反省について自分のことをよく知ろうとすることを、反省するという。反省するという言葉には、悪いことをしてしまったときに悔悛するという意味もある。むしろこの使い方が一般的。そのため、自己を反省するというと、まず自分の悪い点を見つけ出しては責め立てようとしてしまいがち。 ゴシップ雑誌には、人格攻撃としか言いようがない批判記事があふれている。もっともらしい根拠が書かれていると、今をときめくタレントや文化人も普通の人と変わらないどころか、あくどいこともしているのだなと妙に感心する。 自分の所業は、自分が一番知っている。誰も知らないことも知っている。だから、自分を責めるのは、自分が一番上手い。ゴシップ誌のような記事を、自分について書くこともできるし、実際、そんな文章を書くことが反省につながるのではないかと思うことがある。 自分を責めるもう一つの方法に、自分で対談をでっち上げる方法がある。正しい自分と悪い自分、告発する自分と弁護する自分。そんな風に自分のなかに二つの人格を設けて対談させる。一つの典型が、『対話・ルソー、ジャン・ジャックを裁く』。この方法も、自分を反省しようとするとき、まず手っ取り早く採用したくなる方法の一つ。 ところが、ルソーの例や私自身の経験からも言えるのは、これら二つの方法はほとんど何も生み出さない。それどころか、自分の身の上が辛くなるばかりで、一向に自分に対する理解は深まらない。下手をすると、身を滅ぼすことになる。 事実、ルソーは『対話』を書いたあたりから精神的に崩れていってしまった。自己弁護を詰め込んだ文章をノートルダム大聖堂に納めようとしたり、聖堂が閉じられていて失望するとそれを街頭で配ったり、行動が常軌を逸するようになる。精神衛生の観点からみて、自分を責めても百害あって一利なし、と言えるのではないだろうか。 自分を責めたところで何の益もないとわかると、今度は自分の良いと思う面を探したくなる。こうして次に採用するのは、自分の好きなものを列挙する方法。インターネット上の個人サイトでは、自己紹介として多くこの方法が採用されている。 この方法の利点は、精神衛生上、快適だという点につきる。しかし、この点は本質的には利点ではなく、弱点になる。自分を責めず、自分の良い面を見ているようで、実はそれすら見ていない。自分が好きだと思う要素を並べているだけだから。 好きだと思う、というのは、実はあやしい。自分で好きだと思って挙げているつもりでも、ただ慣れ親しんでいるだけなのかもしれない。また、好きなものが、必ずしも自分を構成する本質的な要素とは限らない。 たいていの場合、この手のリストは、タレントのグラビアについているプロフィールのようになる。好きな食べ物、好きな音楽など列挙されているけれども、それらは必ずしも本人の弁ではない。はすっぱな田舎娘を純真可憐な商品にみせかけるため、つくられた嗜好でしかない。つまり、自分の性質ではなく、自分がなりたい性質から好物を羅列していることが少なくない。 こうしたレッテルは、いくらでもつくることができる。純真可憐なアイドルはどんな食べ物が好きか。本人がどう思っているかより、設定された理想像から勝手に作り出される。怖ろしいのは、そうしたレッテルは、折り返し本人を規定すること。駄菓子屋の三十円アイスしか食べたことがなくても、「いちごがたくさんのったパフェ」と繰り返し口にしているうちに、本人までまるで昔からそれが好きだったような気になってくる。 そうした効果は、悪い面ばかりではない。人間には確かに理想を設けて向かっていくことにより変化、向上する一面がある。しかし、それは反省が本来めざす目的とは異なる。しかもこの方法の致命的な欠点は、理想といっても厳密にまた徹底的に議論された理想ではないところにある。 タレントが「パフェ」を好物と言わなければならない理由はない。そのとき、そう言えば売れそうだから、つまり、商品価値を高めるという限定的な目的のために適当にあてがわれているに過ぎない。「焼団子」が流行すれば、時代に乗るために、そう言ったほうがよくなるかもしれない。それは自己を反省するのではなく、その場その場に自己を合わせているだけ。 ともかく、好きなものを列挙したとろで、自分を知ることにはならない。そもそも、あるものを本当に自分が好きなのか、それを見極めることが反省。それを先に決めてしまっては、反省にはならない。 責めるのもダメ、好物を羅列するのもダメ。そこで反省の方法として、もう一つ浮上するのが、過去を遡る方法。もともと反省という語に含まれる「省みる」という漢字は、「顧みる」と重なる。自己を振り返ることは、自分がたどってきた途を振り返ることでもある。 過去を振り返るときに役立つのは、様々な記録。記録には、自分が作り出したものと他人が作り出したものがあり、それぞれに意図してつくったものと、意図せずつくったものがある。別名、自発的、外部的、主観的、客観的の四要素。 小学校時代の作文は自発的で主観的、友達からの手紙は外部的で主観的。主観的な記録も積み重なり、忘れられていると客観的なものになる。昔の読書記録、こづかい帳は自発的な記録だが、今では客観的にみえる。学校の時間割表、旅行の日程表、昔の給与明細などは、外部的でなおかつ客観的。 