるだけでも楽しい。こぐま社の『グリム童話』シリーズはここで知り、図書館で借りなおした。
この絵本は、知らなかった。斎藤隆介、滝平二郎の組み合わせは、もちろん表紙を見ただけで『モチモチの木』と同じだとわかった。出版は1982年。その頃には、私はもう絵本から離れていた。
この物語は、はじまりがやまんばの語りであることに驚かされる。「やまんばのおよめさん」など、私が知っている昔話では、やまんばは恐ろしい存在であり、人間の世界とは違う、あちら側の存在。そのやまんばが、いきなり「おどろくんでねえ」と語りはじめるのだから、驚かないわけがない。
読者は、いきなり山奥へ連れて行かれ、そこで、あやの心を通じて、自分の心の奥へ連れて行かれる。この主題と設定は、ミヒャエル・エンデ『モモ』(1973、大島かおり訳、岩波書店、1976)にも似ている。この絵本では、短い語りのうちに、山奥から心の奥へ視点が一気に移動し、また拡散する。まるで急流下り。
おだやかな版画とダイナミックな物語の落差が、爽快な読後感と反省を促す余韻を残す。
余談。この昔話は劇団つきかげの芝居で見てみたい。冒頭のやまんばは月影千草、あやはもちろん、北島マヤ。
中央アジアの人々を描いた小林の絵本作品を貫く主題は、時代に翻弄されながらもしたたかに生きる民衆の姿。おそらく、そうまとめても間違いではあるまい。この表現じたいが、民衆がもつ、したたかという面だけではなく、愚かしいという裏面を明らかにしている。
この物語でも、人びとは、戦争という現実を覆そうとするわけではなく、ただじっと耐えるだけ。せいぜい、彼らができるのは、伝統的な行事を守り、小さな喜びを見出すこと。
父親は、戦争で片足を失った被害者として描かれている。けれども、軍人として戦場へ行った以上、彼も人を殺してきたのかもしれない。そもそも彼の国がどこかの国へ戦をしかけているのかもしれない。そうした裏面は、この物語には描かれていない。
国家を形成する主権者という観点からすれば、彼らを戦争や圧政を容認するだらしない市民とみることもできる。理想的な市民は、戦争に反対し、圧政を倒すべきだと考える立場からは、そう見られるはず。
実際には、そういう見方はされない。というのは、民衆という言葉はたいてい使う人の時と場合の都合で、強かになったり、愚か者になったりしているから。あるときには、耐える民衆になり、その場合は愚かな一面は忘れられる。
あるときには侵略戦争に加担した愚かな大衆であり、その場合は強かな一面は忘れられる。
民衆がもつ両面を同時に理解できないものだろうか。それができなければ市民という言葉は、いつまでたっても特別な行動をする特別な人々という意味のままだろう。
さくいん:小林豊
図書館には出かけられても時間があまりないときには、一つの棚で目についた、気に入りそうな本を借りられる数だけ借りる。今回は、輸入絵本の棚の前で立ち止まった。
「大統領になりたいかい」と題された絵本には、コールデコット賞のメダルが表紙に貼ってある。2001年の受賞作品。子どもでも関心をもちそうな、歴代の大統領の逸話が、愉快な挿絵で語られる。
合衆国の書店に行くと、大統領列伝の本が、数え切れないくらい置いてある。国民の関心度は、総理大臣とはまったく違う。大統領は、ただの行政の長ではない。もっと広い意味で、国民の指導者。それゆえに崇拝され、それゆえに非難される。ともかく、途方もない職務であることだけは確か。
確かに大統領という役職は、超人的な激務。それでも本書のように、人間味溢れる逸話が繰り返し語られるのは、これまでその職についた人々は、みな超人だったわけではなく、ごくふつうのアメリカ国民の一人であったことを、国民自身が確かめようとしているからかもしれない。それは、合衆国で生まれた国民であれば、誰でも大統領になれるという、子どもたちへの激励になる。
Every President was different from every other and yet no woman has been President.
No person of color has been President. No person who wasn’t Protestant or a Roman Catholic has been President. But if you care enough, anything is possible.
このあと書かれているように、ケネディまではカトリックが大統領になる日がくるとは思われていなかったし、レーガンまでは60歳以上は大統領にはなれないと思われていた。今後も次々、これまでいなかった大統領が生まれるに違いない。
民主主義の壮大な実験場であるアメリカ合衆国。絵本はそこでは、草の根の政治教育でもある。
2020年11月8日追記。
アメリカで、初の女性副大統領が誕生した。
さくいん:アメリカ合衆国、コールデコット賞
小さな街で暮らす職人たちの友情。そう言ってしまえば、それだけの話。あらすじを書けば、ますますありきたりな話に感じられてしまうことだろう。こういうシンプルな物語は、粗筋や感想を書けば書くほど、作品から遠ざかり、自分の表現の貧しさばかり際立つ。何も書かないでおきたいくらいだけれど、この物語のかもしだすあたたかさについては何とかして書いておきたい。
このあたたかさは、どこからくるのだろう。見返しの紹介にあるように文章は、“rich in detail and wholesome values”。絵についても、同じことがいえる。素朴な物語ではあるけれど、絵本としては、文も絵も濃厚で、厳格な雰囲気すらある。
It was hard work, but Williams was a burly, no-nonsense fellow, and it suited him.
