3/3/2007/SAT
新しい文章を植栽。
- 日高理恵子展、小山登美夫ギャラリー、清澄白河、2007 2.9.07
- 終わりを待つ――2006年書評・雑評補遺 2.17.07
- 石原吉郎全集(Ⅰ(詩)、Ⅱ(評論・随筆)、Ⅲ(俳句・短歌・対談・書簡・補遺)、鮎川信夫・粕谷栄一編、花神社、1979 2.24.07
三週間、箱庭には書かないでいた。新しい「日常」がはじまり、周囲の変化があまりにめまぐるしいので、何も書くことができなかった。ほかのサイトを見る時間もほとんどなくなった。『森有正エッセー集成』の語彙集にも手を付けていない。
新しい名刺、新しい背広、新しい散歩道、新しい携帯ラジオ、新しい図書館カード。こう連ねると、Billy Joel, “A Scene From An Italian Restaurant”(“The Stranger,”CBS SONY, 1976)の一節に似ている。一つだけ違うこと。歌詞のおしまいにあったのものは、私にとっては変わらずにいる。
新しいラジオは、予約録音機能が便利。録音しておいた『ビバリー昼ズ』や『パカパカ行進曲』を朝夕、通勤の途中で聞ける。大人のドジ話と宮川賢の高笑いを満員の電車のなかで黙って聞くのは、かなりの苦行。
解放感と虚脱感、緊張と興奮、期待と不安。そういうものの入り交じったなかにいると言葉を失う。このまま文章を書く習慣を失うのではないかという不安さえある。
ただの思いつきや無理をしてひねり出した感想を書くくらいなら、書けないという事実だけを書き残しておいたほうがいい。そう考えて2月はまるまる空白にした。
箱庭以外の本文も予定していたものすべては書けなかった。時間のたっぷりとあった1月には、高山右近ゆかりの場所や西田幾多郎の生地を一人で訪ねた。このとき考えたことを書くのは、もう少し先になりそう。
ほかにも、この三ヶ月のあいだにはいろいろなことがあった。はじめてオルガンのコンサートへ行き、バッハ作曲「トッカータ、アダージョとフーガ、ハ長調、BWV564」を聴いた。横浜に小旅行して日本丸に乗った。それから宇都宮の美術館で『清水登之のすべて』を見た。おそらく最後になると言われたBilly Joelの来日公演には残念ながら行けなかったので、行けた人に話を聞いた。
先週は、特別番組でそらまめさんこと滝良子の声を聴いた。彼女の声を聴くのは実に23年ぶりとのこと。テーマ曲「Shining Sky」も懐かしい。
最終回、「ナイトランディング」と呼ばれる最後の曲が中島みゆき「時代」だったことも、さだまさしの人気投票をすれば、一位はいつでも「主人公」、オフコースでは「秋の気配」だったことも、この23年の間、思い出すことはなかったけれども、忘れてはいなかった。
なつかしい声を聴いて、彼女の声を毎週聴いていたころ、毎日聴いていたもう一つのなつかしい声も思い出した。その記念にそらまめさんのことをふと思い出した日の日誌に「あの頃」という言葉を刻み込んでおいた。
忘れたわけではない、思い出していないだけ。だから、努力と工夫の次第では、もっと上手に思い出せるようになるものかもしれない。
「終わりを待つ」という文章は、最近読んだ『終わりのなかに、始まりが』(“Im Ende-der Anfang,” Jürgen Moltmann、蓮見幸恵訳、新教出版社、2005)の短い要約と感想でもある。
モルトマンが読める図書館は多くない。近所にある図書館には、まったく置いてない。もっともモルトマンの著作そのものを読んだことはなかった。研究書のなかでその名前を知り、引用された言葉がいくつか印象に残っていただけ。今回も、いくつかの言葉を書きとめた。
