2/7/2009/SAT
2月最初の金曜日には自分の人生を変えるような特別な出来事が起きる。なかでも最初の金曜日が6日にあたる年には、自分のすべてを根底から変えてしまうような出来事が起きる予感がする。そう思ってしまうのは過去のある年、いや、もうここに正確に書いておく。1981年の2月6日、金曜日にそういう出来事が確かにあったから。
だから、毎年、2月が近づくと今年も何か起きるかもしれないと前々から案じてしまう。金曜日が6日にあたる年にはなおさら。
もっとも、1981年の2月6日に私の身の上に起きた出来事について真剣に考えるようになったのは、ほんの7年前のこと。
それまでの私は、あるときには忘れようとして、また忘れたふりをして、実際、まったく忘れていたときもあったし、あるときは隠そうとして、またあるときにはただただ悲しくなり、そして、あるときには、思い出すことにおびえていた。
7年前に『烏兎の庭』と題して文章を書きはじめてから、2月最初の金曜日には毎年、特別な思い出になるように休みをとり、思い出深い場所を訪ねて一人で歩いてきた。
そのときの私の気持ちは、あまんきみこ「すずかけ通り三丁目」の中で、松井さんのタクシーに乗りこみ、思い出を訪ねに行った女性と同じだった。
あるいは、さだまさしの「主人公」(『私花集』)の歌詩を借りれば、「あの頃」という名の駅を降りて「むかし通り」を歩いているような気持ちだった。
2003年2月の第一金曜日には、鎌倉から江ノ電に乗り稲村ガ崎で降りた。海岸に出て、七里ガ浜のやわらかい砂浜を、ずっと鎌倉高校前まで歩いた。そのときはまだ七里ガ浜に西田幾多郎の歌碑があることを、私は知らなかったし、すぐ近くに西田の住居が残っていることも知らなかった。彼の本も、その入門書さえまだ読んだことがなかった。
その日は、小田急線の片瀬江ノ島駅で缶ビールを一本飲んで帰った。
この日のことは、すぐ文章することはできなかった。一年後の2004年の2月、一年前の感傷的な散歩のことを思い出しながら書いた。
その2004年の2月6日には、思い出深い、そして真冬でも緑の深い学校へ行ってみた。入学試験前の春休みで静かなキャンパスには梅の花が咲きはじめていた。雑木林の奥にある、中島知久平が終戦の日を迎えた古い屋敷跡で、前の年に一年かけて読み終えた森有正の文庫本を一冊持って行き、ここで書かれた「暗く広い流れ」を読み返した。
この日は、小川の流れる、古い武蔵野の面影を残す公園で、シングルモルト・ウィスキーの小瓶を空けた。
2005年の2月は頻繁に関西へ出張していたのでどこにも行けなかった。2006年には、横浜美術館で版画展を見て、それから海岸通りを歩いた。そして、ここもまた思い出深い山下公園のあたりを歩いた。
2007年と昨年、2008年は不思議なことに何をしたのか覚えていない。日記もメモも書き残していない。
思い出せないというのも理由のないことではない。2007年2月といえば、職場が変わったばかりでまだ二日め、休暇をとるどころではなかった。そして、昨年の今ごろは、心身ともに憔悴していた。もう休みにして、どこかへ出かける元気もなく、文章を書く気力もなかった。
今年は、あえて特別なことはせず、いつも通りの週末を過ごしている。
朝5時半に起きる。濃いめのカフェオレとトースト、バナナを刻みヨーグルトと混ぜて朝食をすませる。髪を洗い髭を剃り、6時半に家を出る。大きめのヘッドホンは防寒にも役立つ。さだまさしのアルバム『帰去来』を聴く。A面最後の「夕凪」とB面最初の「童話作家」は繰り返し。これは今日だけの特別、つまり毎年の約束事。バスに乗らず、一つ先の駅まで30分歩く。
定時に退社、駅で日刊ゲンダイを買い、電車で読む。バスを降り停留所の前にあるスーパーで純米酒を一本買う。7時前には帰宅する。
土曜日は、遅めに起きてから自転車に乗ってS医院へ。体調と身の回りのとりとめのない話を聞いてもらい、いつも通り2週間分の薬をもらう。週末は昼食のあとつい横になり眠ってしまう。眠れなかったり、寝不足であるよりは、眠れるだけ眠るほうがいい。S医院の先生はそう言う。その言葉に甘えて、週末の午後はたいてい昼寝をする。
