新・翔んでる警視Ⅱ~Ⅷ、胡桃沢耕史、廣済堂文庫
モーツァルト 交響曲第25番・第29番・第31番《パリ》、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ジェイムズ・レヴァイン指揮
ルパン3世ボーカル・コレクション、日本コロムビア、1993
おでかけのまえに、筒井頼子作、林明子絵、福音館書店、1981
モーツァルト・クラリネット協奏曲イ長調K622、クラリネット五重奏曲イ長調K581、シア・キング(バセット・クラリネット)
私の一世紀、ギュンター・グラス、林睦實・岩淵達治訳、早稲田大学出版部、2001
岩波講座 近代日本の文化史5-編成されるナショナリズム 1920-1930年代1、岩波書店、2002
船の歴史辞典、アティリオ・クカーリ/エンツォ・アンジェルッチ、堀元美訳、原書房、2002
知っておきたいアメリカ史1001、John A. Garraty、亀井俊介監訳、丸善、1993
週末の読書
『アメリカ史』から、いつか読んでほしい本
トマス・ペイン「危機白書」
トマス・ジェファソン「バージニア記録」
ユリシーズ・S・グラント「思い出の記」
W.E.バガート・デュボア「黒人たちの心」
ヘンリー・アダムス「ヘンリー・アダムスの教育」
フレデリック・ルイス・アレン「ほんの昨日のできごと」
リチャード・ライト「ネイティブ・サン」
レイチェル・カーソン「沈黙の春」
アプトン・シンクレア「ジャングル」
8月が近づくとまた戦争に関する文章があちこちに現れる。その多くが言うまでもなく戦争に反対する内容。
戦争はよくない。人殺しもよくない。しかし、戦争がなくなったとしても、世界は平和にならないし、世界がよくなるというわけではない。戦争だけが人殺しではないから。
多国籍企業は、爆撃機を使わずに人々をじわじわ苦しめ死に至らせている。戦争がなくても人々の暮らしはちっともよくならず、それどころか「ビジネス」という穏やかな暴力(弱いものに対してはより露骨に暴力化している)によって、かつての戦争以上の不幸がまきちらされているのではないだろうか?
戦争反対を叫ぶのもいい、今の平和を称えるのもいい。しかし表面的な「武力闘争がない」という意味での平和の裏側で、戦争以上の悲惨が広がっていることに気づかなければ、それこそ本当の平和ボケといわざるを得ないだろう。
ただし、私はいわゆる構造的暴力論を全面的に支持しているわけではない。構造的暴力論をはじめ現代の平和思想に感じる違和感は、平和を絶対視している点である。
戦争はいけない、搾取はいけない、平和はすばらしい、そう一面的に言えるものなのだろうか? 歴史を振り返ってみると、人々はいつも戦い、殺し合い、過酷な労働をしてきた。まさに戦いと労働が人生そのものだったといってもいい。かぞえきれない人々が、その苦しみのなかで命を落としてきたことは事実だ。しかし、だからといって、それらを根こそぎ除去することが、すなわち平和思想家が夢想するような世界が幸福をもたらすのか、単純にはいえないと思う。
歴史から学ばなければならないことは、かつて戦争に行く、つまり国家に命をささげることが、ありうべき「生きざま」であった時代、社会もあったということだ。もちろんそれは今の日本国でも通用するということではない。
むしろ過去のどんな社会でそんな生き方がされていたのか、そうした社会はどういう末路をたどったのか、人々はその生き方をどう受け止めていたのか、さらにそのような社会といま、私たちが生きている社会はどう違っているのか、こうしたことを研究しなければならない。
先週の読書
『だれのための仕事』には感想を書いた。
写真は国共合作が成立した南京、梅村新村で買った周恩来の肖像写真。
RITO・祭礼、鈴木大介(ギター)、ホアキン・クレルチ(ギター)、フォンテック、1996
BRIO 8月号、光文社
モーツァルト作曲、ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488&ピアノ協奏曲第26番ニ長調K.537、イギリス室内管弦楽団
THE CADENZA 17、木村大
ギターは、他の楽器に比べて演奏者による解釈の違いが大きい、それだけ素人にもわかりやすい気がする。"Sunburst"(作曲は、Andrew York)は好きなギター曲で、これまで福田進一、村治佳織、今回の木村大と聞いてきた。木村大はよく言えば若さあふれるというのだろうか。私にとってはクラシックは、車や読書のBGMとして聴くことがほとんどなので、力が入りすぎていて疲れる。
一般的な評価はよく知らないが、アルバム、"Cavatina"(ビクター、1998)で聴いた村治佳織の演奏が一番聞きやすい。トヨタのCMもそうだったし、つい最近も、運転中にFMをつけたときに、偶然放送していたコンサートにすぐ聞き入ってしまった。聞き入るといっても、運転をしながらちょうど気持ちよく聞き流せる感じ。
“Cavatina”もいくつか聞いたけれど、村治佳織のものがよかった。
Through the years, Olomana
Dance with me, The Peter Moon Band
To you Sweethearts, Aloha! - Favorites Songs Jazz & Pops in Hawaii
CD、今週はハワイアンを3枚。
☆
さくいん:バッハ
Celine, all the way… a decade of song, Celine Dion, Epic SONY, 1999
モーツァルト作曲、ピアノ協奏曲第24番、第27番、イギリス室内管弦楽団
モーツァルト作曲、フルート協奏曲、ベルリン・フィルファーモニー管弦楽団、エマニュエル・パユ(フルート)
自分が好きな自分は、どういうときの自分か?
