体罰、より正確に教員の暴力について |
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甲子園大会優勝校での体罰事件が報道、ネットで話題になった。この件だけではなく、学校での教員から生徒に対する暴力はあとをたたない。定期的に事件になり、報道されている。最近では、程度の大小に関わらず新聞に載ることがある。親が神経質になりすぎているのか、社会が暴力に敏感になっているのか。 「子どもの権利条約」という言葉も以前より知られるようになった。それでも報道されたり摘発されるような暴力的な体罰は根絶されてはいない。 最近の事件や処罰の報道をみていると、もし、私の通っていた中学校の実態が公開されていれば、ほとんどすべての運動部は公式戦には出られなかったろうし、教員の半数近くは免職になったのではないかと思う。実際は、懲戒処分を受けた教員はいなかったし、公の場で告発をした生徒もいなかった。 中学時代のことは思い出したくない。年々、その思いが強まっている。記憶の濾過作用は美化だけではない。体罰についての報道を見聞きするたび、言い知れない憤怒と嫌悪と吐き気のような不快感が胸元をせりあがってくる。 これから書いていくのは、体罰の是非を論じる文章ではない。感情的な意見はむき出しになるだろう。体罰と暴力について冷静に考えることが、私には、まだできない。これから書いていくのは、明らかに暴力としか思えない体罰を受け、そして目の当たりにし、そうしたものが日常的に行われる極度に緊迫した空間で三年の間を過ごした人間が、そのことについて思い返す内面風景の素描にすぎない。 体罰が皆無という学校は、むしろ少ないだろう。私が通っていた中学校が異常だったのは、暴力的な体罰が日常的に行われていたこと。運動部では、負ければもちろん、勝っても試合の内容が悪いと殴られる。ふだんの教室にも、緊迫した空気がいつも充満していた。それは、いつ教員が「切れるか」予測がつかなったから。 機嫌がいいときは、自分本位に冗談を撒き散らし、機嫌が悪ければ、教科書を一人忘れただけでその時限ずっと怒鳴り続けるということもあった。生徒の身体的な特徴を罵声であげつらうことも珍しいことではなかった。名札の文字が小さすぎると怒り、女生徒の胸元の名札をつかもうとし、反射的に身を引いたその生徒をさらに罵倒する光景も記憶に残る。 私自身の体験では、掃除のあと、ゴミ箱を片付けるのが遅いと殴り飛ばされ、コンクリートの壁に強く叩きつけられたことがある。数年後、福岡の高校で殺人事件が起きたとき、打ちどころが悪ければ、私もあのまま殺されていたかもしれないとあらためて恐ろしくなった。 この日のことは、いまでもときどき夢に見る。ひたすら殴られていることもあれば、殴り返そうとするときもある。どちらも、目覚めは悪い。べっとりした寝汗と喉の渇き。 どうして、そんな風に極端に感情的になるのか、今になってもよくわからない。異常人格者だったのか、教員たちに異常なストレスが加わっていたのか。暴力を振るうのは一人二人ではなかったから、学校全体が異様な空気に包まれていたことは間違いない。それが、不安と恐怖をかきたてていた。 学校が谷戸のどん詰まりにあったことも閉塞感を高めていた。忘れ物をしたら授業で不便になるというよりも、忘れ物をしたら何かたいへんなことが起きるという恐怖感が先立った。中学時代を思い出そうとすると、いつも空が鉛色だったような気がする。 学校全体が暴力に支配されていたのは、暴力の連鎖があったから。教員生徒の間にではない。教員からの暴力に対し生徒からの報復はほとんどなかった。もうそれができるような状態ではなかった。ツッパリと呼ばれるような生徒も数人はいたけれど、彼らだけが暴力の標的になっていたわけではない。優等生だろうと目立たない生徒だろうと、誰でも突然、ささいなことでターゲットになった。 そのかわりに、教員たちの間に暴力は連鎖的に広がった。なぜなら殴る教員がいるせいで、生徒は教員が殴りだしたときに本当に怒っているとみなし、つまり、殴っていないときや、殴らない教員はまだ本格的には怒っていないと思うようになっていたから。 