子どもたちは、めいめい思い思いの時間の使い方がわかりはじめてきたのか、親から離れた時間が少しずつ長くなり、それぞれ楽しそうに、また、忙しそうにしている。彼らは彼らなりに、自分の力で充実した時間を過ごしている。
週末はテレビを見る時間が長い。金曜の晩は『ドラえもん』の後に『奥さまは魔女』、NBAのLA・レイカーズ対ボストン・セルティックスの中継もあるので、録画しておく。土曜日は夕方から『週刊こどもニュース』『IQサプリ』、そして『刑事コロンボ』。今週は何度も見たことのある「祝砲の挽歌」だった。全話DVD-BOXで持っているのに、再放送もつい見てしまう。
規律の厳しい学校を舞台にしたドラマからは目を逸らしてしまうことが多い。去年は『バッテリー』を見ながら、千原ジュニアが演じる野球部監督の横暴な態度に演技とわかっていながら見ていられず、テレビの音の聴こえない部屋に閉じこもってしまった。それでも、「祝砲の挽歌」は何度見ても不思議と嫌悪感が湧いてこない。
ピーター・フォークとパトリック・マッグーハンが演じた刑事と犯人の関係を越えた信頼関係が、ドラマに穏やかで人間味の溢れる雰囲気をもたらしている。解説書にもそう書いてある。
このドラマを安心して見ることができるのは、この作品で描かれているような風景を自分の眼で見る前に、ドラマとして見ていたからかもしれない。
こうして「いつも通り」の週末が、もう半分終わろうとしている。
2月6日の金曜日にあえて特別なことをしなかったのは、この、今の暮らしが、ずっとあとになって振りかえれば、特別なものだったと思うことがわかっているから。
「いつも通り」と書いたけれど、こんな風に週末を過ごすようになったのは、それほど前からのことではない。この「いつも」は2年前に始まり、まだ2年しか経っていないのに、もうすぐ終わることがすでにわかっている。
3月には、また新しい暮らしぶりがはじまり、やがてそれが「いつも通り」になるだろう。今の時点で、すでにそう予想できることは、世の中全体を見渡してみれば幸運なことに違いない。
そう、この冬、私は職を失った。正確に言えば、まだ条件闘争の最中にあり、まだ職を失ってはいないが、近々失うことはわかっている。でも幸いなことに、もう次の職は見つかっている。それがどれほどたいへんなものか、どれほど続くものなのか、まだわかっていないけれど。
2月6日が金曜日となる冬に、私は、また一つ大きなものを失った。前のときと違うのは失くしたものは取り替えることができるもので、代わりもすぐに見つけられたこと。
考えてみれば、招待状か召集令状なのかはともかく、新しい「いつも通り」を決める手紙が、今日届いたのだから、また一つ、私を一変させる2月6日が増えたことになる。
1981年の2月に、私は、とても大きなものを失った。それと引き換えに何かを得ただろうか。何かを得たとすれば、それは、「生きるかなしみ」と名づけることのできるものだったかもしれない。「いつも通り」という言葉は、それ以来、私にはもう「しばらくの間」と同じ意味でしかない。何一つ、「いつも通り」に続いていくものはないことをその時知ったから。
1981年の2月6日に私が得たものに名前をつけることはできるのかもしれない。でも、結局のところ、その名前は私が失ったものの裏返しでしかない。しかも、あるいは、それなのに、私はあの時失ったものの名前をまだ呼ぶことができないでいる。
呼んでみたところで、誰一人、その声を聞く人はいないだろう。そんな風に思い込んでいるところに、私の心理の致命的な問題がある。
引き換えにもらえるものなどいらない。もしあのとき失うことがなかったら、人生の深みなど知らないまま生きていたほうがよかった。「生きるかなしみ」も人生の深みも、知らないですむものならば、そのままでいたかった。
私が問いたいことは、「しばらくの間」ではない「いつも通り」というもの、どんなときにも、同じように自分を支えてくれる「日常」というものはありえるのか、ということ。「我々の最も平凡な日常の生活が何であるかを最も深く掴むことに依って最も深い哲学が生れる」と西田幾多郎は言った。きっと、その通りなのだろう。