それを考えるほうが、「ほんとうの自分」などというものを探すより、ずっと心安く生きていくために人生にとって有益ではないか?
これまで何度も考え、違った結論をえたこともあるが、ここのところ答えがまとまってきたように思う。
自分の居心地のいい自分は、一人でいるとき。
一人で本を読む。一人でラジオを聴く。一人で酒を飲む。一人で歩く。一人で考える。一人で書く。そういう時間が一番心地よい。
だから、これから、少なくともしばらく人に会うのはやめよう。
仕事だけでも十分に人疲れしている。自分の時間は静かに自分自身のために使いたい。
大画面にコンピュータ・グラフィックによる難波宮での宮廷儀礼が映し出されたあと、10階の大窓を覆っていたシャッターが開く。見下ろすと難波宮跡公園。
千年前の宮廷儀礼が、今まさに、そこで行われているかのような錯覚を覚える面白い演出。
フェルナンド・ソル作曲ソル:ギター音楽全集1、2、山下和仁、ビクター、1989
Earl Klugh, Nightsongs, Capiton, 1987
J.S.バッハ作曲「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」、Gidon Kremer(violin), Phillips, 1981
異文化コミュニケーションとは、奇妙なことばだ。コミュニケーションとは、異なる存在との間で交わされるものではないか。異ならない存在との間には意思疎通は必要ない。異文化でないコミュニケーションなどないはずだ。むしろ、本来は「異文化」である関係を何らか「同文化」「似文化」と思い込む、思い込ませることに問題があるのではないか。
また一方で、「異文化」というと、あたかも異文化という自立した概念があり、それとは対峙する自文化というこれまた自立した概念があるように思ってしまうが、そうではないはずだ。
文化やアイデンティティとは、つねに複合的で流動的な存在であろう。
Frank Sinatra, Duets, EMI, 1993
フェルナンド・ソル作曲「グラン・ソロ作品14」ほか、アレクサンダー=セルゲイ・ラミレス(ギター)、コロムビア、1995
愛の贈り物-リコーダーとギター・アンサンブル、ミカラ・ペトリ&ラルス・ハンニバル、ビクター、 1994
Chris connor sings the george gershwin: almanac of song, Chris Connor, Atlantic, 1989
見たかったウォーターラインシリーズの巻は貸出し中。
自力では一度も完成させたことがないくせに、模型やジオラマ、ドールハウスなどは見入ってしまう。
図書館でCDを借りる楽しみの一つに企画モノがある。少量しかプレスされず、店頭に置かれる期間も短い企画モノは、時機をのがすと手に入らないし、日頃からアンテナを張っていないと情報さえ手に入らない。
図書館では、ちょっと前の面白い企画モノCDがずらっと並んでいる。クラシックなどは、しばらくちゃんとした作品集を借りていたけど、BGMを目的としているのだから、今後は企画モノのほうがあっているかもしれない。
今回はEarl Klughの曲を検索していて見つけた。“night”が題名に入っているAOR、smooth jazz系の曲、アーティスト名では、マイケル・フランクス、ブライアン・ウイルソン、Chaka Khan、J.D. Souther、James Ingram、James Taylorなどが並んでいる。
ガーシュインは運転中にNHK-FMで“I got the rhythm”を聴いてまとめて聴いてみたくなった。ラジオでかかっていたのとは違ったが、このCDは気に入った。
資料室で正宗得三郎「鐡斉」(平凡社、1961)、青木繁、坂本繁二郎の画集を閲覧。
「昭和の洋画100選」展、朝日新聞社、1989
実家にあった展覧会の図録。
向井潤吉「影」。戦中の蘇州というが、ギガントの飛ぶインダストリアにも見える。 松本竣介「Y市の橋」も印象的。
昨夜は、新幹線が満席のためグリーンで大阪から帰京。ゆったりとしたシートでくつろいだせいか、気分よくSteely Danを聴きながら雨の首都高速をドライブ。