頭の片隅にすら残っていない自分についての情報は、自分をいやがうえにも客観的に見せる。そんな記録を眺めていると、今、自分が記憶している過去の自分とは違う、昔の自分が見えてくる。これなら反省と言えるかもしれない。 ただしこの方法にも弱点がある。何しろ対象が膨大で、時間がかかる。それに記録の森へ分け入ると、迷子になることがある。思いもかけない傷跡を見つけて現在へ戻れなくなったり、反対に美しく見える過去の幻影に捕まってしまう恐れもある。 もっとも危険なのは、過去を探ることが自己目的化してしまうこと。反省は今の自分を見つめなおすためにするのであって、過去の自分を分析することはその通り道でしかない。過去に留まっていても、自己は反省できない。従って、この方法はよほど時間と自制心がないと、反省の方法にならない。それができる人は、実はあまり反省の必要がない。 最後に、もう少し簡単で、とりあえず使えそうな方法について考える。それは雑木林で蝶を追いかける姿に似ている。 日常生活の中で、ふと過去の自分に出会うことがある。ラジオから流れる昔の音楽、テレビの再放送、書店や図書館で見かけるレトロ志向のムック。あるいは親しい人と交わす会話のなかには、そんな昔の逸話が、脈絡もなく頻繁に現れる。そんな逸話は聞き流すことがほとんどなのだが、ときどき自分でも少し驚くほど心が揺れることがある。ただ懐かしいでもなく、ただ思い出すだけでもなく。 雑木林を散歩していると、突然、ひらひらと蝶が目の前を過ぎる。同じように何か小さな記憶の断片が心をよぎることがある。小さく、しかもはばたいているから、よく見えない。眼をこらしてよく見ようとする。捕まえようとする。蝶は逃げる。ひらひらとどこかへ消えていく。 そんなふうに、過去の何気ない記憶の断片が過ぎ去ったあと、不思議な感傷が残る。それをもう少し考えてみる。今の蝶はどんな形、どんな色だっただろう。どこから飛んできたのか、どこへ消えていったか。なぜ、その言葉にその音楽に、その匂いに、心が揺れたのか。 大切なことは、蝶を捕まえることではなく、蝶を追いかけること、そして見失ったところで考えること。なぜなら蝶はけっして捕まえられないから。それに、つかまえてしまえば、見えていたときほど美しくないかもしれない。もう二度と現れないかもしれない。いつまでも追いかけていれば、いつのまにか森の奥深くへ行ってしまうかもしれない。捕まえることはできないと思っていれば、つかまえる必要もない。蝶は幻だと思うのもいい。実際、そのとおりなのだから。 この方法の利点は、手軽なこと。いつでもどこでも始められる。むしろ、いつ、どこで始まるかわからない。だから必要なのは、ちょっとした日頃の注意。 手軽なことより、この方法の最大の利点は、新しい自分を作り出す点にある。反省する第一の目的は、過去の自分を分析することではない。自分をよく知り、これからの自分を道筋をつけること、そして最も重要なことは、新しく見出したその道を歩いていくこと。 蝶が現れる。なぜ、そこに現れたのか。蝶を見失う。なぜ、そこで見失うのか。見失った場所は、今、立っている場所。突然に現われる蝶を追いかけることは、過去の記録を探求するより、無理せず、現在と過去を結びつけ、未来へと自分を押し出す。 この方法の一つの典型が、川端康成の短編小説集『掌の小説』(新潮文庫、一九八九年)にある「日向」という一編。何気ない出来事から、意識は一気に過去へ遡る。遡る過去にいるのは、不幸で否定したくなるような自分。 しかし、意識を過去へ向かわせた現時点の出来事からもう一度過去をみると、過去はけっして不幸ではなく、過去の自分もけっして否定されるべきではないことに気づく。 蝶を見失った場所にたたずみ蝶の姿を思い出してみると、自分は嫌々黒い蝶を追っていたのではないことがわかる。そうして、今いる場所からまだ見たことがない蝶を追いかける気持ちが生まれる。 しばらく前から、この方法で反省を試みている。上手にできるときとできないときがある。今こうして書いている文章もその試みの一環。この方法にも欠点はあるだろう。いずれそれに気づくかもしれない。今のところは、自分を責める、好物を列挙する、過去を遡る、というこれまでに試した三つの方法のどれよりも具合がいいように感じる。こうして自分の思いを文章で表現するという新しい活動が始まったのだから、すでにご利益はあったと言っていい。 ここまで、自己を反省する方法について書いてきた。ふと思うのは、これまで書いてきたことは、国や文化、民族について考える場合にもあてはまるのではないか、ということ。見回すと、自国や自分を育んだ文化について、責めてばかりの人もいれば、気に入ったところを並べ立てるだけの人もいる。いずれの場合も、理解が深まることもなければ、新しい自己を生み出すこともできていないようにみえる。 国や文化について考える場合も、蝶を追うような方法が使えそうだと思うのは、国や文化も一人の人間に準えることができるからではない。擬人化は、かえって問題の所在をあいまいにする。国や文化も、所詮は、それを構成する個人個人が深める反省の積み重なりに過ぎないということを明らかにしているからではないだろうか。 |
碧岡烏兎
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