2003年5月 |
5/1/2003/THUモデルグラフィックス No.221 2003年4月号 巻頭特集:1/700洋上模型の今昔物語 ウォーターライン進化論、大日本絵画、2003鉄道ファン No. 490 2002年2月号 特集:客車列車2002、交友社、2002鉄道ファン No. 500 2002年12月号(創刊500号記念特大号) 特集:鉄道ファンを飾った車両名作選、交友社、2002鉄道ファン No. 502 2003年2月号 特集:短路線ミステリー6「地下鉄の謎」、交友社、2003図書館の児童書コーナーには、子供向けの本に混じって、子供が読みそうな大人向けの雑誌が置いてある。鉄道と模型。どちらも少しかじってみたことはあるけれど、継続する趣味にはならなかった。それでも雑誌はときどき目にとまる。 鉄道と模型に共通しているのは、年齢層が幅広いこと。幅広いというより、投稿などをみると、老若両極端にすり鉢状に広がっているようにみえる。もう一つは、圧倒的に男性が多いこと。以前、荒川洋治は、決まったところを進んでいくのが男性には心地よいのかもしれない、と話していた。この回は文学、言葉に直接関連がないので要約は残さなかったが、今になって思い出してみると、面白い話題に面白い指摘。 決まったところを進むというのなら、模型も同じ。図面どおりに作ることが第一の目的なのだから。ところが、マニアの世界は図面どおりの先にほんとうの至福があるらしい。 軍艦は戦況に合わせて何度も艤装を変更する。これを残された写真や資料をもとに必要な部品を自作し、ある年、ある海戦の時の様子を事細かに再現している。自動車でも、ある年のあるグランプリの、あるドライバーの運転したレーシングカーを再現するところに、究極の模型趣味がある。 『モデルグラフィックス』は、軍艦からフィギュアまで、およそ模型と呼ばれるものは何でもとりあげていて年齢層だけでなく、趣味の広さも隅から隅までという感じがする。 いまは定期的に雑誌を買うほど入れ込んでいる趣味が、私にはない。あえていえば、こうしてほんの少しでも関心のある分野の専門誌を少しずつのぞき見することで、いろいろなことにのめりこむ人がいるものだなとつくづく思い返すことが、趣味になっているかもしれない。そういう意味で図書館をぶらつくのが、休日には一番楽しい。 ☆
2002年の身辺雑記に書評にならなかった読書記録を植栽。 日記鯖に書いていたもの。日記鯖へのリンクを廃止したので、内容を整理して復活。 5/3/2003/SAT憲法記念日にあわせてか、朝日新聞では、通知表で愛国心を評価している学校が増えていると一面で報じている。社会面では、「愛国心は評価にそぐわない」と教員からの批判的な意見が取り上げられている。これまでの報道からみて、朝日新聞は学校教育で愛国心を指導することについて批判的であるのは疑いない。 愛国心が国家から強制され、国外へと肥大化した過去を顧みて、愛国心に警戒するのもわからなくはない。とはいえ、ヒステリックな対応は愛国心を推し進める側との間に議論の成り立たない溝を作り出し、ますます感情的な対立を深めるだけになるのではないか。 問題は、愛国心に警戒するあまり、愛国心そのものを否定してしまう論理に陥ってしまう点にある。国民である以上、国家への愛情と忠誠は必ず必要になる。愛情と忠誠という言葉に抵抗があるなら、もっと具体的に有権者意識と納税者意識といってもいい。つまり、国民としての権利と義務がある以上、それを擁護し、忠実に果たす心持をもたなければ、国はよくならないし、国民の生活もよくならない。 それでは愛国心は国民だけのものか。件の記事は、公立学校へ通う外国籍の人もいるのだから、愛国心の教育、評価は外国人差別の遠因になりかねないと見ている。そうだろうか。外国籍であろうと、住民として住み、税金を払っている以上、その国家に対する義務と忠誠は求められて当然であるし、だからこそ、義務に対して権利の主張ができるはず。 愛国心が良いか悪いかという議論は不毛。必要なことは議論を避けず、愛国心は必要と認めた上で、排他的、強制的になってはならないこと、どうすれば排他的でない、開かれた愛国心を育むことができるのか、相手側へ議論を求めていくことではないか。それを避ければ、愛国心を進める勢力は、ますます強圧的で求心的な愛国心を求めてくるに違いない。 また、記事にあるような「愛国心は評価になじまない」という議論も、有効な反論にはなっていないように思われる。それでは、美術や体育は評価になじむのか。学園紛争の時代に、不毛な議論で経験済み。なじむか、なじまないかという議論には意味がない。教員が疑義を唱えるのは、もっと意味がない。学校である限り、評価はついてまわるのだから。 たとえば、会社員は会社への忠誠を求められ、評価される。