(前略)驚きの人として、再び生きる勇気を得るなら、その時、痛みの鎖がうずき始めるということです。しかし痛みは、すべてがどうでもよくなって、人が生きているより死んでいるようになる無感覚な諦めよりは、もっとよいのです。(「第Ⅱ部 私の終わりに私の始まりがある 第一章 破局の中に新しい始まりが 聖書的破局の神学――私自身の経験」)
ここでも、痛みを感じることが、卑俗な言い方をあえてするなら「前向きに」生きる力となることが指摘されている。
この本は1月のある日、ふだん行くことのない大きな図書館で手に取り、あとから購入した。この場所には、3年前には2月に行った。今年は2月には忙しくなることがわかっていたので、少し早めに行った。図書館のわきの広場には、もう梅が咲きはじめていた。
写真は、そのときに見た一分咲きの梅の枝の木洩れ日。
3/10/2007/SAT
ウルトラマンメビウス
『ウルトラマンメビウス』に、レオ、80、エースに続き、モロボシダンとウルトラセブンが登場した。物語は、「第39話、第40話 セブン暗殺計画」を下敷きにして、十字架に閉じこめられたセブンの画像もフラッシュバックのように挿入されていた。
ダンからミライへの伝言は、「見つけた仲間を大切に」、つまり「仲間のために生きろ」だった。「僕のような悲しみを味わうことのないように」といった言葉もあった。
今回でははっきりと、秘密を告白して去ったセブンに対して、秘密を知られてもとどまり秘密を理解してくれる仲間と生きる姿勢が対比されていた。
ダンを中心にしてアンヌとの関係を軸にする『セブン』に比べると、『メビウス』は異なる人物が毎回中心となり、群像劇となっている。最近は、登場人物のキャラを際立たせて物語をつくるシナリオが多い。『メビウス』に限らず21世紀のドラマから見ると、60年代の『セブン』は主人公偏重、かなりベタなドラマにも見える。
主人公を太陽にして、ほかはあくまでも脇役のドラマと、それぞれが持ち味を発揮するドラマ。どちらがどうというものではない。にしても、最近は後者が圧倒的に多く感じる。
『セブン』は、深夜の再放送を『ドラゴンボールZ』とセットで録画して見ている。今週は、「第34話 蒸発都市」。今年はウルトラセブン放送40周年。セブンづいているので、上映年が同じ『007は二度死ぬ』の感想にもセブンの名前を入れた。
ほかの剪定。
久しぶりに四谷へ行ったので、新宿歴史博物館から遠藤周作『深い河』へ四谷という言葉でつないだ。昨年の後半、用事ができて頻繁に四谷へ行き、用事の合間に聖堂で静かに座る時間をもった。もう四谷へ行く用事がなくなってしまったので、しばらく、あの聖堂に座ることもないだろう。
四谷は言ってみればカトリックの門前町。専門書店も何軒かある。英語とフランス語の聖書、それから『キリストにならいて イミタチオ・クリスチ』も、去年この街で買った。
写真は、横浜みなとみらい、日本丸のデッキから見た水面。
メフィラス星人とウルトラマン、宇宙人通しの40年越しの口げんかを見ながら送信。
3/17/2007/SAT
海野弘
海野弘をまとめて読んでいる。日経新聞日曜の文化欄で最近、自伝を上梓したことを知り、さっそく図書館で『歩いて、見て、書いて――私の一〇〇冊のたび』(海野弘コレクション3、右文書院、2006)を借りてきた。
海野弘は好きな作家の一人。『カリフォルニア・オデッセイ』(グリーンアロー出版社、1999)など、図書館で借りて何冊か読んでいる。でも、これまで感想を残しているのは、『パリ 都市の詩学』(海野弘文、村井修写真、河出書房新社、1996)の一冊。
何かを書き残しておきたくなるほど、ガツンと心に突き刺さるわけではない。けれども、定期的に海野の文章を読みたくなる。都市、酒場、書斎、デザイン、世紀末、そういった彼の関心事、彼が好きで調べて書いたことを読みたくなる。
新聞で自伝と紹介されていた新著は、一言で言えば、物書きとしてのキャリアの軌跡。これまで書いた本を一冊ずつとりあげ、興味の移り変わりを時代や自分自身の生活の変化を背景にしてたどる。社会人になる前のことも、著作の回想のなかに織り込まれている。