主人公について書かれたこの一文が、そのままこの物語にあてはまる。この物語の主題は素朴だけれど奥深い。そして、それを伝える表現は、言葉も、絵も、したたかで、きまじめで、どちらもこの物語にふさわしい。
ところで、画家のYoshiは日本生まれとだけ紹介されている。必要充分で適切な表現。Allen Say『はるかな湖』では、「日本人としてはじめてコールデコット賞を受賞」と書かれている。つまらない紹介文だと感じた。
国籍ごとに競われるオリンピックならともかく、コールデコット賞は、合衆国民か、合衆国在住者が選考対象であり、はじめから日本人かどうかは基準でも障害でもない。合衆国民か、住民がつくった絵本はどんな絵であろうと、“American picture book”と、賞の基準に規定されている。
この作品は、作品のすみずみまできめこまやかな配慮が行き届いている。そうして絵本が全身で、物語の主題を伝えている。
さくいん:コールデコット賞
『本に願いを アメリカ児童図書週間ポスター(1919-1994)に見る75年史』(レオナード・S・マーカス、遠藤育枝訳、BL出版、1998)のなかに登場した画家の一人。未読だと思っていたが、以前からもっている『はなをくんくん』(“The Happy Day,” written by Ruth Krauss, 木島始訳、福音館書店、1967)の画家だった。こちらではサイモント、『本に願いを』ではシーモントとなっていたため、別人と思っていた。ポスターと二つの絵本では、それぞれ画風も違う。『はなをくんくん』では、一点を除いて墨で描いたような絵。本書でも、いくつも描かれた木のなかには松のようなものもあり、東洋風にもみえる。
ところで、木を描いた絵本というと、八島太郎『村の樹』(“The village tree,” 創風社、1988)がある。二つの絵本では、木のとらえ方がだいぶ違う。八島は、人間が溶け込む自然として木を描く。ウドリの書く木は、人間が利用する木。公園の木、庭の木。
どちらがいい、どちらが東洋的か西洋的かという対比は安易すぎる。なぜなら八島の作品は合衆国で最初に発表されたし、“TREE IS NICE”には、東洋的に感じられる絵が添えられているのだから。現代人は誰でも、どこで生まれようと、どこに住んでいようと、自然に対して、共生と利用の二つの態度を持たざるをえないと考えるべきだろう。
クリスマスの季節に、図書館や書店に必ず並ぶ名作絵本の一つ。村上春樹の訳があることも知っていたが、これまで読んだことはなかった。村上訳が出た同じ頃、翻訳ではなく彼自身が書いて、佐々木マリが絵を描いた『羊男のクリスマス』という絵本を読んだ記憶がある。同じ頃、羊男や鼠が出てくる彼の小説を読んでいた。
この物語は子どもの視点から書かれているけれど、あえて大人の視点から読み直してみても面白い。クリスマスの朝、少年はプレゼントを見つける。みもふたもないことをあえて言えば、プレゼントはひとりでにわいて出るわけがないから、誰かが置いたはず。プレゼントには、「夢」のとおりの言葉まで添えられている。
このプレゼントを置いたのが、サンタクロースでないとしたら、誰だろう。それを考えてみると、“Yes,”said my father, “it’s broken”という言葉は、まったく違う意味をもつようになる。
そして少年は大人になり、今でも鈴の音が聞こえるのならば、彼もまた、小さな鈴を子どもの枕もとに置いているかもしれない。そしてクリスマスの朝、「音しないかい? こわれてるのかな」などと言って、素知らぬ顔で新聞を広げているかもしれない。サンタクロースという伝統は、そうやって受け継がれてきたに違いない。
ファンタジーはもちろん、ファンタジーとして読むべきかもしれない。それでもファンタジーをほんとうに起きた話として読むと、信じがたい奇跡の物語として読むこともできる。
奇跡は人間が生みだすもの。この考えは、“Magical Hands”にも書かれていた。
さくいん:村上春樹
『たいようの木のえだ』で堀内の豪快な絵が気に入った。図書館で調べてみると、インディアンについての絵本がある。ジプシーの昔話と同じように、大胆な挿画が楽しめると思い、同じ人の訳によるインディアン詩集と一緒に借りてきた。
『アメリカ・インディアンはうたう』では、堀内の多彩な表現が楽しめる。『たいようの木のえだ』のようにページから飛び出してきそうな力強い技法もあれば、軽やかな素描やていねいな風景画、民族博物館でインディアンの生活道具を見ているような精緻な絵もある。すぐれた表現者は、多様な技法を身につけていて、対象と目的に応じてその都度スタイルを選ぶ、ということがよくわかる。