しかし、究極的に問題になるのは、会社に従順であるかどうかではない。企業が利益を生み出すことにどれほど貢献したか。つまり忠誠度は従順度とは必ずしも一致しない。 だからこそ忠誠の内実、すなわち愛国心の中身を徹底的に議論すべきであって、愛国心を持つべきかどうか、評価すべきかどうか、などといったところをぐるぐる回ってはいけない。 5/4/2003/SUN書評「『おじさん』的思考」を植栽。 5/5/2003/MON絵本評「あまがさ」「からすたろう」「道草いっぱい」「村の樹」。 5/6/2003/TUE荒川洋治のラジオ・コラム。外来語から日本語への言い換えについて。国語研究所から外来語の日本語への言い換えについて答申がだされた。 アクション・プログラムは実行計画、アジェンダは検討課題、コンテンツは情報内容、と、書き換えられた日本語もわかりにくいものが少なくない。また、ライフラインを生命線にするなど、直訳しただけで日本語の語感や意味が盛り込まれていないものもある。 成功する外来語は古くからあるパン、カステラ、ガラスなど、短くて発音しやすいもの。どれも透明な感じがする。もともと、外来語を使うのは日本語では簡単にいえない、もとの言葉で言ったほうがすっきり言えて、すっきり伝わるから。小さくてかわいらしいのが、外来語のいいところ。また、活気がよくなるのも外来語を使う効用の一つ。集合住宅や競技場、商店街に次々と新しい外来語が使われるのもそのせい。 ところが、最近の外来語は言いづらくて、書きづらい。拗音の入る場所がわかりくにいものも多い。この結果、最近の外来語は、かつてと違い、気取った印象ばかりを与え、相手を煙に巻くような作用さえもっている。 結論。言葉は単語だけで成り立っているのではない。文章、会話のなかで使われる。単語だけで良し悪しを判断するのは、「お家騒動」「コップの中のあらし」のようなもの。最近の日本語ブームにも同じ匂いを感じる。 最後は荒川らしい鋭い指摘。最近の日本語ブームや、横行する言葉狩りを批判しながら、言葉に深い思いを寄せる詩人らしい、開かれた言語観を披露している。 どんなに上品な言葉を使っても、場面によって下劣な嫌味になることもある。荒川に付け加えれば、言葉は単語だけでもなければ、文章だけでもない。用いられる場面で、はじめて意味も価値もきまってくる。 井上ひさしはある文章で、東北弁に敬語表現が少ないというのは誤解、目上の人と話すときには視線を落とすのが東北弁の敬語表現と書いていた。この指摘も、木だけでなく森や山までをみるような、感性豊かな観察眼に感心した覚えがある。 外来語ではないけれど、翻訳の問題として最近あきれたのは、サリンジャーの新訳。書名が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」って、それ訳してないじゃん。中身を読まずにいて文句を言える筋合いではないけど、こんな書名ではそもそも読む気にならない。キャッチャーって何、ライって何。中身の質以前に、心意気で旧訳に負けていないか。 実際、帯には「『ライ麦畑でつかまえて』の新訳」と書いてある。 5/7/2003/WEDグレン・ミラー物語(1953)/ベニー・グッドマン物語(1955)GREAT BOX、ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン、2003グレン・ミラー物語(The Glenn Miller Story)(1953)監督 Anthony Mann ベニー・グッドマン物語(The Benny Goodman Story)(1955)監督 Valentine Davies 連休のあいだ、ふだんしないことをしようとして、思いつくのが映画。3月には「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作を見た。今回は、発売になったばかりのジャズ伝記の二本立て。今回もBTTFのように、何年も前に見たことがある。同じスタッフによる二作を見比べると、モデル、俳優、それから映画の中心である音楽の違いが楽しめて面白い。 昔の映画ならではと思うのは、女優の顔を大写しにしたシーンが多いこと。いずれの物語でもミュージシャンに恋した女性が、落胆、決心、希望、成功、愛情、など、要所の場面を大写しの表情だけで締めている。ジューン・アリスンはもちろん魅力的だけれど、ドナ・リード扮する富豪令嬢のアリスが、グッドマンの演奏するモーツァルトを聴きながら表情を変えていく場面も印象的。 後から撮影となったドナ・リードは、前作で人気を博したジューン・アリスンを意識しないわけにはいかなかっただろう。比較されるのを承知のうえで引き受けたに違いない。勝気な役柄と重なって、強い意気込みを感じる。 