ほかの本に現われない一本気なところがこの本ではよくわかる。企業に依存しない、大学教授にならない、写真を出さない、対談をしない。要するに文化人気取りをしない。書くことだけで勝負し、生活してきた職人といってもいい矜持。海野の存在がどこかしら謎めいていたのは、彼自身が露出を抑制しているからだった。
最近は一つの主題を丹念に調べた大作が多い。初期の作品は、雑誌連載をまとめたものが多かった。グラフ誌や企業のPR誌などが減って、連載から書き下ろしへと仕事の仕方を変えざるを得なくなったと書いている。
じっくり読む読書もいいけれど、雑誌のようにぱらぱら眺めながら読むのもいい。彼の作品は、そんな風に眺めているうちにいつの間にか読み終えていることが多い。
『歩いて、見て、書いて』のなかから興味を引いて今回借りてきた本。
- 酒場の文化史、、サントリー博物館文庫、1983
- ヨーロッパの魅力、丸善、1991
- 書斎の博物誌、PHP、1994
- 美術館感傷旅行 45通の手紙、マガジンハウス、1997
- 書斎の文化史、TBSブリタニカ 1987
- 日本図書館紀行、マガジンハウス、1995
- 陰謀の世界史(2002)、文春文庫、2006
文章のところどころで、私も興味をもって調べたり読んだりしている名前に出会うことも海野の文章を読む楽しみの一つ。脇田和、松本竣介、野田英夫や清水登之、伊藤整、アーサー・ランサム、ケネディ、それからプルースト。
海野弘の物書きとしての出発点は、平凡社の『太陽』だった。小さいころ、私は一人でこの雑誌をよく眺めていた。彼の文章には、写真はなくても、今もなつかしいグラフ誌の匂いがする。
写真は、摩天楼から見下ろした横浜、ベイブリッジ。
さくいん:海野弘
3/24/2007/SAT
しばらく聴くことのできなかった毎週火曜日朝、TBSラジオの荒川洋治の文学コラム。携帯ラジオを買ったので、歩きながら聴いたり、録音して夕方電車のなかで聴いたりしている。
今週の話題は、鶴見俊輔がヘレン・ケラーに会ったときに聴いたという“unlearn”という言葉。原義では、「一度学んだことを忘れる」ということらしい。
荒川は、鶴見の「学びほぐす」という訳語を頼りに生涯学習へと話題を広げた。私は、“unlearn”という響きから、少し違う感想をもった。
「返す」にしろ「ほぐす」にしろ、学ぶという行為に重点があることは変わらない。そしてその姿勢について意味を広げている。しかし原義に従えば、この言葉の肝は、“untie”(解く)のように一度学んだことを“un”する、つまり、忘れるということに重点が置かれているのではないか。
学んだことは、外から受け入れたものとしてではなく、身についたものと、内から染み出るものにならなければ、自分の能力として活かすことはできない。
言葉がもっとも典型的。母語を話すとき、活用を頭に浮かべる人はいない。いつまでも「三単現のS」などと考えていては英語を使えているとは言えない。学んだことをすっかり忘れているからこそ、自分の身体の一部として、あたかも自然に身についていたもののように使いこなすことができる。
“unlearn”という言葉には、学んだことを一度忘れる、忘れたと思うくらいに身体になじませる、という含意があるように思う。
少し話をずらす。ここからスポーツや職業、経営の場面でもしばしば言われる、「成功体験を捨てろ」という格言にもつながる。
自分が成功したと思っていること、自分が得意だと自覚していること、そういうところに自分の真の力はない。自分でも気づいていない、あるいは気づいていても言語化されていないところにこそ、その人らしい価値が実はある。
しばらく前の日経新聞夕刊「明日への話題」で、経営学者の野中郁次郎が「来た球を打つ」としか言わない長嶋茂雄をとおして暗黙知について説明していた。