金関によれば、インディアンは言葉には魔法の力があると信じている。日本語でいう言霊に近いらしい。現代ではそうした魔力は失われていると、金関は嘆く。そうかもしれない。現代社会では、人間はキャラに縛られ、人間そのものが変ることはない。悲しんだり喜んだり、へこんだりとんがったりしても、それは気持ちの起伏に過ぎない。
それでも金関のように文学は言葉の美しさを追求するだけとも、私には思われない。スタイルのある表現によって、その場の気持ちではなく、人間そのものが変る。そういうことを私自身が経験しはじめているから。
さくいん:堀内誠一
堀内誠一の絵本をもう一冊。
文章は『たいようの木のえだ』と同じ、内田莉莎子。雑誌「こどものとも」から単行本化されたとき、堀内はすでに亡くなっているけれど、豪快なスタイルはこの絵本のなかに健在。表紙、題字からして、すでに異様な雰囲気をかもしだしている。
欲深な地主の顔がいい。ずる賢さが全身にみなぎっている。その地主が驚いてひっくりかえってしまう絵が、またいい。堀内得意の大迫力。絵が大きすぎて、活字がページから押し出されてしまいそう。
最近気づいた民話の面白さの一つは、あっけない結末。大判小判がザックザクにしても、王女様と結婚にしても、そこで突然、話が途切れる。「チョキン・パチン・ストン」という締めくくりの言葉もある。
本書でも、幸福な結末を迎えて、話はあっさり終わる。大きな悪魔に叱られた人間の世界へ出てきた小さな悪魔は、「それじゃ、げんきでね。きこりさん。」と手を振ったあと、どうなったのだろう。
ここでも堀内の絵が冴えている。文章には書かれていない、けれどもはっきりと読み取るべき含意が、最後の絵に表わされている(「べし」はもちろん、推量、可能、当然、そして命令の意)。絵本は、絵と言葉の両方が語りかける。いや、言葉だけの文章でも、書かれていないことで多くを伝えることがある。
さくいん:堀内誠一
クリスマスの朝、何気なく本箱に置いたままになっていた本を手にとる。
『サンタクロースっているんでしょうか』(Francis Church、中村妙子訳、偕成社、1986)は読んだ。新聞社に質問を送ったバージニアのその後を追ったこの本も、持っているのだから、読んだはずなのだけれど、記憶に残っていない。
二冊は、同じ出版社から、似た装丁で出されている。合わせて読んでみると面白い。ちょうどクリスマス・イブよりクリスマスが、それよりもそのあとが大切であるように、一通の投書と社説よりも、彼女がそれを支えにどんな人生を送ったか、ということのほうが、実は大切なことを含んでいるように思う。
本書は、ローラ・バージニア・オハロンの生涯を、彼女の孫が、その子どもたちに語るという形式をとりながら、米国の歴史のさまざまな面をプリズムのように映し出していく。移民、女性、ニューヨーク、南北戦争、教育制度、障害者、結婚と離婚、新聞社、そして宗教。
「サンタクロースはいるの?」という投書をした以外、バージニアの人生はむしろ平凡といっていいくらい。それでも一人の女性の人生をたどると、米国社会のさまざまな面がみえてくる。本書は、歴史を学ぶそうした手がかりを、さりげなく、それでいて仔細をもらさず、本文に織り込んでいる。本人に承諾を得て構成した、「語り」という文体も功を奏している。投書と社説も、日英両語で全文掲載されている点もありがたい。
平凡にみえるけれど、バージニアの人生には一筋の光が貫いている。それは「サンタクロースはいる」という信念。幼いバージニアへの返事のなかで、自身には子どもがいなかったフランシス・チャーチは「愛や寛容や献身が存在するように、サンタクロースは存在する」と、優しく語りかけていた。
サンタクロースが存在することは疑いない。むしろ、疑わしいのは、チャーチが自明としたものの存在のほうではないか。それでも、サンタクロースが確かに存在するように、愛と寛容と献身がこの世に存在することを、一人の女性の伝記は教えてくれる。
さくいん:アメリカ合衆国
けんたのたんけん、かこさとし、童心社、1987
図書館で「これ読んで」と子どもがもってきた紙芝居。
すごい。見つけた。トンデモ紙芝居。しかも作者は、数々の傑作絵本をものしてきた加古里子。以前、と学会が大藪春彦『餓狼の弾痕』(角川文庫、1997)をとりあげたとき、作者はハードボイルド小説の巨匠で、出版社も大手なので気がひけたが、あまりのトンデモに書かずにいられなかったという文を読んだことがある(『トンデモ本1999 このベストセラーがトンデモない!!』、光文社、1999)。いまの私も同じ気持ち。
