齋藤孝『声に出して読みたい日本語 2』では、石川啄木の短歌と八木重吉が採用されている。啄木の短歌は中学の教科書以来だが、掲載されたどれもいい。重吉は定本の詩集をもっている。掲載された作品もすべて知っていた。啄木は持っていなかったので、岩波文庫版の歌集を買った。
二人の歌人と詩人とは、どこか似ている。彼らの足取りを比べるだけでも、共通点がいくつかみつかる。19世紀末に生まれ、20世紀のはじめに病死。若くしてほとんど初恋という関係を実らせ結婚。生前にはわずかなの作品が上梓されただけで死後に遺稿集出版。
大きな違いがあるとすれば、重吉はキリスト教に帰依し、啄木は社会主義へ傾倒していたという点だろうか。これも、キリスト教とマルクス主義は明治時代の知識人にとって旧体制の精神を打破しようとする新しい精神的支柱であったことを思い出せば、方向性こそ違うものの、二人はそれぞれ新しい時代精神に飛び込んだともとれる。
もっとも、二人は飛び込んだけれども、そこにおぼれることもなかった。むしろ主義と呼ばれるような硬直した宗教や理論に飽き足らなかった。この点でも、二人は似通っている。
重吉は教会を通じたキリスト教を拒絶し、無教会派という集団からさえ離れ、まったく一人で聖書だけを通じてキリストを知ろうとした。啄木にしても、社会階級の不公正、閉塞した時代状況、困窮極める自分の状況を問い詰めながらも、社会変革としての革命よりも、文学的表現による自己革命に賭けた。
作品にも共通したものがあるように私には思える。自己に対する冷ややかな眼差し、生きることにつきまとう純粋な哀しみに対する鋭利な感覚、家族や社会に関わりながらもどこかで距離をおいている孤独感。いわゆる私小説とは異なるが、厳しさと哀れみをもって自分自身を静かに見つめる姿が、二人の作品いずれにも感じられる。
啄木の自由詩を読んでみたことがある。短歌ほどには心を奪われなかった。啄木はもともと散文や自由詩で身を立てようとしたと聞いたことがある。自分の思惑や期待とは別の分野で魅力が発揮されることもある。啄木の短歌には、やはり惹かれる。
同じようにやさしい言葉で簡潔に書かれてはいても、好きになれない詩もある。巷にあふれる短文のなかには、詩とは呼びたくないものさえある。その違いは何かと聞かれても、うまく説明できない。啄木と重吉ではどちらかが好きなのかと聞かれれば、迷わず重吉と答えしまうように、きわめて感覚的な反応。
そうして気に入らないと思っていた作品も、詩と感じたときもある。それは手話つきで聞いた時。それがどうしてなのかは、やはり説明できない。少なくともその作品に詩的なものが、ないわけではないのだろう。それに感動する人もいるに違いない。
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