おそらく教員たちの中でも、鉄拳を下さない同僚は「甘い」と見下されていたのではないか。実際は、暴力があるせいで、言葉による説得や、態度で示す地道な指導の意味は薄れ、ますます暴力に頼る制裁が広がっていった。 いま、あの教員たちに会ったら、彼らは何と言うだろう。憶測に基づく反応。 人数が多かったのだから、学級を安全に運営するためには必要だったんだ。 感謝こそされても、お前にそんな風に言われるとは、先生は悲しいよ。 最近はやってないよ。時代も変わったし。オレも年をとったし。 殴ることもできない、ひ弱な奴もいただろう。授業にならない学級崩壊より、静かな授業でよかっただろう。お前もそのおかげで勉強できたんじゃないのか。 今でも殴るよ、必要があれば、信念に基づいてな。愛だよ、愛。 そういう教員が、人権や平和を教室では唱えていた。そういう教員が、今でも国旗や国家の強制は国家体制による暴力と反対してはいないだろうか。学校では、「教員のストライキの権利にご理解を」という文書がときどき配布されてもいた。 「世界人権宣言」は公民の授業で名前だけは聞いていたけれども、「子どもの権利条約」はまだなかった。あればどうだったろう。「教育委員会に訴えたってムダだぞ」という脅し文句を聞いたこともある。 あの頃、インターネットの掲示板があったとしても、訴え出ることはできなかったかもしれない。保護者のなかにも苦情を訴えた人はほとんどいなかった。私たち生徒は、ある意味で人質だった。教員たちのつくる内申書で三年後には売られていく契約になっていたのだから。 いま私が彼らを街角で殴れば、私は傷害罪で逮捕される。しかし彼らは当時、逮捕はもちろん、告発もされずに、そしてすべては時効になっている。告発しなかったほうが悪いのか。 余命を宣告されたら、彼らを一人一人訪ねては報復して歩こうか。それとも、今からでも教員免許を取り、奴らの子が通う学校を探し出して赴任し思う存分“愛のムチ”を与えてやるか。深酒をした晩にそう思うこともある。 それは間違っているとわかっている。間違っているとわかっている犯罪を夢想してしまうのは、一体なぜか。どうすれば、その考えがわきおこること自体を止められるか。 中学を卒業してから何年も経た後、当時の教員の一人にある結婚披露宴で会った。驚いたのは来賓の控え室で見た彼の服装。黒い礼服に白い靴下という取り合わせに、こんな常識知らずに指導され、そのうえ暴力まで振るわれていたかと思うと、情けない気持ちと腹立たしい気持ちがこみ上げて、当時の彼らの流儀で罵倒したくなってきた。 おい、お前、ちょっとこっち来い。何で呼ばれたのか、わかってるだろうな。 理由も言わずにまず殴る。理由を言ってまた殴る。逃げ場のない詰問。意味のない、そして期限のない罰。奴らのやり方は、私の身体に染みついている。 この夢もよく見る。 教員の暴力は、ヤミ献金などの政治家の汚職事件によく似ている。 報道されても、氷山の一角と多くの人が思っている。 ある程度はなければコトが進まない、必要悪と思っている人が少なくない。 告発された人が「運が悪かった、やり方がよくなかった、たまたま貧乏くじを引かされた」と思われることがむしろ多いくらい。 告発した人は「お前も甘い汁を吸っていたのに」と言われたり、「不正を正す以外にも、何か理由があったのではないか、もとから組織から浮いていたのではないか」と囁かれたりする。 要するに、加害者も被害者もそれから傍観者も、それが明確に法律に違反しているという意識に欠けている。 実務上は程度問題であっても、法律上はそうではない。法に違反している以上、違反者は裁きを受け入れなければならない。皆がやっていると泣いても、警官はスピード違反を許してはくれない。 見つかったことが悪いのではない。やったことに罰を受けるリスクが含まれていることに、違反者は気づいていない。 暴力的な体罰と政治家の汚職事件。最大の共通点は、事件を隠蔽する共犯関係。 当時は「でも・しか」教員という言葉があった。不景気の時代に、「教員でもやるか」、「教員しかない」といういい加減な気持ちで教壇に立った人々を揶揄した言葉。