「信じる」「信仰」と呼ばれる境地が、そこに交差しているのかもしれない。でも、それはまさしく“いつも通り”、確信ではなく、予感でしかない。
一つの「いつも通り」、一つの「日常」が終わろうとしている。次の「いつも通り」、次の「日常」がはじまるまでの幕間は短い。何か手がかりが見つけられるとは思っていない。いまの私にせめてできることがあるとすれば、この、あまりにも短かった「いつも通り」を見届けることだろう。
写真は小春日和の公園。あの日も、こんな風に穏やかな天気だった。だから、何も知らずに校庭でサッカーをしていた。途中でボールをぶつけて眼鏡を壊し、あわてて家へ帰ったことを覚えている。
そこで、私は唐突にその報せを聞かされた。
さくいん:さだまさし、日常、NBA、『刑事コロンボ』、西田幾多郎
2/14/2009/SAT
なぞの転校生(1975)、NHKソフトウェア・アミューズピクチャーズ、2001
『つぶやき岩の秘密』のDVDを買った時、同じNHK少年ドラマシリーズの作品『なぞの転校生』も一緒に買った。
今回、印象に残ったのは、主題曲。口笛のメロディが番組の前後だけでなく、ドラマのなかでも何度も流れる。最近、井上順が司会するオールディーズのテレビ番組で口笛世界チャンピオンを見たせいもあり、子どもたちは口をすぼませ、練習をはじめた。
作曲は池辺晋一郎。少しあとに放映された『未来少年コナン』の音楽も手がけている。そう気づいてから聴いてみると、『なぞの転校生』の主題曲は『コナン』のオープニング、西暦2007年に起きた超磁力兵器による世界戦争を説明する場面で流れる音楽に似ているような気がしてくる。
もう一つ、気づいたこと。「ボクはケンカがダイキライなんだ」とずっと思っていた転校生山沢典夫の台詞。上級生に絡まれたとき、彼が発した言葉は、「ケンカ」ではなく「暴力が嫌いなんだ」だった。長い間、思い違いをしていたらしい。ドラマをすべて見てみればよくわかる。山沢典夫が恐れていたのは「ケンカ」などという生易しいものではなかった。
核戦争を体験していた同級生。SFの設定は、ありきたりな体験談よりずっと現実味をもって、テレビを凝視する70年代の少年少女たちに迫ってきただろう。
でも、21世紀の少年たちには、山沢典夫の体験談も響かなかったようにみえた。それとも、何年かあと、ヒロシマ、ナガサキという言葉が街の名前以上の意味をもっていると知ったとき、彼らは違った気持ちでこのドラマを見かえすことになるだろうか。
DVDが手近にあれば、見なおしてみようと思ったときに、見なおすことができるだろう。
西田幾多郎記念哲学館の感想文に、西田と夏目漱石の簡単な比較を加筆。初稿からあった断片をようやく一区切りの文章に仕上げた。新しい節には、哲学館で撮った西田博士の銅像の写真を挿入した。
写真は、公園に咲いていた蝋梅。
2/21/2009/SAT
わずか2年のあいだに倒産による解雇と業績悪化による整理解雇を喰らう(この場合「受ける」という言葉では衝撃は伝わらない)ということはきわめて稀な体験だろう。図らずも体験を通じて知ったこと、学んだことも少なくない。ここで体験を基にしながらも、一般論に近づけながら解雇について考えておきたい。
実際は、会社はそれほど深刻な業績悪化に陥っていたわけではない。使えない人間と気に入らない人間を一掃する「首切り」に過ぎない。だから、彼らは最後まで解雇とは言わず、「合意に基づく自主退職」と言い続けた。それでも何とか離職票に「会社都合」という文言を入れさせることはできた。そこにこぎつけるまでにもかなりの交渉を要した。
日本では、法律からも判例からも、解雇、とくに大人数を一度に対象とする 整理解雇いわゆるレイオフは、そう簡単にはできないようになっている。ただ、簡単にはできないだけで手続きを踏めばできないわけではない。また、手続きが煩雑なために、雇用側は手続きを回避しながらレイオフをしようとする。慣れない業務への配置転換や転勤を押し付けて辞めたくなるように仕向ける。
窓際だろうと、自ら辞めてしまうまで人を雇っておく余裕のある大企業はそういうことができるだろうし、世間への体面から表ではレイオフをしないと表明しながら、裏ではいわゆる「社内いじめ」のようなことをする。ここに、日本的な「本音」と「タテマエ」の二元論を見ることもできるだろう。