ジンをちびちび吞みながら「太陽を盗んだ男」と特典ディスクを3時まで見ていた。
☆
さくいん:ステイーリー・ダン、マティーニ(ジン)
テレマン&オットテール:デュエット集(リコーダー)、Hans Maria Kneihs(リコーダー)、Camerata、1990
クラシック・ララバイ、ポリドール、1995
ピエール・ブルデュー――1930-2002、加藤晴久編、藤原書店2002
ミュージックメイカーズ~エルガー作品集、BBC交響楽団/演奏、パイオニア、1995
ふと見たNHK名曲アルバムで「愛の挨拶」が流れていた。イギリスの田園風景、恋人にささげられたという作曲の背景、その後の幸福だった結婚など曲に重なるあたたかいエピソードをきっかけにエルガーの作品を聞いてみたくなった。ミュージックメイカーズの合唱も迫力があってよかった。
無伴奏パルティータは千住真理子がNHK-FM「ベスト・オブ・クラシック」の公開放送番組で演奏していた曲。
定本 八木重吉詩集、彌生書房、1993
八木重吉詩集――日本詩人選14、郷原宏編、小沢書店、1997
グリーンウェル大聖堂参事会員と「フォークトンのドラム」、抽象的な顔が彫りこまれた円筒。
リラートンの黄金杯、貴重な発掘品が王室の鏡台でカフスボタン入れとして使われていたエピソード。
メアリー・デラニーのモザイク(紙片による造花)、十代で老人と結婚、二十代で未亡人となってから園芸、手芸、紙細工に花開かせた人生。
- 東京体育館、槙文彦設計、1990
- ウィーン郵便貯金局、オットー・ワーグナー設計、1906
- ロースハウス(ウィーン)、アドルフ・ロース設計、1911
- NVA-Museum(ドイツ、リューゲン島)、ナチス建築の遺物
大企業の不正行為の暴露が続いている。
これらの不正行為と同じくらい悪質であり、多くの人がその存在を知っていて、にもかかわらず放置されている問題がある。
それは過労、サービス残業だ。
Porgy & Bess, Ella Fitzgerald & Louis Armstrong, Verve, 1987
One and Only Love, オムニバス、ワーナー、1992
To Make You Feel My Love, Billy Joel, Sony, 1997
新しい知識:中島飛行機創業者、中島知久平。未公開企業を支えた兄弟たち。東京工場所長、佐久間一郎。陸軍の空軍創設主張者 井上幾一郎。
大正初期の外国人による曲芸飛行興行。チャールス・ナイルス、アート・スミス、キャサリン・スチンソン。スチンソンは、横川順爾の「明治ふしぎ写真館」で着物姿の写真がとり上げられていた女性飛行家。まったく無関係に(といっても自分の関心事という意味において関連があるのだが)借りた違う分野の本に同じ人物が話題となっていた偶然が面白い。
荻窪の日産工場は、元は中島飛行機の東京工場。
「富嶽」は、中島知久平自らが開発を指揮したB29を越える超大型爆撃機。一説では日本の技術力の限界を知らしめるという知久兵の逆説的な反戦行動だった。
戦後、中島飛行機からは富士重工と富士精密、立川飛行機からは「たま自動車」が生まれた。「たま自動車」はブリヂストンが買収し、富士精密と合流してプリンス自動車工業となった。富士重工の設立には中島飛行機のメインバンク、日本興業銀行が深く関与した。
初めて優勝したホンダのF1には、「富嶽」のために開発された燃料噴射装置が取り付けられていた。戦前の航空産業と戦後の自動車産業は、資本、技術、人の各水準で密接な関係にある。
☆
さくいん:中島飛行機
Nostalgia: Nostalgia a la vie anterieure、きたのじゅんこ編、コロンビア、1990
Nocturnes: Sons nocturnes、きたのじゅんこ編、コロンビア、1990
ヴィヴァルディ作曲、リュート協奏曲ニ長調RV93は映画「リトルロマンス」のテーマ曲。映画の中では、ジョルジュ・ドルリューがシンプルに編曲した曲が使われていた。以前、『ドルリュー作品集』を図書館で借りてみた。この曲も収録されていたけれど、ヴィヴァルディの名前はなかった。以前からオリジナルを探していたのだが、新幹線の車内番組で流れていたことからようやく正確な曲名がわかった。