日頃の関心からみると、ジャズが民衆、それも虐げられた人々の音楽から「アメリカの音楽」に公定化していく過程が、二人の白人音楽家の成功を通じて見えてくる。グレン・ミラーによってマーチに編曲された「セント・ルイス・ブルース」に合わせて兵士が行進し、将軍が満足そうに眺めているのは、その意味で象徴的な場面。 『ベニー・グッドマン物語』では、カーネーギー・ホールで演奏すること自体、いろいろな意味でジャズの一大変化を示している。賞賛もあれば批判もあるだろう。ともかく、ジャズを愛した人によって、ジャズは広がり、変わっていった。そして今もそうに違いない。 長らくDVDを待っていたので、発売はうれしい。でも製品としての仕上がりには不満が残る。英語字幕はないし、特典映像も貧弱。年譜、ディスコグラフィー、楽曲の解説などがあってもよかった。 5/8/2003/THU神戸泊。 八島太郎が“Crow Boy”(邦題「からすたろう」)でコールデコット・オナー賞(次席)となったのは1956年。森村兄弟が、後にノリタケと呼ばれる陶器をニューヨークのブロードウェイで販売し始めたのにいたっては、1876年まで遡る。 日本語話者、日本国出身者が、海外で活躍するのは、けっして今にはじまったことではない。まるでつい最近になって、グローバルリズムの進展とともに、「国際的に活躍する日本人!」が登場するようになったと思うのは、あまりに浅はか。多くの人が関心をもつプロ野球という世界ではそうなのかもしれない。それは、日本プロ野球界がどれだけ閉鎖的であったかを示しているに過ぎない。 こういう考え方、つまり最近、海外で活躍する日本人が増えている、という見方は、日本語話者、日本国に生まれ育った人は、それ以外の文化に弱い、別の世界では成功しないという劣等感や過小評価を助長するだけになってしまう。実際には、はるか昔から外国で活躍した人はたくさんいる。 確かに外国で活躍する日本語話者、日本国出生者は少ないかもしれない。しかし考えてみれば、日本でも外国からの渡来者や、日本語を母語としない人が社会の中枢にわんさかいるわけではない。プロ野球を例にしても、メジャー・リーグで活躍していた人が、即座に日本プロ野球で活躍できるわけではないことは、誰でも知っている。実際、野茂英雄がメジャー・リーグにいるより長く、日本に滞在しているいわゆる「助人外人」もほとんどいない。 要するに、誰にとっても、自分の母語が通じない場所、生まれ育ったところと法体系や習慣の異なる場所に住んだり働いたりするのは、やさしいことではない。どこの国民だから得意、不得意ということではあるまい。 国境を越えることや母語の通じない場所へいくことは、確かに大きな試練であるには違いない。それを認めたうえであえて問いたい。それでは、国境を越えないでいること、母語が通じる場所にいることは、そんなにやさしいことなのか。 転職や解雇によって、それまで何十年もしてきた職業とはまったく違うことを始めなければならない人、入学や就職で、これまで慣れ親しんだ街からは遠く離れた場所に住み始める人、これまで抱いたことすらなかった小さな赤ン坊これから育てていかなければならない人、昨日まではヒラ社員だったのが、部下と目標を与えられてしまった人。国境のように見えなくて、高くて、先の見えない境を、多くの人が日々乗り越えようとしているのではないだろうか。国境を越えることも、そうした日々の挑戦の一つであって、これみよがしに「国際人」などともてはやすものではないのではないだろうか。 国境を越えていくことを何とも思わないようにならなければ、それを越えて、こちらへやってくる人たちを特別な存在に見てしまう姿勢も変わらないだろう。真の国際人とは、外国で活躍する人ではなく、外国から来た人が前にいた場所で持っていた実力どおりに活躍できるように振舞う現地人。 5/10/2003/SAT「青春の一冊」「私を変えた一曲」と銘打った特集が雑誌や新聞でときどき組まれる。著名人が、思い出に残る本や音楽を紹介し、それらにまつわる短文を寄せる。好きな作家が「学生時代に繰り返し読んだ」などと書いていると、なんとなく読みたくなってくる。 そういう点で、新しい読書や音楽への案内にもなるし、こういう記事は他人の書棚や秘密の引き出しをこっそりのぞくような楽しさも確かにある。本でも音楽でも、思春期に影響を受けた作品、と言われれば、私にも思い当たるものはないわけではない。 一冊の本が人を変えることは、けっして大袈裟なことではない。けれどもその一冊は自分が自覚している一冊とは限らない。 青春の一冊、と訊かれると、十代から二十代にかけて何度も読んだ本の書名を答えたくなる。何度も読むほど好きだったから、影響も受けているに違いないと考えるから。これは実は、正しくない。