いっそのこと、基準を明確にし、レイオフを法的にやりやすくにしようという話題もときどき持ち上がる。加算退職金を月給20か月分支払うことを整理解雇の条件とするという政策議論を聞いたことがある。まだ、そうした法令は施行されていない。
自分の体験から言えば、レイオフができる経営状態の基準と、レイオフされる場合に被雇用者が得られる条件を明確にしておいたほうが、雇用者と被雇用者双方にとって、時間的、精神的な負担や苦痛は減少するのではないかと思う。その場合、雇用者側に金銭的な負担が大きくなるのは当然だろう。それは、安易なレイオフへの抑止にもなる。
現実に存在しているものを理想論に基づいてまるで存在していないかのように振舞い実態としては何の縛りもなく、野放しにされているか、あるいはせいぜい現場にいる者の良心に任されているという点では、売春や賭博、学校教育での体罰に似て、日本社会に特有の性質の一つ、あるいは日本人の法意識の特徴と言えると思う。
写真は、横浜ランドマークタワーの最上階、70階から見渡した横浜港の全体。左上にベイ・ブリッジ、右上に氷川丸、中央に大桟橋、その下に赤レンガ倉庫、右手前に貨物の引き込み線を遊歩道にした汽車道が見える。
先月の連休、みなとみらいに一泊し、新装なった氷川丸に乗船して、船内を見学した。海岸通にある日本郵船歴史博物館へは行ったことがある。そこにも、1920年代の豪華客船のメニューや食器、船室の写真などが展示されてあったけれど、ほんものは違う。昔日の豪華客船の船旅の雰囲気を十分味わうことができた。
横浜の写真を眺めていたら、小田和正「MY HOME TOWN」が聴こえてきた。小田とは直接の関係はないけれども、雑評『風街図鑑 松本隆作品集』に「MY HOME TOWN」のことを追記した。
2/28/2009/SAT
束の間の猶予期間に
前の会社の最終出勤日のあと、次の会社の初出社日までにしたこと、行ったところ、読んだ本のことを書いておいた。
猶予期間、モラトリアムと書いてしまうと、まだ始まってもいないのに、次の仕事にまだ十分前向きになれないでいることがわかる。かといって、ひと月ふた月休んでしまったらサラリーマン生活への復帰にはさらに長いリハビリが必要になってしまうだろう。
助走期間、せめて充電期間とすべきだったか。
いや、始まる前から張り切りすぎてもいいことはない。いずれにせよ、大川栄二の言う「心の洗濯」は十分にできた。先は長い、長くあってほしい。落ち着いて、ゆっくりと新しい「日常」をつくりはじめよう。
写真は、曇天の七里ガ浜で撮影した江ノ島。ここも、人生の転機があるたび帰ってくる場所のひとつ。
休暇の最後は鎌倉で海を眺めたあと、両親の住む家に帰り、一人泊まった。ビールとワインとモルト・ウィスキーをあけ、機嫌よく繰り返す、何度となく聞いた話――万博のときお前はもうおしめはしてなかったとか、ウィーンでは路面電車の回数券が便利だったとか2人めの子が生まれる直前、5人でベルギーへ行ったときには、まだ幼かったあの子は、ブリュッセルのレストランで、メイン・ディッシュを待ち切れずオレンジ・ジュースを飲んだだけでテーブルの下で眠ってしまったとか――を聞いた。
翌日は3人で出かけ、汐留ミュージアムの企画展『ルオー収蔵作品展 色の秘密』を見た。ここでも、今回、引きつけられたのは青の使い方だった。
私には絵は描けない。でも、ウェブ上の色使いならまだ試すことはたくさんある。いい教科書も持っている。時間をかけて、ほんとうに気に入ることのできる青を探そう。
白と黒のそのあいだに無限の色が広がっている(Mr. Children「GIFT」)
紅白歌合戦以来、GreeeeN以外にも、Mr. Children、アンジェラ・アキ、いきものがかり、EXILE。これまで聴いていなかった新しい歌も繰り返し聴いたりしている。
さくいん:『紅白歌合戦』、GreeeeN、Mr. Children、いきものがかり
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