しかし暴力教員に「でも・しか」は少なかった。職業に迷いや不安があれば、職業上無能になることはあっても、独善にはなりようがない。確かに、生徒の側からみても、明らかに教員としての資質や技術に欠けている人はいた。彼らもまたダメ教員ではあったけれど、暴力教員ではなかった。 暴力教員は、むしろ意欲にあふれた、教職を天職と信じているような熱血漢に多かった。彼らは自分が信じてしていることが正しいことと思い込み、間違っているかもしれないとは露ほどにも思っていなかったように、今からふりかえると感じられる。教育にたいして夢が先走り、感情を爆発させることを情熱と勘違いしていることに気づいていなかったのではないか。 暴力教員は熱血ではあるとしても、熱心とは限らない。 彼らがしばしば「いい先生」と言われるのは、生徒が抱いていた恐怖心のせいだったのではないかと思う。誘拐犯や立てこもり犯に対して人質は次第に従順で同情的になるという説を聞いたことがある。それとおなじ心理状態だったのではないか。媚びるような人気は、教員が切れないようにするための、無意識の懐柔策だったのかもしれない。 今でこそ、私は殴られたことに怒りを抱いているし、その教員たちには二度と会いたくないと思っている 。でも、当時はそれほど苦痛を自覚していなかった。熱心と認めてさえいた。それでいて、この苦しい時間を何とかして切り抜けたいとだけ願っていた。そうして3年間が過ぎた。部活も辞めずに続けた。一年生の最初には20人以上いた部員で、三年生の夏まで残った者は5人にも満たなかった。だから最後まで続けたという充実感があった。しかし、この充実感は間違っている。この充実感は、不正を見過ごした自分を、不正を我慢した自分にすりかえた開放感だから。 大会に出られなくても、ずっとそのスポーツを続けたくなるような楽しさや、どこへ行ってもそれでメシが食えるような技能を身につけられるのなら我慢にも意味があるかもしれない。非科学的な練習、恐怖心をあおる精神主義、楽しみのないスポーツであれば、親さえ納得すれば、やめる人がいるのは、むしろ当然。 ところが、試合にでられて、部長として部の運営を任されていた私は、辞めていく者は、努力をしない敗残者とさえ思っていた。しかし私のほうこそ、不正に負けていたのではないか。三年間続けたといっても、何かを達成したのではない。不正を正すことも、暴力に抗うこともせず、びくびくしているまま、時間切れになったに過ぎない。 今回の事件から考えてみる。程度はどうであれ、現行法上は違法とみなされる暴力的な体罰が行われていた。体罰を受けていたのは、たぶん一人だけではないだろう。それでも、ほとんどの者は我慢をしていた。なぜなら我慢をしなければ報酬を得られないから。特待生、ベンチ入り、レギュラー、推薦入学。 報酬を得られなかった者が告発したと言われている。報酬を得られていれば、告発はしなかったかもしれないという意見も聞く。では、報酬の配分が間違っていたのだろうか。何ら報酬がなくても、「よくがんばった」という労いの言葉があれば、告発は避けられたのか。それで、すべて丸く収まったのか。 企業や政治の不正の場合、秘密を共有することが隠蔽を助ける。「お前も甘い汁を吸っただろう」という脅し文句が内部告発を抑止する。末端は抜けられない程度に縛られ、嫌にならない程度にアメがもらえる。だから、告発者は裏切り者呼ばわりされ、おこぼれに与れなかった敗残者と思われる。 私の中学校でも、ごくまれに教員に苦情をいう生徒や保護者がいた。彼らは、むしろ順応できない人間、一人だけ不平をさらす変わり者とみなされていた。黙っていることが、一番いいことだった。 その恭順の結果が志望校の承認という目に見える形になった。教員に嫌われた生徒は、思い通りの志望校を受験することを認めてもらえなかった。その一方で、部活動や委員会活動を熱心にした生徒には、通知表の数字とは別に「特記事項」というボーナス点がついた。 何も得られなかった生徒にも、「三年間、がんばった」という見えない勲章が与えられた。何にがんばったのか? 暴力の隠蔽に! 優しい友人は「お前はそんなにイヤな奴じゃなかったよ」と言ってくれるかもしれない。