何度も読むのは、書いてあることがわからなかったり、反対に読むことが心地よかっただけだからかもしれない。 一度しか読まなかった本が、グサリと心に刺さったまま抜けないことがある。そんな本は二度と読みたくない、読めない。そうしていつの間にか、刺さったまま忘れてしまうことさえある。 図書館や本屋で、ふと著者の名前や正確な題名さえ忘れている本なのに、なぜか気になり開いて見ると、内容や台詞まで覚えていて、自分でも驚くことがある。森有正の表現を借りれば、慄然とする。心に刺さったナイフの痛みが急に蘇るから。 本だけでなく、音楽やテレビ番組でも似たようなことがある。ラジオから流れてきた名前も知らない曲や、偶然見かけた再放送が、ある出来事や人物のことを鮮やかに思い出させることがある。あるいは、かつては聴くこともなかったのに、大人になってからある時代の音楽を聴いて、その頃を思い出すこともある。つまり、その音楽と自分の記憶は直接関係がないのに、ある時代に流行していた音楽を聴いて、まるでその頃からその音楽を聴いていたかのような錯覚に陥ることもある。 自分が思っているほど、自分のことを知っているわけではない。それは悲しむことでも恐れることでもない。自分の世界は、自分が思うより広いのだから。自分の世界は未来だけでなく、過去に向かっても無限に広がっている。 5/11/2003書評「森有正エッセー集成2」を植栽。うまく書けたとはとても思えないが、先へ読み進むためにともかく覚書程度でも残しておくことにした。 5/13/2003書評“Bemelmans: The Life & Art of Madeline's Creator”を植栽。 書評「森有正エッセー集成2」を早速剪定。こういう思い込みの強い文章は、とにかく書き上げてしまい、あとからゆっくり手直しするのがいいようだ。 5/15/2003/THU文化的生活とは何だろう。週刊誌に、著名人が一週間の動静をどんな食事をしたかとともに随筆にして、栄養士がその食生活を診断するという連載がある。学者、作家、音楽家など、いわゆる文化人と呼ばれている人でも、売れていればいるほど、その食生活は皮肉にも文化的とはいえないほどお粗末だったりする。 このことを、正反対の地点から見れば、生活が貧しいとはどういうことだろう、となる。 5/16/2003/FRIフェミニズム批評という文章がある。文学はもとより、映画、広告、発言、あらゆる表現のなかにある、女性を抑圧する論理、いわゆる男性中心主義を、暴露する。似たような手法で、賃金労働者批評のようなものはできないか。 最近は不況と世界的な競争を背景にして「働くことはよいことだ」「再びモーレツに!」などの標語が、テレビ・ドラマやコマーシャル、新聞記事、コラムなど、さまざまな表現の場にみられる。 そうした主張は一見正論であるだけに、反論が難しい。しかし、過剰労働、サービス残業を安易に肯定するような風潮は首肯できない。しかも、こうした労働賛美の論調は労働を人生の一部として積極的にとらえる、つまり働きがいを再評価しているようでいて実は労働の可能性を狭めている。 能力主義、裁量労働制は、健康状態が不安定な人や、介護、養育すべき家族を持つ人など、労働にばかり時間を割けられない人へありがたい制度にみえるが、実際は、生活のすべてを労働に注げる人がいれば、ましてそういう人が存分に努力するほど、労働以外に生活の場を持つ人に対する評価はどうしても下がらざるをえない。 要するに、がんばることでがんばれない人を虐げてしまう。そんな風に、弱者にとってよかれと思われている制度でも、結果的に労働強化と弱肉強食に手を貸していることも少なくない。 世論も、労働に関しては奇妙な論理をもてあそんでいる。例えば、銀行や一部特殊法人の職員が受ける高給厚遇について、けしからんという批判をきく。その次にでてくる言葉は「あいつらの給料を下げろ」ではなく、「あの程度であれだけもらえるなら、こっちにもよこせ」でなければならないはず。つまらない妬みは、かえって同じ身分の労働者への評価を下げることになり、ひいては自分への評価も下げることになりかねない。 もう少し巨視的に見れば、仕事をがんばればがんばるほど、地球環境を破壊することに寄与していたり、世界のほかの人々を苦しめる結果になっている場合もある。それでも自分が生活していくためには働かなければならない。そういう、いわば混沌とした状態にある労働のあり方を考えるために、まずは現在出回っているまやかしの労働観を徹底的に批判する必要がある。 ☆
さくいん:労働 5/17/2003/SATONTOMO MOOK J CLASSIC主義 新世代日本人アーティスト・ガイド、
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碧岡烏兎 |