この夏、30週年という言葉を二度聞いた。
一度めは、Billy Joel, “The Stranger”発売30周年。二度めは、サザンオールスターズ結成30周年。
Billy Joelを1978年に聴いた記憶はない。「洋楽」というジャンルの音楽を意識して聴きはじめたのは、John Lennonn,“Starting Over”がよく流れていた1980年のこと。そのときには、もうビリー・ジョエルの名前は知っていたように思う。
ビリー・ジョエルを最初に聴いたのはいつか、はっきりとした記憶はない。はっきりしているのは、1981年まで、私の家には“The Stranger”のLP盤があったこと、そして、そのアルバムがなくなってから、私は熱心に、あるいは真剣にと言ったほうがいいか、言葉にできない感情を鎮めるためにビリー・ジョエルを聴きこむようになったこと。
今はもう“The Stranger”を聴いても、言い知れない感情がこみ上げてくるようなことはない。その代わり、あの激しい気持ちは何だったのか、ビリー・ジョエルの声を聴くたびに静かに思いを深めるようになった。
サザンオールスターズは1978年に見た記憶がある。ある土曜日の夜、8時20分すぎ、『8時だョ!全員集合』、番組冒頭のコントのあと、お決まりの音楽で舞台が回りはじめ、ドリフが消え、歌いながら奇妙なバンドが出てきて、やけに騒がしい歌を歌いはじめた。それが彼らのデビュー曲「勝手にシンドバッド」だった。そのあと、はじまったばかりの『ザ・ベストテン』でも、ランニング姿で歌う桑田佳祐を見た覚えがある。
サザンオールスターズのコンサートには一度だけ行ったことがある。ちょうど10年前、1988年の夏、横浜スタジアム。今回のようなしばらくの活動停止のあとの復活コンサートだった。ツアーの名前もそのものずばり「サザンオールスターズ-真夏の夜の夢-1988 大復活祭」。 その時からも、すでに20年が経過したことになる。
2008年から1978年を思い返してみると、1978年という年が20世紀後半において一つの分水嶺になっているように感じる。
2008年と1978年のあいだに、生活や文化の面で大きな違いはない。たとえば、ビリー・ジョエルはほとんど引退同然だけど、サザンオールスターズは今年もヒット曲を出した。彼らの音楽も、まったく古いものとして扱われてはいない。ラジオではごく自然に“Just The Way You Are”や「いとしのエリー」がかかる。とくに音楽の世界では、新旧の区別がなくなっている。見方をかえれば、ずっと後になってみたとき、1978年以降の音楽は今の音楽と同じジャンルに括られるものなのかもしれない。
1978年から30年前の1948年を考えてみると、その30年は2008年と1978年のあいだにある30年よりずっと長く、もっと大きな違いを感じる。1948年、日本国はまだ独立国ではなかった。
1940年代と1970年代の30年に比べれば、1970年代と2000年代の違いは大きくない。そして、この二つの30年間のあいだを区切る年が1978年ではないか。1970年代のなかでも、1978年を区切りにして何かが終わり、何かがはじまっているように感じられる。
1978年、ビリー・ジョエルが「素顔のままで」を歌ったとき、オフコースは、「さよなら」をまだ歌っていなかった。「愛を止めないないで」もなかったし、その曲を含んだアルバム『Three and Two』も、まだなかった。さだまさしは、まだ「関白宣言」は歌ってなかったし、アルバム『夢供養』も出していなかった。そして私自身、まだオフコースもさだまさしも知らなかった。
でも、松任谷由実の「あの日に帰れない」はすでにあった。この事実にはすこし驚く。私がユーミンを熱心に聴いたのは1980年代の中ごろになってから。日本語のフォークやニューミュージックと呼ばれる音楽を一通り聴いたあとでユーミンに惹かれていったのは理由のないことではなかった。
1978年は、キャンディーズとピンクレディーの両方が活動していた唯一の年でもある。この点でも、1978年が一つのターニング・ポイントであると言えるのではないか。
1978年には音楽番組『ザ・ベストテン』がはじまっている。この番組からサザンオールスターズのように80年代から21世紀になった現在までも活躍を続けるスターやアイドルがたくさん生れた。
ほかにも、現在へ続いているものの原初が1978年にはある。テレビ・ゲームの元祖、スペース・インベーダーの登場も、1978年の出来事。
私の個人史をふりかえってみても、1978年はターニング・ポイント。あるいは、自分の過去をふりかえったときにそこが転換期に見えるから、世の中のほかの出来事もそこで変化したように感じてしまうのかもしれない。おそらく、その見方のほうが正しいだろう。
1978年は、私にとって子ども時代の終わりの年。1978年までが私にとって子ども時代だった。幸福な、あるいは無垢な、という前置きをしても的外れではないだろう。1979年、正確にはその秋から、私の少年時代がはじまった。少し早熟な思春期と言ってもいい。
1978年ごろ、私はどんな暮らしを送っていただろう。分譲住宅地のまだ空き地になっている原っぱで野球をし、草の斜面では段ボールでそりすべりをした。水曜日と土曜日の夕方には電車に乗って水泳教室に通っていた。通いはじめた2年生の三学期には水に顔をつけることさえできなかったのに、このころになるともう個人メドレーが泳げるようになっていて、冬には合宿旅行にも行った。
八木重吉「雲」「涙」「豚」、高村光太郎「牛」、山村慕鳥「風景—純銀もざいく」、与田準一「ポプラ星」、それから、谷川俊太郎『ことばあそびうた』。国語科に熱心な新人教員のおかげで、いずれの詩ももう暗誦できるようになっていた。
でも、物語の本は夏休みでさえひとつも読んでなかった。読んでいたのは、ブルートレインとスーパーカーと軍艦、軍用機の本ばかり。『コロコロコミック』も友だちの家で毎月読んでいた。1978年の私の暮らしは、そんな風にのどかな気分のうちに過ぎていった。
1978年の私は、まだ初恋を知らなかった。教室の中に、可愛いと思う女の子もいたし話しやすくて気に入った女の子もいた。でも、彼女たちの前で、話す言葉が見つからないようなことはなかったし、名前が口に出せないほど、胸が苦しくなることもなかった。
初恋と呼べるような心の揺さぶりは、1979年の秋に来た。その波は、恋だけではなく、世界や歴史や宇宙への興味と一緒にやってきた。一言で言えば、1979年、小学5年生の秋、私は思春期と呼ばれる時代に入った。後から振り返るとそう思う。
1979年から1981年の冬までの3年、この時ほど知的欲求が旺盛で、感受性が豊かで、事実、多くの経験をした時はない。自分の世界がどんどん広がっていくことが、手に取るように感じられる日々。未来が、それがどんなものかになるかはわからなくても、私にはまだはっきり見えていた。
それから先のことは、いまはまだ書かない。今年は30年前の1978年のことを少しだけ書いてみた。来年は、1979年についてもう少し書けるかもしれない。
では再来年、3年後、1981年について、私は何か書くことができるだろうか。何かを書けるようになっているだろうか。
さくいん:ビリー・ジョエル、サザンオールスターズ
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