その言葉はほとんど慰めにならない。この問題は、性格とは関係ないから。問題は、虐げる側にいたか、いなかったか、ということ。こういう構造の世界に押し込められ、そこで生き延びた悔恨と憤懣を抱えたまま、ずっと生きていかなければならないところに深刻さがある。 数少ない中学時代の友人もほとんどつきあいは途切れてしまった。彼らと会うことが恥ずかしく、腹立たしく、そして、息苦しい思い出ばかり募るから。それどころか、その後の学歴も職歴も、すべて嘘の上に重ねてきたような気がする。 これも間違っている。わかっていても、気持ちは変えられない。 勝者は、勝った理由を口にしない。暴力支配が正しかったのかどうか、彼らは問題にしない。そんなこととは無関係に彼らには実力があり、それを認められて抜け出していったのだから。 例えば、プロ野球から指名されるような実力者は、暴力に耐えたからとは考えない。彼らは野球というスポーツの実力を認められて選ばれるのだから。暴力を我慢したくらいで勝ち抜いていけるほど、プロの世界は甘くない。 そうでない者、スポーツを根性を鍛える場としか思わない者、いや、そう思うしかないないような程度の実力しか持たない者が、敗れ去った者を糾弾する。 お前たちは根性が足りなかったんだ。オレを見ろ、三年間がんばったんだぞ。 がんばった? 何を? 我慢することを? いったい何に? 暴力に! 勝者は勝った理由を語らない。勝った理由を知っているから。彼らは、自由に選ぶことができる。開き直ることも、感謝することもできる。これがオレの実力だとも言えるし、皆のおかげだよとも言える。だからほんとうの勝者は、敗者を糾弾したりしない。その必要はない。勝負は明快についているのだから。 敗者は、告発することができる。泣き寝入りすることも、悔しいけれど彼らの選択肢になる。逃げ出すことは、もちろん一番有力な選択肢。 中間にいる者は、どちらも選べない。彼らは不正の傍観者だから、また暴力の受益者だから。彼らは、いや私は、暴力を見過ごすことで、自分の生存と将来を確保した。 暴力の受益者は、直接の加害者ではないから開き直ることも、感謝することも懺悔することもできない。彼らは部分的には被害者ではあるけれども、敗者ではないから、告発することもできない。 だから彼らは敗者を非難する。殴られるには理由があるとか、根性がないとか、スポーツとは理不尽なものとか、いやなら辞めろ、辞めておけばよかったとか。 そういいたいのは、自分が勝者になれなかった理由を知りたくないから。認めたくないから。不正から目を背けたことを、我慢したことにすりかえたいから。勝ってもないのに、負けたと認めたくない人が、ほんとうに負けた人を糾弾し、一段高い場所を確保しようとする。 勝者には、世俗的な栄光が与えられる。告発者は政治的経済的な救済を求める。現実に得られることは少ないけれども、理念的にはありうる。敗者には世俗的な慰めもあるかもしれない。立ち去った者にとっては、新たな場所を見つけられるならば、一つのゲームから降りたことは、必ずしも不幸の印ではない。 暴力の受益者は、自分が不正の傍観者で、狡猾な生存者であることに気づいたとき、ただ茫然とするしかない。彼らには、いったい何が待っているのだろう。 世俗的な栄光もなく、政治的社会的な救済もない。別のゲームに移ることもできない。隠遁の逃げ道さえない。彼らは、勝ちも負けもなく、同じ場所につながれている。 この人たちこそ、心貧しい人たち、と呼ばれるものかもしれない。心貧しい人には、何が待っているのか。 ある人が信仰と呼ぶようなものか、別の人が思想と呼んでいるようなものか。名前は何でもかまわない。前もって知るよりは、後からつけたほうがいいくらい。 でも、何かが待っていると信じたい、勝ち取るというものでもなく、時間切れで配分されるものでもない何かが。 祈るか、耐えるか、それとも待つか。それもまた、どう名づけようと、問題の本質には関係ない。少なくとも、それは黙って我慢することとは違う。 まずは、この文章を書き上げること。その時までの時間をつぶすために、私は文章を書いている。 |