“Nostalgia、Nocturnes”は、妖精を描く画家、きたのじゅんこが選曲した幻想曲集。
報道を聞く限りでは、もと職業軍人であるパウエル国務長官はイラク攻撃に消極的で実業界出身のラムズフェルトは開戦派だという。
軍人ならば戦争好きかといえば、そういうわけではない。むしろ戦いの現場を知る軍人は命の重さを身をもって知っている。戦うべきとき、退くべきときを知らなければ軍人として生き残り戦い続けることはできない。戦うときと戦わないときを知っている人間が優秀な軍人といえるだろう。
日本国には職業軍人がいない。いないことになっている。自衛隊幕僚を職業軍人とみなすにしても、文民統制が法制化されているから自衛隊は文民である防衛庁長官、総理大臣が統率することになっている。
しかし、結局のところは、軍の上に立つ者に戦うべきときとそうでないときを見極める能力がなく、それどころか兵器と兵隊をおもちゃと思うような神経しか持ち合わせていなければ、専守防衛をうたった組織も容易に無分別な侵略部隊になってしまうだろう。
夏川りみは新盤。これは買った。ほかはレンタル店の半額セールに乗じて図書館にない作品をまとめて借りる。
エラ・フィッツジェラルドは、最近出かけた小さなバーのマスターがアルバムを一枚ずつかけて講釈してくれた。
どれも週末の午後から夕方にちょうどいい感じ。
日本の戦闘機、野原茂、光人社、2000
『Zero』は米軍が日本軍機を捕獲した後に行った分析の精緻さに驚く。
『航空機大図鑑』は国内初飛行以降、日本の空を飛んだすべての飛行機を網羅しようという図鑑。見栄えのいいパースではなく三面図なのは模型の参考書を想定しているのかもしれない。
山本忠敬は、「しょうぼうじどうしゃ じぷた」(渡辺茂男文、福音館書店、1966)などの絵本の挿絵でなじみがある。できるだけ戦争に使われた飛行機を避けて民間機をとりあげ飛行機の歴史をたどろうとするが、著者も認めるとおり、残念なことに戦争を通じて技術は飛躍的に向上していて、第二次大戦前後の民間機だけを比べると隔世の感がある。
もう少しすると貸出しが増えそうなので、少し気が早いがクリスマス・アルバムを借りてきた。アンドレ・ギャニオンは音楽店発行の定番リストから。日曜の朝にちょうどいい。
戦争と平和を考える:戦争と武蔵野市-中島飛行機を中心に-夏季市民講座の5年目に、夏季市民講座記録の会編、武蔵野市教育委員会、1979
戦争と平和を考える:戦争と武蔵野市-中島飛行機を中心に-夏季市民講座の10年、夏季市民講座記録の会編、武蔵野市教育委員会、1984
掲載された資料、年表などから見るとこれらの市民講座と2冊の記録がもととなって「都立武蔵野中央公園の歴史」になったようだ。
工場で働いていた人々の体験談から伺えるのは、中島飛行機という会社は当時としてはかなり働きやすい職場であったこと。工場にはバラやつつじが咲き乱れ、クラブハウスのレストランは一般社員も家族連れで利用可能だった。軍相手の事業で経済的に潤っていたことが大きな要因なのだろうが、軍需工場に指定された後、軍、憲兵の管理が厳しくなったとき、会社側は従業員に対する防波堤になったという証言は興味深い。軍がここまで国民の尊敬を失っていたのはなぜだろう。
一方、東伏見稲荷で行われた修練は月に二、三回泊りがけで朝四時起床、水ごりの後出勤という厳しいものだったようだ。(この修練団は蓮沼門三が創設、平沼騏一郎が団長だった)
ほかに新たに知ったこと。11/24の空襲で亡くなったのは、地下に逃げ込んだ人たちだった。地下壕での被害が甚大だったため、その後会社は工場外への避難を認めざるを得なくなった。
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さくいん:中島飛行機
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