けんたは考古学者のおじいさんに連れられて遠い外国へ旅行する。そこは思い切りステレオタイプ化された「原住民」の住む村。村には「まもののはしら」と呼ばれる奇怪な石柱がある。近くにあるのは「まもののやま」。村長の案内で3人は山へ登ることになる。洞窟で古代の石碑を見つけると、何と村長がピストルを出して金の石を奪い取る。
「おじいちゃん、こいつはにせものです。ほんとの そんちょうさんは、ほくろなんか ないよ——。」
「うーん、こいつは わるものか、そんなら ええ——い!」
—さっとぬく—
としはとっても、けんべえじいちゃんはからてのめいじん。
この展開はあまりに急すぎる。おじいちゃんは悪者をあっさり倒す。変装がとれると、悪者は一枚めの飛行機の場面で前に座っていた男だという。宝探しに行くとは書かれていなかったのに、なぜけんたたちに着いてきたのか、まったく説明なし。
村に戻って調べてみると、「まもののはしら」の文字は世界で一番古いことがわかり、洞窟の遺跡にあった石像は村長さんの先祖であることがわかる。こんなにあっさり、血筋を礼賛して大丈夫だろうか。あちこちから抗議がきそう。
圧巻は最後の一枚。腰巻しかつけていないような原住民に見送られて、二人は帰る。何と草原に旅客機が止まっている。そのうえ、タラップにはにこやかな客室乗務員まで。この旅客機は定期便なのか、チャーター便なのか、じいちゃんのプライベート・ジェットなのか。よく見ると、エンジンがついていない。実は飛行機に似たバスかもしれない。
強引な展開、ひとりよがりの伏線、問題ありそうな図案や用語。とどめをさす支離滅裂な結末。絵本に比べて、紙芝居にはけったいな作品が少なくないが、これほど完璧にトンデモの要素を備えた紙芝居もめずらしい。
『けんたのたんけん』に続いてかこさとしの作品。意図したわけではない。別の図書館の児童書新刊棚で見つけた。意図したわけではないけれど、トンデモ紙芝居だった前作とは正反対。膨大な情報、緻密な構成、親しみやすい絵柄、思慮深い文章。かこさとしの本領を発揮した歴史絵本。
表紙に書かれているように、主人公はマシュー・ガルブレイス・ペリー、小栗上野介忠順、そしてフランソワ・レオンス・ヴェルニ—。三人は、今日でもアジア最大の港の一つである横須賀の礎をつくった。横須賀は今でこそ、合衆国第七艦隊の拠点になっているけれど、元はフランスからの技術と資金によって作られた港。街並みもフランス風だった。このことは『絹と光』(Christian Polak、アシェット婦人画報社、2002)で知った。
かこさとしの本領というのは、歴史書の一章を占めるほどの情報をすべて絵本に盛り込んでしまったこと。ペリー艦隊すべての船の名前、乗員数、排水量。ヴェルニ—のつくった横須賀港の図面、今も残る石積みドックの建設方法、造船所にかかわった日仏の人々の肖像、フランスがもたらした生活文化の例。
人名はフル・ネームで原語表記、生没年もある。年代表記は、西暦の日付だけでなく当時の年号と暦日まで記されている。最後のページには、150年間の年表までつけるこだわりよう。膨大な情報が溢れかえって自家中毒を起こしていないのは、挿絵、本文、注記に絶妙の均衡があるから。
最後のページには、絵本作家、それ以上に児童文化の創造者である加古里子の長年の熱い想いがこめられている。
この絵本でこれまで見てきたように150年前、とざしていた日本の扉をペリー提督が開いてくれました。
勘定奉行の小栗は、日本の技術を高め、早くしっかりしたものにしようと力を注ぎ、途中でたおれました。
そしてヴェルニーは、横須賀に近代的な造船の拠点をつくり、日本が自立できるようにしてくれました。
この三人は、国も立場も言葉もちがっていましたが、三人とも次の時代の人々のことを考え、未来を見とおして仕事にはげんでいました。
この三人ははじめ、この本でのべてきたさまざまな人や、書くことができなかった多くの人々の努力によって、横須賀や横浜、日本が150年間に大きく発展することができました。
これに続くこれからの150年は私たちの力で、もっとすばらしい年月になるようにしたいと思います。
歴史はそれをまっているのです!
では、次の150年をめざして
さようなら
国籍を越えること、職業を越えること、言葉の壁を越えること、そして、歴史を越えていくこと。この小さな絵本は、その長い旅をはじめる大きな一歩になる。
2003年の締めくくり。
さくいん:かこさとし、横須賀
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