たとえば長嶋茂雄は、バッティングについて“unlearn”していたと言えるのではないか。
つまり、自分では気づきにくいこと、言語化されていないことを自覚し、その技をみがく人が、真のプロフェッショナルと言える。
写真は、咲ききった白梅の枝。冬の情景は、たぶんこれで最後。散歩道では、木蓮もこぶしも、もう満開を過ぎている。
3/31/2007/SAT
職場が変わった。幸いなことに新しい職場の近くにも図書館がある。さして大きくないものの、検索して他館から取り寄せてもらえるので不便はない。
はじめての図書館で貸出カードをつくり、最初に検索したのは、長谷川潔『白昼に神を視る』(竹本忠雄・魚津章夫編、白水社、1977)。この本は、最初に展覧会で見かけて、買おうと思ってもう一度展覧会へ行ったときには売り切れていた。ネット書店では在庫が見つからずに注文を取り消され、もうめぐり会うこともないかと少し不安になっていた。
できればいつかは手元に置けるようにしたいと思っているけれど、いまは行きつけの図書館でいつでも借りられると思うだけで安心する。
新しい図書館には視聴覚資料も豊富にある。そこで次に、Earl Klughを検索してみると運よくまだ聴いたことのない“Low Ride”(SBA, Captio, 1982)、“Ballads”(Blue Note, 1993)、“Super Now”(Blue Note, 1997)があった。
前から探していて、これまで通った図書館では見つからなかったものはないか。すこし考えて思い出したのは、「海のトリトン」と「レインボーマン」。前者は、話はほとんど覚えていないのに、秀夕木の声はよく覚えている。確か最初の放送ではなく、夕方4時半からの再放送で聴いた。
「レインボーマン」は悪役の「死ね死ね団のテーマ」と一緒に探していた。ずっと探しているのに見つからないのは、何か事情があるからかもしれないと勘ぐったりもしていた。それくらい、この歌は衝撃的な内容。「レインボーマン」のことを思い出したのは、最近、演歌の「おふくろさん」の作詞者が「レインボーマン」の原作者と同じと知ったせいもある。主題歌の歌詞も書いている。
「レインボーマン」を何時ころ見ていたかは覚えていない。でも、「アノクタラサンビャクサンボウダイ」という呪文や、イグアナと呼ばれた敵の怪女はよく覚えている。
それにしても、幼いころから小学生までの記憶をたどるとテレビ番組のことばかり思い出してしまうのは何とも不思議でならない。ケーブルテレビもない時代に、限られた数の放送局が子ども向けの番組ばかりを放送していたということなのだろう。
たとえば夕方4時から7時までのあいだ、現在はニュースとワイド・ショーを混ぜたような番組が並んでいる。7時からはバラエティ番組が多い。アニメや実写のヒーローものは、限られた局で限られた時間に放映されている。競合も少ない。
1970年代半ばから1980年代前半にかけて、夕方はアニメの再放送が、それも複数のチャンネルで流れていた。NHKでも7時のニュースまでは少年ドラマシリーズや人形劇、後には「600こちら情報部」のような子ども向け番組が続いていた。
団塊の世代がなにかと話題になっている。ベビーブームとも言われる。その子世代にあたる私の世代も、人数の多いことがまず特徴といえる。
しかもマス・メディアが普及したおかげで、人数の多さがそのまま市場として成立した。アニメ番組がたくさん放映されていたのは、何よりそれを見る人、メディア側から見れば見せたい人がたくさんいたからに過ぎない。
懐かしさを経済的な側面から分析することも、必要かもしれない。
写真は、逗子、披露山公園から見下ろした赤い灯台。
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